トロッコ列車と政治犯
旅行の二日目の朝、魔物は朝食中からくしゃくしゃになったままでいた。
ネアは泊まっているホテルの朝食の席で出会った、暫定の使い魔に助けを求めてみる。
「使い魔さん、私の大事な魔物がくしゃくしゃなのですが、どうしたのでしょうか」
「いや、どう見てもお前の仕業だからな」
「わ、私が何かをしたのですか?」
「途中から聞こえてたが、………お前、あれは何の評価だ?」
「………ぐっ、……それは少し個人的なことなので。そうでした、安易に教授を願うことも出来ない分野でした……」
「何で目を逸らした?」
「空気を読んで黙るべしです!」
「………耳が赤いぞ」
鳶色の髪の青年姿なので、少し違和感があるが何やら疑わしげにこちらを見たアルテアに、ネアはさっと目を逸らした。
なぜか、使い魔は妙に嫌そうな顔をしている。
「こちらに泊まってるのですか?」
「いんや。屋敷の注文品の確認と、葡萄酒の発注。後は、取り逃がした政治犯の捕獲だな」
「………待って下さい。当たり障りのない質問から、最後にとても嫌な話が出てきました」
「お前には関係ないから安心しろ。ほら、飴でも食ってろ。それに、ここは食事で来ただけだ。………そろそろ出ないと間に合わないな」
「では、政治犯の捕獲を主に頑張って下さいね。明らかに誰かに貰ったものを厄介払いされた風の飴も、有難うございました」
「お前は、くれぐれも厄介な奴等に遭遇するなよ。黒いローブ姿の黒い巻き髪の男がいたら、絶対に作業の邪魔をするな」
「…………リーベルさんなら、昨日人違いでうちの魔物が意地悪をされ、謝罪を受け取る代わりに一つ誓約をし、街外れの丘のブランコに乗せました」
「…………おい、あいつは今日からの仕事で使い物になるのか」
「ご本人の精神力に賭けましょう」
とても嫌な顔を追加されたので、ネアはそう励ましておいた。
リーベルは向こうから絡んで来たのであって、決してネア達のせいではない。
アルテアは擬態もしているだけあって秘密工作中なのか、そそくさと立ち去っていった。
その間も項垂れたまま大人しく座っていた魔物にぎくりとして、ネアはそっとその肩に手をあてる。
「ディノ?…………あの、大丈夫ですか?」
「…………普通って言われた」
「あら、褒め言葉のつもりだったんですよ?でもそうですね、……特別な嗜好があるのに、普通で喜ばれてしまったら不安になってしまうかもしれませんね。どんなディノでも大好きなので、そんなに悲しまないで下さい」
「…………普通でもがっかりしないかい?」
「寧ろ、私にも手に負える範囲でほっとしてしまいました」
「他の、…………もっと優秀な相手の方がいいと思ったりもしないかい?」
「…………それこそどんな評価でしょう。私は浮気者でも、痴女でもありませんよ!」
そこで、今度はネアが荒ぶってしまったので、魔物は宥める側に回ることで少し落ち着いてきたようだ。
何とか無事にホテルをチェックアウトして、二人は旅の二日目の目玉である、トロッコ列車の乗り場に向かった。
「単一車両なのですね」
列車という響きから、複数の車両が繋がっているものを想像していたネアは、乗り場でゴロゴロと音を立ててやって来たトロッコ列車が、四席しかない一組様用のものであることに驚いてしまった。
赤い車体が可愛らしく、屋根のないいかにも貨車ですという雰囲気の簡素な車体だ。
驚いてそちらを見ているネアに、一組様用の車両である事情を教えてくれたのは、乗り場の係員である男性だった。
腕章を見るに、このトロッコ列車の運営元である、シュタルトの観光局の職員であるようだ。
「今日は、押し手の精霊が上位精霊ではないんですよ。こちらとしては一度で大勢のお客様を運べる方が有難いのですが、お客様には車両ごとの運行の方が人気がありますねぇ」
「押し手の精霊さんは、今日はお休みなのですか?」
「はい。週に三日は休日を作らないと、精霊は仕事に来なくなりますからね」
「週休三日でした!それにしても、どうやって精霊さんにお仕事をして貰うのでしょう?」
「あ、それは簡単ですよ」
そこで職員のお兄さんが教えてくれたことによると、この山に住む精霊は塩入りの甘じょっぱいビスケットが大好物なのだそうだ。
一回の運行でそのビスケットが一枚貰える仕組みなので、精霊達は我先にと頑張るのである。
更にこの運用の秀逸なところは、精霊達のお気に入りのビスケットは門外不出のレシピであることと、時間通りに仕事をしない精霊のビスケットは半分に割られてしまうことだ。
食いしん坊の精霊は、ビスケットの為にきちんと働くという仕組みである。
(と言うか、そのビスケットは何かまずい薬品は入ってないのだろうか……)
そこまで中毒性があるビスケットというものに不安を覚えつつ、ネアは扉を開けて貰ってトロッコに乗り込む。
ブランコと同じようなふかふかのクッションもあり、乗り心地は抜群だ。
トロッコの前面に吊るされたランタンのようなものに、ぽわりと光る精霊が入っている。
ディノの方を見てからぴっとなって、大慌てでトロッコを転がし始めた。
「む!精霊さん、もう少しゆっくりめでいいですよ!」
そこそこに急がれてしまったので、ネアは少し落ち着くようにお願いした。
精霊が光ると車両を発動した魔術が押し出して、貨車が動いてくれる仕組みである。
「ネア、そちら側でいいのかい?こちらを見たければ代わってあげるよ?」
「ふふ、有難うございます。でも、ディノの横からも見えますよ。今はそちら側が山肌ですが、たくさんお花が咲いていて、鉱石もきらきらしていて綺麗ですね!」
「椅子にしてもいいのに………」
「ご主人様に、トロッコ列車の椅子に座る思い出を作らせて下さい」
「旅行に来てからあまり座ってくれなくなったね………」
「一泊二日の行程で既に一度は椅子にしているのですから、我慢しましょうね。…………わ!こちら側を見て下さい!お隣の山肌に素朴な感じの礼拝堂があります!」
「……………素朴」
「むぅ、魔物が敏感になってしまいました」
朝の空気は爽やかで清々しい。
そろそろ朝からお昼に近付いてゆく時間ではあるが、ぎりぎりまだ朝靄も残っており、澄んだ色彩の中には翼を広げて飛んでゆく獣型の竜や、木の枝に引っかかったまま微睡んでいる妖精が見える。
柔らかな風に、ごろごろと線路を転がる車輪の音。
観光地らしい楽しみではあるが、この感じがまたいいのだ。
他では得られない体験というものが、旅のお楽しみである。
ふと上空を見上げると、獲物を運んでいた竜の足元から、ぽそりと何かが落ちてきた。
「ディノ、私は精霊さんが魔術で押してくれるトロッコに乗ったのは初めてです!一緒に来てくれて有難うございました」
「これは気に入ったかい?」
「はい。風が気持ちいいですし、この角度と距離で山歩きをすると大変なので、色んな景色をお得に楽しめますね。それと、思わぬお客さんが落ちてきて愛くるしいです」
「お客さん?」
「こやつです!さっき上を飛んでいた竜さんのところから落ちて来ました!」
「え……………」
魔物が絶句したのは、魔物が余所見しているうちに落ちて来た、トロッコの縁に引っかかっているハリネズミのようなものだ。
あの様子だと、巣に運ばれて餌にされるところだったに違いない。
「これは、………砂の系譜だね。この山の生き物ではないと思うよ」
「むぅ。外来動物というやつですね。生態系を崩すので連れて帰りましょうか?」
「それに死霊も混ざっている上に、殺戮の匂いもする。厄介なものだから、排除してしまおう」
「………愛くるしい姿の割にホラーな感じでしたので、無力化してぽいっとやって下さい」
「わかった」
「おい、ちょっと待て!!」
ディノが頷いたところで、唐突に慌てたような声が割って入った。
「むぎゃ!」
ネアが悲鳴を上げたのは、四人乗りのトロッコとは言え、突然その中に転移で飛び降りて来た二人組がいたからだ。
急勾配の断崖を走るトロッコががくんと揺れたので、驚いて飛び上がってしまう。
そしてその騒動の隙に、狙いすまして忍び込んだ者がいた。
「え…………?」
気付けばそこはもう、トロッコの中ではなかった。
ぼんやりと霞む白い空間の中に、唐突に立ち尽くしている。
ざっと血の気が引いたが、幸いにもディノも一緒であった。
しかし、背後から腕を回してくれるのだが、なぜかいつものようにネアの体には触れようとしない。
「…………ディノ?」
「ごめんね、少しこのままで。ネア、触れられないけれど、離れないようにね」
「……………ディノ、ここは何でしょう?」
「魔術的なあわいの中だ。今の衝撃の瞬間を狙って、あわいとあわいの中に挟み込まれたんだろう」
「ごめんなさい。ちっとも考えていませんでしたが、屋根がない列車では色々無防備でしたね」
「いや、かけていた守護結界を、君との契約を足場にして強引に割った者がいたからね」
「…………使い魔さん」
「ネア。あわいの主が現れたようだよ」
そう教えてくれた魔物の視線を辿って、ネアはぎくりとする。
ぼんやりした霧の中にいるみたいな不安定な空間に、切り抜かれたように艶やかな真紅の妖精がいる。
彼は、正面に立って静かにこちらを見ていた。
(…………この人は)
船の上の残像で、そしてリーベルと会っているのを見かけた、あのロクマリアの妖精ではないか。
そう思えばここは、かつて巻き込まれたことのあるこの妖精の空間に似ていた。
虚ろで寒々しく、そして胸が重苦しくなるような失望に満ちている。
「なんだ、ファーメンではないのか。仕損じたな」
現れるなりそう呟いた妖精は、まるでやっと気付いたみたいに、まじまじとネア達を見た。
擬態を解いているディノと、その腕の中に守られたネアを交互に見つめ、美しい妖精らしからぬぞっとするくらいに暗い目をする。
「魔物と人間か。契約の気配がするが、指輪も見える。その繋がりが破滅を呼ばない内に、手を切るのを推奨する」
「取り違えであわいに落としておいて、随分な言い草だね」
「お前は、その人間がこちらに引き摺られたのを追って自分も取り込まれたのだろう。折角だから置いていくといい。人間なら、あわいの中では三日と生きられない。俺がここで殺しておいてやろう」
なぜに人違いからの殺害予告なのだろうかとネアが眉を顰めていると、艶やかな真紅の瞳がこちらを向いた。
「その言葉だけで、私は君を壊してしまうべきなのかな」
「高位の魔物が人間に指輪を与えるなど、乱心にも程がある。早めに殺しておいた方が、その人間も破滅を迎える前に死ねるぞ?」
「それが君の考えなのだね。では、私もその考えに見合った対策を取らねばならない」
「…………ディノ、この妖精さんは」
慌ててネアが声を上げれば、ディノは酷薄な微笑みを少しだけ深める。
「ネア、私は君に悪さをしなければと言っただろう?」
「まだ悪さはされていませんよ」
「いや、こうして触れていてももう、君と私の間にもあわいがある。既にもう、悪意をあてられているんだ」
「…………間にもということは」
その不穏な言葉を汲み取って、ネアが微かに青ざめる。
すると、向かいに立った妖精が少しだけ声を上げて笑った。
「グズリスを回収するついでにファーメンを捕らえてやろうとしたら、それに縁付いているお前が落ちて来た。言っただろう?その魔物は、お前を追いかけてきたと。あわいは触れられない程に薄く息づくものだ。そこにはもう、それだけの隔絶がある。………しかし、どれだけ波打たせても剥がれないとなると、中々に手強い」
滔々と語った妖精に、ネアはぎりぎりと眉間の皺を深くした。
出された名前は未知のものだが、とりあえず巻き込まれたことはよく分かった。
そして縁付いているというのは多分、トロッコに飛び込んできた、絶賛擬態中のアルテアだろう。
もう一人は、そんな彼と一緒にトロッコに飛び込んできたリーベルだろうか。
トロッコ列車に乗っているのがネア達であることは知らなかったのか、着地の際に枢機卿の顔が真っ青だったのを思い出す。
(それから、ディノがこんな風に中途半端な守り方をしているのは、私達の間にあわいがあって触れられないから?)
そろりと見上げれば、ディノは安心させるように微笑んでくれた。
この微笑み方は大丈夫な時のものなので、ネアはほっとする。
あえて何かを伝えてくれないのは、二人の間にある、この妖精の領域であるあわいを考慮してだろうか。
しかし、妖精の方は打つ手なしとでも判断したのか、或いはさして気にもしてないのか、特にこちらを警戒する様子はない。
「破滅を呼び込む者を、どうして選ぼうとするのだろう」
そう呟いて首を傾げる仕草には、己の力を知っている者らしい余裕と、どこか壊れてしまった心の危うさが滲む。
だからだろうか。
ディノは昨日に引き続きのこの言われようでも、わかりやすく不愉快になったりはしていないようだ。
「君は知らないのだろうか。私達はね、自分が望む者にしか指輪を渡さないものだ。破滅ではなく、恩寵を選んで捕まえる為の指輪だからね」
「異形なものと連れ合うことで、破滅しない人間がいるのか?ましてや、魔物はいつも伴侶を殺してしまうじゃないか。その人間だって、安全で無理のないものを見付けたら、そちらの方がいいに決まってる」
こちらに飛び火してきたので、ネアは顔をしかめた。
一泊で二回も絡まれるなんて、この旅は呪われているのだろうかと、心が荒んでくる。
「まぁ、何という勝手な言い草でしょう。安全で無理のないものではなくて、この魔物がいいからこそ、私はこの指輪をはめているのですよ」
「ふん。確かに高位の魔物を伴侶とすれば、力も財も思うがまま。欲深い人間も確かにいるな」
「残念ながら、この子はそういう与え慣れたものを望んではくれないけれどね」
穏やかだが冷ややかな声でそう言うと、ディノは、間に挟まるあわいをどう処理したものか、ネアの耳元で小さく囁いた。
「一度、君をあわいから剥がす為に少しだけ離れるよ。守りは万全だから、立っている場所から動かないように」
ネアは無言でこくりと頷き、魔物が気配だけで薄く微笑む。
そして、そんなネア達の向かいでは、赤い羽の妖精が失笑に肩を揺らすところだった。
「まさか、そんな風に言われてそれを信じたのか?同じ血肉を持ち、同じ習性や価値観のある生き物がいいに決まっているだろう。同じ時間で生きて、同じ目線のものがいいに決まってる。その人間が、名誉や栄華のような特別なものを望まないなら、尚更お前では駄目だな」
そう嗤う瞳は決して愉快そうではなく、ひたすらに乾いていて、少しだけ狂っている。
ゆらりと広がった羽は六枚羽で、かつて灰羽と呼ばれた色彩はもはやどこにもない。
(………そうか、この人は考えたことがあるんだわ)
その言葉の生々しさに、ネアは得心した。
この妖精は、考えたことがあるのだ。
自分ごととして、異なる種族が共に生きることの可能性を。
そして、愛するものに与えてしまうデメリットを。
(それが多分、あのハンカチの女の子だったのではないだろうか………)
きっと、この妖精は肯定的な結論を出すことが出来なかったのだろう。
そうして、ここまで深くお相手の不利益を考えた程のものを閉ざしてしまったのか、或いはその思考は、叶わない恋に対して自分を説得する為のものだったのかもしれない。
成就しきれないものだったからこそ、彼の主張は否定的なのだ。
「あなた達と私達を一緒にしないで下さい」
きっぱりとそう言ったネアに、赤い羽のシーの瞳が燃立つように色を濃くした。
どこでディノが退出するのかわからないが、何かをするつもりであるならば、その後の時間稼ぎの為にも、少しこの場を繋いだ方がいいだろう。
そう思ったネアは、この妖精と少しだけ話してみることにした。
「あなた達と、私達は違います。性格も能力も背景も何もかもが違う。あなた達の“不可能”が我々にも適応される訳ではありません」
「…………お前は、俺が失くした記憶を知っているのか」
「いいえ。でも、あなたが記憶を取り戻そうとしているあらましは伺っています」
(…………あ、)
その時、ふわりと髪を撫でられるような気配があった。
はっとして振り返ると、もうディノの姿はどこにもない。
ネアは暫くの我慢かときりりとしたが、ジルフは脱落したと考えたのか唇の端に微笑みを浮かべた。
その直後、ばさっと羽を振るう音がする。
「……っ!」
あまりにも近くで聞こえたので、思わず後ずさって手で払おうとしてしまったネアは、その手をがしりと掴まれた。
(…………しまった)
魔物は守りは万全だから動かないようにと言ったが、これは仕損じた範囲かもしれない。
それともこれでもまだ、実際には危害は加えられないのだろうか。
「さぁ、魔物はいなくなったぞ。あんなものに魅入られた、己の無知さと無垢さを後悔するといい。大人しく人間同士で番ってればいいものを、異形などを望むと言った顛末がこれだ」
あくまでもしつこくそちら推しなので、ネアは遠い目になる。
掴まれた腕から、妖精らしい体温を感じた。
森や湖を思わせるヒルドのものとは違い、この妖精の体温は虚ろで寒々しい。
「惑わせたつもりでしょうか。迷わせたつもりですか?見ず知らずの他人のあなたに、私の心や、大切な思い出作りの時間を台無しにする資格などありません」
ぐっと見上げれば、なぜか紅玉のように赤い瞳は戸惑いに揺れる。
「どうして抗おうとするんだ?怒りを燻らせて意味があるのだろうか。運命に抵抗したところで、どうせ死んでしまうのに」
「あなたは知らないのですね。お腹を空かせた人間がどれだけ意地汚いのか。心を貧しくした人間が、どれだけ残虐になれるのか」
心から不思議そうに尋ねられたので答えながら、ネアはブーツの届く範囲にあった部位を力一杯蹴りつけた。
殺害予告は既に済まされているので、手加減などするつもりはない。
「ぐっ…!」
ごすっという鈍い音と苦痛の呻き声に、掴まれた手の拘束が緩まる。
その隙を狙って指輪を押し当てるようにして手を振り上げると、ネアは自由になった。
その手を躊躇いもなく妖精に叩きつけて苦悶の声を上げさせてから、ネアは殴打されたこめかみを押さえて飛び退った妖精を睨め付けた。
「自分でひっくり返したものの喪失を嘆いて、駄々を捏ねているあなたが私は大嫌いです。愛していてどこにも行けないなら、一緒に死ねばいいのです。手放して楽になりたいのなら、さっさと忘れてしまいなさい。私はそう考える人間なので、あなたの贅沢な悩みを押し付けられるのはうんざりです」
掴まれた手を一瞥したが、困った被害はなさそうだ。
内心かなり安堵しつつ、ネアは獣のように体を低くして額を片手で拭ったジルフにぞくりとする。
きちんと会話は出来るのに、言動の端々にふと狂気のかけらが見えるのが怖かった。
「…………贅沢だと?身に余る寵愛に甘えて、己の迂闊さにも気付けない人間が、よくもその言葉を選んだものだな」
どう言えばいいのだろうと、少しだけ悩んだ。
身に余る寵愛に甘えているのは事実だが、多分この妖精が本当に話したいのはそういうことではないのだ。
(なぜならば、この人の思考はどこか、人外者に惑わされて不利益をこうむる人間を案じる為のものでもあるから)
それは、いつかの、守るべき誰かに向けた心配なのだろう。
それが歪んで壊れているので、このような応酬になってしまうのだ。
「あなたがかつて重たくて捨ててしまったものも、あなたが危ういと勝手に思っているものも、私はそのどちらも手放せないのです。その結果のあなたの言うところの歪みなど、知ったことかと言えてしまうくらいに、腹ペコな人間なのですから」
その言葉に、ジルフは微かな正気の光が射すように、ほんの僅かな躊躇いを見せる。
しかし、すぐに瞳の色は濁ってしまった。
「………その異形を手放さずに、お前の種族との境界を歪めるのだとしてもか」
「人間は頑強な生き物です。したたかで、冷酷な生き物です。歌乞いなどという職業がある以上、代理妖精という役職がある以上、人間はとっくにその境界を己の欲の為に歪めているのです。他の誰かもそれを堪能しているのに、どうして私がそれを我慢しなければならないのでしょう?」
ネアの強欲さに、ジルフは深い溜め息を吐いた。
悲しげでとても疲れていて、また微かに切望めいた苦しみに瞳が揺れる。
ネアの言葉の中には、かつての彼が欲した願いのようなものが見えるのかもしれない。
「……………愚かな人間だ。そんなものは、不幸や破滅にしかならないものを」
そうやって諦められてしまうことは、差し出した手を切り落とされるような思いだろう。
ネアはそう、見知らぬ彼の主人を思う。
望まないのだとはっきり伝えられるより、想いはあるが正しくないのだと背中を向けられたら、それはどれだけ孤独で腹立たしいことだろう。
ネアは、大人になってからのロクマリアの王女を知らない。
ただ、あのジルフの空間に落ちていた、幼い女の子の精一杯の愛情が込められたハンカチを覚えているだけ。
でも、ハンカチに込めた愛情を彼に持たせようとした、その、必死に手を伸ばす心の欠片に触れたのだ。
「…………あなたが望むのは、怖くないものだけなのですね。私は、例えそれが不利益を齎すものだとしても、私が大切だと思うものが欲しいのです」
会話を終わらせようとしたネアに、赤い羽の妖精は虚ろに声を上げて笑う。
「はは、それで破滅するとしてもか?ならばすればいい。させてやろう」
(その手を取らなくて正しかったのだと、この人は言って貰いたいのだわ)
仮面を剥がれて記憶を手放したからこそ、彼はずっとその同じ思考の迷路の中から出られなくなっている。
どうして大切なものを失くしてしまったのだろうと、ぐるぐると回り続けているのは恐ろしいだろうに。
がりっと音がしたので視線を向ければ、ジルフの片手が、手をかけていた床だか地面だかわからない一角を抉り潰したところだった。
「もし、あの魔物と関わることで俺に殺されても、それでもお前が己の選択を後悔しないのか試してみるか?」
「困った方ですね。私は自分さえ良ければ他の事などどうでもいい、残虐な人間だと言ったのに。ましてや、自分の幸せを守る為なら手段を選ばないこともやんわりとお伝えしたのに、どうして手を出してしまうのでしょう?破滅などうんざりなので、邪魔になるものを力尽くで滅ぼすことも厭わないのだとは思いませんか?」
「…………力尽くで?」
ほんの一瞬、ジルフの目が無防備になったのは、ネアからの反撃を本気で予測していなかったからだろうか。
蹴り飛ばされた癖に、何とも愚かの極みである。
こういう時ネアはいつも、人外者達は特権階級らしい無垢さなのだなとしみじみ思う。
「………っ?!」
次の瞬間にジルフが悶絶したのは、ネアが首飾りから取り出して投げつけたものを、うっかり炎の刃で切り捨てて破壊してしまったからだ。
じゅわっと爆散したものから刺激臭が溢れ、あわいの妖精は目を押さえて小さな悲鳴を上げる。
その僅かな隙を狙って、残虐な人間は容赦なく妖精の爪先を踏み滅ぼした。
ぎゃっと声を上げてよろめいたところで、ヒルド仕込みの蹴り技を渾身の力で脛に御見舞いしておく。
足首を集中的にずたぼろにされた妖精は重力に従って倒れてくれたので、ネアは竜にしか試したことがないが、ひとまずは首に片足を乗せることで動きを封じてみた。
その際に体の上にどすんと着地されたので、ジルフは既に息も絶え絶えだ。
「あなたは獰猛な獣なのに、脆弱な子羊ですら、巣穴を守る為なら獰猛な獣をばりばりと頭から齧ってしまうと知らなかったのですね。そんな世間知らずな獣さんは食い殺してしまうのもいいかも知れませんが、私はこの通り狡猾ですので、あなたにもっとも恐ろしい呪いをかけてあげましょう」
真っ赤になって苦痛に歪むジルフの目が、こちらを見上げて細められた。
歪んだ笑いが、そんなものを恐れると思うかと蔑んでいたが、ネアは悪辣に微笑みを深める。
この妖精はまさか、これだけ自分のことを話しておいて、まだ己の弱点が露見していないとでも思っているのだろうか。
「あなたはこの先、あなたの大嫌いな異種族の女の子に恋をするでしょう。次は、どんなに怖くても、やめたくても、その手を離せずにあなたは諦めることが出来なくなります。その女の子は、あなたに恋をしている大地色の瞳の女の子ですよ。そのお嬢さんを幸せにするまで、この呪いは解けません」
そう微笑んだネアに、踏みつけられた妖精は呆然と目を瞠った。
そこに揺れた本物の恐怖を、ネアは真上から覗き込む。
「あなたが、かつて怖くて手放してしまったもの。あなたが、本当は一番恐ろしく思っているものです。そして、この呪いからは決して逃げられませんよ?」
「…………馬鹿な。人間のお前に、そんな呪いを描けるわけがあるまい」
「あらあら、私がかける呪いだなんて、誰が言いましたか?こちらは連合軍です」
「…………っ?!」
「ネア、良く頑張ったね」
愕然としたジルフが周囲を見回すより早く、その体の上からご主人様を回収したのはディノだ。
ディノが何かをしてくれたのか、ネアが踏みすぎてしまったからか、解放された筈のジルフは、いつの間にかかくりと意識を落としている。
やっとディノに触れられてほにゃりとしながら、ネアは持ち上げてくれた魔物にぎゅっと腕を回した。
「ディノ、激辛香辛料油の入った水風船で攻撃したので、その被害者を踏んだブーツには気を付けて下さいね。私の大事な魔物が香辛料で汚れてしまいます」
「大丈夫だよ、ネア。それよりも、地に足が着いている筈なのに、どうしてまた危ないことをしてしまったのかな?今回はひび割れなかったけれど、もし結界が剥がれたら危なかったんだよ?」
「ふふ。今回に限っては、これだけの精鋭揃いで、まさか護りが手薄な筈もないという確信犯です」
「………そういうことなら仕方ないのかな。それと、ごめんね。君から一瞬離れなければならなかった」
「こちらの誰かさんが、トロッコに飛び込んでくるような騒ぎを起こしたからですね」
ネアがそう言ったのは、この謎空間に遅れて駆けつけたアルテアだ。
今もまだ擬態をしており、端正な青年の容貌には相応しくない老獪な魔物らしい微笑みを浮かべている。
「まさかお前がこいつを捕まえてるとは思わないだろ」
「………む、ハリネズミさん」
「それの回収のために、わざわざ、ネアとの契約を使ってまで守護や隔壁を壊したのか」
「そうでもしなきゃ、間に合わなかっただろうが。後先考えずに壊そうとしやがって」
アルテアの手には、ぐったりとしたハリネズミが摘まみ上げられていた。
巻き込まれたことに少し怒っているのか、ネアを抱えたディノが、少しだけ声を低くする。
「取り逃がしたのは、君達ではないのかい?君が開いた道から、その追っ手にまで侵食されるとは随分な不手際だ」
「無用心に近付けたのはお前達だろ。邪魔をするなと言ったのに、勝手にこっちの獲物に手を出しやがって」
「こちらとしても、政治犯めが、まさかハリネズミだとは思いませんでした」
「人間の死霊が、砂の高位精霊を喰らって生き延びた変種だ。お前の守護が硬すぎて害を為せないだけで、ここまでの道中では、相当な数の追っ手を殺してきてるぞ?」
「………なぜに息抜きの旅行先で、そんな奴に出会わなければいけないのでしょう」
「それはこっちの台詞だな」
「そして、そやつは黄緑色の竜さんに餌的な感じで運ばれている途中に、脱出してお空から落ちて来たのですよ?我々がしゃしゃり出て捕まえてしまったわけではありません」
「…………は?」
「ですから、偶然にも我々のトロッコに落ちて来たのです」
「そんな訳ないだろ。何で、高位魔術師を殺せる奴が、森の獣に捕まるんだよ」
「ああそれは、トロッコに乗る前に、周辺の場を丸ごと無力化したからかな」
「…………は?」
またしてもとんでもないことを言い出したディノに、擬態したままのアルテアが凄く嫌そうな顔をする。
「この子は珍しい生き物を見るとすぐに狩ってしまうからね。もし、不用意に触れてしまっても安全なように、予め、周囲には一時的な調整をかけておいたんだ」
ネアは首を傾げて考えてみる。
それは即ち、ディノの過保護な政策が元でこのハリネズミは力を失い、うっかり竜に捕食されそうになったところを、何とか逃げ出してトロッコに落ちてきた。
(いや、だとしても随分な都合の良さでは………)
「そんなに都合よく落ちて…………。ネア、お前まさか直近で、収穫の祝福を増やしてないだろうな?」
「収穫なら、昨日二個ほど増やしました」
「それもだな………。だったら、ほぼお前の自己責任だろうが」
「解せぬ…………」
その後、あわいから出て無事に元のトロッコに戻れたネア達を、突然お客が失踪して、謎のフードの男が一人乗るばかりになって震えていた精霊は、大喜びで迎えてくれた。
運行中のお客の失踪は責任問題になるので、追放されてビスケットを取り上げられるのはとても怖かったようだ。