薔薇のロージェと魔物の孤独
音楽とは貴賎なく楽しめる悦楽である。
だからこそ、中央のロージェから見下ろす舞台は芳しい。
華やかな音楽、荘厳な音楽、
その全ての奔流に身を晒し、ネアは瞳を輝かせる。
ここはウィームで、音楽はこの王都の血潮であり、麻薬のような嗜好品だった。
この、元王立歌劇場でもあるオペラハウスは、王都のそれよりも大きく美しく、その客席に魔物が混ざるのも、毎夜のこと。
人間と同じ容貌でありながら、目が離せない。
微笑み一つで酩酊してまう。
そんな男や女がいれば、それは魔物であると言われている。
だからネアは、わくわくしながら周囲を見回した。
「ディノ。私は、ロージェを使うのは初めてです」
幕間の高揚感に声を弾ませれば、ディノは、唇の端を綻ばせる。
薔薇の名前のロージェは、この歌劇場の最高のボックス席で、うっとりとするような美しい個室であった。
「ここには、久し振りに来たよ」
「ディノは、前にも来たことがあるんですね」
「三十年くらい前かな、あの頃は色々と見て回っていたから」
階下を見下ろすでもなく、天井絵を見るでもなく、この賑わしい空間を俯瞰しているディノの目は、澄んだ湖面のよう。
そこには、ネアの知らない時間の澱が見えた。
「他にはどんなものを見たんですか?」
「人間の文化も、魔物の文化も色々とね。下層のあばら屋も見たし、王宮も見たかな」
「面白いものはありましたか?」
「あまり覚えていないな。退屈だったよ」
「まぁ。それは困りましたね」
よしよしと頭を撫でてやると、ディノは嬉しそうに微笑む。
そうすると、高位のものの気鬱さが抜けて、見慣れた魔物の顔になると、ネアはなぜか、少し嬉しくなってしまった。
「このロージェはね、魔物のものなんだよ」
「だから、擬態しなくても大丈夫なんですね」
ディノの真珠色の髪を見たとき、支配人は無言で表情を失くしたが、立ち直りの早さはさすがのものだった。
魔物に慣れ親しんだ歌劇場の支配人らしい、寛容さと強靭さである。
「そうだね。生粋の魔物の領域だから、歌乞いで使ったのはネアが初めてじゃないかな」
「私は幸せ者ですね」
「……ネア、楽しいかい?」
「はい!こんな世界があるなんて知りませんでした。社交の場は緊張してしまって苦手なのですが、この閉鎖感なら、安心してディノと居られますものね」
「気に入ったなら、幾らでも連れてきてあげるよ。北方の国のロシエルにも、観せてあげたい劇場が幾つかあるし」
「まぁ。とても贅沢な提案ですね。またそんな贅沢を楽しめるように、お仕事を頑張りますね」
実はものすごく嬉しいのだが、あまり前のめりにならないよう、ネアは注意した。
支配人が、薔薇のロージェは決して空かないと話していたではないか。
無邪気な言葉で、愛用者達の席を奪わせないように、ここで契約の魔物の手綱を引くのもネアの役目だ。
「ご主人様でいてくれれば充分だよ」
さらりと口にされたその言葉に、ネアは眉を上げてみせた。
「あら、椅子にはならなくていいんですか?」
「………なる」
「髪の毛は、」
「引っ張って欲しいかな」
「困った魔物ですね。でも、こんなに素敵な時間を過ごして幸せいっぱいなので、大事にするしかありません」
それでも甘やかしてしまうのは、先程の眼差しのせいだろうか。
転職活動を止めたわけではないのだが、この先、ディノとどう関わっていくのかを、考え直す時期にきたのだとも思う。
(契約の魔物は、死ぬまで連れ添うのが普通)
でもそれは、願い事の対価で命を削る場合の話だ。
削られないネアの、残り時間は、拘束としては長過ぎてしまう。
(だから、私はあなたを終身の道具にはしたくない)
歌乞いは職業だ。
そして、その雇用先であるウィーム領主館は、覚悟もなく勤め続けられるような職場ではない。
長く繋げば繋ぐ程、そのような場所で働くネア自身も、その契約の魔物のディノも、澱のような枷を重ねてしまう。
(それは、ディノが特等の魔物だからこそ、余計に繋ぐことが罪深くなる)
これだけの特別さが人間の手元に繋がれるのだ。
ネアがその扱い方を間違えれば、いつかはどこかがひび割れるだろう。
それが現れるのは、人間の組織であるかもしれないし、魔物の信奉者であるかもしれない。
(だから、いつかきっと難しい問題は生まれる)
人間側の事情で、鎖をかける限り。
ネアが、この魔物を手放さない限り。
そんな言い訳に一抹の甘さを噛み締めて、ネアは隣の美しい魔物を思う。
もしこの先もこの手を取りたいなら、契約というだけではない、心を明け渡す覚悟が必要だ。
心のままに、この魔物を手放したくないと。
そう言い切るだけの覚悟が。
(その覚悟がなければ、どこかでディノは私に失望する)
それは、この魔物が、とても孤独な魔物だからこそ。
「ネア、そう言えば、今日は一度も足踏んでくれてない………」
褒められたのでいけると思ったのか、ディノが小声でそう強請ってきた。
次の幕の前の、薄闇に紛れるように。
無駄に麗しく、ふくよかな甘さと親密さで。
「………一番に乗り越えなければいけない壁を、あらためて実感しました」
微笑んで首を振りながら、ネアは遠い目になった。