127. 領土争いのせいだと思います(本編)
「ネアの右側と、真ん中は駄目だからね」
そう指摘されてけばけばになっているのは、火の慰霊祭が怖い塩の魔物だ。
こんな風に震えているのは、てっきり一番安全なネアとディノ間で眠れると思っていたのに、狭量な契約の魔物が真ん中だけは許せないと荒ぶっているからである。
「ディノ、こんな日なのですし、真ん中に入れてあげても良いのではないでしょうか?」
「ネアの右側に寝てもいいのは、私だけだよ」
「なぜに右指定なのでしょう?」
「君はあまり動かないけれど、転がってくるときは右だからね」
「………むぅ。それはまさか、狐さんを下敷きにしないようにという配慮ですか?」
「ぶつかるのは、私だけでいいだろう?」
「…………怖い」
その趣味のせいだったとわかり、ネアは遠い目になった。
無意識下の寝返り的打撃くらい、どうか容赦してくれまいか。
「では、狐さんは左側に寝ましょうか?………むぅ、こちらも頑固ですね」
ネアの無事も確認したいが、ディノにも守って欲しい銀狐はふるふると首を振る。
思えばこの魔物は、大浴場でのお作法といい、かなり頑固なところもあるのだ。
「では、ディノを本日は左側に配置して、狐さんを真ん中にしましょうか。そうすれば、右側に触れないので荒ぶることもありませんよね?」
「…………右側がいい」
「あら、ディノも頑固ですねぇ。私が風邪を引いたときには、左側に寝てくれたのに駄目なのですか?」
「でも今夜は、くしゃみをしたりもしてないだろう?」
「…………領土調整に飽きてきました。もうご主人様は眠たいのです」
「ネアが虐待する」
「なぜなのだ………」
同じ寝台で寝るのは確定しているので、後はもうどうでもいいやの心持ちなネアは、さっさと自分だけ個別包装に入ることにした。
ネアが寝てしまえば、魔物達も大人しく寝るだろう。
しかし、個別包装の準備をしているネアを、魔物がしつこく引き留める。
「ネア、今日はこちらにおいで。私が君を抱き上げて眠れば、ノアベルトもどちらにも接していられるだろう?」
「魔物を下敷きにして眠れません。ごつごつした魔物ではなく、ふかふかのマットレスが私の敷物なのです」
「困ったな、君は時々頑なになるね」
「なぜなのだ!」
「そうなると、やはりノアベルトには左側に行って貰うしかないな」
「と言うか、体のどちらかが無防備になるのが嫌なのでは?真ん中だと、左右どちらも守られている気がしますしね」
「その場合、今度は君の左側が無防備になるね」
ディノがそんなことを言った途端、銀狐は尻尾を立ててけばけばになった。
ネアの左側を何度も見て、そちら側が無防備になることを確かめている。
やがて、ぽてぽてとネアの膝の上をわざと強めに踏みつけて横断してゆき、死地に向かう男の目でこくりと頷いた。
「まぁ、私の左側を守ってくれるのですか?なんて頼もしいんでしょう!」
「………初めからそうすれば良かったのに」
「左右に拘り過ぎのディノにも、文句を言う資格はありませんからね」
「それなら、こうしよう」
「むぎゃ!なぜに私の腹部を圧迫するのだ!」
「こうしておけば、ノアベルトは私にも近いし、ネアは個別包装で大の字のままだろう?」
ネアの方に体を向けて横になったディノは、その片手をネアの腰の上に乗せた。
確かにそうすれば、ディノの片手が銀狐の側に出る。
銀狐は尻尾を振って歓迎しているが、ネアはがっちり拘束された気持ちでいっぱいだ。
「…………むぐぅ。私も一つくらいは妥協しないとならない雰囲気ですので、片手乗せは許可しますが、その代わり寝返りを打つときには双方潰されないように防衛して下さいね」
「いつもこうすれば、安全なんじゃないかな?」
「そもそも、お部屋の寝台は危険地帯ではありません!」
照明を消しても、ウィームの夜は明るい。
淡く色づく森の灯す夜の光に、穏やかな霧雨と霧の纏う青白い光。
その夜の光に照らされた部屋の中で、寝台の横に飾られた薔薇の花が浮き上がって見える。
銀狐の犬用シャンプーの林檎とハーブの爽やかな香りに、いつもより近いディノの魔物の香り。
時折、風が木の枝を揺らし、梟の鳴き声のようなものも聞こえる。
横に寝ている銀狐を潰しそうで少しだけ脳が緊張してしまっているのか、目を閉じたままネアはそんな様々な音を感じていた。
眠りに入る前にディノが深く寛いだ息を吐いた音に、自分の隣で誰かが当たり前のように安堵して眠りに落ちる不思議さを思う。
反対側の銀狐は、こっそり顎をネアの肩にくっつけて眠っているので、左右から身動きを封じられている状態だ。
(でも、眠っているときも擬態してるのって疲れないのだろうか………)
狐のままなら寝台に上がってもいいと言ったけれど、災害避難措置のようなものなので人型でもいいような気がしてきた。
叩き起こしてまで言う程でもないが、もう少し早く達観していれば良かったと少しだけ後悔する。
ただし、その場合はディノの隣りに寝ていただくことになるだろう。
「……………そして何の争いをしているのでしょう?」
我慢出来なくなってそう声を出すと、銀狐がご立腹で尻尾でぱしぱしと寝台を叩くのがわかった。
ネアの上に乗せた片手を一度持ち上げて回収してから、ディノが困ったように銀狐の仕打ちを訴える。
「こちらの手をノアベルトの方に出しているからって、指の上に体を乗せるんだ。何度引き抜いても追いかけてくるんだけれど、どうしてなのかな………」
ディノはひたすら困惑しているので、ネアは試しにその状態を再現して貰う。
ディノがネアを抱き込むようにして反対側に落とした片手に、銀狐はすかさずお尻をどすりと乗せてお尻止めにしている。
この仕組みであれば、お尻をディノの手でホールドして貰い、顎はネアの腕にくっつけているので、丸まって眠る銀狐は頭もお尻もしっかり滑り止めがあって素敵な気分なのだろう。
「ディノ、それは甘えているだけなので暫しの我慢です。私が見る限り、狐さんはお腹を出して仰向け寝の癖がありますから、暫くすれば指先も解放されると思いますよ」
「甘えているんだね…………」
「もしかして、意地悪されていると思ったのですか?」
「…………うん」
「私も、左右から腕をぎゅっと圧迫されているので、暴れたくなる気持ちはわかります」
「わかった。我慢するよ」
ネアが暗く荒んだ目をしたからだろうか、ディノはすかさずこの話題を終わりにした。
右側はディノがべったりくっついているし、左側には潰してはならないもふもふがいる。
ディノがお腹の上に乗せた片手もあり、ネアは両手を体にくっつけて直線になって眠るしかないという寸分のゆとりもない睡眠姿勢だ。
それなのに、指先に狐のお尻が乗っかったくらいで贅沢な悩みである。
ディノも銀狐も片側は解放されているのだと思えば、不平等さに鬱憤が溜まってきたネアは、目を閉じたまま完全には眠れずに眠りの淵で悶々としていたところで、また真夜中にもしゃもしゃやられて目を醒ました。
「むぐ、今度は何なのだ………」
ぱちりと目を開いてそちら側を見れば、目を醒ました銀狐が鮮やかな青紫の瞳でじっと見ている。
いつの間にかずり上がってきたようで、ネアの肩口に寄り添うようにしてこちらを覗き込んでいた。
(………もしかして、一人だけ眠れないのが怖いのかしら)
何とも言えない切実な眼差しであったので、ネアはまた怖くなってしまったのだろうかと少し可哀想になる。
「どうしましたか?眠れなくなってしまいました?」
すると銀狐は、ネアの腕を後ろ足でげしげしと蹴っ飛ばすのだ。
「む。何故攻撃されたのだ。…………あ、腕が」
理不尽な攻撃に眉を顰めたところで、ネアは自分の左手が銀狐の尻尾の上に乗っかってしまっていることに気付いた。
それが嫌で、ネアの頬に鼻づらで触れて起こそうとしたのだろう。
慌てて腕をどかしてやると、さっと尻尾を引き抜いて非難の目をした。
「ごめんなさい、重かったでしょう。しかし、事前通告はしたので防衛力が足りなかったのですね。…………む!何をするのだ!」
そこで銀狐は反撃を始めた。
突然ほっぺたに頭をぐりぐりとすり寄せられて、ネアはぎゃっと身悶える。
ある程度もふもふでこそばゆくもあるし、案外容赦なくごりごりとやるので頬骨も痛いし、なかなかの攻撃ではないか。
「むが!頬肉がこそげてしまいます!」
「……………ノアベルト」
起きたのか起きていたのか、じっとりとした声が耳元で聞こえ、ディノが手を伸ばして銀狐を顔から引き剥がしてくれた。
鷲掴みにされてぽいっとされた銀狐は、素早く爪を立てて寝台の端っこに着地している。
また全速力で駆け戻ってくると、今度はネアのお腹の上にどすんとお尻を落として椅子にしてくる。
「……………さては、目が覚めてしまったので遊んで貰おうという魂胆では………」
「何で元気になったんだろう………」
「もしかして、エーダリア様の言っていた魔術の切り替わる時間を過ぎたのでしょうか?」
「ああ、確かに火の気が凪いでいるね」
「真夜中にはしゃぐのはやめていただきたい………」
「可哀想に。ほら、ネアはこっちにおいで」
「むぐ!何をするのだ!!」
ディノはおもむろにネアのお腹の上に乗せていた手を腰に回すと、ずりっと引き寄せた。
ぎゅっと背後から抱き込まれてしまった上に、耳元に顔を埋められてしまう。
どうやらこっちの魔物は眠たいらしい。
「…………すごく嫌な状況になりました」
片やすっかり目を覚ましてはしゃぎ出しており、片や眠たいのでご主人様を拘束してしまって眠りに戻ろうとしている。
渋々、無表情で自由になる方の手でじゃれてくる銀狐と戦ってやっていたが、寝落ちしてしまうとほっぺたを舐められて起こされるの繰り返しで、ネアは徐々にむしゃくしゃしてきた。
人間こそ睡眠が大事な繊細な生き物である筈なのに、背後のディノがすやすや眠っているのが解せない。
「ノア、元の姿に戻って下さい」
指先を追いかける遊びでご機嫌だったところでそう言われてしまい、首を傾げた銀狐が不思議そうにこちらを見つめる。
不自然な体勢で狐と遊んでやっていたのでぜいぜいしているネアは、一刻も早く野生の本能を解除しようと必死だった。
なぜ突然そんなお願いをされたのかわからず、銀狐は少し尻尾を硬直させていたが、やけに低い声でネアに二度目のお願いをされて、ぽふんと人型に戻ってくれた。
「…………僕、追い出されるのかな」
「追い出しませんから、野生の本能から解放されて、大人しく寝ていて欲しいのです」
「………このまま隣で寝ていいの?」
「その代わり、私の睡眠時間を削ったら荒れ狂いますよ!」
「…………それ、ちょっとやってみたくなるなぁ」
「どうして魔物はみんなそうなのだ!そして、これだけわいわいしていても、ディノがぐっすり寝ているのが憎いです」
「シルも疲れたんだろうね。今日は無理をさせたから、後で大変なことにならないかな」
「…………不穏な予言が出て来ましたが、どういうことでしょう?」
ぽすりと横になりながら、ノアがその理由を教えてくれた。
思えば不思議な構図だ。
背後からディノがへばりつき、隣のノアと寝転がりながらお喋りをしている。
「多分、…………本当はね、君が僕の面倒を見ているのが不安で仕方なかったみたいだから」
「…………そういうことなら、何度も拗ねてましたよ?」
「でも、シルは僕にも優しかったし、僕を放り出したりはしなかったよね?それに、君を僕に預けて仕事をしたりして、君にいいところを見せようと頑張ってたし」
「それが、ディノにとって不安なことなのですか?」
不思議なものだと眉を顰めたネアに、ノアは狐の時の面影のない大人びた不思議な微笑みを浮かべる。
「………戻り時のことの後だからかもね。あの後のシルは、時々君のことをすごく不安そうに観察してたの知ってる?」
「最初は気付いていましたよ。でも、さすがにもう叱りません。それなのに、まだ怒ってると思っているのでしょうか」
「僕はシルじゃないから全部まではわからないけどね。………シルは、君に好きになって貰う為に頑張ってきたのに、戻り時の時には、君がかつて満足しなかった頃の自分でいたわけだろう?だから、もう一度嫌な面を見せてしまったとか、君があの頃のことを思い出してふっと我に返って自分を手放してしまったらとか、沢山悩むんだよ」
それは不思議な指摘の仕方であった。
そう話してくれるノアはまるで、ディノのお兄さんのようで、弟はこんな風に頑張っているので気付いてあげて欲しいと諭されるかのよう。
そのくせになぜか、人ならざるものの啓示めいた、秘めやかな悪意がほんの少し混ざる。
(複雑な生き物だと思うけれど、それは多分魔物だからという訳ではないのだろう……)
人間にもそういう複雑さはあるのだ。
思想や嗜好が違うので、同じ色をしていないだけで。
「困った魔物ですね。人間というものは中々に貪欲なので、一度素敵なものを我が物としてしまったら、そうそう手放せないものなのですよ」
「普通はそうだよね。僕達は最初からそう思っている。人間は強欲だし、人外者からの誘惑に弱くて狡猾で愚かだ。簡単に弄べて、簡単に手に入る。………でも君の欲は、……何て言うかな、僕達の知らないものなんだろうね」
「あら、私の強欲さなど普遍的なものですよ?素敵なお家と、美味しいご飯があって欲しいですし、お金の為に狩りの女王になりますが、狩りが好きなので投資のようなものはあまり興味がありません。自分にとって大切な存在があることに浮かれていて、この世界は目が回りそうなくらいに色とりどりなので、時々はしゃいで転びます。偉そうにしていても、怖いものと辛いことが大嫌いで、その容量を超えると逃げ出して扉をぱたんと閉じて引き篭もります」
そう教えてやったネアに、ノアは一度目を丸くしてから小さく笑った。
今日はそうやって朗らかにしている彼を見かけなかったので、何となくほっとする。
「あはは。……うん、確かに君はそんな感じ。君らしい鋭さや深さもあるけれど、でも君は多分、本当はもうそんなものはいらないんだろうね。………だけどね、分かりやすい欲が多い割に、美や情欲、権力や叡智にも溺れないし、富なんて幾らでも僕達が出してあげるのに、ほこりが吐き出す宝石はご機嫌で拾い集めていても、僕やシルがお金を差し出したらうんざりするだろう?」
「ふふ、さてどうでしょう。困窮している時にお金を差し出されたら、有難うと言ってご機嫌になると思いますよ。でも、その環境が好きかと言えばそうではありませんけれどね。要するに、欲求の配分の問題なのです」
「配分かぁ………」
さてそれはどうだろうという表情をされたが、見知らぬものだからこそ特別に見えるだけだとネアは思う。
違う世界の価値観なので、謎めいていても当然なのだ。
他国を研究に訪れた学者さんが、ろくでもないものまで珍しいと感激してお土産で持って帰ってしまうあの病気なのだろう。
「そもそも、庶民だった私が王宮に住まわせて貰って好き放題にしているのですから、面倒な責任が付随する権力なんて欲しがらずともこの世の春といった具合ですし、お給金や獲物の売買でそこそこ楽しくやっています。情欲に溺れるよりも、こうして隣で安堵しきっている姿を見る方が深い悦びを感じますしね」
「そういうところ」
「…………む。そういうところ?」
「君はお気に入りがはっきりしていて、思いもよらないもので心を満たしてしまうところ。いつの間にか力や手段を他にも持っていて、案外特別なものまで手当たり次第で選びたい放題になってるところ。つまり、あげようとしたものを、いらないと拒絶されてしまいそうなところ。それってさ、望まれ請われてきた僕達にとっては未知の残酷さなんだよ」
「………それはもう、そう言われましても如何ともし難いという部分なのでは……」
困惑したネアに、ノアはくすりと微笑んだ。
「ごめん、ごめん。話が逸れたね。………だからつまりね、君の手の中には僕達の見知らぬ種類の拒絶や、選択肢という武器がある。それを知っているから、それを振るわれるかもしれないって理由がある時には、とても怖いんだよってこと」
これがさっきまで指先を追いかけていた狐だと思えば不思議で堪らないのだが、ネアはその言葉を真摯に噛み砕いてみる。
「だから、今日はこんなに疲れていると考えているのですね?」
「いつもは自分がいるところに僕がいると、誰かがその位置に取って代わる様子が想像出来るんじゃないかな。シルはさ、こういう風に誰かを必要とするのは初めてだから自分でもよくわかってないし、君はきちんとシルのことも気にかけてあげていたから、それでも何だか不安になるとは言えなかったみたいだけどね」
「もしかして、ノアはそのせいで少し遠慮してしまっていました?」
「ううん。僕は今日はあまり落ち着いていられなかったからね。気付いても遠慮してあげられなかったかな」
そこで少しだけ意味有りげに微笑んだノアに、やれやれとネアは苦笑する。
「それでいいんですよ。今日はノアにとっての大変な一日だったのですから、そんなことで悪い顔をしてみせなくても、頼ってくれて構いません」
「…………君は、面倒臭いものはぱっと捨てるくせに、時々こうやって手を離さないでくれるのって何でだろ」
「ふふ。それは、ずっとリーエンベルクの家族のままでいて欲しいからでしょうか」
「…………そういうところ」
「そういうところ?」
「ネアってさ、結構容赦なく切り捨てるくせに、時々思いもよらないとこでさらっと受け止めてくれるんだ」
「褒められてるのでしょうか?」
「褒めてるけど、愚痴かなぁ。そこで緩急つけてくるのって狡いよね」
「それは残念ながら、満遍なく大切にするだけの心の広さがないので、優しさや愛情を解放する機会が限られているだけですね………」
伸ばした指先でおでこを触られて、ネアはもしゃもしゃする。
「シルが振り回されてるのわかる気がする」
「それについては反論がありますが、今は眠たくなってきて面倒臭いので黙ります」
「ほら、またそうやって僕を寂しくさせるんだ。もっと大事にしてくれてもいいよ」
「………むぐぅ、具体的にはどう大事にすればいいのでしょう?」
「もう少し遊んでくれるとか、もう二度と注射なんて受けなくていいように守ってくれるとか」
「やっぱりそっちだった…………」
「何か困ったことがあったら、シルの次に呼んでくれるとか」
「あら、そうしていいならそうしますよ?」
額に落ちた銀色の髪をそっと払ってやりたいと思うくらい、ノアは無防備な目をした。
澄明な瞳でじっと見つめられると、まるで心にその色で触れられるようだ。
「ウィリアムやアルテアよりも?」
「ウィリアムさんやアルテアさんは、やはりお外の魔物さんです。現状使い魔な方もいますけれどね。頼れることも多いですし、魅力的な方々ですが、同じ屋根の下に住んでいる人とは違うところも多いですから」
「………ネア、僕の伴侶にもなっちゃう?」
「なりません。何でそうなったのだ」
「欲しくなったから、……かな。でもさ、覚えておいてね。僕はシルの味方だからそこはずっと頼ってくれていいけれど、空いてる指に僕の指輪を嵌めてもいいんだからね」
「指輪を増やす気はありませんが、ノアが頼りになることは嬉しいので覚えておきますね」
「うーん、シル本人が不安になるくらいだから、隙があるのかなって思ったけど、駄目そうだなぁ」
「まったくもう、時々そうやって確かめにこなくても、ノアはもうエーダリア様とだって契約をしているのだから、安心してここに居ていいんですよ?」
ネアは安心させる為にそう言ってやったのだが、ノアはその言葉に少しだけ謎めいた微笑を浮かべた。
「どうしてそんな風に言うのかは、秘密だよ。どうして僕が統一戦争の時にウィームで死に物狂いだったのかも、どうしてここに住んでいるのかも。もう、僕にとって大切なものはそれだけじゃなくなったから、その秘密はずっと秘密のままだ」
(………不思議な言葉だ)
それはまるで謎かけのようで、告白のよう。
けれど誰にだって胸の奥を掻き毟るような過去はあるだろうし、この告白でノアは今大切なものがあるのだと話してくれたから、もうそれでいいのだ。
「わかりました。どうしてあんなに皆さんにブラッシングして貰っているのに、いつも耳の後ろに毛玉が出来てしまうのかも、秘密にしておきますね」
ぎくりとしたノアに、ネアは微笑みかける。
それは誰もが不思議に思っている銀狐の謎であった。
「………いつから気付いてたの?」
「少し前に、ヒルドさんに甘やかして貰う為に、毛玉を作成しているのを目撃しました」
「ありゃ…………。どうして君はいつも、僕のそういうところ気付いちゃうんだろう」
その日ネアは、廊下の角のところで、後ろ脚で一生懸命に耳の後ろを掻いている銀狐を見かけたのだ。
毛が絡まってしまったのだろうかと助太刀に入ろうとしたところで、銀狐がわざと耳の後ろの柔らかい毛をくしゃくしゃにして毛玉を作成していることに気付いた。
暫く見ていると満足のいく出来になったのか、銀狐はブラシを咥えて走っていった。
ヒルドのブラッシングは容赦ないので苦手だと言いながらも、甘やかして貰う為ならそれを厭わないのだ。
そうやって、ただ自分の面倒を見てくれる人がいるのが幸せで堪らないから。
「でも、そうやって構って欲しいことはありますよね。絨毯に悪さをするのはいただけませんが、お忙しいときに無理を言うのでなければ、毛玉の件は内緒にしてあげます」
「秘密の多い男になっちゃったな」
「なので、シュタルト旅行には連れて行きません」
「なんでさ!シュタルトには観光地になってる僕の城もあるんだよ。あちこち案内してあげるのに!」
「そう言われてしまうと心惹かれるところもありますが、だとしても次回ですね。今回は、私の魔物を静養させる為の旅行でもあるのです」
少し前からそこそこ眠かったので、そこでネアは欠伸を噛み殺した。
どこかでかくりと意識が落ちる気しかしない。
ネアを抱き枕代わりにした魔物は相変わらずぐっすりと寝ているようだ。
ノアの言うような不安を抱えて今日を乗り切ったのなら、最後は力尽きて寝落ちしたようなものなのかもしれない。
「………もしかして、色々あったから?」
「戻り時の事件でチューリップ畑に来た時、泣いてしまっていたでしょう?あの後も私の言葉を深読みして、勝手にふるふるしながら涙目になっていることがあったので、一度お休みをゆっくりと過ごさせてあげようと思ったんです。それに今年は、夏休みには遠出の旅行を企画しているので、その為の予行練習でもありますね」
またふぁっと欠伸をしたネアに、ノアがおでこを撫でるのがわかった。
そこは欠伸止めボタンではないのだが、眠くて頭が回らない。
「そっか、君は君でちゃんと考えてたんだね。余計なお世話だったかな」
「でも今日のことでも不安になっているとまでは思っていませんでした。ノアが、ああやってディノを心配してくれると、ほっこりしますね」
「ほら、そうやって君は狡いんだから」
「ふふ。大人はそうやって社会の荒波を渡ってゆくものなのです」
「夏休みかぁ。どこに行こうね」
「……………一緒に行くつもりなのはなぜなのだ」
「大丈夫。鞄に詰めれば簡単に持って行けるから」
「…………むぐ」
「ありゃ、寝ちゃうの?もっとお喋りしようよ」
「むぐふ。眠りを妨げるもの、死すべし」
「…………ネアは時々、本当に僕達を殺す勢いだからなぁ。あ、でも君に昏倒させられたのは、僕とシルだけだね」
それを喜ぶのはどうなのだろうと思ったが、ネアはもう反論する力がなかった。
アルテアを弱らせたこともあるし、竜も倒したことがある。
そんなことを考えながら眠ったからか、ネアは夜明けに大暴れした。
………………らしい。
ぎゅうぎゅうと押し寄せてくる悪者達と戦う夢を見たのだが、朝目が覚めると、魔物達は寝台の隅っこで怯えて固まって眠っていた。
何だか兄弟のようで可愛らしい構図だったので、ネアは良いものが見れたと幸せな気分になる。
幸いにもそのお陰で、ノアは火の慰霊祭の怖さがすっかり抜け落ちたそうだ。
ネアの荒ぶり方に比べたら、火の幻影の方が怖くないと朝食の席で公開処刑にされたので、夏休みの旅行は、銀狐をお留守番にさせようと思う。