ローナ
小さな頃に、用水路に落とされたことがある。
それは、魔術可動域が高いからと調子に乗って燕の魔物を追いかけた結果、反撃されて叩き落とされたからだった。
雪解け水が流れる時期であったので、水は凍えるように冷たく、ローナは爪先がなくならないように魔術を巡らせるのに必死で、それ以上の魔術を編めなくなってしまった。
例えば、大きな声を上げて助けを呼ぶとか、魔術通信をかけて父親に助けを求めるとか、幾らでも策はあったのだ。
でも、幼い頃から天才と呼ばれていたローナにとって、この失態は消えてしまいたいような情けない事件であった。
双子の妹達にかかりっきりの両親の為に、ローナは少しでも手のかからない子供になろうと努力をしてきた。
まだ幼い双子の妹達は相反する属性の加護を受けてしまい、とても両親を困らせていたのだ。
だから、ローナは手のかからない子供でなければならない。
何故ならば、ローナの愛すべきところは両親にとっての助けになる優秀な子供であることだから。
『あの子はとってもいい子なの。手がかからないどころか、こちらを助けてくれるわ。ローナがメティとパティのお姉さんでいてくれて、私はとても幸せね』
ある日、厨房に行こうとしたローナが偶然聞いてしまった母の言葉。
それは、物静かであまり積極的に言葉を発してくれない母の、珍しく熱のこもった言葉であった。
(お母様は、私を頼りにしている!)
実はそれまで、いつも父の後ろに隠れてしまって、おどおどしている母親から、ずけずけとものを言う自分は嫌われているのかと思っていた。
ローナがどれだけ特別な魔術を会得しても、母は困ったような複雑そうな表情で少し微笑むだけ。
時々、ローナがその成果を報告していると、怒ったような目をすることもあった。
それが悲しくて、怖くて、ローナはずっと母親と上手く接せないでいたけれど、その日を境に猛然とお手伝いを始めた。
ローナは確かにおばあちゃん子ではあるが、とは言え母親というものは特別なものだ。
竜騎士の仕事で滅多に家に帰れない父親の分も、ローナが母親と妹達を助けてやる必要がある。
『お母様が、ローナがものすごく頼りになると褒めていたぞ!』
家に帰ってきた父親は、そう言ってローナの頭を撫でてくれた。
それが嬉しくて振り返れば、母親も嬉しそうに微笑んでいてくれる。
妹達が魔術を爆発させても、部屋を燃やしたり水浸しにしても、ローナはそんな両親の言葉を励みにして、よく家族を助けてきた。
七歳でもう竜騎士の資格の勉強を始めたのだって、祖父や父親のように強くなれば母達を守れると思っていたからだ。
(竜騎士のお勉強はこっそり進めていたの)
ローナが魔術の勉強をすると、母親は悲しそうな目をする。
それはきっと、魔術なんてよくわからないものを追いかけ回すよりも、妹達の面倒を見てくれたり、母の買い物や家事を手伝ってやることの方がわかりやすい助けになるからだ。
でも、妹達だっていつかは、魔術を安定させて賢いレディに育つだろう。
その時にはローナが家族を守れる騎士になるべく、自分は戦うための力を磨きたいと、ローナは常々思ってきた。
アムレイア家のローナの代には、男子がいない。
やがてはローナが家業を継ぎ、兄として振る舞えるように妹達と家族を守るべきなのだ。
「それなのに、用水路に落ちちゃったわ……」
同じ年の子供でも、用水路に落ちるような子供はもう少ないだろう。
魔術を巡らせた用水路は深く、そして一般人では入ったり出たり出来ないようになっている。
もしここで誰かに助けを求めれば、ローナを引っ張り上げる作業は、用水路を管理している術師を連れて来てのとても大掛かりなものになる筈だ。
なんて情けなくて、なんて大迷惑なことか。
そう考えたら、涙が少しだけ溢れてしまった。
「用水路に落ちたのか?」
その時、声をかけてくれたのが一人の騎士だった。
びっくりして顔を上げたローナに、その髪の長い騎士はひょいと身軽に用水路の中に下りてきた。
薄闇の中でも良く映える水色の制服は、リーエンベルク直属の騎士のものだ。
(そうか。領主様の直属の騎士だから、用水路の魔術にも邪魔をされないのだわ)
畑用の用水路は大切なものだ。
害がなく魔術可動域の高いものであれば、受け入れはするが、それは天候や妖精などの祝福を前提としており、翼のないものが這い上がることは許されていない。
よりにもよって、浮かんでいて落ちるという最悪の落ち方によって、ローナはたまたまその条件を満たしてしまった訳だ。
「つ、燕の魔物に浮かされて落とされたの」
ふぐっと声が詰まって、涙が出てきてしまった。
「可哀想に。早春なのにずぶ濡れじゃないか。寒くなかったか?」
伸ばされた手の色は、生粋のウィーム人のそれではなかった。
さらりと長い黒髪に、おばあ様に良く似た緑の瞳。
(この騎士様を、わたしは知ってる………)
でもその時のローナは、呆然としていてあまり表情が上手く動かなかった。
抱き上げられてそのあたたかさにうっとりとしていたし、大騒ぎにならなくて心から安堵した。
涙が、ぽろぽろと溢れてしまう。
「心細かったな」
その騎士はどうして燕の魔物に落とされるような羽目になったのかとか、どうして端末を持っているのに助けを呼ばなかったのかとか、そんなことをローナに問いただしはしなかった。
ただ、抱き締めて魔術で水気を飛ばしてくれると、背中を撫でて泣くに任せてくれただけで。
「…………足!足が冷たくて千切れちゃう」
散々泣いてから、ローナはこの騎士がまだ用水路の中に立っていることを思い出して、青ざめた。
子供が泣き出してしまったので、どうしたらいいのかわからなくなってしまったのだろう。
申し訳なくて、また顔をくしゃくしゃにした。
「女性が泣いているときは、あまり人目に晒さない方がいいらしい」
しかし、その騎士は大真面目でそんなことを言うのだ。
「足、冷たくないの?」
「冷たいが、僕は騎士だから」
「騎士だから、ここにいてくれたの?」
「…………もう泣かないのかな?落ち着いた?」
「…………うん」
ローナがこくりと頷けば、騎士はふわりと地上に戻って、自分の足の水気を魔術で飛ばした。
もう一度よしよしとローナの頭を撫でてくれて、不器用そうに頑張って少しだけ微笑む。
「…………あのね。お母様に迷惑をかけたくなかったの。ロー…………私はね、頼りになるお姉ちゃんでなくちゃいけないから」
「だから、助けを呼ばなかったのか」
「………うん。助けてくれて、有難うございました」
その時に名乗らなかったのは、この騎士が自分が誰なのか気付いていない様子であったからだ。
いつも祖母と散歩していると、いつの間にかついてくる騎士なのに、祖母が手を繋いでいるローナのことはまるで目に入っていなかったらしい。
それくらいに祖母に夢中な彼だから、自分がその孫だとは言いたくなかった。
もう少しだけ、この暖かい腕を独占していたかったのだ。
「子供なのだから、母親には甘えるべきだ」
「お母様は大変なの。うちには男の子がいないから、私が頑張るのよ」
「………悪い母親なのだろうか」
「そんなことないわ!お母様は物静かで気が弱いだけなのよ!」
「だったら、甘えるのも子供の仕事だろう」
「………仕事?」
「そうだと聞いている。……僕は、よくわからないが」
そう付け足した彼は、竜の混ざり物だった。
竜の感覚はまた人間のそれとは違うので、彼には子供の頃に母親に甘えるという感覚はないのだろう。
竜はその伴侶を溺愛する為、子供でも間に入ってくると投げ飛ばされるらしい。
そう本で読んだことがあった。
「でも、あまりお手伝いを出来なかった頃は、お母様は魔術のお勉強をすると少しだけ難しい顔をしてたの。私が守ってあげると、ずっと仲良しになったのよ!」
「どんな風に?」
それは単純に不思議そうな声だったので、どうして自分が頼もしい娘でいなくてはいけないのか、ローナは頑張って説明した。
その直前の説明では、子供なりに言葉が足りてないと感じて内心頭を抱えていたからだ。
「………それは、心配しているのだろう」
「心配?」
「女児なのだから、魔術の勉強をしているより、刺繍や花を活けている方が、安心出来るのではないか?」
「………お母様が?」
「一度話し合ってみるといい」
「…………むぐ」
「我が儘を言ってみたり、甘えてみるといい」
「お母様、疲れちゃわないかな」
「あまり忙しくなさそうな日にしたらどうだ?」
「いつも忙しそうだもん」
「何をして欲しいんだ?」
そこでローナは考えてみた。
先程この騎士がしてくれたことがとても嬉しかったので、それをやって貰えたらすごく嬉しいかもしれない。
「………頭を撫でて欲しい」
すると、その騎士はくすりと微笑んだ。
(…………っ!)
その表情のあまりの変化に、ローナは心臓が止まりそうになった。
騎士は、ローナの祖父や父親とは違い、すっきりした物足りない顔をしていた。
眉毛も太くないし、頬骨もごつごつしていないので決して素敵な容貌ではない。
ちょっと不器量なのだろう。
体も細過ぎるし、髪の毛もふさふさしている。
祖父達の会話によれば、髪の毛は少ない方が男性的なのだそうだ。
それなのに、ほんの少しだけ微笑んだだけで、がらりと印象が変わって見えた。
胸がばくばくして、頬っぺたが熱くなる。
「それくらい、夜寝る前に言ってみればいい」
「…………お母様、頭を撫でてくれる?」
「ああ、必ず」
そう言って彼は、またローナの頭を撫でてくれた。
心がほわほわして、胸が熱くなる。
この日の出来事があってから、ローナの目標はリーエンベルクの騎士になった。
騎士になれば、あの騎士が上司になるのだ。
またあんな風に甘やかしてくれると思ったら、褒めて貰える為だけにローナは毎日仕事を頑張れるだろう。
「へぇ、竜騎士にはならなくて良かったんですか?」
「竜騎士で騎士にはなれないの?同じ騎士なのに」
「さぁねぇ。なれるかもしれませんよ。前例はないですが、ダリルは実力主義ですから」
「リーベル様の大好きな、ダリル様ですね!」
「ええ。あなたのお祖母様のご友人でもあります」
「………リーベル様、ローナはおばあ様より美人になれるかしら」
「さて、それにはあの騎士の好みもあるでしょう。レクティを超えることよりも、力で圧倒することを考えた方がいいですね」
「………叩きのめすのですね!」
「竜の嗜好は二つです。最も一般的なのは、己より強い物に焦がれる性質なので、寧ろあなたのお祖母様の例は特殊な方ですね」
「叩きのめしてリーナに勝てば、リーナは私を好きになってくれますか?」
「さて、それも可能性ですね。何しろ彼は半なりですのでね」
あの用水路の事件の後、ローナはあの騎士に恋をした。
そして、彼の言う通りに母親と話をしてみたところ、思いがけない事実が発覚した。
最初は頭を撫でて欲しいとおずおずと申し出てみたところ、予想に反して母は大喜びしてしまい、髪の毛がくしゃくしゃになるくらいに撫でてくれた。
子供心にも、これはいけると感じる瞬間がある。
ローナはその好機を感じ取り、その場で母と少し話をしてみた。
すると、母はローナが危ない魔術を修めてゆくことが怖くて仕方ないのだということが判明したのだ。
魔術可動域の低い母親は、父や祖父の荒々しい竜騎士のお作法しか知らずにいた。
毎回、任務の度に血だらけになって帰ってくる彼等を見てきたせいで、ローナがそちらに近付けば近付く程、はらはらして胸が痛くなってしまうそうだ。
その心配にも気付かず、無邪気に任務の現場にローナを同行すると話している父を睨んだこともあるし、その夜は叱りつけてやったのだとか。
(あの時の怖い顔は、私に対して怒ってたんじゃなかったんだ………)
ローナは用水路の件も告白し、用水路から助けてくれた騎士に恋をしたのだと、母親に相談してみた。
『まぁ、ローナは恋をしたのね!』
その種の話題は、一家の長男とならなければと髪の毛すら短くしてしまっていたローナを憂いていた母親にとって、とんでもない喜びであったようだ。
その結果、母親ははしゃぎにはしゃいだ。
ローナの為にお洒落を教えてくれて、レディになる為のお作法や、ダンスの仕方をたくさん教えてくれたのだ。
(お母様は、とても綺麗な人だった!)
ダンスを教えてくれた母親は、ちっともおどおどしていない。
初めて見る自信に満ちた微笑みを浮かべ、素敵なドレスを着ていてきらきらとして美しかった。
ローナも初めてドレスを着て、髪の毛を伸ばし始めた。
いつか素敵な女性になって、竜騎士から騎士にもなって、リーナを振り向かせるのだと意気込んでいて。
あの頃は、ローナにとって一番幸せな日々だったかもしれない。
祖母の散歩に付き添って歩けば、後ろに彼の足音を感じる。
用水路の事件は母親とローナだけの秘密なので、祖母達にはお散歩でいつもついてくる騎士が素敵だと伝えるに留めた。
祖母はとても驚いていたし、祖父はあれかぁと天を仰いでいたが、ローナは無邪気に騎士の制服が格好いいのだと主張する。
どこがと問われてしまえば、リーナは容姿はいまいちなので、騎士服と騎士の立場くらいしか良い部分として説明出来ないのが心苦しい。
あの用水路事件以降は接点もなかったし、アムレイア家には彼とのあまり良い接点がなかった。
(それでも、用水路事件はお母様と私だけの秘密なの。いつか、リーナ様が私を目に留めてくれたなら、その時にあの時は有難うございましたと言うんだから!)
今ではまだ駄目だ。
髪の毛も綺麗に伸びて可愛らしい女の子になってから、またきちんと向かい合うのだ。
(だって今は、おばあ様の隣にいる私の姿すら見えていないんだもの)
あの日以降、ローナはずっと期待していた。
いつか彼が、ローナに気付いてくれて、あの時の用水路の子供かと声をかけてくれることを。
母親とはどうなったのかとか、気付かなくて悪かったとか、そんな風に話しかけてくれてまた微笑んでくれることを。
でも、そういう夢を見るのは三ヶ月で諦めた。
彼は結局、祖母以外のものは何も見えていなかったのだ。
それは、ローナがレクティの孫であるからこその弊害であった。
「君は、あの日以来、彼に敬称をつけなくなりましたね」
「リーナは、おじい様を殺しかけたから。お母様にも怪我をさせて、妹達を泣かせたから」
そう言って微笑んだローナに、リーベルは謎めいた微笑みを浮かべる。
この恩師は、真意の読めないような不思議な微笑みをよく作る。
彼が心からの微笑みを浮かべるのは、ダリルと一緒にいる時だけだ。
この人は怖い人だと、出会ったその日からローナは気付いていた。
けれども祖母の友人にダリルがいるお陰で、その友情が続く限り彼はアムレイア家の味方なのだ。
「だから、もうリーナ様とは呼ばないのですね」
「私はリーナを叩きのめして、リーナに恋をさせてみせるのですから、勝つまでは敵です。敵として挑まなければ負ける戦だと、ダリル様にも言われました。だから絶対に勝つ為に、私はあの方の呼び方を変えたのです!」
「あの日、………君は危うく失明するところでしたものね」
リーベルが穏やかにそう言うのは、それを防いだのがゼベルと共に駆けつけた彼だからだ。
砂熱の防壁魔術を顔に浴びて、ローナは顔に酷い火傷を負っていたのだが、それをこっそり治してくれたのがリーベルであった。
ローナがその傷を誰にも気付かれない内に治してくれと取り乱したのは、まだ子供である自分がここまでの傷を負ったと知られてしまえば、きっとリーナが殺されてしまうと考えたからであった。
なので、通りすがりの魔術師か何かだと思ったリーベルに、取り縋って傷の治癒を頼んだのだ。
そしてリーベルは、決して同情心からではなく、そんなローナの計算高さと根性を気に入ったらしい。
あの日、妹達を抱えたローナの母親は魔術の風に煽られたまま転倒して、足首を捻ってしまった。
それを守る為に駆け出していった父親の方へリーナを行かせない為に、ローナが両手を広げて立ち塞がったのだ。
彼は、ローナに気付かなかった。
彼女があの日の子供であることにも気付かず、ただ、自分が伴侶とするべき女性が、他の男との間にもうけた子供が生んだ娘、憎むべき家族として魔術で薙ぎ払った。
ローナの祖父は、嫌がる自分の妻を抱えて連れ出そうとしたリーナを殴りつけてもいるので、そこから抗戦となったことを特別問題視してはいなかった。
リーエンベルクには厳重に抗議したものの、竜の気質を熟知した竜騎士らしく、やっぱり人型は強いなぁと豪快に笑っていたくらい。
しかし、もしあの場のリーベル以外の誰かが、ローナの怪我について知れば、あの時の処罰はまるで違うものになった筈なのだ。
「お師匠様は、どうして私を弟子にしてくれようと思ったの?」
「言ったでしょう?したたかで、頭のいい子だと思ったからですよ」
「…………わかるから?」
「わかる、とは?」
「前にね、おばあ様と飲んでいたダリル様が教えてくれたの。リーベル様は昔、とても悪い奴だったんだって。ゼベル様を利用してリーエンベルクに近付いて、悪さをしようとしたから半殺しにしてやったって」
「…………あの人は、どうしてそんなことまで他人に話してしまうのでしょうね」
ローナが言ったことに、リーベルは溜め息を吐いて頭を抱えてしまった。
(だから、リーベル様には、あの日の私の思いがわかったのかな)
ローナはそう思うのだ。
第四王子の片腕として、リーエンベルクに害を及ぼそうとしたらしいリーベルが、美しい書架妖精に返り討ちにされて、その妖精に恋をするまで。
本人も公言しているし、ローナも知っているが、リーベルのそれは本物の恋なのだ。
しかしながらダリルの恋のお相手は、ほとんどが女性なのであまり勝機はなさそうである。
けれど、自分を損なうものでも、その相手でなければと苦痛を耐え忍ぶことがある。
あの時のローナのように。
ダリルに仕える為に、同じ第四王子派の親友だった人を手にかけたリーベルのように。
あの酒盛りの夜に、祖母やダリルが小さなローナにはわかるまいと思って話していたことであったが、その時のやり取りを覚えていたローナは、燃えるような恋をして初めてその言葉の意味を知った。
恋をした美しい妖精の信頼を得る為に、リーベルは自分の友人と刺し違える覚悟で戦った。
血だらけでダリルダレンの書架の前に倒れていたらしく、ダリルが拾って帰ってやっと生き延びた程の酷い有様だったらしい。
それだけの恋とは、どんなものだろうか。
まだローナではよくわからない。
でも、血の味のする恋への妄執は知っている。
「さて、仕上げをしようか。俺の予想だと、その騎士はそろそろ事件を起こすでしょうね。同類だと思ってた友人の結婚なんて、最悪のきっかけですから」
「………うん、お師匠様」
心を縛る術式は悲しいですよと、リーベルは話してくれた。
それでもその嘘でリーナを自由にするのなら、いつかの最悪の時に彼を捕縛する為に、この魔術を鍛えなさいと言ったのだ。
愛するものの心を操作するのには心が腐り落ちるような苦痛と後悔を伴うだろうが、己の我が儘で彼を自由にするからには背負わなければいけない役目だと厳しく言われた。
だからもし、竜騎士としての技でリーナの心を得られないのなら、いつか、もしかしたら。
(お師匠様も、その悲しい思いをしたことがあるのかな)
或いはその悲しさを強いられたのが、かつての彼なのか、もしくは今、ダリルの為に己に課しているのか。
竜騎士の躾や、使い魔の契約で間に合うだろうか。
彼の心が魔術で失われるのが怖くて、ローナは夢中で勉強した。
学びながら、ああそうか、だからリーベルは他の分野においても恐ろしく強いのだと理解した。
彼が天才だと言われるのは、その持ち得る最高の魔術だと言われる人心操作の魔術を使わずして物事を治めたいからなのかもしれない。
(嫌な奴等を破滅させるの大好きって、よく言ってるけどね………)
「お師匠様、私、リーナにお洋服とお仕事しか好きじゃないと言ってしまったわ。でもね、醜いと言われて頭にきたの」
「それは困ったね。彼が君のことなど見ていないのはわかりきっているのだから、冷静でないと負けてしまうかもしれませんよ」
「…………はい」
「ダリルにも言われたでしょう?恋ではなく戦だと思わなければ活路を見出せないくらい、君は無謀なことをしようとしているんです」
「でもね、肌の色と髪の色と、竜の血が混ざっている人でなければって言ったから、リーナでなければいけないって、ばれてしまってるかな」
「竜は甘やかすものには狡さを見せる気質もありますからね。あまり弱みを見せない方がいい」
「…………いつかね、リーナと手を繋いで歩いてみたいわ。また頭を撫でて欲しいの」
「君達は、心から始まる関係ではない。それが得られるかどうかは、君の能力次第だ。愛されないことが虚しいなどと甘えずに、精進すれば得られるかもしれませんよ」
「………むぐ」
ローナは頑張ってリーナを躾けた。
頑張って頑張って、鬱憤と悲しさを溜め込んで。
周囲は凄いねと褒めてくれたし、母親も頑張ったわねと褒めてくれた。
でも、心から喜べなかったのは、頑張らなければいけない辛い日々はこれからだったから。
「あらあら、むしゃくしゃしてしまいましたか?」
「…………ふぇっく」
ある日、リーエンベルクの横の森の隅っこで涙を堪えていると、一人の女性に話しかけられた。
この人は知っている。
リーエンベルクの歌乞いで、夜渡り鹿を蹴り殺したと有名な凄い人だ。
「人生そういう時がありますよね。そういう時は、美味しいものを食べてふて寝して自分を甘やかすか、むしゃくしゃさせた相手を叩きのめすのがおすすめです」
「叩きのめす……の!」
「ふふ。では、この素敵なケーキを差し上げますから、これで力をつけてから叩きのめして下さい」
そう言って渡してくれたのは、ザハのケーキの箱だった。
服装や歩いてきた方向からして、この人はケーキを買う為に街に出ていたのだろう。
「………ケーキ、わざわざ買いに行ってきたのに?」
「可愛いお嬢さんが、悪いやつを叩きのめす為の力となるのです。ケーキも本望でしょう」
「………ありがとう」
「人生は荒ぶることも必要ですよ。私の魔術可動域は六ですが、頭にきて荒れ狂った結果、竜を倒したこともあります。もし、本気で拳で叩きのめすことをお考えなら、ゼベルさんかグラストさん経由で、ご相談して下さいね。私でも竜に勝てた守護を与えてくれた私の魔物に相談して、防護服を手配して貰いますから」
「………どうして良くして下さるんですか?」
「リーエンベルクが、大好きだからでしょうね。それと、半泣きで木の幹を殴るお嬢さんの姿に胸を打たれました。ごめんなさい、お邪魔してしまいましたね」
そう微笑んでからその人は、手の甲が赤くなったローナの為にと、傷薬を持たせてくれて歩き去っていった。
肩に銀狐がひっかかっているのが不思議だったが、渡された薬瓶には見覚えがあった。
リーナが家に来て暴れた時に、エーダリア様から渡された薬瓶だ。
(…………あの人の魔物が作っていたんだ)
そしてその日、ザハの美味しいケーキを一緒に食べている時に事件は起きた。
甘いものが大好きなリーナは、怖々とではあるが隣で一緒にお茶をしてくれ、ローナの心も落ち着いたので幸せな休憩時間になると思ったのだ。
「美味しかったですね!」
「………レクティにも食べさせてあげたい」
「また、おばあ様の話!リーナは少し反省して下さいね」
「黙れ。お前はレクティに似てもいないくせに視界に入るな」
その時、ぶつっと心の中で何かが切れるのがわかった。
祖母の話題なので、彼も冷静ではいられなかったのだとわかっていたが、我慢の限界だったのだ。
後から聞いた話によると、その瞬間にローナは大暴発したのだそうだ。
竜騎士の竜使い魔術を発動して、大泣きしながらリーナを叩きのめしたのだとか。
後から血の気の引いた顔で同席していたゼベルから説明されると赤面するしかないが、ものすごく恐ろしい暴れようで、ほとんど半殺し状態のリーナを鞭でばしばしと叩いて、勝手に恋をさせておいて自分を払いのけて顔を焼いたり、頭を撫でてもくれないし、微笑んでもくれないと荒れ狂ったらしい。
ゼベルはそこそこに怯えていたが、貰ったばかりの傷薬を使ってリーナは全快してくれた。
危うく殺してしまうところだったのである。
そして、発言をしっかり精査され、リーナの初回の襲撃の時にローナが重傷を負っていたことも露見してしまった。
ゼベルは、今回の様子を見る限り大丈夫だと思うが、もし、またリーナが暴力を振るうことがあれば、その時のことをエーダリア様に報告すると言い残して退出してゆく。
部屋には、全快したリーナと、机に頭を打ちつけて死にたい気分のローナが残された。
「………ごめんね、痛かった?」
やがて沈黙に耐えられなくなってローナがそう言うと、隣で震えていたリーナがぴくりと体を揺らした。
「…………ごめん。君に酷いことをした」
「リーナ?」
「二年前のあの時、訳がわからなくなって。………君にそんな怪我をさせているなんて気付かなかった」
「でも、私も酷いことをしたわ。リーナの首の骨を折りそうだった」
「…………うん。格好良かった」
「…………え」
「鞭が、すごく丈夫なんだね」
「……………竜騎士の魔術で補強するの」
「格好いいね」
「……………鞭」
「うん」
その日以降、リーナは、ローナが鞭を持つと嬉しそうについてくるようになった。
鞭を持っているローナは格好良くて、胸がどきどきするらしい。
家族やリーベルに報告すると、竜が強いものに焦がれる性質をこれでもかと刺激してしまったのだなと得心されてしまう。
祖母に会わせると切なげにはするが、ローナが鞭を手に取ると、頬を染めてこちらに寄ってくる。
レクティは麗しくて、ローナは格好いいと言われて途方に暮れた。
こうなってみると、ものすごく嬉しいかと思っていたが、ローナは忠犬のようになってしまったリーナを見ていると複雑な気持ちになった。
時々、面倒臭くなって邪険にしたくなるのは何故だろう。
変わった趣味の魔物を愛でているネア様のようにはなれないらしい。
偶然にその後、リーエンベルクの外で偶然に出会った本人にもそう告げると、ネア様のように変態の仲間にはなれないと告げられてネア様はちょっと泣いていたと、ゼベルに叱られてしまった。
むしゃくしゃしたのか、禁足地の森を震撼させるくらいの狩りをしたそうなので、ウィームの自然の為にも、あまり荒ぶらせないようにと言い含められる。
でも、リーナは褒めてもらう為に、ローナの頭をよく撫でてくれるようになった。
それはとても気に入っている。