船先の妖精と見知らぬ枢機卿
ネア達が借りる屋敷船は、四方に素晴らしい彫刻の円柱とシンプルな屋根があり、壁にあたる部分にはふわりとした透ける白いカーテンを下ろしたものにした。
風が気持ちのいい日だったので、あえてしっかりとした造りのものではなくして、風が抜ける屋敷船にしたのだ。
因みに屋敷船という名称は、お屋敷付きの専用船という名前からきているのだそうだ。
森沿いの湖畔には鮮やかな春の花が咲き乱れている。
湖面は穏やかで、エメラルドグリーンと濃紺を混ぜたようなえもいわれぬ色合いをしていた。
透明度が高く湖底まで見通せるが、湖の底にも森があるので不思議な光景である。
湖の中の森を、見たこともないような生き物達が泳いでいた。
「ほわ!ディノ、湖の底にもお城があります」
「湖蝶の城だね。水の妖精だよ」
「妖精さんなのですね。む、洗濯物が干してあります……」
クッションを抱えて寝そべりながら、ネアはその不思議な世界に見入る。
森があるのなら、この湖の底にも竜が住んでいるのは不思議ではないと思えた。
何しろ街のようにもなっているのだ。
ディノはそんなネアの隣に座って、時々叱られながらもご主人様にあれこれちょっかいをかけている。
特に背面が見えている今は、ネアの髪の毛の中に自分のものであった一筋が見えるのがお気に入りらしく、嬉しそうにしていた。
「…………わ」
「おや、波が来たね」
「…………竜さんが荒れてますね」
「これは少し厄介だから、注意してこよう。ネア、この柱の間を不可侵領域にしておくから、決して出てはいけないよ」
「船全体ではないのですね?」
「全体を覆うと、少し不安定になるからね」
「わかりました。この四角から出ません。ごろごろしてます」
ざぶりと大きな波が来て二人で振り返れば、すぐ近くの湖面に降り立った湖竜が、何やらご機嫌斜めに水面を叩いて荒れていた。
地団駄を踏むような様子なので、面白くないことがあったのだろう。
しかし巨体でそれをやられると、近くの船は大迷惑である。
のんびりと楽しくやっていたディノが、やれやれと叱りに行くのも仕方のない状況だ。
ふわりとカーテンが揺れる。
まるで聖書の一場面のように、まるでお伽話の挿絵のように、ひたひたと水面を歩いてそちらに行ったディノが、荒れていた湖竜を窘めているのがわかった。
そんな姿にも成長を見て、ネアは少し微笑みを深める。
銀狐も時々あれをやるので、駄々をこねる生き物を叱るのが上手くなった。
しかし、あまりそちらを見ているとまた拗ねるので、竜の方は見ないようにと視線を床に戻した。
(この湖水硝子は、すごく頑丈なのだろうか)
この屋敷船の特徴でもある湖水硝子の船底は、手のひらで触ればひんやりとしたタイルのようだ。
船底に使うくらいなのだから丈夫でなければ大問題だろうが、あまりにも水との距離が近いので少し心配になる。
ディノが隣にいないと、魔術可動域六では事故対応が出来ない。
またカーテンが風に揺れた。
「……………ん?」
船の先端に腰掛けているのは、誰だろう。
ゆらゆらとスローモーションのように赤い色が揺れて、カーテン越しにその見事な羽が透けて見える。
風に揺れるカーテンとカーテンの隙間からは、更に鮮明なその色彩が見えた。
それはまるで幻のように、こちらに背中を向けて足を湖に落として、船先に腰掛けているだけ。
「この街にいると聞いたのに」
ふっと、低い囁きが揺れる。
「もう、彼女の名前も思い出せないんだ」
カーテンが風にはためき、ネアはそろりと体を起こした。
この誰かから目を離すのは怖いけれど、どうにかしてディノを呼び戻さなければ。
「ネア?」
「ふぎゃっ!」
当然背後から声をかけられて、ネアは飛び上がってしまった。
船がぎしりと揺れ、止まりそうになった心臓を胸の上から押さえたネアと、ご主人様の驚きように目を瞠ったディノが向かい合う。
「ごめんね、いきなり声をかけたから驚いてしまったかな」
「………ふ、船の先端に知らない人が!…………む、いません…………」
「誰かが来たのかい?」
「妖精さんがいました。…………多分、いたような気がするのですが」
「妖精?」
そこでネアは、つい今しがた見たものを説明した。
気付かれないようにディノを呼ぼうとしていたので、いきなり声をかけられて驚いたということも説明すれば、よしよしと頭を撫でてくれる。
「それは、残留思念だろう」
「残留思念…………」
「この船には守りの符があるし、私の結界にも何も異変はなかった。触れていなくても近付けばわかるものなんだ。だからそれは多分、この船や、この湖に残された誰かの強い思念の残像のようなものだよ」
「残像なのですね………」
「何かの動きが不自然だったり、色彩が曖昧に見えたりはしなかったかい?」
「………そう言えば、風に揺れるカーテンの動きがやけにゆっくりだったと言うか、不思議な感じがしました」
「では間違いないだろう。………おや、怖かったのかい?」
「………あやつは、幽霊だったのですか?」
ギョームの魔物にも耐えられないくらいホラー展開には耐えられないネアは、隣に座ったディノにぴたりと寄り添うと、怖々と尋ねてみた。
魔物はゆったりと微笑んでから、ネアの頭を撫でてくれる。
「亡霊のように悪さは出来ないから安心していい。土地や物に残された記憶を見たんだ。妖精なら、まだ生きてるんじゃないかな?例えば、ほんの昨日のことかもしれないしね」
「………赤い羽の妖精さんでした。何だか悲しげで、誰かを探していたのです」
「赤い羽なら、ネアは出会わないようにしてなくてはだね」
「む!浮気はしませんよ」
「赤い羽の妖精の場合、こちらの意思を封じて取り込む魅了が出来ることもあるから」
「…………気を付けますね」
耳の奥で悲しげな囁きが蘇る。
大切な人の名前を忘れてしまったら、それはとても悲しいだろう。
そう考えたところで、ふとそんな記憶に引っかかる情報が思い出されて眉を顰めた。
「まだ怖いのかい?大丈夫だよ」
「…………いえ、ふと、ロクマリアの宮廷妖精さんのことを思い出したのです」
「ああ、そう言えば途中からこの国を出てしまったとかで、泳がせるようにという指示に変わってしまっていた妖精がいたね」
ロクマリアのあわいの妖精については、ノアが第四王子派の情報をあれこれ持っていたこともあり、カルウィに出たという情報を最後に、そのまま泳がせるという扱いになっていた。
ある程度顔見知りに暗躍して貰った方が、追尾が楽だという事情があるのだ。
ただし、向こうも忙しくなってしまったのか、アルテアを追い回すのもやめたらしく、最近はめっきり話を聞かずにいたのだが。
(確か、ジルフという名前だったかな)
ぞわりと心が揺らめくのは、いつかの彼の空間の切れ端の中で見た、彼を精一杯慕う少女との記憶の残滓があまりにも不憫だったからだ。
叶わないまま忘れられてしまったあの小さな思いは、拙い刺繍のハンカチは、どうなってしまったのだろうという胸の痛みを覚えてる。
だから、たったそれだけの一方的なことで、あの妖精はネアにとってあまり好ましくない妖精なのだった。
「それならあり得るかもしれないね。残像は、己に由縁のあるものが近くにあると、見えたりするんだよ」
「でも、私の考え過ぎかもしれません。羽が赤かったことと、呟いた言葉がその記憶に該当してしまっただけですから」
「そうかも知れないけれど、シュタルトはアルテアも懇意にしている土地だ。同じ第四王子派にいたノアベルトのこともあるし、念の為に注意はしておこう」
「ヴェンツェル様の意向もありますし、見付けても捕獲は出来ないのですよね」
「君に悪さをしなければ、そのまま放っておくけどね」
二人が船遊びを終えて船着き場に帰って来ると、船を貸している業者の女性がディノにお礼を言ってくれた。
どうやら、先程の湖竜を窘めた件であるようだ。
先程の竜は仲良しの船頭に遊んで貰おうとしたところ、本日は休暇で不在にしていると言われて、不貞腐れて暴れていたらしい。
竜の方からすれば、お前がいないから大変だったんだぞと、その船頭が責められるのを見越しての騒ぎだったそうだが、ディノに叱られて大人しくなった。
今は、この女性のご主人が、冷たいシャーベットを食べに街に連れ出しているそうだ。
「いい子なんだけれどね、みんなで可愛がり過ぎたせか、少し甘えん坊で」
「まだ幼い竜さんなのですか?」
「ビエンは千歳にはなるかしらねぇ。大きな甘えん坊よ」
女主人はそうからりと笑っていたが、ネアは少しだけその歳であの振る舞いはどうなのだろうと考えかけ、隣の魔物を見上げてその思考に蓋をした。
さして変わらないか、もっと悪いかもしれない生き物が隣にいたのだ。
「ディノ、他の船の方達も波がおさまって安心したそうですから、良いことをしましたね」
「体当たりでもするかい?」
「…………ホテルに帰ってからにしましょうね。それと、向こうに白っぽい方がいますね」
「……………鍵盤の魔物だね」
「あら、お知り合いですか?」
「ネア、少し擬態を変えるけれど、気にしないでいいからね」
「ディノ?」
ネアが偶然見かけてしまった爆発した風の髪型の白髪の中年男性は、鍵盤の魔物という本来は茶色い髪をしている魔物なのだそうだ。
虚栄心が強く、他の魔物の音を紡いだ魔術で自分の髪を白く染めては、偶然行き会った白持ちの魔物にすり寄ってくるような面倒臭い魔物なのだとか。
ディノは露骨に嫌そうな顔をして、今迄の擬態では変えなかった長い髪を、さっと肩口までの長さに変えてしまった。
「…………何だか新鮮ですね」
「あれこれやったけれど、最近はあまり変えてなかったからね」
「まぁ、他にも種類があるのですね」
「ネアが気に入らないと困るから、あまり変えたくないんだ」
「さては、容姿しか好きじゃないと思っていた頃の弊害がまだ残っていますね」
「君にだって、嫌いな容姿もあるだろう?」
「ふふ。一時的なものですから気にしません。余程嫌いなものでもない限りは大丈夫ですよ」
「嫌いなもの?」
「虫系統は断固拒否します!」
「虫…………」
なぜか魔物が落ち込んでしまったので、ネアはなくなってしまった三つ編みの代わりに、その腕を引っ張って街歩きを続行した。
幸いにも、鍵盤の魔物は擬態を変えたディノには気付かず、誰かとお喋りをしながらお店に入っていってくれた。
陽光は午後の穏やかさを増し、遠くの山々はその太陽の角度に深い影を落とす。
シュタルトの街中には、大きな噴水が一定間隔にあり、その足付きの浅いお椀型の噴水には、中央に小さな塔のようなものがそびえている。
オベリスクのような形や、ただの長方形のものなど形は様々で、聖人の名前や功績、或いは妖精や魔物達の逸話が繊細な文字で彫り込まれた記念塔のようなものだ。
その噴水の塔は先端部分に大きな花篭を乗せてあり、溢れんばかりに春の花が活けられている。
次はこんな記念碑、次はこんな出来事の記念塔と、その噴水を辿るのもなかなかに面白い。
加えてシュタルトの屋敷は、富と知識を証明するためのものとして、精緻な彫刻が美しい出窓を持つ家々が多い。
これは五百年程前に流行った建築様式であるが、窓の彫刻からその一族がどんなものを生業にしていたのかがわかったりもする。
(……………あ、)
とある広場の道を曲がったところで、ネアはぎょっとしてディノの腕を引いた。
同時に気付いたものか、ディノも素早くネアを引き寄せて自分の腕の中におさめる。
ネアが大人しく魔物を羽織ったのは、数軒先の藍色の壁の瀟洒な建物の入り口のところに、艶やかな赤い羽を持つ妖精の姿があったからだ。
その妖精は長い黒髪の男性と話をしていたようだが、何か行き違いがあったものか制止の手を振りきって姿を消してしまうところだった。
捕獲した方がいいのだろうかと思いながらも、姿を消してくれて少しほっとする。
「ディノ、今の方は………」
「ロクマリアの妖精だね」
「念の為に、エーダリア様に連絡しておきますね」
「………その必要はないかもしれないよ」
静かなディノの声に顔を上げれば、先程までロクマリアの妖精と話していた男性がこちらを見ていた。
ぎくりとして体を強張らせてしまったが、ディノはどこか思案深げに首を傾げている。
「彼は、ガーウィンの枢機卿だよ。ダリルの弟子の一人だった筈だ」
「………と言うことは、警戒しなくても良いのでしょうか?」
「さて、難しいところだね。いいかい?あれは言葉の魔術も持っているから、君は話さないようにしておいで」
男性の方も、こちらに気付いて少し考え込んでいる様子があった。
しかし、ディノが目も合わせずに通り抜けてゆこうとしている気配を察したのか、ゆるやかな足取りでこちらに向かってくると、ネア達の正面で立ち止まり、フードからこぼれた長い髪を揺らして優雅に一礼する。
(これは、威圧感というのかしら……)
わざわざ御足労いただいた上に向こうから頭を下げているのだが、なぜだかその仕草には卑屈さのようなものが感じられない。
正面に馳せ参じたというよりは、正面を塞がれたというような感じが強かった。
その様子はディノにも伝わったのだろう。
背中を預けたその魔物の気配が、少しばかり酷薄になる。
「ご無沙汰しております」
「おや、君には初めて会う筈だ」
「そうでしょうか」
「知ってはいるけれどね」
口調の冷ややかさであからさまに邪険にしてしまったので、ネアは眉を顰めて渋い顔になる。
口を挟んで中和したいのだが、喋らないようにと言われているので黙るしかない。
べしりと魔物の腕を叩いて叱っていると、枢機卿だという男は薄く微笑んだ。
「お初にお目にかかります、ネア様。このようなところで、ウィームの歌乞い殿とお会いするとは思いませんでした」
ディノを一度見上げてからその男性に視線を戻し、ネアは唇に指を当てて見せてから、ぺこりと頭を下げた。
魔物が羽織もののようになっているままなので、初対面の人への礼儀としては最悪の状態だ。
「おや、お連れの方はやはり、俺の魔術をよくご存知のようだ。手堅くはありますが、先手を打ってあなたの口を封じてしまうとは、いささか狭量ですね」
「………やっぱり、喋れないと不便ですし、失礼で………むが!」
会話の流れがおかしくなるので、ネアはそうディノに訴えたのだが、すかさず手で口を塞がれてしまう。
「駄目だよ、ご主人様」
「むが!」
「うん。怒ってもいいけれど、それは後でね。この人間は、随分と血の匂いが濃いから」
そう言った魔物に、目の前の枢機卿は目を細めて穏やかに微笑む。
「そうでしょうか。最近は、あまりその種の仕事はしないのですよ。皆さんよく改心して下さいますからね」
「怨嗟や災いは魂に沁み込むものだ。体を洗って拭えるものではない。挨拶だけならもういいだろう。我々は君には用がない」
「へぇ、随分と他人行儀なことをおっしゃるのですね。あなたは、俺をよくご存知でしょうに。それと、そうして彼女の口を塞いで、何から切り離そうとされているのでしょうか。ネア様には自分の目があり、自分の耳と思考があります。俺がどういうものなのかは、ご自身で判断されるでしょう」
(…………すごい、この人はディノを恐れないんだわ)
それは、ネアにとって初めて出会う種の人間であった。
エーダリアやヴェンツェルもディノを恐れずに向かい合う人間だが、彼等とて、あえて万象の魔物を挑発するようなことはしない。
巻き癖の強い黒髪を長く伸ばし、修道士のローブのようなものを着ている。
黒い滑らかなウールの服には精緻な金糸の刺繍があり、高位の聖職者らしい威厳と、世捨て人めいた静謐さを纏う人だ。
しかし、鮮やかな木苺色の瞳は欠片も静謐ではない。
人間らしい領域の美貌ではあるが、その眼差しの強さからどこか異様な暗さを覚えた。
決して、部屋の中で二人きりになりたくない相手である。
「ネア様、俺が怖いですか?」
それなのに、ネアに問いかけた時には、目を細めて微笑む姿には一片の暗さもなかった。
どこか飄々とした無害そうな穏やかな微笑みに、寧ろこの変わり身の早さに慄いてしまう。
もう一度ディノを見上げて、その手が口元から外されないままなので仕方なく首を傾げてみせた。
失礼にならないように手のひらで彼を指示し、あなたを知らないからと首を振って見せる。
とは言え、目が胡散臭いものをみる目になるのは隠せない。
「うん。本心を出しつつ場を取り繕える程度には、聡明な方ですね。ところでその魔物は、あなたのお気に入りですか?」
(この人は、何を知りたいのだろう?)
或いは、何を伝えたいのだろう?
不審な動きをしていたというのならば、あの宮廷妖精と接触していた彼の方が怪しい。
それなのに、挨拶もそこそこに密やかな毒のようなものをあてられて、ネアはぎりぎりと眉間の皺を深くした。
ひとまずディノは、お気に入りどころか契約の魔物で婚約者なので、力強く頷いておく。
するとなぜか、その男はどこか軽蔑するような冷ややかな失望の目を向けた。
小さく溜め息を吐いたのはディノだろうか。
「おかしな質問だね。君には関係のないことだろう?」
「関係があるかもしれませんよ。少なくとも、俺自身にとっては。人間というものは、相手の都合を考えずに己の疑問を解消したい生き物ですからね」
「君ならば充分に知っているかもしれないが、私達はね、興味を持つということだけで君達を取り払うことも出来るのだけれど」
「でしょうね。あなたは、根源の王だ。だからこそ拙く、だからこそ厭わしい」
低く張りのある声でゆったりと喋る様は、確かに聖職者だという気がした。
しかしその穏やかさを差し引いても尚、ネアからしてみれば休暇中に因縁をつけられた構図である。
その辺に豆の精でもいてくれれば、ひと掴み投げつけたい気分だ。
「嫌いではないということと、愛おしいことは違います。愛おしいということと、焦がれることも違うでしょう。あなたのそれは、ただの慈愛であり、愛着だ。良く似たものに見えても、決して男女の恋情ではない。高貴なものを得られるあなたが、そんな曖昧なもので遊んで、本当に得るべき愛を見過ごさないようにして下さい」
そして彼は、唐突にそんな言葉を口にした。
口調からすればネアに語られたようであるが、その視線はなぜかディノのことを真っ直ぐに見つめている。
「それは、見た目ほどの価値のない空っぽなものですよ」
ざわりと、風が揺れる。
先程までは心地よかった風が、夕方が近付いてきて冷たく感じるようになってきた。
目を瞠ったネアと、ぐっと精神圧を鋭くしたディノに微笑んでまた優雅に一礼すると、枢機卿は身勝手に背中を向けてその場を離れてゆく。
「…………ディノ!」
やっと口元を覆っていた手が緩んだので、両手でひっぺがして声を上げた時にはもう、その男の姿はどこにもなかった。
「…………ごめん、嫌な思いをさせたね。一応はダリルの手の内の者だからと、そのまま話させてしまった。…………どうでもいいことばかりだったね」
そう答える声は低く固い。
訳も分からずにはっとして、ネアは魔物の腕の中で体を捩って、どこか不自然な微笑を浮かべたディノを見上げる。
「あの方と、お知り合いなのですか?」
「個人的に関わった記憶はないかな。ただ、私が手をつけた事柄に関わる者であった場合はわからない。…………あの男と個人的に関わったとしたら、ノアベルトやレイラだろう。双方の気配があるからね。それと、彼が気付いている程のものかはわからないが、アルテアとも接点がある」
「でも、その線からの言葉という感じもしませんね」
「うん。あの妖精とも顔見知りのようだし、それを私達に見咎められるという不安も見せない。…………よくわからないな」
(…………もし、)
もし、あの時に口ではなく耳を塞いで貰えていたのなら。
そうすれば、こんな濁った疑問に足をとられることはなかったのだろうか。
勝手にやって来て、勝手に掻き回すような言葉を残していったガーウィンの枢機卿を、ネアは恨めしく思う。
ディノが言うように彼が言葉に特殊な魔術を持つのであれば、それは対話だけでなく一方的に聞かせることでも成立するのではないだろうか。
(あの言葉は、私に向かって言われたのかな)
表情を変えて蔑むように一瞥されたときは、何とも言えない鋭さに勝手に切りつけられたような気がした。
だからネアは、彼が自分のことを軽蔑した一瞬がよくわかったのだ。
ディノのことをあまり快く思わないながらにも、彼が高貴なものであるという認識はしていたようだ。
であるのならばあの言葉は、愚かにもそんな魔物を握りしめて離さないネアへの侮蔑と、しょうもない人間にうつつを抜かしている高位の魔物への忠告、………なのだろうか。
それは愛などではなく愛着程度のものなのだと、歯に衣着せぬ物言いで。
(ディノもその言葉を止めなかった。彼を追い払ったり、いつものように怒ったりもせず、ただ、立ち去るに任せたんだ)
ディノは彼の発言に不愉快そうにしながらも、どこか心ここに在らずというか、不自然に整った目の色をしていた。
その排他的な滑らかさに、ふと背筋が寒くなる。
魔物はとても気紛れな生き物だ。
それまでが無邪気にはしゃいでいたと思えば、たわいもないことですっかり冷めてしまう。
そんな言動を見聞きしてきたし、そういう姿を見たこともある。
だからもし、それがあまりにも唐突に今だとしたら。
(……だからもし、その言葉がうっかり、ディノの心を動かしてしまったら?)
ネアはこの世界で、特別な野望や願望を持たない人間だ。
世界や国の為に戦ったりはしないし、特別な才能どころか魔術可動域は蟻並みである。
優れた心や知識もなく、強欲で狡猾でもある。
こんなに特別な魔物を手に入れても、ネアがしたいことと言えば、せいぜい美味しいものを食べたり、祝祭を見にいったりする程度のつまらないものばかり。
(エーダリア様に言われたことがある。いつか私は、私が唯一持つ特異さでもある、迷い子としての価値観を失ってゆくだろうと)
この世界で居場所を見付け、馴染めば馴染むほどに、ネアの存在も思考も、凡庸で無力になってゆく。
珍しくて手に入らないものではなく、その辺にいつもある月並みなものになるのだろう。
(特別さの研鑽を望まないということこそが、いつか私からたった一つの特別さを奪うのだと)
それはきっと、月のように、空っぽから始まってまた欠け落ちてゆく空っぽへの道のりなのかもしれない。
(だからあの人は、私を剥き出しにする、一番容赦のない言葉を選んだ)
残忍さでも悪名高い枢機卿は、斬りつける言葉の刃を秀逸に選び抜いたらしい。
かつて浴びせられた黄菊の魔物の言葉も鋭く心を抉ったが、あの時はまだ、これが一番欲しいと心を決める前だったから。
失いたくないものが出来て、ネアは随分と打たれ弱くなった。
空っぽの心に中身が詰まってきて、体が重くなった。
(それに、自分の欲求は変えられないんだ)
大切なものが何もなく、みんなが何かを持っているのを見ながら息を潜めて生きるのはとても惨めだった。
だからこそ、この新しい世界を与えられたネアが欲しいと思うのは、あの時みんなが持っていた当たり前のものばかりなのだ。
(こんなに庶民的な嗜好なのに接点がある場所が高級過ぎて、ああいう飛び抜けた人達からすれば、私の欲や言動は、なんてつまらない人間に見えることだろうか)
そして困ったことに、ネアの大事なこの魔物も、その特等階級の生き物なのだ。
あんな事を言われて、この魔物が目の前のネアがつまらない人間だと気付いてしまったらどうしてくれるのだろう。
そう考えると惨めな気持ちになった。
悲しくなって手を引っ込めようとしかけた時、指に嵌められた乳白色の指輪が目に留まった。
淡くきらきらと輝き、今のこの角度では水色と菫色の煌めきが見える。
「……………ネア?」
不意にぎゅうっと抱き締められ、魔物は困惑したように声を上げた。
一度ぼふんとその胸に顔を埋めてから、じっと見上げると目元を染めておろおろしている。
「空っぽと言われたことを認めると心がずたずたになるので、非常に偏っていると言い直しますが、………私は確かにそんな感じです。優秀で身のある方からすれば、何とも薄っぺらな人間でしょう。でも、」
「………ネア、もしかして先程の言葉を、自分に言われたと思ったのかい?」
「……………違うのですか?」
びっくりして目を丸くすると、見上げた先で魔物がどこか寂しそうに淡く微笑んだ。
見慣れない短い髪の毛に、いつもの三つ編みを引っ張りたいという奇妙な欲が芽生える。
「彼はね、私のことを言ったんだよ」
「………え?」
「あれは、私を指して言われた言葉だ」
どこかで、遠い鐘の音が聞こえる。
穏やかな鐘の音が、午後の光の翳りに時刻をつけた。
「…………では、あの方は私に、その愛情は勘違いで、私が大事にしているものは価値のないものだと言ったのですか?」
「…………そうだね」
淡く淡く微笑んだ魔物は、ひどく億劫そうに目を伏せて小さな溜息を吐いた。
その仕草に滲んだ痛みに、ネアは先程のディノの様子がおかしかったのは、酷く怯えていたからだと気付いた。
「……………そうでしたか」
がきっと音がして、魔物が目を丸くした。
ネアが石畳をがすがすと踏みならしている音だと気付き、慌てて少しだけご主人様を持ち上げて浮かせてみる。
「大きなお世話です!あのくしゃくしゃ頭めに今度会ったら、豆の精を袋いっぱい投げつけてやります!」
「…………ネア?」
綺麗な水紺の瞳を瞠って、魔物が頼りなげな顔をする。
この魔物は困った魔物ではあるが、愛情や安堵という面ではひどく無防備で繊細でもある。
それを、ディノのことを大事に思う者の目の前で貶めたのだ。
陰険に根に持ち続けて、絶対に仕返ししてやろうとネアは心をどろどろにする。
面白みのない薄っぺらな人間の心がどれだけ狭いのか、身をもって思い知らせてやろうではないか。
「愛着程度の感情で前に進める程、ディノは受け入れやすい気質の魔物ではありません!それでも、こんなに困った魔物なのに、どうしても手放せなくなってしまった特別に大事な魔物なのです!」
「ご主人様…………」
ネアの本音を聞いてなぜか魔物はしゅんとしてしまったが、最後に持ち上げて貰ったのでほっとしたようにご主人様を抱き締めた。
「わざわざ初めましてな相手に旅先で意地悪をするなんて、何という嫌な奴でしょう!自分の悪口を言われたのかと気を揉んだ分の心労も合わせて、必ず償わせてやります………」
「ごめんね、ネア。君が動揺しているのはわかっていたけれど、自分のことだと思っているとは考えなかった。気付かない間、不安にさせてしまったね」
「むぐぅ。あんな風に言われたディノが、もし感化されてしまって私をぽいっとやったら、このシュタルトの街ごと八つ当たりで滅ぼす算段でした」
あまりにも残虐なネアに怯えたのか、ディノは慌てて頭を撫でてくれるけれど、そこにはまだ切実な安堵が見えた。
ただでさえ、色々あってナーバスめなところでの慰労旅行なのだ。
最悪の嫌がらせではないか。
ふすんと鼻を鳴らして怒りやもやもやを鎮めながら、ネアは大事な魔物の腕を三つ編みの代わりに引っ張ってみる。
しっかりケアしてあげる為には、多少の気恥ずかしさは我慢しよう。
そして狡い人間は、慰める体でついでに甘えるのだ。
「…………ディノ、私は、あんまりお得な感じでも、特別な感じでもありませんし、世界や国を守るような素敵に大がかりな理想もありません。こんな残念な感じなので、実はさっき、あの方の言葉でディノがこちらから手を引こうと考えてしまったらと少し怖かったです」
そう言われて、ディノが小さくほろりと嬉しそうに微笑むのがわかった。
「私も、あの言葉でもし君がこれからのことを考え直してしまったら、どうやって逃げられなくすればいいのか考えていたよ」
「………婚約者に恥を忍んで本音を伝えたら、とても猟奇的な告白が返ってきました」
「…………でも、閉じ込めたりして君に嫌われたら嫌だなと思ったら、どうすればいいのかわからなかった」
そう呟いたディノは、ままならない感情に不服そうで悲しげだった。
とても素敵な感性なので、ネアはたくさん撫でて褒め殺しておくことにする。
「そんな風に思ってくれる優しい魔物が大好きなので、そんなディノからは絶対に逃げたりしませんよ」
「ご主人様!」
「…………でも、あの方の言葉はあまりにも唐突で少し妙でしたよね?ディノが覚えてないだけでよほど酷いことをしたのか、むしゃくしゃして誰彼かまわずに当り散らしたかったのか、………もしかしたら、先程の妖精さんと会っていたことを忘れさせたかったのでしょうか?」
「そう言えば、ロクマリアの妖精と揉めていたようだったね」
話し合ってお互い自分自身の不安が解決したので、ネア達はようやくその問題に着手する。
顔を見合わせて少し考えた後、二人は、あったことをそのままダリルに告げ口しておくことにした。
「ふむ、これでこの問題からは手を引きましょう。我々は、楽しい休暇中でした!」
そう宣言したネアに、魔物もきりりと頷く。
憂いが晴れたところで、夕方からの絶叫ブランコのアクティビティが控えていることを思い出したのだ。