一筋の髪と眼差しの影
初めて、彼女を見た。
いつも触れたいと願い、この手の中に取り寄せたいと切望してきた彼女が、目の前にいる。
一目で彼女だとわかったのだ。
それなのに彼女は、なぜかノアベルトに守られるようにして怖々とこちらを見ている。
怖がるのは仕方がないけれど、この世界のどこにも属していない自分だけの宝物だったネアが、いつの間にか他の誰かに侵食されているようで不愉快に思った。
(君は、私のものの筈なのに)
そう考えたら、自分が失ってしまっている経験が急につまらないものに思えた。
そうやって自分が積み上げたものの所為で、ネアはいつの間にか自分のものだけではないネアになってしまっている。
これを手放してしまえば、ネアはもう一度自分だけを見てくれるだろうか。
或いはやり直すことが出来れば、ここからネアを連れ出して自分の城に閉じ込めてしまえるだろうか。
この損なわれた記憶は自分のものだったが、こうしてもう一度出会い直しているのも自分であるのが不思議なのだ。
彼女が誰なのかは勿論知っていたけれど、少しだけ傷付いて他人行儀に挨拶をしてみれば、ネアは小さく息を飲んで途方に暮れたような目をする。
綺麗な鳩羽色の、ネアに似合うとずっと思っていた彼女色の瞳を、可哀想になるくらいの心細さが揺らした。
(…………この喜びを失いたくない)
ふと、そんなことを思った。
こうして思い出を失った自分を見上げる度、ネアが迷子になったような瞳をするのなら。
またノアベルトの後ろに隠されてしまった彼女が、記憶さえ戻らなければ自分に焦がれてくれるのであれば。
その間だけはせめて、ネアは自分のことしか考えないのだろうか。
「ネア、………これは何だろう?」
「あら、入浴剤ですね。お風呂に入れますか?」
「…………やめておくよ」
その粉の入った瓶に興味を示せば、ネアがとても嬉しそうにした。
押し殺した喜びはなぜか、孤独感を煽るようで虚しくなる。
自分だけが置き去りにされているようで、どこか馬鹿げた恐ろしささえあった。
だから、いい匂いがして興味が湧いた瓶は棚に戻し、少し寂しそうに微笑んだネアの瞳を伺う。
もし、
もし、例えその欠片でもいいから、彼女が自分の孤独や恐怖に気付いてくれたなら。
この自分でもよくわからない焦燥感に気付いてくれたなら、すぐにでも戻り時の妖精の効果なんて消してやるのに。
ノアベルトや見知らぬ者達に自分を預けて、誰かに会いに行っていたネアは、記憶のない契約の魔物などどうでもいいのだろうか。
(ネアは、こんな風に誰かに頼らなかった筈なのに………)
自分しか知らなかった筈のネアを、今はノアベルトや、このウィームの領主とその代理妖精の方が知っているようだ。
残された記憶の中では、昨晩まで彼女を手に入れる為の術式を練っていた。
国土が安定しており、ネアの好きそうな美しいものが多いのはウィームだろう。
ネアがこの世界に来たらどんな言葉を交わして、どんな言葉でこの世界を教えてやろう。
そんなことばかり考えながら、楽しみにしていたのに。
ネア。
ネア。
胸の内でその名前を呼び、この苦しみに嫌気がさして息が詰まりそうになった。
「ディノ、………本当にお城には帰りませんか?」
その苦しみを簡単に晴らしたのは、やはりネアだった。
「不安にさせてしまったね。大丈夫だよ、側にいるからね」
「…………記憶を失ったばかりで不安でしょう?手を繋いで差し上げましょう!」
「ネア…………」
まだ心が追いつかないままにさっと手を隠すと、目を瞠ったのでまた途方に暮れた。
伸ばした手を避けたのだから、彼女は怒るだろうか。
或いは、そんなものならもういらないと、愛想を尽かしてしまうだろう。
「では、撫でます!」
「ネア…………」
けれどもネアは微笑みを深めて、優しい手でそっと頭を撫でてくれる。
その柔らかな温度に胸が掻き毟られるような、乱暴なまでの幸福感を覚えた。
『………やっぱり、私の大好きな魔物でした。もし記憶が戻らなくても我慢するので、ずっとここにいて下さいね。因みに、逃げようと思ってもやめておいた方が賢明です。私はこれでも、荒ぶると怖いのですよ!』
あの時、そう言ったネアは、自分がどれだけ必死にこの髪を掴んでいたのか知っているだろうか。
もし自分が失われても、他のものでは意味がないと言った彼女は、その言葉がどれだけ私を安堵させたのか知っているのだろうか。
「ディノがフレンチトーストのことを話してくれたので、今度作ってあげますね」
「…………作ってくれるのかい?」
「ええ。ディノは私にこんな素敵な世界をくれました。それに、こうして私の大切な魔物も。だから、私はディノにあれこれしてあげたくなってしまうのです」
ネアは、そう丁寧に説明してくれた。
「私は、君の大切なものなんだね」
「ふふ。私もどうしてこんな風に大切なものを手に入れられたのか、不思議になってしまうくらいに大切ですよ」
そう微笑む君を見ている。
微笑んで、でも少しだけ寂しそうに。
教えてくれるのは、リボンの箱と一緒に使っているブラシ。
私が狩ってきたというラムネルの毛皮のコートに、その枕元に置かれた薔薇。
「この指輪は、君がくれたんだね」
「リングの部分はディノが拘って作ってしまったので、正確には石とケースになりますけどね」
「………ケース」
「でも、ディノがケースにしまっているのは見たことがありません。ずっとつけていると邪魔にならないか聞いたのですが…」
「これは返さないよ?」
「ふふ。そうやって荒ぶってしまいまして。それはもうディノのものなので、好きにしていいんですよ。なのですから、もし煩わしい時があれば外してしまっておいてもいいのだという事を覚えておいて下さいね」
きらきらと窓からの日差しに輝く指輪は、一目でネアの髪色を紡いだものだとわかった。
自分の魂や魔術を紡いだ指輪をしたネアが、彼女自身の色を持ったものをくれたのだと思うと、嬉しくて堪らなかった。
ふと何でもない時にその指輪に触れて、弾むような経験のない気持ちになる。
こんな気持ちは初めてだと思えば、誰かと仲良くしている姿に不愉快になったあの時の気持ちも、今迄に経験がなかったものだと気付いた。
「ほら、あのお部屋で暖炉の会をしたんですよ。そしてこの先の水色の扉の先の共有棟に、気まぐれにウィーム王朝時代の浴場が現れるんです」
「こちら側の棟は君が自由に使えるのかい?」
「そう仰って下さるのですが、基本的には与えられたお部屋を使うくらいですね」
「でも、ノアベルトの部屋はこの中なんだね」
「以前にディノが困ったことになってしまった時にノアが尽力してくれて、そのご褒美で貰えたお部屋だからですね。私やディノが責任をもって面倒を見るという約束だったのですが、今はエーダリア様やヒルドさんにもべったりです」
「と言うことは、自由に動けるんだね」
「ところが、こちら側の扉からは勝手に出れない仕組みなんですよ。それはディノとヒルドさんが設定してくれたものなのです」
「………中に入る時には、外からなのかい?」
「本人もきちんと最初の規則を守っているようですね。ただ、怖い夢を見たときは私達のお部屋に来ていいことにしてあるので、そんな時は窓を叩くか、ディノを呼んだりしているみたいです」
「…………部屋に来るんだね」
「ふふ、ディノが巣の中に入れてくれたこともあるそうですよ」
「え…………」
「色々あってまた友達になったそうですが、仲良しみたいで見ていて微笑ましいです」
「ノアベルトと…………」
歩く時にふわりと揺れた髪のその一筋に、自分の欠片が混ぜ込まれていることに気付いた。
彼女は何も言わなかったので、きっと気付いていないのだろう。
(これがあれば、離れていても側にいられるな)
やはり自分は自分なのだ。
こうして鎖をかけておき、彼女が逃げたりはぐれたりしないように見張っていたのだろう。
そう考えてまた気持ちが楽になった。
慣れないことばかりで心配だったが、これがあれば彼女が離れていても一人にはならない。
そんな風に安堵していると、一人になったネアがとんでもない作戦を練っていることがわかった。
「……ふむ。これでどうにか、悪さをするアルテアさんを無力化出来そうですね」
そう呟いているのは、手の中にあるカードに送られたメッセージを読んでいるからだ。
そこにはまだ会ったことのないウィーム領主の代理妖精の一人が、迂闊にアルテアに心を許さないようにと書き連ねている。
誰も見ていないのに、歯磨きに行った浴室で一人凛々しく頷いたネアが可愛くて、誰もいない部屋で少しだけ頭を抱えた。
(…………アルテアが、ネアに何かをしたのだろうか)
どうしてそういう会話になったのかまではわからなかったが、アルテアを警戒するように言われているのは間違いない。
こちらでも見ておこうと考え、念の為に周囲を調べておいた。
(…………今のところは大丈夫そうか)
会話からどうやら対策を講じた後のようなので、もう排除されたのかもしれない。
アルテアと契約をしたと聞いてからずっと心配だったが、上手く周囲が気にかけているようなので少しほっとした。
昨晩は私にも気を付けるようにと話してくれたし、であればやはり、ネアが安心して寄り添う契約の魔物は自分だけなのだと擽ったい気持ちになる。
けれどもその喜びはすぐに、ネアがどんな作戦を立てているのかの全容を知ってひび割れてしまった。
“後は、果ての薔薇を使って、ディノの記憶を取り戻せれば一安心ですね”
ネアがそう考えているのは、この記憶を損なっている戻り時の妖精を毒を、私が意図的に状態保持していると気付いていたからであった。
“まさか、ディノが敵になるという状況でこんな風に作戦会議するなんて…”
その言葉は、酷く堪えた。
(……………ネア、私は君の敵なのかい?)
よくわからない初めての感覚で、胸が痛む。
確かに彼女の言葉は間違ってはいない。
ネアの大事な魔物の記憶を失われたままにしているのは、私なのだから。
でも、敵という言葉はあまりにも鋭く、その文字を彼女の手が綴ったことに愕然としてしまう。
“ごめんなさい、お手数をおかけします”
やり取りの中で何度も、ネアはそう詫びていた。
そんな風に無理を押して彼女が誰かを頼っていることも不愉快だったし、自分を欺く為にその行為をしていることはもっと不愉快だ。
酷く残忍な気分になり、彼女が行動に出たらその場で捕まえてしまって、ここから連れ出そうと考えた。
もう誰ともあんな風に私を欺けないように、ずっと二人だけで暮らしてゆけばいい。
そう思えば胸の痛みは少し軽減されたが、代わりに何とも言えない不快感と、よくわからない怖さが残った。
(君にとって、私は何なのだろう?)
大切で堪らなくて、こんなに惨めな気持ちになる。
それはやはり、初めてのことだけれど。
狩りに行く前に、あえて入浴すると話してネアを一人にしてみれば、思った通りにノアベルトに会いに行っている。
二人で話している姿を見て、ぞわりと胸の底が澱むようだ。
その澱みが強張って、目の奥が嫌な痛みを帯びる。
「じゃあ、夜にね。シルは大丈夫そうかい?」
「どうにかお風呂に入ってくれましたが、…………やっぱり、いつもどこか不安そうにしていて、見ていて可哀想になってしまうのです」
その会話は、我慢出来なくなって繋がりを閉じてしまおうと思った時に聞こえてきた。
「そりゃ、自分だけ仲間外れみたいに感じることもあるだろうしね」
「ええ。………どれだけ長く私を見ていてくれたとしても、私がどんなディノでも良いのだとしても、失われた時間で育んだ信頼というものがあります。今のディノはきっと、私がきちんとディノのことを好きになったことも、これまでの日々の中で新しく好きになったたくさんのことも、新しく友達になった方のことも、みんな忘れてしまっているのですから、きっと不安だったり不愉快なことも多いでしょう」
「でも、逆に言えば自分の所為なんだからさ、それは我慢させるしかないよね」
窓の外で風に揺れた庭木の影にぎくりと目を向けて、小さく安堵の溜息を吐きながらネアはそう言う。
「ディノはね、出会った頃から随分と変わりました。長風呂したり、ぐっすり寝てくれるようになりましたし、安心して甘えてくれますし、自分が甘えれば私が多少のことは許してしまうことを理解しているくらいに、安心して隣にいてくれるようになったのです」
「でもさ、恋は始まりの頃も楽しいよ?」
「……お互いの気持ちを確認したり、育んでゆく過程もまた素敵ですが、私は、たくさんの大変なことを経てやっと安定した今の関係から、もっと沢山の枝葉を育てたいのです」
唇の端を持ち上げて悲しげに微笑んだ瞳の影に、胸が潰れそうになった。
(なぜ君は、そんな風に悲しく微笑むのだろう?)
その答えは、次の彼女の言葉にあった。
「私は人間ですから、ディノを安心させてあげられる程長く生きられないでしょう」
そう穏やかに微笑んで、ノアベルトを絶句させてから、ネアは決して悲観的になるという訳でもなくさらりと続ける。
「この半年はね、そう考えればまたやり直すにはやはり長いのです。例え半年だって、私は無駄にしたくありません。………それに、一緒にお花見に行きたいですし、またお食事の分け合いっこもしたいです。ディノの髪の毛を洗ってあげて、三つ編みにしたくて堪らなくてその辺りのものを蹴飛ばしたくなります!」
「うわ、ネア、落ち着いて!」
「おまけに、私に指輪をくれた日のことや、婚約した日のことまで忘れてしまったなんて、やはり許すまじです!」
ネアは、そう言って床を踏み鳴らしていた。
(………………なんだ)
すとんと、苦しみや不快感が抜け落ちた。
(なんだ、君が私を欺いたのはそういうことなのか)
彼女がこっそり動いているのはつまり、それだけ私を慈しんでいるからだったのか。
だからこそ恐れ、企み、こうして悲しんでくれるのか。
それが伝われば、しょうもないことに少し気分が持ち上がった。
(……………三つ編みって何だろう?)
最初の日に髪を編み込まれていたあの髪型だろうか。
髪を洗ってくれるなんて知らなかったし、彼女はそれが出来なくて怒っている。
食事を分け合えるなんて考えてもみなかったが、確かに私達はそういうことを愛情や執着の意思表示としてよくするのだった。
(お花見…………)
あまり意味を見出せなかったが、彼女と行くならそれだけで楽しいだろう。
ネアはきっと満開の花を喜ぶだろうから、見せてみたい花はたくさんある。
この世界にはきっと、ネアの喜ぶようなものがたくさんあるのだ。
自分以外のものを見つめるのは寂しいが、ネアが喜ぶなら幾らだって我慢しよう。
そんなことを考えていて、ふと理解した。
きっと、ネアが惜しんでいる今迄というものの時間は、そんな風に積み上げられてきたものなのだろう。
自分の喜びや彼女の喜びと共に、多分あの話ぶりからすると上手くいかない事もあったに違いない。
ネアから、最初の頃は手放したかったのだとも言われているから、そんな状態から婚約者にまでなってくれたのだ。
(…………どんな事があったのだろう?)
どんな事があって、どれだけの幸福があり、彼女はどんな風に微笑みかけてくれたのだろう。
何度髪を洗ってくれて、何度この髪を編んでくれたのだろう。
「私は、やっと守りたいものを見付けたんです。だから、ディノ自身にだって、私の大事なディノは渡しません!」
凛々しくそう宣言したネアに、気付けば微笑んでいた。
それはつまり、私のことが大好きだということではないか。
(いいよ)
そう思って、魂の欠片を繋いだ先で密談しているネアに微笑みかけた。
いいよ。
君に、君の大好きな私を返してあげよう。
それで君がずっと一緒にいてくれるのなら、どれだけ幸福だろう。
多分、記憶を取り戻しても私は私なのだ。
ただ、いつの間にかこの世界に馴染んでいた君に、宝物を取られるようで意地悪をしただけ。
その後、ノアベルトはやはり慎重で、果ての薔薇を作ったのが私であることを指摘して、他にも幾つかの保険をかけていた。
そこまでを見届けてから、不思議な高揚感と共に繋がりを閉じる。
(…………君は、こんな風に私を手放さないでくれるんだ)
そう考えると、胸の奥にこびり付いていた怖さの欠片までが綺麗に剥がれ落ちてゆく。
それは、どんな時でも切れることのない命綱を見付けたような不思議な歓びだ。
だから、巧妙に勧められたコルヘムという強い酒を呷った。
これはさすがに、好んで飲むことはない類の酒だ。
味は爽やかで香りも甘いが、兎に角強い。
この酒を好むのは、酒の属性の者達ぐらいであろう。
「………ディノ、ごつんとテーブルに伏せてしまうと、おでこが可哀想です。私の大事な魔物のおでこを大事にして下さいね」
「…………ネア、君を好きになって良かったな」
「あら、私の台詞を取ってしまうのですね?私は、ディノに好きになって貰えて、ディノが大好きになれて良かったです」
そう言って、丁寧に頭を撫でられるとうっとりとした。
コルヘムの酔いが回り、眠たくなってくる。
この眠りから覚めたらきっと記憶が戻っていて、ネアは喜んでくれるだろう。
(でも、ごめんね。果ての薔薇では無理なんだ)
実はあれを作る時に、自分を損なわないようにすることをグレアムに厳命されていた。
作っている間中、隣でグレアムに監視されていたので居心地が悪かったことを思い出す。
これは私としては珍しいことで、大抵の場合は自分にだけ効果がないように設定するようなつまらないことなどしない。
しかしあの時は、運が悪くグレアムに見付かってしまった。
だからつまり、果ての薔薇ではこの身に作用を及ぼすことは出来ないのだ。
けれども、ネア達はそのまま作戦を実行させることにした。
(無駄なことをさせてしまうけれど、リズモを使うようだし危険はなさそうだから)
ヒルドという妖精がどれだけ強いのかはわからないが、ノアベルトがいれば問題ないだろう。
それでも少し心配なので、少し早めに寝たふりをして暫くここから見守っていようか。
念の為に、果ての薔薇がネアを損なわないようにあらためて条件付けしておく。
ここで元通りにしてしまうことも出来るけれど、せめてこの自分の心のままで得られるものの最後に、ネアが私から私を守ろうと頑張ってくれている姿を見たい。
それが最後の我が儘だった。
彼女はどんな言葉で、私を取り戻してくれるのだろう?
「ディノ?…………眠ってしまいましたか?」
甘く柔らかな声には微かな罪悪感も滲む。
その罪の意識も自分のものなので、贅沢な思いでその声音を堪能した。
暫く周囲を囲まれた後、ネア達は果ての薔薇に願いをかけに行った。
眠りの淵の曖昧な意識に揺蕩いながら、その様子を見ていたが、代理妖精も充分に護衛としては機能しており取り立てて大きな危険はなさそうだ。
途中でノアベルトの発言にむっとしたが、ネアが揺らがないのでまた安堵した。
そして待ちに待った最後の瞬間がきた。
薔薇の前で手を組んで願うネアの言葉には、特別な甘さはなくても、生涯触れるとは思わなかった深い愛情が滲む。
その艶やかさに泣きたくなって、もう一度いいよと心の中で呟いた。
(いいよ、ネア。その願い事は私が叶えてあげよう)
思えばこれは多分、果ての薔薇は確かに願いを叶えたのだ。
私がそれを為すのだとしても。
彼女にこんな無理をさせていることを悔いるにしては、やはりこの時間は甘やかであった。
魔物らしくもない感傷であるが、自分が欠け落ちても他の誰かでは意味がないのだと知れたのだから、きっと意味はあったのだ。
戻り時の効果を消し去り、安心して眠ることにする。
きっと、自分の手でこの記憶を取り戻したと考えているネアは、とても可愛いだろう。
そう考えて幸せな気分になった。