117. 現実逃避にも時間制限があります(本編)
ディノが戻り時の妖精に刺された。
いつもであれば、困ったことになるのは大抵ネアで、その外周で専門家たちによる会議が繰り広げられているのが常である。
しかし、今回はネアもその対策委員会に入ってしまった為、自分が一人で放り出されると出来ることがあまりに少ないのだと、しみじみ己の無力さを思い知ることになってしまう。
対策委員会の面々が顔を合わせたのは、その種の厄介な事件の度に使用されている部屋であった。
大きな円卓があるエーダリアの執務室の一つで、会議に向いたスペースのある大部屋の方だ。
個人の執務室もそうだが、エーダリアの権限の部屋は、どこも落ち着いた色彩で統一されており装飾も控えめだが、ウィームらしい寒色で纏められた部屋には鎮静効果がある気する。
「まだ戻らないのが奇妙なんだ。本当に、持ち出された禁術は擬態のものだけなのかい?」
そう尋ねたノアに、エーダリアが重々しく頷く。
いささか表情が強張っているのは、この部屋に同席している万象の魔物が、今回の事件で初対面の魔物になってしまったからである。
当のディノは、部屋の窓際にある歓談用の長椅子で自堕落に寝そべっていた。
少し前まで所在なくうろうろしていたが、飽きてしまったらしい。
自分の運用が薬の魔物だと聞いたことが不思議だったのか、手慰みに薬のようなものをぽんぽんと作って遊んでいた。
エーダリアが時々ぎくりとするので、どんな薬を作っているのかネアも気になってしまう。
「今回の犯人は、魔術の使い手としては下位と言ってもいい。持ち出した禁術を工夫するのが精いっぱいだろうし、あの研究室では擬態以外のものは取り扱っていないからな」
「その時はディノ様も擬態をしていたそうですし、何某かの相互作用ということは考えられませんか?」
「身に受けた毒を無効化した筈なのに、その作用が残るというのが妙な話なんだよね。僕達はさ、この作用をこの薬や魔術で押さえて、とかそういうやり方じゃないんだ。こういうものはいらないやって事象ごと排除出来る筈だから」
「…………その階位になると、そうも容易いのか」
あまりにも大雑把な修正方法に、エーダリアが呆然と聞き返す。
頷いたノアは、青紫の瞳を眇めて、珍しく魔物らしいしたたかな表情を見せた。
「階位と資質にもよるけれど、公爵位の魔物はそんなものだね。勿論個人差や、見合った階位によってここから先は難しいという線引きはあるよ?でも、戻り時の妖精だしなぁ………」
そこでゼノーシュが、小さくあっと声を上げた。
「その女の子の系譜はどうなの?ただの人間だった?」
「ええ。私も気になって調べたのですが、混ざりものではない生粋の人間でした」
「それごと擬態しているってことはない?シーの継承権があると、呪いをかけられるよ?」
「ないでしょうね。ダリルの門下の者が、それはもう徹底した調査をかけましたから」
「…………例のガーウィンの信奉者か。よりによって、最も厄介な男の手が空いていたものだな」
「エーダリア様はあの男を倦厭されてますが、彼の手が空いていたからこそ、すぐに判明したのでは?」
その問題の人物は、ガーウィンの枢機卿であるらしい。
生粋の人間の筈なのだが、魔物のように悪辣で、妖精のように執念深いと有名である。
言うところの天才というものでもあるらしく、彼は悪辣な魔術に長け精神への介入や調整に長けている。
ヒルド曰く、拷問と洗脳に向いた魔術の質であるそうだ。
事態を重く見たのか、本日はデートの予定があったそうなのでむしゃくしゃしていたのか、ダリルはそんな一番弟子の一人に、ネアとディノにコグリスに擬態した戻り時の妖精を差し向けた女学生の調査を任せた。
(理由は、とても月並みなものだった)
拍子抜けするくらいにとても普遍的で、だからこそ防ぎきれない切実なものであった。
ウィームにある大学の魔術学科、そこで擬態魔術を専攻していたエステルという女学生は、友人達と通っていた温泉プールでディノを見かけ、恋に落ちたのだそうだ。
彼女曰く、あのプールで初めてディノを見たとき、白く長い髪を持つ魔物の美しさに圧倒され、それは魂を揺さぶるような衝撃であったらしい。
「珍しいことではないのですよ。高位の人外者には、元々魔術的な汚染域があります。それが大きければ大きい程に、どれだけ擬態していようと、その種の影響を引き出してしまう者が稀に出てしまう」
その種の者は、例えば宗教的な教えを取り込み易かったり、魔術の浸透率が異様に高かったりするそうで、生来の気質や体質であるらしい。
注意を惹かないように調整されたものを見つけ出して目を止めてしまうことも多く、事件や事故に巻き込まれやすいという特徴もある。
これは、お伽話によくある、みんなで遊びに行った森で一人だけ異形の者を見てしまう子供などの表現で、その最たる例が児童教育で説かれているという事例でもあった。
お話には幾つかのパターンがあり、一人だけおかしなものを見てしまった子供達は、その事実を賢く共有することで大人達をも唸らせる成果を上げたり、一人で真相を確かめに夜の森に出かけて行って魔物に食べられてしまったりする。
つまり、そのような体質の子供達に、“他者より長けている能力が与える脅威”の教訓として語られる物語なのだ。
エステルは恐らくそういう秘めたる才能を持った人間であり、魔術階位が高くないのにも関わらず、擬態していた魔物の王を見つけ出して恋に落ちてしまったということであった。
「本人は恋だと言っているが、まだ魔術師としては未熟な学生だからな。己の衝動をその言葉でしか表現出来なかったのだろう。魅縛というものは、人外者からの精神汚染としては珍しくないことなのだが」
エーダリアの意見では、それは恋などではなく、高位の生き物による精神汚染の一種としての崇拝に近しいものなのだろうと言うことだった。
「でなけば、悪しき捕縛者から解放して差し上げようなどという言葉を言うものか。その上で、禁術の擬態魔術も戻り時の妖精などではなく、媚薬を飲ませる為にでも使うだろう。媚薬の類いは資金さえあれば幾らでも強いものが買えるからな」
「まぁ、人間って結構いい加減に自分の辞書にある言葉で表現しちゃうからね」
「…………それはつまり、その方はディノの為だと思って、戻り時の妖精さんをコグリスに擬態させたのですね?」
「ああ。プールでの会話を盗み聞きして、お前達が出会ってから、まだ一年以内だと知り得たらしい。戻り時の妖精の毒が解放に使えると踏んで、周到に準備を重ねていたそうだ」
「………と言うことは、随分前から?」
「出会った初日には心を動かしていたようだからな。少なくとも一月以上前からだろう」
ディノをプールに連れて行ってやったのはネアだ。
そうして様々な体験をさせるのは、良いことや楽しいことだと思っていた。
しかし、本来ない筈の場所に特等の魔物を入れてしまうと、こうした歪みもやはり生まれてしまうのか。
罪悪感と後悔と、せっかく得た体験を阻害された苛立ちとで、心の中が重苦しくなる。
何でもない日々が、見慣れない小さな世界が楽しいと言ってくれていた魔物が今回の時間のあらましを知れば、その心は不快感や不信感で曇ってしまわないだろうか。
膝の上で握った手の甲が、微かに震えそうになった。
そんな風に表情を強張らせたネアに、ノアが気遣わし気にこちらを見る。
「ネア、今回は手段が変わってただけで、僕達にはこういうことは良くあるんだよ」
「………ノア。でも、プールに連れて行かなければ、その学生さんと会わせずに済んだのは確かなのです」
「あはは、そこで悩んじゃったのか。君が責任を感じる必要はないよ。どこに行くのか、どんなものが好きなのか、それを選ぶのは僕達自身だからね」
どんな選択であれ、それを自分達に強いることは出来ないのだと語るそれは高位の魔物らしいとても高慢な物言いであったが、ネアは少しだけほっとした。
「それに、良く似た事件そのものは昨年も起きておりますから」
ヒルドがそう補足してくれたので、ネアはその視線を向けられたエーダリアの表情を窺う。
銀色の髪に澄んだ鳶色の瞳を持つ元第二王子は、ああと頷いてやけに遠い目をした。
エーダリアは、憂鬱そうな顔をすると怜悧で人間らしい美しさが際立つ。
「ウィームの貴族の娘とガレンの女魔術師が、やはり禁術を盗むことがあってな。あの騒動は二度と思い出したくない」
「まぁ、そんな酷い騒ぎになったのですね………」
「その二人は姉妹でして。一目惚れしてしまったエーダリア様を捕縛するべく、檻の魔術の禁術を展開したのです。エーダリア様は捕縛等の対応策として置き換えの魔術をダリルと結んでおりますからね、結果、代理で檻に捕らわれたダリル自身からの報復と、師を檻などに閉じ込めたということで、ダリルの門下生達が暴れに暴れまして………」
ヒルドも遠い目になったので、ゼノーシュが続きを教えてくれた。
グラストも巻き込まれたらしく、少しぷんぷんしているのが可愛い。
「すごかったよ。みんなでバラバラにして、呪ったり魔術の材料にしたりしたから、全部なくなっちゃった」
「…………バラバラに」
「貴族の家の娘達でしたが、ダリルの弟子である宰相の息子が上手く手を回して抗議を封じたのですよ。解体そのものの指揮を執ったのはガーウィンの弟子の方ですね。まぁ、あの件が騒ぎになったお蔭で、エーダリア様の周囲には狂信的な護衛が多いという喧伝にはなりましたので、無駄ではありませんでしたが」
その事件を参考にしても、こちらの世界での魔術を悪用した事件への処罰というものは中々に厳しいようだ。
となると、今回の事件の犯人の処遇が気になってくる。
「今回の学生さんはどうなるのでしょう?」
「魔術に食われるだろうな」
素っ気なく口にしたエーダリアの言葉は、同じ分野での到達者の一人として厳しい。
その理由を続けるヒルドの声も冷ややかだ。
「魔術学科を選ぶ生徒達には、魔術指導の理により、入学の際に誓約が求められます。守られた魔術を盗むこと、禁じられた魔術を使うこと、外部に被害を出し魔術の師の名を貶めること、この全ての違反が適応されてしまいますからね」
稀に天才と言われる学生で、その誓約を上手く躱す者もいるらしい。
自身の魔術の技量が強いられる誓約を為す者より上回ればいいのだそうだ。
しかし、今回の事件の犯人であるエステルは、それを掻い潜るだけの才覚はない。
三つもの大罪を犯したともなれば、魔術に食わせるという形で、大学の魔術基盤に飲み込まれてしまうだろうということであった。
因みに、師の名を貶めるだけだった場合は、師が愚かな弟子を魔術の材料として好き勝手に出来てしまう好機でもあるらしく、彼女の学科の教授は滅多に得られない材料を逃して悔しそうだったのだとか。
擬態専攻の教鞭を取る魔術師は、中階位の魔物なのだそうだ。
安全に人外者から教えを請えるということで、有名な魔術学校程、教師は人間ではないことが多い。
逆に言えば、学園という枷の外で人外者からの知識を得られるということは、それだけ稀なる恩寵とされるのだ。
「エステルさんがどういう方だったのか、記憶を辿ってみても思い出せないんです」
「同じプールで何回か一緒だったってだけだし、特別目立った行動でもしない限り、そんな周囲の人間なんて見てないのが普通だよ。それとも、会って報復したい?」
魔物らしくそう尋ねたノアに、ネアは首を振った。
「まっとうな裁きを受けないのであれば、ブーツで蹴散らしに行くのもやぶさかではありませんが、きちんと捕縛されて罪を償うのであれば、私はこれ以上関わりたいとは思いません」
「うん。それがいいだろうね。時々、自分の男に手を出す奴の顔を見てみたいって嗜好もあるけれど、会っても不愉快なだけだろうし」
「………ノア、さてはご自身の体験談ですね?」
「あの時は、僕も刺されそうになったし大変だったなぁ………」
「…………ところで、あのままで問題はないのか?」
ここで話題は再び、戻り時の妖精の毒の影響が抜けないディノのことに戻った。
心の時間を戻されてしまった以上、ここに居るディノには積み上げてきた好意や執着も残っていない。
それはネアだけの問題ではなく、万象の魔物という存在を取り込んでしまったリーエンベルクにも影響する不安要因であった。
やはり今のディノの扱いは難しいのか、エーダリアにそう尋ねられたノアが少し複雑そうな表情をしたので、ネアは、立ち上がって長椅子の上で薬作りの遊びをしているディノの側に歩み寄った。
視線を持ち上げて、何?というようにこちらを見た艶麗な魔物に、腰を落として視線を合せてやる。
縮まった距離に困惑してしまうのが悲しい。
その悲しさを噛み殺して、ネアは出来る限りの整った声で話しかける。
「今、ちょっとだけお話してもいいですか?」
「構わないよ」
「やはり、皆さんにもどうしてあなたの心の時間が戻されたままなのか、まだわからないようなのです」
「うん、そうだろうね」
素っ気なく頷いた魔物の姿には、同意というよりは当然のことのような高慢さが滲む。
自分にも改善出来ないことが解る筈もないということなのだろうか。
「対応策が見付かるまでの間なのですが、少し前までのディノがそうしてくれていたものを、そのまま維持して貰うことは可能でしょうか?」
「展開している状態魔術や守護を、そのままにして欲しいのかい?」
「ええ。この状態は一過性のもので、すぐにあなたの記憶が戻るかもしれません。なので、暫くは様子見という形を取って貰えないでしょうか?」
「…………確かに、あちこち調整をかけているみたいだね。それに、…………ふうん、これは手放したのか」
「その中で、負担をかけるようなものはありますか?」
「………どうだろう。負担かどうかは、まだ自分がどう感じるのかわからないな。どんなものなのか試してみたいから、このままで構わないよ」
「……………良かったです。では、その中の何かを手放したくなったら、私に相談して下さいね。ものによっては、あなたが手を離してしまう前に、どなたかに引き継がないと危ないものもあるかも知れません」
「その指輪のことかい?」
静かな声でそう尋ねられて、ネアは息が止まりそうになった。
その質問は当然だという気持ちと、どうしてそんな恐ろしいことを聞くのだろうという苦しみとの合間で、血の気が引き胸の底が冷え込むのがわかる。
「いいえ、私が心配したのは、結界補強などのことでした。………この指輪の代わりを、どなたかに引き継いで貰うことはありませんので少し様子を見てくれると嬉しいですが、あなたを削っていただいているものですから、取り戻したいと思ったら言って下さいね」
微笑もうとして、少しだけ眉が下がってしまった。
しゅんとした様子に気付いたのか、鷹揚に魔物が微笑む。
「そのままでいいよ。だって君は、私の歌乞いなのだろう?」
「はい………。有難うございます」
安堵して微笑みかけたネアに、すいと伸ばされた手が髪に触れた。
そうして触れられることが少しだけ怖いと思ってしまい、その身勝手さに申し訳なくなる。
「私が怖いのかい?」
「あなた自身が怖いのではなく、どう反応したらいいのだろうと困ってしまうことへの怖さがあります。あなたはあまりにも近くにいたので、今更どうやって初めましての距離感を作り直せばいいのかわからないのです」
「へぇ、変わったことを気にするんだね」
(……………ああ)
その返答を聞いた時、ネアは、ここにいる魔物は自分が初めて会った時の魔物とすら違う生き物なのだと思い知らされた。
あの、かつてネアが出会ったばかりの頃の万象の魔物ならば、こうもぞんざいにこちらの言葉を流し捨てることはなかっただろう。
見知らぬものであったあの魔物だが、それでもネアを気に入っていると公言してはばからないが故に、とても優しい魔物であったのだ。
「ごめんなさい、私はあまり柔軟な性質ではないのです。どちらかというと、面倒になるとぽいっと問題ごと捨ててしまうか、完全に締め出してやり過ごしてきたことしかないので処理能力が足りません」
割と早い段階で心が折れたネアがそう告白すれば、ディノは驚いたように目を瞠ってネアの瞳を見返した。
これまでに散々足らない部分を補って欲しいと言えたのは、今迄のディノがネアのことを望んでくれていたからだ。
今はそうではないとわかっていても、あまりにもうわの空で返事をされると、微笑みを維持するだけの表情筋も死んでしまう。
渡されたボールをぽとりと落としたようなネアの反応に、背後の誰かの気配が動揺するのがわかったが、こればかりはどうしようもなかった。
魔物というものの心の風向きは、酷く気紛れで酷薄だ。
自分の魔物だからという意識を持って、こうして話をしにきたことが虚しくなるくらいの他人行儀さなのだから、勝手に自分事にされるということはこの魔物にとっては不本意なことなのだろう。
下手に素人考えで立ち回ってげんなりされてしまうより、現状これだけのゆとりしかないのだと白状しておこう。
「…………君は、私がどう考えているかわからないんだね」
続くその呟きは、奇妙に静かなものだった。
得心気味にそう呟き、ぞっとする程に美しい生き物が、首を傾げて小さく唇の端を持ち上げる。
「はい。わからないということへの対処法もわかりません。私は、元々社交技術が壊滅的なのです」
「では、どうして欲しいのか私が決めればいいのかい?」
「決めて欲しいですが、決めて貰ったものであっても、私の能力が足らない場合は応じられません。そんな有様なので、こんな風に困ってしまいました」
「成程、それが君の持つ怖さなのか………」
目の前の魔物はもう、ネアの見慣れた魔物のように、無防備に稚く微笑むことはない。
したたかで妖艶ですらある、魔物そのものの目をして狡猾に微笑む。
それを悲しいと思っているネアには気付いていても、だからといって心配そうに眉を顰めることもない見知らぬ生き物。
「では、今迄通りにしておいで。それが私が得てきた私のものなのであれば、得るべき権利が私にもあるだろう?」
「それはつまり、変わらない接し方で良くて、尚且つ先程言ってくれたように、私の魔物として傍に居てくれて、リーエンベルクで薬の魔物としてのお仕事もしてくれるのでしょうか?あなたの友人や良い隣人だった方々を損なったりもしませんか?」
「おや、躊躇っていた割には随分な要求だね」
「それが人間というものなのです。手持ちが少ないので、隙を見せればこれ幸いと毟り取りますし、重要なことは重ねて確認してしまいます」
がっちり前の発言の再確認までしてしまったネアに、ディノはどこか愉快そうに微笑みを深めた。
他の者達が息を潜めるようにして成り行きを見守っているその部屋に、微笑みを深めた瞬間の笑うような吐息の音が響く。
「うん。それで構わないよ。君は、私の歌乞いで、私のお気に入りだからね」
「…………む。唐突に、お気に入りにして貰えました」
「おや、そうでなければ指輪など持たせたままにしないだろう?」
伸ばされた手が髪を撫でる。
人間の頭を撫でることに慣れていない、どこか不器用な仕草にほっと息を吐きたくなった。
つくづく、この魔物と出会ったばかりの頃は、どうでもいいので何も気負わずに済んでいたのだと苦い気持ちになる。
成果を得ようとして向かい合ってしまえば、ディノ程に本音が読み難い魔物もいない。
「シルハーン、話がまとまったならこっちでお喋りしようよ。君の歌乞いの上司は僕の友人だから、張り切って紹介するよ!」
「………そんなに興味ないなぁ」
「なんでさ!僕とも喋ろうよ!」
「ノアベルトも、同じところに所属しているんだね」
視線をこちらに戻してそう尋ねたディノに、ネアは頷いて重要な情報を教えてやった。
「はい。ディノはノアの面倒を甲斐甲斐しく見てあげていたので、ブラッシングしてあげたり、ボールで遊んであげたり、お風呂に入れてあげることもあったんですよ」
「え、ボールって何だろう。…………お風呂?」
ここで万象の魔物はとても混乱してしまい、自分がなぜそんなことを楽しんでいたのかを確認するべく奮起してノア達とのお喋りに加わりに行ってくれた。
少し手が離れたので、ネアは立ち上がりエーダリアに離席を申し出る。
「相談役さんに、今回のことをお話してきますね」
「ああ。そうだな、お前の報告が必要だろう。宜しく頼んだ」
恐らくダリルに相談するのだろうと汲み取ってくれた上司は、上手く言葉を繋いでくれる。
ネアはこちらを見た魔物に、報告業務があるのでしばし席を外すことを告げた。
幸い、記憶がない魔物はそういうものなのかと不思議そうにしつつも頷いてくれる。
何とか部屋を出たネアは、背後で閉まった扉に寄り掛かったまま、蹲りたくなってしまった。
心配そうにこちらを見ていたヒルドや、ここは任せるようにと頷いてくれたゼノーシュの眼差しを思い出して心を奮い立たせると、空き部屋に逃げ込んでまずはウィリアムが呼べるかどうか試してみる。
ネアが話そうと考えたのは、エーダリアからも接触の取れるダリルではなく、いざという時に抑止力にもなる魔物達の方だった。
少し距離を置こうとしていた矢先ではあるが、こういう場合ディノに対しての影響力という意味では、ウィリアムの方が頼りになるだろうという判断をする。
(……………いない。お仕事かな…………)
しかし、黒い煙が上がってしまったので鳥籠の中にいるようだ。
がっかりして、今度はアルテアに呼びかけるべく、転移の間に避難する。
外部者との繋ぎを取っても認識され難いとすれば、元々門として運用されているこの部屋だと聞いていたからだ。
相互間守護とやらを意識してもそもそと呼びかけると、不意にばすんと頭に手を乗せられて首が捥げそうになる。
「むぐ!首を折ろうという魂胆ですね!」
「お前が弱り過ぎてるんだ。普通に手を乗せただけだろうが」
そうこちらを覗き込んだのは、いつの間にか見慣れてしまった選択の魔物。
さすが転移の間だけあり、こちらへの到着が早い。
そんなアルテアを見て、ディノが側に居るよりもほっとしたのは初めてだった。
「…………むぅ」
「どうした?」
「アルテアさんを見て安心したのは初めてです………」
「初めてなのかよ!ウィリアムからも助けてやったろ」
「…………確かに。………それと、アルテアさん、ディノが…………」
「戻り時の妖精だな。ダリル経由で俺にも一報が入った」
さらりと言われてネアは肩の力を抜いた。
心が摩耗している時にその原因を一から説明するということはとても消耗することだ。
それをせずに済んで安堵した。
「………私を知らない頃のディノのようなのです。それが、」
(それを、私はどう感じるのだろう)
悲しい、或いは怖い。
不安で堪らなくて、胸が締め付けられる。
たくさんの感情が混ざり込んで、自分でも上手く説明出来ない。
「………上手く表現出来ないのですが、怖くて悲しくてむしゃくしゃするので、わぁっと誰かに八つ当たりしたくなります」
「おい、俺を見るな」
「ディノはディノなのです。怪我をしてもいないし、記憶を無くした途端に酷いことをされた訳でもありません。………でも私は自分勝手なので、今のディノがこちらを見る度に、心の端っこから削ぎ落とされてゆくような気がするのです。なので、心がスライスの残骸になる前に逃げてきてしまいました……」
しゅんとしたネアに、頭に乗せられたままだった手がわしわしと頭を撫でてくれる。
目の奥がつんとして泣きたくなるのでやめて欲しい。
「恐れがあるのは、失われる可能性があるからだろ」
「ええ。好意を空っぽにされてしまうと、ちょっとしたことで、すぐに背を向けられてしまいそうで怖いです」
「留まったなら時間は稼げそうか………。あいつが、興味のない場所に留まることはない。………だが、気紛れだからな」
「ほんとうは、ディノの歌乞いとして、今のディノがここにあるものを損なわないか、私こそがディノの手綱を握らないといけないとわかってはいるのです。でも私はとても狡いので、そんな事よりも、自分があの魔物を失わずに済むように不用意な減点を取られない距離まで逃げたくて仕方ありません」
ふっと笑ったアルテアは、白灰色のスリーピース姿で人を唆かす悪しきもののように目を細める。
「成る程な。そう思ってるなら、リーエンベルクに属さない俺のところに逃げ込みたくもなるだろうな」
「そんな狡いやつなのです。それと、アルテアさんは現状私の魔物のままなので、一緒に対応策を練って下さい。加えて慰めてくれても構わないという心持ちです」
「……ったく。お前は何で片っ端から面倒ごとに巻き込まれるんだ?」
「むぐ…………。これはもう、どなたから注意喚起された危険には巻き込まれるという運命なのでしょうか?」
「かもな。…………おい?!」
無責任な同意に泣かされそうになったネアは、ばすっとアルテアに拳を叩き込んでから、ふすんと鼻を鳴らした。
これっぽっちのことで泣きたくなるのは馬鹿みたいだとも思う。
思うけれど、やはり心が痛む。
さっと持ち上げられて眉を顰めると、顔が近くなったアルテアがやれやれと苦笑しているのがわかる。
「なぜ持ち上げられたのでしょう?」
「こうやってあやすのが、お前の魔物の役割なんだろ?」
「む。ディノがよくやっているのは、拘束の一環で、私をあやしている訳ではないですよ?寧ろ、私が持ち上げを許容している寛大なご主人様なのです」
「どっちもどっちだけどな」
「ディノの場合はすっかり慣れてしまいましたが、本来はあまり距離を詰めるのは得意ではありません」
「俺でも嫌か?」
「なぜに自分はいけると思ったのでしょう?…………でも、今は特別にほっとして差し上げます」
「呆れる程上からきたな………」
「暫定私の魔物ならば、ご主人様の権限ですね」
「やれやれ。最初の仕事が餌付けで、次はあやしてやることか」
「嫌なら……………むぐ?!」
不意に頭まで抱え込まれるようにして、ぐっと抱き込まれた。
背中を撫で下ろす手を感じるので、最上級のあやし技を出してくれたようだが、アルテアの肩口に押し付けられた顔面では、鼻が曲がりそうになっているので解放して欲しい。
「むが!鼻がへしゃげてしまいます!一生もので大事にしているので、角度を変えて下さい!!」
「離せとは言わないんだな?」
「今は心が慰めを切望してますので、ぎゅっとして貰うのは吝かではありません。ほんとうは素敵なもふもふがあれば良いのですが、大きなサイズのもふもふに知り合いもいませんし……」
「………お前はもう余計なものは増やすな」
げんなりとした声でそう言いながらも、アルテアはネアの頭の角度を変えてくれた。
ほこり効果ですっかりお父さんのようになってくれたと感動しつつ、ネアは素直に慰めて貰う。
「………アルテアさん、今回のことは春告げの舞踏会で貰ったチケットで修復出来ますか?」
「あれは他に類を見ない効果だからな。せめて三日は我慢しろ。お前の場合、もっと厄介なことにもどうせ巻き込まれるぞ」
「予言になるのでやめて下さい!おのれ、弱ったご主人様になんたる仕打ち!!」
「まぁ、良くも悪くも特等に囲まれているんだ。これだけ魔術的な場になってれば、引き寄せもするだろうな。弊害だと思って諦めろ」
「ディノがいなくなるのは嫌です………」
「取り敢えずはまだ居るんだろ」
「…………取り敢えず」
ネアをくしゃくしゃにした罰として、アルテアは暫くの間、持ち上げたご主人様を揺すっていてくれた。
赤ん坊を寝かしつけるようなあやし方に、嫌なことは寝て忘れる主義のネアは、寝て居る間に誰かが解決してくれないものだろうかとさえ思ってしまう。
(私はきっと、私の領域だった筈のディノが、私の手に負えなくなるのが見たくないのだわ)
それはなんて愚かしい我が儘だろう。
その馬鹿馬鹿しさが自分でもわかっているので、渋々であれどあの魔物の元に戻らざるを得なくなる。
もそもそと腕から下りようとすれば、アルテアがおやっと目を瞠った。
「なんだ、もう帰るのか?」
「要求は伝えましたし、息抜きもしました。離れている間に事件があると困るので、もう帰ります」
「本来なら、重ねて解毒するなら毒の魔物の解毒剤を飲ませりゃいんだろうが、最近背骨を抜いたばかりだから使い物になるか微妙なところだな……」
「………解決策を持たないのであれば、いっそうに用済みでした。しかし、ディノの所に帰るのも若干複雑なのが憎いところです」
これもまた初めて、ディノの元に帰るのが複雑な気持ちだと白状すれば、駆け落ちの誘いだろうかとわざとらしく言われたので頭突きで黙らせる羽目になってしまった。
蹲った魔物を部屋に置いてくる際に、何か良い対応策があれば教えてくれるよう重ねてお願いしておく。
魔物を倒した丈夫なおでこをさすりつつ、ネアは、転移の間を出ながら深い溜息を吐いた。