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121. 暗躍には体力が必須です(本編)


「…………寝ましたかね」

「寝ていると思いますよ」


真夜中のリーエンベルクで、テーブルに突っ伏した魔物を囲んでひそひそと話し合う怪しい集団がある。

これは決して殺人事件の現場ではなく、酔い潰した魔物をお留守番にさせようの会であった。


実はこの日、ネアはかねてから準備していた計画を実行に移すべく、入念にタイムスケジュールを組んで行動していた。

恐ろしいことに、夜の盃を駆使してディノを酔い潰してしまうことから、本日の任務は始まる。


なのでネアは今夜、明日の本番に備えて実力を見せるという名目でディノを禁足地の森に連れ出し、心の赴くままに狩りをして帰って来た。

時間を調整する為に適当な理由をつけて晩餐を早くして貰い、狩りから戻ったところで狩りの後には打ち上げがあるのだと唆してお酒を飲ませたのだ。


夜の盃は安定の素晴らしい働きを見せ、アルテアをも殺したことのあるお酒は万象の魔物を眠らせてくれた。

寧ろネアとしては、ゼノーシュに始まり、アルテアやディノを殺せるこのお酒が不思議で堪らない。

万人を殺してしまうのかとも思ったが、どうやらかなりの愛好家もいるようなのだ。


「じゃあ行ってくるよ。酔いが醒めないように状態保全の魔術をかけておくから、ゼノーシュは何かあったら連絡してね」

「うん。僕が見てるから大丈夫。………このお菓子は全部食べていいの?」

「困った魔物を監視してくれる頼もしいゼノへの貢物です。全部食べてしまって下さい」

「やった!」

「ごめんなさい。ゼノまで徹夜になってしまいますね………」

「いいよ。だってディノがこのままだと、グラストも心配だから」

「無事に事件が解決したら、ディノとアルテアさんの奢りでザハのケーキの食べ放題に行きましょうね」

「………二回?」

「ええ。勿論、各自負担で二回です!」

「僕、頑張る!!」


ぴょいぴょいと弾んだゼノーシュに手を振り、第一作戦を決行する。

第一班はまず、転移の間を使って魔術のコストダウンと気配の軽減を図りつつ、こんな真夜中から初めてお邪魔する亜熱帯気候の異国に弾丸旅行をするのだ。


「少し薄着にしようかと思いましたが、第二作戦の時に着替える手間が惜しいので、ノアに魔術でどうにかして貰います」

「そっか、だからコート着てるんだね。気温調整は得意だよ」


そう微笑んでくれたのは、出会ったばかりの頃のような服装をした塩の魔物だ。

最近、リーエンベルクの為には頑張っているようだが、ネアの目の前で塩の魔物として活躍したことはあまりなかったので、こうして見ればなにやら新鮮である。

白いシャツに黒いロングコートを羽織り、淡い水色などの色味を帯びた灰色の髪はリボンできっちりと後ろで結んでいる。

青紫の瞳が冴え冴えと美しい。


「ネア様、これから行く場所は少し道が悪いですからね。足元には注意して下さい」


そう声をかけてくれたのはヒルドだ。

いつの間にかこの二人は相棒のように馴染んでいる。

最近はそこに加わるようになったエーダリアは、本日はリーエンベルクの執務室でお留守番である。

肝心のディノをリーエンベルクに置いてゆくことになるので、念の為に空間を仕切るという規格外な対策を講じ、ダリルが側にいてくれるのだそうだ。

実は今回の作戦において、エーダリアは既に大きな役割を果たしてくれていて、本人もその成果に大満足していた。

初の事例になるらしく、その成功報告をダリルにするのだと大はしゃぎなのだ。


「時間がないのが残念だなぁ。最大で一時間だものね。美味しい氷菓子のお店があるのに……」

「なぬ………。ノア、今度連れていって下さい!」

「やった!行こう。これってデートの約束だよね。だったら張り切って連れて行くよ?」

「むぐぅ…………不本意な認識をされましたが、氷菓子の為にそこは曖昧にしておきましょう。私は狡猾な大人なのです」

「週明けは私も少し仕事に余裕が出ますので、良い息抜きになりそうですね」

「ヒルドがさらっと僕に意地悪する………」

「おや、まさかお二人で出掛けられるつもりだったのですか?」

「ヒルドさんも一緒なら安心です!」


わいわいやりながらノアに持ち上げて貰い転移をしたのは、ネアが見たこともない国であった。

むわりと感じる湿度の高い空気は、どこかアルテアと一緒に落とされた羽飾りの悪夢に似ている。

しかしこちらには、洒落た洋館なども立ち並んでおり、美しく整地された都市文化と寄り添う熱帯雨林という感じがした。


「…………ヒルドさん、今更ですが、こちらの世界にも時差という感覚があるのでしょうか?」

「時差、という言葉からしますと、土地によっての時間の差異があるということでしょうか?」

「そのお返事になるということは、なさそうです。こちらの国はお昼のような明るさなので、ヴェルクレアと時間帯が違うのかなと思いました」


ネアが視線を向ける賑やかな市街や、濃密な緑をたたえた熱帯雨林は真昼のような明るい太陽の光に照らされている。

出立したウィームは真夜中であったので、時差がないとなれば不思議なことであった。


「ああ、この国は太陽の系譜の者が強いので、元々夜の時間が短いのです。こうして真夜中でも明るく太陽が輝いておりますので、この国の住人は自由な時間に睡眠をとるのですよ」

「………そんなこともあるのだと初めて知りました!時間の差がなくてもこうして昼や夜の配分が変わってくるのですね……」

「遮光カーテンが大人気だから、ここは刺繍や織物も盛んだよ。夜の行商人も多いしね。はい、次の転移をするよ」

「よ、夜の行商人?」


ぽんと長距離を飛べる高階位者による転移であっても、土地の系譜や属性によって、転移を踏み分けなければいけないことがあるらしい。

今回の場合は一度市街地の外れに下り立ち、その安定した場を足場にして更に熱帯雨林の向こうにある山の麓の手前に下り立つのだそうだ。


(いいなぁ。これだけ転移が出来れば、美味しいものなんて食べに行きたい放題な気がする……)


ネアのそんな憧れを受けながら三人は二度目の転移を無事に終えて、鬱蒼と茂った森の切れ目である、白い万年雪を頂きに添わせた美しい山の麓に到着した。


見上げる程に高いその山は、中腹から霧に包まれており神々しい装いだ。

背後の熱帯雨林が纏う湿度や熱気と、その山の領域に近付くと漂ってくる冷気の温度差に人間の理を超えた特別な場所であるという感じがひしひしと伝わってきた。

山の系譜と熱帯雨林の系譜が違うので、その温度差からこの森には雨がよく降るようになったらしい。

しかしながらスコールの妖精が現れると大惨事なので、ノアが雨避けの魔術をかけている。


「夜の行商人はね、小さなランプや香炉に夜の切れ端を入れて売るんだ。ぐっすり眠りたい夜に、夜の切れ端を焚いて寝ると格別だよ。この国だと夜も嗜好品だからね」

「そんな風に国ごとの違いがあるなんて、面白いですね。…………そして、目の前に謎の巨大生物が現れました」

「このあたりは、魔術鉱脈が豊かですから、魔獣や竜の類が良く育つそうですよ」

「成程。豊かな土地なので、こんな風に侵入者には荒ぶってしまうのですね。………えいっ!」


三人の前に現れたのは、口泡を飛ばさんばかりに唸り声を上げた巨大な山猫のような生き物だった。

基本的に毛皮の猛獣類には心が少しばかり寛大になる仕様のネアは、腕輪の金庫から取り出した丸い果実をぽいっとその口目がけて放り込む。

小さな小屋ぐらいの体格なので投げ込む口が大きく、さして投球技術は必要ない。


得体の知れないものを口に放り込まれた獣は尻尾をぶわりと膨らませたが、次の瞬間には瞳をぱちくりとさせて、大人しい子猫のようににゃーんと鳴いた。


「可愛い鳴き声ですが、さすがにこれだけ大きいと撫でるというよりは、乗せて貰うという感じでしょうか」

「……………ありゃ、何で餌付けしたの?」

「春葡萄とやらです。本日収穫したばかりで初めての使用でしたが、ここまで即効性があるのは驚きでした」

「…………それはまた、随分と珍しいものを手に入れましたね」


唖然としてしまったノアだけでなく、ヒルドさえもが驚いたように振り返ったので、ネアは目を瞠って、手の中にある薔薇水晶製の美術品のような葡萄の房を見下ろした。


「今夜の狩りに行ってきた森に、もさもさと実っていましたよ?初めて見たので何房か収穫しましたが、まだまだ沢山ありました」

「…………行かれたのは禁足地の森ですよね?」

「ええ。湖に向かう道筋の、大きな木の上の方にたくさんぶら下がっていました」

「…………失礼。ネイ、私は通信を一本繋ぎますので、ネア様をお願いします」


どうやら相当に重宝されるもののようで、ヒルドはすぐさま誰かに通信をかけていた。

叩き起こされて収穫に向かわされるのは、酔い潰れている魔物を刺激しないよう、リーエンベルクの外に居た騎士の誰かであるらしい。

五房ほど捥ぎ取ってきたので、後でヒルドには個人的に一房あげようと思いつつ、便利道具な春葡萄を先鋒を務める彼に少し渡しておいた。

森のあちこちから獣の鳴き声が聞こえ、ネア一人であれば確実に泣きたくなるような賑わいなのだ。


「そろそろ我々の気配に気付き始めましたね」

「気配を消すような魔術はかけられないのですか?」

「うーん、僕も考えたんだけど、楽をすると薔薇のある湖に辿り着けないらしいんだよね。まぁ邪魔なものはどかせばいいだけだから、このままでいいかなって」

「………一般人には出せない結論ですね」

「では、私が道を開きますので離れていて下さい」

「ヒルドさん、無理はしないで下さいね!」

「おや、この程度では怪我などしませんよ」


(………え、この程度という区分なんだ)


深刻な様子もなくそう微笑んだヒルドに、ネアは少しだけ遠い目になる。

この果ての薔薇とやらは、一応は伝説のアイテム扱いの筈なのだ。


すらりと長剣を抜いたヒルドは美しく、本日の保護者役に抱きかかえられたネアは、森のシーの素晴らしい勇姿を安心して堪能することが出来る。


「さては、いきなり湖に転移することも出来ないのですね?」

「うん。排他結界があるんだよ。多分、シルが設けたんじゃないかな」

「それに触れると、ディノが起きてしまったりしませんか?」

「手放したものにそこまで興味ない筈だから、作るだけ作ってそのままなんじゃないかな。………おっと、地滑りもいるのか、厄介だな」

「わ、地滑りさん…………?」


目的地に急ぎながら話していると、ごそりと足元の地面がひび割れて滑り落ちた。

地面にひび割れが生じた段階で、ノアは、ネアを抱えたまま爪先が乗る程の魔術陣のようなものを空中に描き、その上を踏んでいる。

ぼうっと青く光る魔術陣は、二人分の体重を支えるには脆いように見えるが踏みつけると、ぎしりという硝子を踏むような澄んだ音がした。

目の前で地面が崩れて行く光景に本能的な恐怖を覚えて、ネアはばくばくしてしまった胸を押さえた。


「地滑りの魔物はね、土で出来ていて、体全体が口なんだよ。こうやって地面を崩して落ちてきたものを食べるから、あんまり麗しくはないね」

「その説明で興味は皆無になりました。ノア、ヒルドさんは大丈夫でしょうか?」

「羽があるし、ヒルドはこういうの得意そうだよ。………うわ、見てよあれ。痛そうだなぁ」

「………春葡萄をあげるよりも、輪切りの方が早いと判断されてしまったのですね」


ヒルドの方の足場は大丈夫だろうかと目をやれば、青緑色の羽と長い髪をふわりと膨らませて、ヒルドは焦げ茶色の双頭の馬のような生き物を切り捨てたところであった。

飛び散る血飛沫に汚されることもなく、魔術を帯びて淡く輝きながら凛と剣を納めた姿は惚れ惚れとするくらいに美しい。


「すみません、お見苦しいものですが、これで足止めになるでしょう」

「あ、そっか。それを餌代わりに置いていくんだね」

「ええ。ですので、血匂に寄ってくる者達が集まる前に、先を急ぎましょう」


はらりと毀れた一筋の髪が頬にかかり、ヒルドはそれを耳にかけた。

ネアがじっと見ていることに気付いたのか、少し困ったように唇の端を持ち上げて微笑む。


「ネア様は、動物がお好きでしたよね。お心を痛めていらっしゃらないといいのですが」

「茶色い強面の馬さんには心惹かれませんでしたので、大丈夫ですよ。それよりも、戦っているヒルドさんが恰好よくて眼福でした!」

「おや、それは嬉しい収穫ですね」


一瞬目を瞠ってから、ヒルドは目を細めて艶やかに微笑む。

冷淡な美貌が一気に温度を纏うようで、何とも贅沢な微笑みだ。

目にとても嬉しい美しさにネアが喜んでいると、本日の乗り物になっているノアが不満そうに声を上げる。


「ヒルド、役目を交換しよう!僕が道を切り開くよ」

「…………ネイ、この種の戦闘は苦手だと言ったのはあなたですよ?」

「ヒルドばっかり褒められて狡いと思うんだ」

「ノアの持ち上げはとても安定していて、運んで貰っていて安心出来ます。何だかいい匂いもしますしね」

「ネアを抱き上げるからね。昼間に役割分担を決めた時に、ヒルドにお風呂で洗ってもらったんだよ」


褒められたノアは嬉しそうにそう教えてくれたが、ネアは眉を顰めて同じく微妙な顔をしたヒルドと視線を合せた。


「……………と言うことは、これは犬用シャンプーの匂い」

「名前は忘れたけど、何かの花と林檎の香りだよ。僕はこれが一番好きだな」

「少し複雑な気持ちになりますが、私もこの香りは大好きなので、このシャンプーを愛用して欲しいです」

「女の子にいい匂いって言われると幸せだな」


ともかく塩の魔物はご機嫌なので、ネアもヒルドもそれ以上は掘り下げないようにした。

最近は、自らお気に入りのリードを買ってくるぐらいなので、あまり踏み込まない方がいい気がする。

そう判断したネアに、ヒルドが無言で頷いた。


そんな微かな緊張感の中で前進すれば、視線の先に何とも色鮮やかな湖が見えてくる。

だいぶ近くに来ていた筈なのにそれまでは目にも入らなかったので、これが排他結界というものの効果なのだろうか。


「さ、ここが果ての薔薇のある火山湖だよ。あの真ん中の小島に薔薇が咲いているだろう?」

「ほわ、………何て鮮やかな色の湖なんでしょう!このエメラルドグリーンの湖を背景にすると、ヒルドさんがものすごく綺麗に見えますね!」

「ネア、僕は?」

「私を持ち上げているという角度的に、風景として認識出来ません。でも、ノアの色の場合はもっと渋い色合いの方が似合うような気がしますね。あの夜のラベンダー畑の印象が強いのかもです」

「…………懐かしいなぁ」


どこか嬉しそうにそう呟いたノアの髪を、山から吹き抜けてきた冷たい風がさらりと揺らした。

目の前に広がっている火山湖は、絵の具を混ぜたような鮮やかなエメラルドグリーンをしていて、中央の部分は乳白色に染まっている。

色というものにも魔術貴賤があるのであれば、あの真ん中のあたりには随分な魔術の集約があるのだろう。


(…………有毒ガスとかは大丈夫なのだろうか)


湖の淵には何かの成分が結晶化した檸檬色の塊があり、湖の中央にある小さな島もその檸檬色の結晶で出来ていた。

目を凝らせばその結晶には出来上がるまでの色むらが層になっており、針のような含有物も見られた。

その含有物の筋目がまた美しく、鈍い金色の繊細な模様のようだ。


その中央の小島に咲いている薔薇はここからもよく見えた。

普遍的な薔薇色の見事な薔薇が一輪、暗く輝くようにして咲いている。

薔薇に目を止めてから見渡せば、ここはまるでこの薔薇の為に用意された最高の花器のよう。


「ところで、ここの空気は安全なのでしょうか?私の生まれた世界では、火山の周りには有毒なガスが出ていたりしたのです」


火山湖ということなので不安になって尋ねてみると、こちらの世界の火山というものは、火や山の系譜の魔術の練り上げられたものなのだそうだ。

有毒ガスが発生する場所には、火山があるかどうかではなく、毒の妖精や魔物が住んでいるかどうかなのである。


「だから、ここには毒はないから安心していいよ。薔薇の目の前まで連れていってあげるからね。リズモの準備は出来たかい?」

「紐にくくってあります。拘束時間が長くて落ち込んでいるので、きっと良い働きを見せてくれるでしょう。解放されるためであれば、何でもする精神状態になっていると思いますよ」

「………あれ、どうしてだろう。すごい悪役の言葉に聞こえる」

「財運のリズモではなく、収穫のリズモに生まれてきてしまったのが運の尽きですね」

「ネア、もしかして結構荒んでる?」

「大事な魔物が事故に遭い、その事故状態を維持している悪い奴がやはり大事な魔物には変わりなく、尚且つそのせいで大事な魔物を罠にかけています。ここで荒まずとして、いつ荒むのでしょう」

「可哀想に。もうシルはやめておいて、僕にしちゃおうか?」

「ノア、その話題は今、とても危険な領域ですよ?」

「そうだった。やれやれ、先にアルテアの悪巧みがなければ、ネアもくらっと来たかもしれないのにね」

「よろめきません!それはつまり、狐さんが絨毯を傷付ける悪いやつなので、他の狐さんと差し替えるというようなことです。例え絨毯の件では頭にきていても、みんなが狐さんを大事にしているのと同じことですよ」

「…………ごめんなさい」

「でも、今回の件では手を貸してくれて有難うございました。ノアがいてくれて良かったです」


今もこうして、不安定な水面を歩くので抱き上げて薔薇の近くまで連れて行ってくれている。

湖の畔に残ったヒルドは、良からぬものが近付かないか警戒していてくれるようだ。

エーダリアが意思決定したとはいえ、彼等は皆、ほとんど自分の好意を切り出して力を貸してくれているのだ。

その優しさが嬉しくてほろりときそうになるが、まだ成功した訳ではないので気持ちを引き締め直した。


そんなネアの頭の上で、小さくはにかんだように微笑む気配がある。

初めてラベンダー畑で出会ってから、あのリーエンベルクで雪蛍を踏んでしまった日までにどんなことがあったのか、その全てをネアが知ることはないだろう。

でも、記憶を失くしたディノが変わったと言うくらいには、ノアもここで幸せでいてくれると信じたい。


「…………うん。火の祭りのときには、ネアが僕の面倒をみてくれるんだよね」

「お泊り会しましょうね。その為にもディノには元に戻って貰わないとです。今のディノのままだったら、ノアは部屋から追い出されてしまうでしょうし」

「……………すぐに終わらせよう!」


慎重に罠を警戒するというようなことはなく、さくさくと水面を踏んでノアは小島まで送り届けてくれた。

水面を踏むたびに浮かび上がる魔術陣は雪の結晶のような模様で、ネアはその繊細さに思わず見とれてしまう。

辿り着いた小さな島も結晶石が隆起したようなとげとげの構造であるので、ノアが陣を描き足場を作ってくれた。


「下したその位置に立って大丈夫だからね。薔薇そのものには、特に結界はないみたいだ。きっと、願うことで失うものを設定したから、ここに辿り着けさえすれば自由に願わせてくれるんだろう」


湖には嫌な仕掛けがあったけどねとさらりと言うので、どうやらノアが凄かっただけで、罠はあったようだ。


「…………わ、この何もない筈なのに立っている感が不思議ですね。リズモを投げ込む際に、少し動いても大丈夫ですか?」

「うん。不自由なく動けるぐらいには足場にしてるよ。ただ、念の為に薔薇には触らない方がいいね」

「了解です!………ノア、その手があると上手く動けません」


ノアはネアを自力で立たせても、手を離すつもりはないらしい。

脇の下に手を入れられたままだとこそばゆいので、その手は腰に移動して貰った。

いざという時に、さっと持ち上げられるところを掴んでいたいのだそうだ。



「さて、リズモさん。ここでやっと、お役目ですよ」


紐に括られたままネアの金庫から引っ張り出されたリズモは、震えながらミーミーと鳴いている。

潰さないように握って覗き込むと、ネアは安心させるような微笑みを心掛け、語りかける。


「いいですか。今からぽいっと投げる薔薇から、あなたの祝福を使って私の願い事の成就を収穫してきて下さいね。もしそれが出来たら、この紐を解いて元の森に戻して差し上げます」


掴まれて脅迫された毛玉は、ミーミー鳴きながら必死に頷いているようだ。

己の領分である祝福一つで自由になれるのなら、リズモにとっても悪くない話なのだろう。


「では、一投目に入りますね。………とりゃ!」


用心深いネアは、充分に長くかなり頑丈な紐でリズモを拘束していたので、投げられてしまったリズモは綺麗な放物線を描き薔薇の前でぽわりと止まった。

拘束されてはいても魔術でぷかりと浮ける生き物なので、さすがにこの薔薇に激突してはならないという判断をしたらしい。


短くミギミギと鳴いてからぽわりと光り、ぴゃっとネアのところへ戻ってくる。

そして戻って来たリズモは、何やらもわもわとした薔薇色の霞のようなものを纏っていた。

さかんにこちらを見て全身で頷くので、この状態のリズモに願いをかければ良いのだろう。


「私の大事な契約の魔物、万象の魔物のディノが、去年の秋に私と初めて出会ってからの記憶を、全て取り戻しますように」


ネアが願い事を呟けば、薔薇色の霞はきらきらと星屑のように輝き、仕上げにリズモがまたぽわりと光る。


「ふむ。収穫しました。二匹目ゆきます!」

「二匹目………?!」


背後のノアがびっくりしているが、ネアは自身の利益や感情に紐付くことには慎重派である。

リズモは全部で三匹いるのだ。


「私の婚約者である万象の魔物が、戻り時の妖精に刺される事件をきっかけに失った、私との思い出の全てを思い出してくれますように」


「ディノが、私と過ごした日々の記憶を全て取り戻しますように」


三匹目を終えたネアが、晴れやかな表情でもしこの願い事が叶わなかったら、連帯責任で全員フライにするところだったのだと付け加えると、リズモ達は飛び上がってしまい、今度は三匹同時に飛んでゆき、果ての薔薇の願い事成就の権利を自ら収穫して来た。


「あら、今回のはかなり強力そうですね!これで駄目押しします!」

「ネア………」


結果として、ご満悦のネアを抱えて戻って来たノアは、少々怯えた目をしていた。

出迎えてくれたヒルドが、おやっと目を瞠る。


「リズモが少し萎みましたね」

「頑張って二回目もやってくれたのです。これなら、フライにせずに済みそうですね」

「それならば、紐で縛った甲斐もありますね」

「…………わぁ、これ縛ったのヒルド?」

「そちらの一番大きなリズモを縛ったのはネア様ですよ」

「何でこんな特殊な縛り方なのさ……」

「………栞の魔物の祝福のせいなのです。これは、私としても本意ではありません」

「さて、帰りましょうか」



帰り道は迅速であった。

もう薔薇を隠す排他結界の心配をしなくても良いので、転移可能な領域に入った途端、ふわりと爪先を踏み変える。

この湖の近くとウィームは系譜が近いので、踏み変えの必要もないのだそうだ。

しかし難しい転移には変わりなく、帰り道は少々大がかりな飛び方をしたからか、ノアがヒルドも連れて一緒に転移してくれた。


「………ふぁ、ノアは凄いですね」


経由地を設けずに一気に飛んだので、少し目が回り、ネアはくらくらしながらも頑張ってくれたノアを褒める。

見回せばそこは、リーエンベルクの転移の間であった。


「行きは辿り着けないと困るから慎重にしたけど、帰りは早さ重視でね。さ、次はチューリップ畑だよ」

「………ヒルドさん、ノア、有難うございました」


そっと転移の間の床に下ろして貰い、ネアはよろよろしながらも、ぺこりと頭を下げる。

その動作で紐にくくったまま、リードをつけたペット扱いで腕の上に乗せていた紐付きリズモが床に転げ落ち、ミーミーと鳴いた。


「………この妖精は、私が森に返しておきましょう」

「ヒルドさん、有難うございます」


リズモを引き取りながら優しく頭を撫でられて、ネアは胸がいっぱいになる。

このお母さんは怒るととても怖いが、美しく強くて頼りになるシーなのだ。

こんな風に大事にされると、誇らしくて自慢したくなってしまう。

しかしシーに手渡されたリズモ達は、残虐な人間から森と湖の妖精王の手に渡り、また違う慄きに震えていた。


「じゃあ、今度は僕がシルが目を覚ますまで付き合ってるからね。四十五分か。わーお、案外出来るもんだね。僕達って結構いい班だった!」

「運んで貰うばかりで心苦しいです」

「ネアの脅し方が良かったから、リズモがきちんと働いたんだと思うな」


リズモを逃しに窓を開けに行ったヒルドと別れ、ネアとノアはぱたぱたと先程の部屋に戻る。

扉を開ければ、全てのお菓子を食べ尽くして待っていたゼノーシュが、大丈夫だと示すように片手を拳にして高らかに上げてくれた。

そのポーズの可愛さにやられてしまい、ネアは疲労が一気に吹き飛ぶ思いだ。



「目を覚まさないと、記憶が戻ったかどうかはわからないのですね」

「状態保持を解くから、じきに目を覚ますよ」

「念の為に第二作戦が終わるまでは、あえて起こすようなことはしない計画ですが、果ての薔薇の願い事が叶ったのか、早く知りたいです……」


先程と変わらない姿勢でテーブルに突っ伏してすぅすぅと寝ている魔物の頭を少しだけ撫でてやり、ネアは第二作戦に向かうべく、ゼノーシュが差し出してくれた手を取る。


「ゼノ、あちらはまだ動きがなさそうですか?」

「うん。近くには来てないと思う。ネアの命令が効いたのかな」

「ふふ。朝まではリーエンベルクに近寄ってはいけないと言っただけですけれどね」



狡猾な人間はそう微笑み、今度は自然に見えるようにこの部屋からの転移を図る。

眠っているディノの隣にはノアが座り、ネアは事前に小瓶に取り分けておいた巨人の酒をチェックする。


今夜の打ち上げでのネアは、行動を制限しない程度のお酒しか嗜んでいないが、万が一ディノの記憶が戻らず、なおかつこのお出かけがばれた時には、巨人のお酒を唇に塗り、酔っ払いの奇行として誤魔化すつもりなのだ。



「ネア、行くよ」

「はい、お願いします、ゼノ」



(暗躍するにも体力が必要だとは………)


うっかり時計を見てしまえば、ふかふかの毛布に包まって寝台に転がり込みたくなる。

睡眠至上主義の心を抉る時間であるが、これから作戦も大詰めであるので背筋を伸ばした。


(チャンスは一度しかないから、全部やっておかなければいけない………)


二度目の機会は与えられないだろう。

となれば、今回のことで警戒されてしまい、規制や強制をかけられるまでが勝負なのだ。

そう考えたネアは全ての施策をこの夜に詰め込んでしまったし、エーダリア達もまた同じ意見であった。

これが駄目だったのでまた後日という甘いことは言っていられないのだ。




『記憶が戻らないように、何某かの工作をしているのはディノ本人のようなのです。………と言うか、今のディノなのだと思います』



あの日、洗濯妖精に託したカードは、宛名の通りきちんと内密にエーダリアに届けられた。

上司でもあるエーダリアと、このリーエンベルクに住む家族のような仲間達にその情報を共有して貰い、ネアは、よりにもよって万象の魔物を欺かなければならないという厄介な事態を克服する為の作戦を皆と組み立てた。


当初ネアは、諸々の恵みが大きい満月の明日を目指していたが、抜け目ない書架妖精の指摘によって、明日動くと匂わせておき今夜の内に済ませてしまえという、狡猾な作戦に変更されている。


(こういうところが、一人では考え切れない部分だから、やっぱりダリルさんは頼もしい)


夜雲雀を捕まえたいのだという言葉が第一の囮になり、実際の決行日をも欺いている。

また、それだけではなくもう一つの懸念であるアルテアの悪巧みに対しても、用心深く対策を練ってあるのだが、その邪悪さには発案者のネアにダリルが呆れるという一幕もあったそうだ。



転移で降り立った地面が、ブーツの爪先に柔らかく沈む。

ここは、植え替え用兼、魔術を浸透させた良い球根を育てる為のチューリップが植えられた大きな畑だ。

街の景観用のチューリップなので、エーダリアが領主の権限で真夜中の祝福の結晶狩りを許してくれた。

傾いた月の光の下で、春の夜の風が整然と並んだチューリップを揺らしている。

さわさわと揺れたその影を一望して、よしと頷いた。



ここからは第二作戦こと、失せ物探しの祝福結晶の収穫に入る。

敵襲があるやもしれず、気を張るのはこれからだ。





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