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湖面流星群と相談室


ホテルは、シュタルトの郊外にある高台に位置していた。

小さな古城のような造りで、背後の山々の山嶺を見上げるところからシュタルトの全景までを見下ろせる位置にある。

背面には山の麓の針葉樹の森が広がり、妖精達の舞い踊る光が見えるのだそうだ。

そして何よりも素晴らしいのが、晴れた日の夜には、ホテルの部屋からシュタルトの大きな湖に映る、湖面流星群が見えることだった。


大きな湖を鏡代わりにして、夜空の素晴らしい運行を見せてくれるそうなので、晩餐後のお茶は、各自部屋に戻って室内を暗くしていただくのがこのホテルの流儀である。

至福の食事時間を過ごした後、ネア達もお部屋にお茶の準備をして貰ってから、のんびりとした時間を過ごすことにした。


ホテルの部屋は二間続きである。

寝室とリビングの二部屋で、両部屋の境目の壁はアーチ型になっており、上品な彫刻の美しい円柱があるのが可愛らしかった。

壁紙が淡い灰色に上品な青緑で描かれた爽やかな草花柄だからか、その造形と合わせると初夏の庭園の中にいるような気分になるのだ。


ネアはニワトコの花と梨の紅茶を選んだので、白いテーブルに置かれた硝子のティーポットにも星空が映る。

ディノは紅茶ではなく、引き続き湖水葡萄酒を飲んでいるので随分気に入ったようだ。

しゅわしゅわと尾を引いて落ちてくる流星群は、静謐な湖面に映るとお伽噺の一場面のようだ。

これから何か素敵なことが起こるかもしれないという、胸がわくわくするような昂揚感に笑顔になってしまう。

祝祭日の華やかさとは違う、静かな夜に潜む特別さに贅沢な気持ちになった。



「ディノ、今夜はこんなに素敵な旅先の一夜なので、私は特別にお悩み相談室を開きます」


部屋のテラスから湖を見下ろしてそう言ったネアに、魔物は長い睫毛を揺らして目を瞠った。


「…………ネア」

「怖いことや、もやもやしてることはありませんか?私はちっぽけな人間なので全てを解決出来る訳ではありませんが、話すとすっきりするかもしれません」

「どうしたんだい、ネア?私は、何か君を怖がらせるようなことをしてしまったかな?」


(むぅ。………なかなか手強い)


そう微笑んだ魔物に甘やかすように指の背で頬を撫でられ、主導権を奪われそうになったネアは少し唸る。

老獪な魔物は、都合の悪い本音を差し出すつもりがなさそうだ。



「事前に私の操作方法を伝えておきますと、もし私が困ったり、嫌がるようなことを言い出した場合は、ザハの素敵なケーキセットで鎮めることが出来ます。………それと、ご主人様の立ち去りは発生しない特別な相談室なので、今夜は稀な機会ですよ?」


じわりと揺れた水紺の瞳と色彩の中にも、流れて行く流星群が映る。

思えばこの瞳にどれだけのものが揺らぐのを見てきただろう。

それは、祝祭の花火や花吹雪だったり、燃え盛る炎や拒絶の鋭利さであったりした。



「………ネア、………君にとってこの世界は、夢を見ているようなものなのだろうか」


ややあってディノは、そんなことを呟いた。


「夢、でしょうか」


階下から微かに聞こえるオーケストラの音楽に、りぃんと鋼の鈴を鳴らすような流星の落ちる音。


「ここは君にとっては、夢の中を歩くような、いつかは覚めてしまう仮初めの世界なのかい?」


伸ばされた手が、カップを取り上げようか迷っていたネアの手を掴む。

すんなり肌に馴染む手の温度だが、出会ったばかりの頃は魔物は体温が低いのだなと、いつも新鮮に思っていた。

いつから慣れてしまったのか、こうして日常になってゆくことはとても多い。


「私は、地に足が着いていませんか?」

「君はね、時々こちら側を向いていないような気がするんだ」


その呟きは、悲しげだが脆い声ではなかった。

男性らしい高慢さと厳しさが伺えることに、ネアはまた少しだけ新しいものを見る。


「夢のよう、という意味では、ここは失われた時代のようではありますね」

「君の家族が生きていた頃のようにかい?」

「ええ、大切に思う人がこの世にいてくれるということが。それから、明日という月並みなものに恐怖がないこと、希望や期待があって、………夢や理想を、………もう一度、願い事を持てたこと」



かつて愛したものの遺骸にくるまれて、静謐な繭のようにネアが暮らしていたあの屋敷は、ネアが一人で維持してゆくには無理のある規模であった。

修繕費や、維持費、諸々の生活費。

あの日々はいつか破綻する、最後のダンスのような愚かで破滅的なものだったのだ。


だからもし、いつか。

いつか終わりが来たら、その時は。


全てを切り詰めて引き延ばすのではなく、ネアはただ変わらない日々を丁寧に送ることによって、毎日一歩ずつ、真っ直ぐに終幕へと歩いていた。


安らぎと幸福の残響に沈んだあの暮らしも嫌いではなかったが、過去の残骸と心中するネアには決して触れることが出来ないものがたくさんあって、願い事という贅沢で乱暴なものは、もう手が出せないくらいに雲の上のものだったから。


(願い事を持つことも出来ないところまで転がり落ちた人間が、こんなお伽話のような美しい世界にいるなんて)


胸をひたひたと満たすのは、この美しい魔物だけではない。



「…………そういう意味では、夢を見ているようだという言い方も出来るかもしれません。でも、私はもうこちらがすっかり気に入ってしまったので、軽薄にもこの世界に心を乗り換えてしまいました。追い出そうとしても、絨毯に爪を立てる狐さんのようになります」

「では、君はもう、目を覚ましたらこの世界は跡形もなく消えてしまうのだろうとか、ここは自分の本来の居場所じゃないとは思わないんだね?」


あんまりな例えに、ネアは震え上がった。

よりにもよって、想像するのも怖い最悪の例えを持ち出されてしまった。


「…………何という怖いことを言うのでしょう。そんな風には思いませんよ。そしてちょっと不安になったので、手を繋いで下さい!」

「ああ、ごめん、不安にさせたね。……でも、君がこんな風に不安になってくれるようで良かった」

「…………ぬ。……どうしてそう思ったのですか?」


夢オチでこの世界から放り出されないように、しっかりと手を繋いだネアに微笑みを深めると、ディノは困ったように微笑みを苦くする。


「今日のブランコの時、君はあのガーウィンの枢機卿ですら怯えきっていた遊具に乗ることを、少しも躊躇わなかっただろう?」

「ええと、ブランコに一人で乗ってしまったことが問題だったのですね?」

「君が正当な危機感を抱かないのは、まだどこかでこの世界から距離を置いているからだと思ったんだ」

「まぁ、…………」


ネアは驚いて、少しだけ言葉をなくしてしまった。

そういうことから懸念を示してしまうのかという驚きもあったが、何よりもあのブランコがそれだけの危険性を孕んでいたのだということが驚きだったのだ。


「………ディノ、上手く説明出来るかどうかわかりませんが、………魔術や人外者は架空のものとしてしか存在しなかった私の世界にも、魔法や妖精、魔物や竜といった特別な世界を表現するものはたくさんありました」

「うん。本や舞台など、幾つもの創作でその種の分野があったようだね」

「ええ。そしてその中で、今日私が楽しんだような、空から吊り下げられた不思議なブランコは、特に珍しくない素材なのです」

「…………そうなのかい?」

「はい。お伽話や、大人向けの娯楽作品でも、空から吊り下げられたブランコという表現は多かったんですよ。つまり、そういう作品が好きだった私からすれば、あのブランコはその手の作品によく出てきた馴染みの一品なのです」

「つまり、見慣れていたから危機感を抱かなかった?」

「仕組みはわかりませんが、ああしてぶら下がっている以上は、普通に遊んでも問題のない不思議道具だとしか思っていませんでした」

「……………成る程、そういうことだったのか」


(……ん?………リーベルさんは、乗りたかったのよね?だって、明らかに順番待ちの位置に立っていたし……)


ふと、嫌な予感がして首を傾げたネアに、小さな溜め息を吐いてディノは掴んだ手に力を込める。


「もしや、この世界へは仮住まい感覚でいるので、平気で危ないことをするのだと考えてしまったのですか?」

「そうだね。……まさか、本当にあのブランコを信頼していたのだとは思わなかった」

「…………そうなると気になってくるのですが、…………もしかしてあのブランコは、相当に危ないものだったのですか?」



ネアの脳内でのあのブランコは、遊園地での絶叫アトラクションである。

擬似的なスリルを楽しむものであるが、運用されている以上は、それが恐ろしいものだとは思わない。

飛行機は落ちないと信じるくらいの肌感であった。



「普通の人間であれば、半数以上は落ちて死んでしまうだろう。あの枢機卿だって、死に物狂いで複数の魔術を展開していたんだよ?」

「…………ちっともわかっていませんでした。念の為に伺いますが、リーベルさんは乗りたくて乗ったのですよね?」

「さて、どうだろうね」

「………ブランコに対する認識の差から、無理やり乗せた悪党みたいな感じになりました」

「あれはあれで、悪くなかったとは思うよ」

「………は!と言うことは、私はあのブランコ遊びで、ディノに多大な負担をかけていたんですね!」

「一緒にいれば、君を落とさないようにすることは出来る。君が一人で乗ったときも、落とすようなことはしなかっただろう?あれが気に入ったのなら、幾らでも一緒に乗ってあげるよ。……ただ、危険というものをどうやって理解しているのかが心配だったんだ」


せっかくの旅行だったのに、すっかり迷惑をかけてしまったと項垂れたネアに、ディノはふわりと微笑むと額に口付けを落とした。

情愛のそれとは違う、守護らしいその温もりにほっとして、心の強張りが解ける。


「…………色々なことがあったでしょう?この旅行ではね、ディノにものんびりして欲しかったんです。でも、なかなか思うようにゆきませんね。………心配をかけてしまって、ごめんなさい。今度から、あのブランコに乗りたくなったら必ず二人乗りにしますね」

「うん」


まずは一つ頷いてから、ディノは少しだけ擽ったそうに微笑みを緩めた。


「この旅行には、そういう意味もあったのかい?」

「環境が変わると、思わぬ本音が言えたり、心が洗われたりします。ここ最近で、ディノは色々と気持ちが揺れたでしょう?日常というものの形を整えてきた後だけに、この生活にがっかりしたりしていないか、そういうことをお喋り出来たらいいなと企んでいました」

「がっかりなんてしていないよ。だって、ここには君がいるからね」

「戻り時の妖精さんに狙わせられたり、今日のように嫌なことを言われても?」

「君は、人間が及ぼす害で、私が人間を厭わないか心配してくれたんだね?」

「嫌われては困るという自分勝手な思いと、同族があなたを傷付けることに対しての罪悪感が……」

「おや、困ったご主人様だね。君は、ただ私から離れないでいてくれれば、そんなことは考えなくていいんだよ」


柔らかな声に胸が軽くなった。

戻り時の事件以降、ディノからプールに行きたいと言われたことはない。

それが悲しかったので、あらためて話が出来て良かったと思う。


しゅわしゅわと銀色の尾を引いて星が落ちてゆく。

湖に落ちるとりぃんと音を立て、森に落ちるとぼっと火が上がって誰かの悲鳴が聞こえたりもした。

街に落ちないのは結界があるからだろうか。

やがて、何某かの定時になったらしく教会の鐘が鳴る音が聞こえてきた。

大聖堂の鐘突き台のあたりに灯りが見えるのは、そこで誰かが鐘を鳴らしているからだろう。



「………ネア、春告げの舞踏会で貰ったチケットは、自分で持っていたいのかい?」


ディノがそう尋ねたのは、ネアが穏やかな気持ちで紅茶を飲もうとしたときだった。

はっとしてそちらを向けば、静かな目をした美しい魔物がこちらを見ている。

流星群を見る為に明かりを消した暗い部屋の中でも、その鮮やかな色彩は夜の光を映して冴え冴えとしていた。

出会った時期がそう思わせるものか、ネアはこの魔物を見ていると、いつもあのイブメリアの夜を思い出すのだ。


「持っていたいです。この前のようなことが起こった時の為に」


あの戻り時事件の最後の夜、チューリップから収穫した失せもの探しの結晶を使って、手元に取り戻したチケットを、ネアはディノの手元に戻さずにいた。

それを記憶をなくしたディノから取り戻したことまでは伝えていたが、記憶が戻ったのでもう一度管理をお願いしようとは言い出さなかったのだ。

そしてディノも、なぜかそれを自分に任せるようにとは言わなかった。


「…………わかった」


穏やかな声だ。

静かでゆったりとしていて、でも不自然に整い過ぎている。

その声の温度は、リーベルに空っぽだと言われてしまったときに見せた滑らかさに似ていた。


「ディノ、」


おもむろに立ち上がったネアは、隣の椅子に座っていた魔物の手を一度どかすと、その膝の上にどすんと腰を下ろした。

勝手に椅子にしてから、その胸に寄り掛かってふうっと溜息を吐く。


「この前のように、ディノがディノを持っていってしまうのはとても怖かったです。なので私は、あのチケットを持っていたいのですが、そうすると今度はディノが不安になってしまいますよね。ですので、あのチケットの使用に関して、条件付けをしませんか?」

「条件付け、かい?」

「ええ。私があのチケットを無断で使うときは、ディノを取り戻したり、ディノを捕獲したり、何にせよ、ディノの為に使います。それ以外の独断使用に関しては、身近な人の命や存亡に関わるような緊急事態のみ。通常の場合は、必ずディノに相談してから用法を決めようと思います。そんな風に誓約などで約束をしておけば、もやもやしませんか?」


するりと回された腕に拘束されつつ、ネアは体を捻ってディノの表情を見上げようとした。

表情を見たかったのだが、ごすりと頭の上に顎を置かれてしまったので身動き出来なくなる。

ぴったりと寄り添う安心感はあったが、反応が見れないことが少し不安であった。



「……前述のものは、私が何かの干渉によって、君の側にいられなくなったり、君の手元から失われた時のみにしよう」

「むぅ。…………その場合、喧嘩で拗れたりしてむしゃくしゃしたディノが、私の側から失踪した時はどうしますか?」


ネアがそう言えば、少しだけ微笑みが深まる気配があった。

その嬉しそうな温度にぬくぬくと寄り添い、ネアも微笑みを深める。


「ではこうしよう。そのチケットは、君が私を取り戻すために使うこと。ただし、誰かの命に関わるような緊急事態も使って構わないよ。それ以外の時は、使い方を話し合おう」

「はい。それに元々、それ以外に使う理由が思い当たりませんしね。酷い大失態を犯して、その事実を世の中から消したいというような目にも遭いたくありませんし……」

「……………もし、誰かの命と私の不在が重なったら、君はどうするんだろうね」

「あら、契約の魔物さんは、そういう時は自分を優先するようにと言うものらしいですよ」


さらりとネアがそう言えば、ディノが小さく息を飲むのがわかった。

この魔物はすっかり懐柔されてしまっているので、ネアもうっかり忘れかけてしまうことも多いが、そもそもの契約の魔物というものは、自分の歌乞いに家族を持つことどころか、生来の家族との接触も好まない。

歌乞いがその職に就く場合、大抵親族と疎遠になってしまうのは、その身内を守る為だと聞く。

そんな魔物がする質問にしては、何やら可愛らしい範疇であった。


「君はそういうのは嫌なのかと思った」

「ふふ。私はたいそう身勝手なので、大事な魔物を失ってしまうのは、最上位に嫌なことです。けれども、場合によってはそれでも渋々に誰かの命を優先することもあるでしょう。だからせめて、ディノは私に自分を最優先にして欲しいと言ってくれていいんですよ」

「君は時々、思いもよらないところで柵を失くしてしまうんだね」


魔物は不思議そうに呟いたが、最近似たようなことをノアにも言われた気がする。

しかし所詮のところ、ネアが貰ったネアのチケットなので、どう使うかは自身の欲求を優先するというだけの身も蓋もない話なのだった。


大事なものには順位がある。

選べないということはあるかもしれないが、優劣がつかないことはない。

ネアは心の容量が狭い方なので、容赦なくそこに依怙贔屓が存在するだけの残念さの発露であった。


「ディノ、覚えておいて下さいね。私は自分が可愛い心の狭い人間なので、私がどうぞという時は、大抵それが私自身の望みでもあるのです」

「…………うん」


ほろりと幸せそうな吐息をこぼして、両手で抱え込まれた。

何やら不安を育てていると思ったのだが、やはりこうして旅行に来て良かった。

ちょっと困った事故もあったが、概ね解決がついたので良いスパイスだったと思うことにしよう。

思い出して心がくさくさしたら、豆の精を送りつければいいのだ。


その後ネアは、ディノに誓約の魔術を施行して貰って、春告げの舞踏会のチケットの使用に制限を添付した。

魔術的な誓いの儀式で、自分の名前から約束事を作るのは不思議な感覚だ。

ディノが問いかけた言葉に、ネアが自分の名乗りと質問の答えを戻し、ぱっと空中に水平の花火のような魔術が弾ける。

きらきらと大気に溶けてゆくその魔術の名残りに、ほわっと見惚れてしまったのは珍しい虹色の術式陣であったからだ。


(さて、これでメンテナンス出来たかしら)


拗らせるとネア自身も怖くなってしまうので、お互いに安心出来るのが一番だ。

これでもう大丈夫かなと相談室を閉めようとしたところで、ネアは思いがけない議題の追加を受けた。



「それと、ネアはあまり練習に積極的ではないね」

「ぐっ………………?!」

「今夜少しだけ試してみるかい?」

「え、ええと、…………旅先ですし」

「今夜は特別に、ご主人様が立ち去らないのだろう?」

「自損事故と言う言葉を、少し前の自分に捧げたい気持ちです…………」

「さて、では向こうの部屋に行こうか」

「お、お風呂に入ります!今日は星渡りを倒したので、長めのお風呂は必須なのです!」


(ど、道具とかどうするんだろう。………。まさか、いつも持ち歩いているんじゃ……)



ネアはとても背筋が寒くなったが、誤解も解けて上機嫌の魔物は頑固な目をしている。

脱走できやしまいかと暴れてみたものの、今夜の拘束椅子は頑丈なようだ。

ネアは、少しだけ予防接種に連れて行かれた銀狐の気持ちがわかった気がする。



「お、お風呂に入ってきます!」

「流星群はもういいのかい?そろそろ、捕食が始まるよ」

「ほ、捕食?」

「ほら、湖を見てごらん」

「む。………ほわ!!ほ、星が!!」


逃げようとしていたネアは、魔物の指し示した方を見て驚いた。

流星群を映していた湖がざばりと波打ち、ぱかっと大きく開いたと思うと、湖面に映っている星を食べてしまった。


流星群を飲み込んだ湖は淡くしゅわしゅわと光り、鮮やかな青さを増した。

空は静かになったようだ。

どうやらこれで湖面流星群のイベントは終わりになるらしい。


「………ディノ、あの素敵な湖は生きているのですか?」

「湖そのものが生きているというよりも、あの湖そのものが一つの場なんだよ。流星群の輝きや祝福を溜め込むから、このシュタルトの水は魔術が濃いのだろう」

「流星群以外のものは食べませんか?」

「流星群そのものではなく、湖面に映った流星群の輝き以外は取り込まないと思うよ」

「一安心しました……」



しかし、流星群が落ち着いてしまえば、部屋には不穏な沈黙が落ちる。

これはまずいぞと、ネアは魔物の腕から抜け出すと、言い訳しながら浴室にふらふらと逃げ込んだ。


(ど、どうしよう。まだ心の準備が……)


完全に動揺してしまい、ネアは浴室で三回も手の甲をぶつけた。

その上、焦っていたせいでうっかり大急ぎで入浴を済ませてしまい、赤くなった手でよろよろと出てきた。


魔物は大人しく葡萄酒を飲みながら待っていたようだが、ネアの脳内はもはやアルビクロムで見た舞台の回想でいっぱいだ。



「おや、早かったね」

「…………むぐ。ディノはゆっくりどうぞ!」

「おいで、髪の毛を乾かしてあげよう」

「い、生き急がないで下さい。せっかくの旅行なので、のんびりしましょう!」



なんとか言いくるめたディノを浴室に閉じ込め、ネアは暗い部屋で頭を抱えた。


(こ、こんな素敵なお部屋で、変態への入門など済ませたくない!!!)


先程まで揺蕩っていた感傷や心の震えなど、一瞬で飛んでいってしまったではないか。

ちらりと視線を戻したネアは、今は穏やかな夜が広がるばかりのシュタルトの街を恨んだ。

もっと一晩中繰り広げられるような、一大スペクタクルでも行われていてくれれば、それに集中出来たろうに。


(あ、明日の朝の私はどうなってしまってるのだろう…………)





そう考えて真っ青になっていたネアであったが、翌日の目覚めはとても爽やかだった。

高台にあるホテルの周りには朝靄が立ち込め、鳥の鳴き声が心にも麗しい。



「ふふ、ディノは思っていたより普通ですね!何だか想像していたような玄人な感じではなくて、少し安心してしまいました」



翌朝、想像していたような新しい世界への扉も開かず、婚約者らしく少しべたべたされただけで済んだネアは、朗らかにそう言った。

何とも素敵に爽やかな朝だ。



「…………ご主人様」


しかし、魔物はなぜかとても落ち込んでしまい、あろうことか微かに涙目ですらある。

これはまさか、一般人には想像しえない葛藤などがあり、専門的な試みを切り出す勇気が持てず落ち込んでいるのかと、ネアは眉を顰めた。

そうであれば、こうして安直に安心してしまったネアの対応は、とても残酷なのかもしれない。


「ディノ、しょんぼりですか?………もしかして、もっと特別なところを出したかったのでしょうか」

「……………普通」

「あらあら、どうして俯いてしまったのでしょう。私は、素朴な感じでほっこりしましたよ?でも、次はもっと専門的になるのなら、頑張ってお付き合いしますね」

「…………普通で素朴」


なぜか魔物が両手で顔を覆ってしまったので少し焦っていると、ふと、同じテラス席の一画から強い視線を感じた。


このホテルの朝食は、素晴らしい朝の景色を眺めながらいただく、高山野菜のサラダと、とろとろチーズのブリオッシュグラタンが有名だ。

あの素敵な湖水葡萄酒のメゾンのジュースもいただける。


そんな朝靄も清々しい朝のテラス席で、一人で滞在しているらしい、鳶色の髪に鮮やかな赤紫の瞳をした青年がこちらを見ていた。



(………もしかして目立ってる?!)


擬態をしていても、ディノは目を惹く美貌の持ち主だ。

そんなディノが顔を覆ってしまっているので、ネアが虐めているようで気になるのかもしれない。


目が合ってしまった青年が溜め息を吐き、席を立ちこちらに来たので、ネアは同伴者を虐めてはならないと叱られるとばかり思っていたのだが。



「…………お前、今度は何をしたんだ」

「…………む。その口調。さては、暫定私の使い魔さんでは」

「…………まさか、こいつをまた泣かせたんじゃないだろうな」



旅先では、思いがけない出会いが続くらしい。




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