晩餐とご褒美
戻り時の妖精のせいで、出会って一日に満たない魔物と二人きりで晩餐をいただくことになった。
本来、契約の魔物は排他的な生き物である。
その性質を警戒して、エーダリア達からは晩餐の時間を分ける提案を受けた。
少し前の心境であれば、暴れて嫌がるところだったが、今は少し心が落ち着いたのですんなり頷いて同情心を煽っておく。
エーダリア達はまだこの魔物が既にネアのストーカーであるとは知らないが、それでも二人きりの晩餐を提案したことに、ネアは少しご機嫌であった。
(…………信頼してくれたということなのだ)
あの対策会議では無能さを露見してしまった上に、その後で試合放棄して逃走までしている。
それなのに、二人でどうにかするようにと任されたのだ。
失敗すれば、この土地に災厄を招きかねない特等の魔物の調教なので、不安があると思えばみんなで囲んで万全を期する作戦でも良かった筈。
それを信じて委ねてくれたことに、こそばゆい誇らしさを覚えた。
期待にお応えして、がっつりこの魔物を無力化しておこう。
ふむと頷いたネアの隣で、出会ったばかり仕様になっている魔物が少し不安そうにしていた。
隣の人間が何とも悪辣なご主人様だと知ったばかりなので、かなり警戒している。
しかし、ご褒美がまた欲しいという相反する欲求もあるらしく、ちらりちらりとネアを盗み見ていた。
「…………ここで食事をするのかい?」
「ええ。いつもはエーダリア様達も一緒ですが、二人の時間を大事にするように気を遣ってくれました。良い上司なのです」
「………君は、あの人間がお気に入りなのかな?」
「あら、情深く理解があり、他の方にちょっと自慢出来るくらいに素敵で、とても凄い魔術師さんなのです。尚且つこちらが優越感を覚えることが出来る程度に絶妙に不出来なところもある上司ですよ?かなりの逸材ですし、何しろエーダリア様は、かつてディノに一目惚れしてしまったくらいにディノのことが好きなのです。自分にとって大切なものを好いてくれるのですから、尚更好感度が上がってしまいます」
「…………え、すごく嫌だな」
「ふふ、大丈夫ですよ。エーダリア様にはもうヒルドさんがいますし、今は憧れの風竜のお嬢さんと文通もしています。ノアとも仲良しになっていました。つまり、終わった恋の話ですからね」
「…………恋」
ご主人様の上司から、かつて片思いのお相手にされていたと知った魔物は少し落ち込んでしまったが、ネアが勧めた椅子にすとんと座って大人しくしていてくれた。
「君の好きなフレンチトーストは出るかな?」
不意にそんなことを言われて、ネアは瞬きした。
それは、元の世界にいた頃のネアの大好物の一つだったが、こちらの世界に来てさらりと世代交代の波間に消えていた。
「………ものすごく見られてた感じに戦慄を禁じ得ません。それに、フレンチトーストは朝食の領分ですね」
「もうあまり好きではなくなってしまった?」
「ふふ、今でもきっと好きですが、ディノが連れて来てくれたこの世界には、新しく夢中になる美味しい食べ物がいっぱいあるんですよ!美味しいものが容赦なく食べ尽くせる環境と、経済状態にしてくれたディノのお陰で毎日幸せです」
こちらで出会った素晴らしい食べ物を思い浮かべご機嫌で微笑んだネアに、ディノは暫し機能停止した後に、しおしおと俯いてしまった。
「………ディノ?」
「…………どうしよう、動いてる」
「ものすごく初期的なところで動揺されてしまうと、これからが思いやられます」
意地悪をされたのがとても嫌だったので、二度と悪さをしないようにたくさん撫で過ぎたのだろうか。
籠絡出来るのは助かるが、機能不全になってしまうのは少し困る。
「前はここまでではなかったのですが。………あ」
「………ネア?」
「そう言えばあの頃は、ゆくゆくは手放す予定だったので適度な距離感を意識していましたし、まだディノがよく分からなかったので扱いに苦労しました」
「………そうだったんだね」
このディノは、ネアがよく知っている魔物のようにくしゃりとなったり、酷いと騒いだりはしない。
どこか傷付いたような静かな声でそう呟き、ぞくりとするような透明な瞳を細める。
これはまず間違いなく、またそんなことを考えるようであればどうしようかと企む酷薄な独占欲の露見であるので、ネアは手を伸ばしてその頬をそっと撫でてやった。
「………ネア?」
ぎょっとしたように距離を空けられ、ディノは撫でられた頬をさっと押さえた。
加害者に向けるような責める眼差しだが、目元を染めてるので攻撃が効いているらしい。
「でも今は、ディノが頑張って私を安心させてくれたお陰で、私はすっかりディノでなければ駄目になりました」
「そうであるならばこそ、君にとって今の私は不愉快なものなのではないかい?」
その質問には少しの毒が潜み、丁寧に磨かれた銀器を指でなぞりながら、ネアは唇の端の微笑みを深める。
ストーカー告白のお陰でもう安心してしまったので、ここからは素直にいられることがこんなにも嬉しい。
勝算があるならば、人間らしく強欲に生きる自由さを行使出来る。
(………そして、少しだけ分かった気がする)
ネアはここで一つ、とある推理を固めていた。
しかしそれを精査するのは、後で一人になってからでも良いだろう。
「正直に言えば、どんなあなたでも構わないと言える程に、私は善人ではありません。二人で乗り越えてきた時間にも未練があります。でも、幸いにも今のあなたも私を必要としてくれているので、安心して大好きでいられると発見しました」
「私が君に興味を示さなければ、その好意は失われてしまった?」
「私自身はとても望ましくないことですが、…………ええ、多分。あなたは特別なので暫くは頑張って袖を引くでしょうが、やはりその苦しみには上限があります。私はどこかで諦めるでしょう」
率直な答えに魔物は小さく頷いた。
さらりと揺れた真珠色の髪は、ふわりと流す一本結びに変更されている。
晩餐の前にお気に入りの入浴剤を試していたので、お風呂に入ってからもまた三つ編みにするということはなかった。
この魔物はまだ、ネアが自分の髪の毛を三つ編みにしてくれるオプションがあることを知らない。
「その場合は、………他に代わりになるものを君は選ぶのだろうか」
「………きっと私は選ばないでしょう。私の理想を言えばどうしてディノだったのか不思議なのですが、あなただからこその何かがそこにあったのです。そもそも私は、他者を自分と同じように愛することが苦手だという欠陥がありますので、こんな風に奇跡的に上手くいくことはもうないでしょうね」
決して後ろ向きな発言でなかったが、それを聞いていた魔物が僅かに狼狽するのがわかった。
その些細な反応に、こんな言葉に心を揺らしてくれるくらいの無防備さが愛おしいと、ほろりと考える。
一緒に過ごした時間が失われても、やはりこれはネアの大好きな魔物なのだ。
「私が去ったら、一人で生きるというのかい?」
「正確には、お仕事で関わる方や友人もいますから、完全に一人ではありませんよ?それに幸いにも人間の寿命は短いので、ディノがたくさん大事にしてくれたこの半年余りの思い出を上手く再利用しながら、心を和ませて生きていけそうです」
「人間は強欲だと言った君が、そんな風に生きられるものかな」
「強欲だからこそ、私は選り好みしますからね。あなたのことも、最初は何とかして手放そうと考えていましたし、人間というものは、ここまで大切なものがなくても生きてはいける大雑把な生き物なんですよ?」
窓の外は少し風が吹いている。
雪に染められた冬の夜の青白さが失われ、春の夜は墨闇に花明かりの夜の光であった。
「………大切なものがなくても」
「ええ。それはとても悲しくて不愉快なことですが、私にとっては何を今更というところです。無理をしてまたちくちくする着心地の悪いセーターを着てみるより、素敵なセーターを着ていた日々の思い出を噛み締めてのらりくらりと生きていけるでしょう。今回は素敵なお友達もいますしね。………あ、でもペットは飼うかもしれません!」
「…………ペット?」
「そう言えば、最近可愛い野良竜を見付けたのでした!………ペットがいれば、一人ぼっちの老後でも偏屈になったりしないかもしれませんね」
「…………野良竜」
ネアが、そんな人生も案外行けるかもしれないと考え始めてしまったので、少し心を面倒臭く拗らせて質問を重ねていた魔物は慌てたようだった。
何となく最悪の場合の将来の展望も見えたので、いざ晩餐に向かおうとしたネアは、お行儀の悪い魔物に突然しがみつかれる。
「私がずっと傍にいるから、竜を飼うのはやめようか」
「む。では、ずっと傍に居てくれると約束してくれますか?きちんとした約束がないと不安なので、今の内に目ぼしい竜を狩っておいた方がいいかもしれません」
「さっきのものではまだ不安だったのかい?幾らでも約束してあげるし、君は私の指輪を持っているだろうに」
「人間はとても脆弱なので、保険をかけてしまう狡猾な生き物なのです。そして、不安が高じると、自棄になって問題ごとぽいっと捨てて心をすっきりさせてしまいます。………ディノはずっと私のものでいてくれて、この指輪を取り上げようともしませんか?」
執念深い人間は、ここでさりげなく虐められたことへの復讐も果たしてしまうことにした。
やられてばかりではないのだ。
大好きな魔物であっても、やはりネアは自分の事も大好きなので、頭に来たらどこかで自分に害を為すものは捨ててしまうだろう。
ご主人様の目がとても暗いからか、その残忍性に気付いた魔物がいっそうにネアを抱き締めた。
「しないよ。それも約束しよう。私はずっと君の傍にいるし、全てがずっと君のものだ」
「…………今のディノも、私のものなのですね?」
「そうだよ。だから、竜と暮らすことなんて考える必要はないからね」
真剣に頷いた魔物をちらりと見上げて、厳しい顔を緩めて微笑むと、ネアは手を伸ばしてその頭を撫でてやった。
この魔物の甘い囁きには勿論、ネアが自分を必要としていることを見越した魔物らしいあざとさも滲む。
しかし、そんなディノの傲慢さも、ネアにとってはとても貴重な約束であった。
「では、今のディノのこともずっと大好きなまま、安心して一緒にいますね。それと、私の食事の邪魔をすると好感度が下がって行く仕組みなので、覚えて下さいね」
「……………わかった」
悪い人間にたらされてしまった挙句に叱られて、魔物はきちんと手を離してくれる。
ネアが最も危惧していた力関係の再習得も出来そうなので、しめしめとご主人様がほくそ笑んでいるが、まだここで文句を言う程の余裕は今のディノにはないらしい。
撫でられた頭を押さえて、たいそう恥じらってしまっている。
(少しずつ、今のディノの違いが分かってきたかも知れない)
ネアのよく知っているディノと比べると、やはり狭量であるのは、まだネアに対する信頼度が育まれていないからなのだろう。
細かく交わしてきた諸々の約束も反映されていないし、最初からネアに望まれているこちらのディノは、少しだけご主人様を丸め込もうとする傾向が強い。
(だとすると、場合によっては怖がらせてみよう的な仕打ちもまたされてしまうかも?)
あの頃は好意の確認という捻くれた意図もあったのでそこまでのことはないかも知れないが、少し目を光らせておく必要もあるだろう。
特に、自分が見付けてきた筈のネアが、いつの間にかこちらに友人達を得ていることに疎外感を覚えている様子を見せるので、どこかで一番の身内はディノなのだとさり気なく安心させることもしておかねばなるまい。
(都合よく少し懸念材料が出てきたから、明日あたり相談して頼ってみようかしら)
悪巧みするだけの心の余裕を取り戻した人間は、そんなことを考えながら、甘い声で魔物に話しかける。
「ディノ、このトマトのピクルスはあなたの好物だったんですよ。それとほら、このグヤーシュも。私はホイップバターが大好きですが、最近はこちらの赤い香辛料のバターとレバーペーストにも夢中です」
料理人は心得たもので、本日のメニューにディノの好物をたくさん入れてくれている。
一瞬はエーダリア達からの指示かとも思ったが、こういう気遣いをしてくれるのがリーエンベルクの厨房にいる者達であった。
「…………トマトのピクルス」
「ええ。私はこちらの世界に来て、誰かと一緒に当たり前のように毎日食事をする喜びを取り戻しました。今日はね、というようにお食事しながらお喋りしていると、その贅沢さに自分がものすごく幸せ者になった気がするのです」
そろりと伸ばされた手が、ネアの頭を優しく撫でた。
「ネア、もう一人で食事をしなくてもいいよ。誕生日のケーキを一人で食べ切れなくて悲しくなることもないし、怖いことがあっても一人で頑張らなくていいからね」
「…………ディノ」
こういう不意打ちの優しさは、とても狡い。
柔らかな声に心を撫でられるようで、胸が詰まって息が止まりそうになった。
(そうか、……このディノは、そんな風に暮らしている私を見てきたばかりのディノなんだわ)
酷い嵐が来た夜も、ネアが心を傾けて心配するのは庭木や雨樋のことばかりで、長靴で滑って転んでも、血の滲んだ膝は自分で手当てするしかなかった。
幸せそうな家族連れが行き交う日曜の市場を一人で歩き、行ってみたいけれど一人では入れないままのレストランもあった。
「………この前、気象性の悪夢がきたのです。ディノがいたので一人ではありませんでしたよ。それに、お休みの日は一緒にお出かけしますし、私の苦手な虫が出るときちんと守ってくれます」
「今の私にはその記憶はないけれど、これからはそうしてあげるよ」
「…………むぐ。記憶をなくしてしまうなんていう心配をかけたくせに、甘やかして泣かせる魂胆ですね!」
「おや、君が泣いてしまうのは可哀想だけど、泣いてしまうところも見てみたいな」
「………なぜにいつも興味津々なのだ」
今度は余裕たっぷりに微笑んだ老獪な魔物に、ネアはその腕をばしばしと叩いて反撃した。
籠絡しようとしているのはネアの方であって、籠絡されてしまう為のお喋りではなかった筈なのだ。
「…………それ可愛いね。もっとやっていいよ」
しかし、目を瞠った魔物がそう喜んでしまったことで、ネアはテーブルに突っ伏して己の行動を呪いたくなった。
「リセットした筈なのに、どうして順調にご褒美が増えてゆくのだ………」
またよしよしと頭を撫でられたのでディノの方を見てみると、どこか期待に満ちたきらきらした目でこちらを見ている。
頭を撫でると叩いて貰えるのだろうかと考えたらしい。
「…………こうなるともう、本物だと言わざるを得ません」
晩餐が終わり、心配しているだろうエーダリアに、取り敢えず魔物との関係が落ち着いたと報告に行けば喜んでくれたが、合わせてやはり本物の変態であった旨を伝えておくと、とても嫌そうな顔をされてしまった。
ネアは、自分の推理をまだ誰にも話していない。
今回の事件では、誰の手を借り誰と協力するのか、或いは誰が敵になり得るのか。
それをしっかり見極めなければ、宝物は二度と取り戻せないだろうから。
ちゃぽんと揺れたお湯に顎まで沈み、貴重な一人の時間を確保出来るお風呂に感謝する。
浴室のタオル用のクローゼットと扉からでもディノに貰った厨房に抜けられることがわかったので、ネアはその中で幾つかの短い手紙を書き、支度を整えたりして準備を進めておいた。
作戦には天候も関わってくるので、決行の日は四日後の夜だと決めている。
自分の手の中にある選択肢のカードを思い、ネアはとても残虐な顔をした。