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116. 知らない魔物と対面します(本編)


その日は、朝から穏やかな春の一日だった。

リーエンベルクの庭園にも花が溢れており、幸せな気分で窓の外を見ながら仕事に精を出す。

とは言えネアの仕事は魔物の監督だけなので、さしたる労力を使うこともない。

お喋りで脱線してしまう魔物の舵を取り、あまりにも効能が弱くてつまらない薬を勝手にアップグレードしないよう目を光らせなければいけない。


魔物の薬にはある程度の副作用もあるので、子供やお年寄りなどに敢えて弱い薬というものが喜ばれる場合もある。

弱い薬であるが効能はしっかりとあるというような、バランスのいい弱い薬は精製が難しいのだそうだ。

この種のものは、ディノが作れる魔物の薬の中でも思わぬ評判を呼んでいた。


「もうすぐチューリップが咲きますね」


こちらの世界のチューリップには、稀に蕾の中に祝福の詰まった結晶石が入っているのだそうだ。

チューリップの祝福は失せ物探しで、無くしてしまったものを手の中に取り戻すことが出来る。

ただしこれは自分のものでなければならないので、他人様のものや権利が移ったものを取り戻すことは出来ない。


先日の朝食の席でこの話が出たのだが、結晶石目当てで咲く前のチューリップの蕾が剥かれてしまうことがあり、チューリップからしてみれば折角の祝福の前に何とも不憫な話である。

火箸の魔物といい、切実に生存戦略を練っていただきたいところだ。


「結晶探しをするのかい?」

「大殺戮になるので、そんな酷いことはしません」

「ネアは狩りが好きなのに、それはしないんだね」

「リーエンベルクの花壇は、景観の為に整えられたものですからね。もし私が襲うとすれば、街外れにある球根を育てる用の畑でしょうか」

「結晶が育つなら、やはり魔術が豊かな土地の方がいいらしいよ」

「ディノ、ご主人様を悪い遊びに誘ってはいけません!」


そんなこんなで午前中の仕事が終わり、二人はお昼ご飯を街にある屋台でいただくことにした。

本日はエーダリアやヒルド達が仕事でリーエンベルクを空けているので、厨房の負担を軽くする為に敢えて外食にしたのだ。


留守中のリーエンベルクの守りは、夜遊びから帰ってきてごろごろしている塩の魔物が務めている。

リーエンベルクを空けてまでエーダリア達が携わっている問題は、ウィームにある大学の魔法学科の生徒が一人、禁術の術式を持って失踪している事件であった。

大した術式ではないのだが、ウィームで独自に編み出されたものなので、他国に流出したり、他の領地や王都でその術式を悪用されると厄介なのだそうだ。


特別優秀な生徒ではなかったと聞いているが、そんな生徒がここまで大がかりな捜索をかけられるのもまた、その持ち出された術式に関係しているらしい。

エーダリア達が万全を期そうとしているのは、つい最近まで随分ときな臭かったカルウィに、その術式を持ち込まれることを懸念してのようだ。


(失踪した女生徒さんが見付からないというくらいだし、隠蔽を上げるようなそんな魔術なのかしら)


であれば、大がかりな魔術ではないとしても、悪意ある他国に持ち込まれるのは危うい。

だからこその禁術であり、使用権限のある者達にしか許されない術式だったのだろう。


(確か、その魔術を研究している研究室から盗まれてしまったとか……)


少し不安にはなったが、いざとなれば声をかけて欲しいと伝えてあるので、本日は通常業務にあたっていた。


(でも、そういう意味ではリーエンベルクにノアがいるのはいいことなんだわ)


ヒルドはシーであるので、勿論相当に強い妖精なのだそうだ。

しかし彼の能力は、あくまでも戦闘に向いたものであり、魔術偽装の解析等には向かないものらしい。

ダリルは領主業の代理妖精であるので、あまりこのような任務で外には出ないので、目としての能力に長けたゼノーシュに加えて、魔術の工作や調整に向いたノアもいるということはかなりの僥倖と言えよう。

いざとなればもう、エーダリアは魔術の根源を司るという塩の魔物の力や知識を借りることも出来る。


(エーダリア様自身の魔術は、結界や、大きく場を区切っての空間調整に向いている実はかなり統治者向けのものみたいだから、綺麗に担当分野が分かれていることになるし)


ふと、ネアは考えてみた。

本当はそこに財政を潤すほこりが加われば、ウィームはなんと潤沢な恩恵を得る土地となることだろうか。

しかし、名付け親としてはほこり本人の幸福が一番であるので、敢えてウィームに留め置こうとは思わなかった。




「ネア、今日はリノアールはいいのかい?」

「補充品がない場合は、あえて避けるのもお財布の為です。世間はすっかり春にはしゃいでいますので、リノアールの皆さんも春商戦に力を入れていそうですからね……」

「欲しいものがあれば買ってあげるのに」

「ご主人様を誘惑してはいけません!」

「そう言えば、春のものや夏のものは手持ちが少ないね。仕立て屋に頼んでおこう。ネアは、シシィが気に入ったようだし」

「むぐ、シシィさんのお洋服!」


ここでネアはうっかり素直に喜んでしまい、魔物はその反応を見てしまった。

慌ててそんなにたくさんの服はいらないのだと情報訂正したが、これはまた知らない間に洋服が増えてしまいそうだ。

これはとても庶民心を殺してくる仕打ちなばかりか、自分の欲しいデザインや色合いのものを手に入れる機会を奪ってくる邪悪な行いである。

欲しい洋服を購入するということは女性の喜びであるので、あまり場を狭めないでくれるといいのだが。


「ディノ、お洋服よりも私は、ヒルドさん特製の靴紐を活用するべく、春夏用の戦闘靴を注文しようと思っています。素材なども合わせて履き心地が良くて丈夫なものがいいので、相談に乗って下さい」

「それは欠かせないものだったね。注文しておこう」

「なぬ?!戦闘靴貯金をしているので、自分で作ります!」

「じゃあこうしようか。君は私に、新しいリボンを買って」

「単価の差が大き過ぎるのでは……」

「そうかな?嬉しいよ。………それに君は、理想の別荘を作るのだろう?」

「…………そうでした。その為にもまずは、アルテアさんの人件費を調べなくてはなりません」

「あれの趣味のようなものだし、無償でいいんじゃないかな」

「良いことを聞きました。安く買い叩けそうな気がします!」



街はいつの間にか、春の装いに変わっている。

街灯から吊るされて輝いていた雪火灯は花篭になっており、屋根の上に積もっていた雪は影も形もない。

雪火灯の、積もった雪にきらきらと反射して淡く青白く光る輝きを溺愛していたネアとしては、花篭も大好きだと思いながらも少し悄然としてしまう。

森や路地裏の彫刻の横などにまだ小さな雪の塊が残ってはいるものの、こうして見回してみると春も盛りであるというような楽しげな色彩ばかりが目に残った。


人々の服装も軽やかで、明るい色のものが多いようだ。

そんな街行く人々を眺めて、ネアは心の中で、淡い菫色と水色の服の購入を企み始める。

ディノが、何をどれだけ増やしてしまうのかわからないので、しばしクローゼットを監視した後に、無駄にならないようであればその色の何かを買いたいなと思う。



そんなことを考えている内に、屋台の並んだ聖堂前の広場に着いた。

お天気の良い日なので、買い物帰りの人々や悪夢明けに重なった観光客などで賑わっている。


「ディノ、トリッパのトマト煮込みと、烏賊と蛸の香草風味のフリット、四角いピザのお店もありますよ?」

「どれもあんまり食べたことがないな。ピザは君と作ったものとは違うのかい?」

「形状や具材が違いますね。どうせなら、食べたことがないものにしましょうか?ディノはピザがお気に入りでしたので、失敗のないようにピザも一つ買って二人で分けて食べるのはどうですか?」

「それにしようか」


ご主人様と食べ物を分け合うのが大好きな魔物がすぐさま頷いたので、ネアは狡猾にも食べたいものの全てを手に入れることが出来た。

トリッパの煮込みにはバターパンがついてくるので、他のものも合わせて食べるには重た過ぎるのだ。

そして全部を足しても、ザハのケーキ代より安価に済むのが素晴らしい。


すっかり春の景色とは言え、まだ外は日陰ともなると肌寒い。

あつあつのトマト煮込みの屋台には、美味しい香りに誘われて行列が出来ていた。

ネアはそちらに並ぶことにして、魔物には好きなピザを買ってくるようにおつかいの任務を与えてみる。

ご主人様の好きな具材は何だろうと考え込んでしまったので、ご主人様はチーズさえ乗っていれば何でも嬉しいのだという秘密を教えてやったところ、力強く頷いて買いに行ってくれた。


(最近は、お買い物にも慣れたかな……)


出会ったばかりの頃は、初めて街に出て市井での買い物をさせるのも一苦労であった。

ネアがやらせようとすることは何でも喜ぶのだが、知識はあっても経験として身についていないことも多かったのだ。

人間に混ざって生活をしてみたこともあると聞いていたが、それはあくまで魔物が過ごし易いような整えられた環境だったのだろう。


(ふふ、ピザもちゃんと買えているみたい)


実は欲しいピザが決まっていたのかも知れない。

ディノは、迷うこともなく一枚を包んで貰うと、スムーズに支払いを済ませている。



ふと、視線の先にそんな生き物がいることが不思議な気持ちになった。



(でも、これが日常で、……)



いつの間にかネアのものになった、この不思議な世界。

息を潜めるようにして心を引き絞り、静謐で淡い幸福に目を伏せて生きてきたあの箱庭の屋敷から、こんな風に賑やかで優しい場所まで、何だかあっという間だった気がする。



この世界に来たばかりのネアが真っ先に買ったのは、リノアールの特別フロアで鍵付きの硝子の棚の中に並べられていた特殊な術符だった。

自分というものから、自分自身を強制退去させる為の道具で、初めて見た日からずっと、ネアはこれが欲しくて堪らなかった。


(……………それは、私にとってのとびきりの贅沢だった)


不安や懸念のその根底で、こんな奇妙な場所でもう一度自分をやり直せることにわくわくもしていた。

しかし、美しい魔物や、魔術師、息を飲むばかりの素晴らしい宮殿での日々に心が震えても、頼るものが何もなければ無心に楽しむことすら出来ない。

だからこそ安心してこの世界を楽しむ為に、寄る辺ないネアはあの術符を買ったのだ。

それは極端なようで、元の世界にいたときには倫理上得られなかった贅沢の一つでもあった。


(歌乞いになって、ディノに出会って、お仕事をするようになって、………みんなと仲良くなって)


暫定の筈の魔物はいつの間にか婚約者にまでなっている。

ネアはつい先日、アルテアと話しながら、自分が困難に直面してももう身勝手に死んで終わりにしてしまいたいという欲求を持たなくなったことに気付いた。



あの術符を使う贅沢さを手放せるくらいに、大切なものが出来たのだ。




「ネア、長い行列だったね」

「ふふ、これが、そんな大人気のトリッパのトマト煮込みです!」

「どこで食べるんだい?」

「ちょうど花壇の横の席が空いたので、そちらでいただきましょうか?三色菫がとっても綺麗ですね。ほわりと光っているお花は何でしょうか?ものすごく素敵です!」

「聖域にだけ咲く花だね。私が近付くと枯れてしまうから、少し擬態を強めておこう」

「む。ディノに支障はありませんか?」

「問題ないよ。ただ、何かあるといけないから離れないようにね」


フリットはトリッパと同じ店であったので、同じ紙袋に既に入っていた。

席を確保しながら、水売りから硝子瓶の水を買う。

こうして購入した水は、飲み終わると瓶を返却口に戻す仕組みになっている。

真鍮の枠組みで出来たクラシカルな木製の返却口には、太陽の光にきらきらと光る青い硝子瓶の光に誘われて、小さな妖精達が戯れていた。


ネアは、そこにヒルドから注意された戻り時の妖精がいないか目を凝らして見たが、幸いにも黒と黄色の蜂鳥はいないようだ。

戻り時の妖精は目立つので、姿が確認されるとすぐさま警報が流れ、魔術師や警備兵達が駆除してくれるらしい。


安心してテーブルにお昼ご飯を広げると、すぐ横の花壇で咲いている牡丹のような淡い水色の花を眺めた。

花びらの繊維が透けて見えそうなくらいに花弁が薄く、ぼんやりと清涼に光っている。

ディノの説明によると、聖域の魔術を地下から持ち上げる為に植える花で、この花が咲く度に聖域の魔術を周囲に拡散して空気を正常に保つのだそうだ。

今はもう咲いてしまっているが、咲く瞬間にはきらきらとした星屑のような輝きが弾けて綺麗なのだとか。



「午後はどうするんだい?どこか行きたいところがあるなら連れて行ってあげるよ」


食事が終わると、ディノはそう問いかけながらネアの頭をそっと撫でる。

ぱっとその手を捕まえて、指先がべたべたしていないかを確かめると、途端に悲しげな顔になった。

しかし、ピザを食べた直後だったので神経質になるのは我慢して欲しい。


「さっき約束した、ディノの新しいリボンを見に行きましょうか?」

「………行く」

「季節の変わり目ですので、春夏用のものとして使い易いものを何本か買いましょうね」

「ご主人様………」


一気に何本も買ってもらえると知り、魔物は嬉しそうに微笑みを深める。

その無防備さが堪らなくなって、ネアは手を伸ばしてその頬をそっと撫でてみた。


「…………ずるい」

「あら、またしてもずるいの意味がおかしくなりましたね」


突然のご褒美に魔物がくしゃりとなってしまい、ネアは慌ててテーブルの上のピザの袋をどかした。

綺麗な髪の毛が、食べ終えて袋に残ったチーズの油で汚れてしまうところだった。

周囲を見回してゴミ箱を見付けると、ディノが取り上げてぽいっと魔術で放り込んでくれる。

ほっとして息を吐いていると、足元の少し離れたところに、むくむくとした毛皮の生き物が鎮座してこちらを見上げていることに気付いた。


「む。コグリス…………」


その焦げ茶色のコグリスは、つぶらな瞳でネアを見上げて、ニャーンと鳴いた。


「ね、ねこさん!」


ただでさえ、猫耳がついたおまんじゅう状の毛皮の生き物なのだ。

そんな可憐な鳴き声を出されてしまうと、これはもう撫でるしか選択肢はなくなる。


「お昼ご飯のおこぼれを狙って来たのかもしれませんが、もう何も残っていませんよ?その代わり、そのもふもふを撫でて差し上げます」

「ネア、コグリスはムグリスのよりも気性が荒いから……」

「むぅ、そうでした。引っ掻かれないように、撫でるのはやめます」



それから起こったことは、ほんとうに一瞬であった。




ディノに注意されたので手を引っ込めようとしたネアに、コグリスが飛びかかろうとした。

その瞬間、なぜか顔色を変えたディノが、立ち上がってネアを抱え込むようにして抱き寄せる。



(あ、……………)



その時ネアは、コグリスの黒い瞳が自分ではなくてディノを見ていることに気が付いた。

テーブルから空になった硝子瓶が落ちたが割れなくて済んだので、案外丈夫なのだなぁとか、そんなどうでもいいことばかり。


そんなことばかりを覚えていて。




「………っ?!ディノ?」


ぎゅっと抱き締められて、その腕の中で慌てて名前を呼ぶと、張り詰めた空気が緩んで魔物が安堵の息を吐くのがわかった。

きつく抱き締められた腕の中で、吐息の温度が籠り影になった水紺の瞳が鈍く光る。


「………刺されていないね?」

「刺される?」


首を傾げたネアに微笑んで首を振ると、ディノは地面に転がった生き物に視線を戻した。

そこには、先程までいたむくむくの丸い妖精ではなく、見たこともない黄色と黒の鳥がひしゃげて落ちている。



「戻り時の妖精だ!」


誰かが遠くで叫んだ。

こちらも派手に動いたので、人目を惹いていたのだろう。

忙しなく動く背後の動きを感じながら、ネアは守ってくれた魔物の腕の中で、遅れて理解された事実にぞっとする。



「………さっきのコグリスは、………戻り時の妖精だったのですね?」

「戻り時の妖精が本来持たない、高階位の擬態の術式だね。………あの人間が手をかけたようだ」

「あの、人間?」

「魔術の繋がりが残っていたから捕まえておいた。…………ヒルド、ここだよ」


その言葉と同時にふわりと転移してきたのは、エーダリアと共に消えた学生を追っていた筈のヒルドだ。

恐らく魔術通信でディノが呼んだのだろう。

見事な羽を硬質に広げ、その眼差しはひどく険しい。

降り立つと同時にばさりと羽を振るい、鋭く周囲を見回した。


「ネア様はご無事ですか?」

「大丈夫だ。しかし、随分と上手く偽装したものだね。私でも、動くまではわからなかった」

「…………術者は、………あちらですね」



ヒルドの視線を追えば、少し離れた位置の噴水の側で、不自然に倒れて踠いている人影がある。

栗色の長い髪からすると、女性であるようだ。

あっという間に現れた魔術師達に囲まれ、素早く拘束されている。

こちらもまたいつの間に到着したものか、指揮をしているのはゼベルである。


「狙ってのことのようだ。調べてくれるかい?…………それと、ネア。数分でどうにかするから、戻ったら少しだけ離れておいで」

「…………数分?」


ディノの言葉に目を瞠ったネアに、はっとしたように振り返ったヒルドが小さく息を飲む。


「ディノ様、………」

「聖堂が近いからと擬態を少し念入りにしていたせいで、刺されてしまった。この妖精の毒は私達にはさして効果がないけれど、まずは擬態を解かないことにはね。私達は、一度リーエンベルクに帰っているよ」

「わかりました。……ネア様、術者を拘束したら私もすぐに戻りますので、どうか安心して下さい。リーエンベルクには、ネイもおりますしね」

「……は、はい」


まだ事態が上手く飲み込めず、ネアはこくりとうなずく。

ディノが背中に手を回したと思ったら、転移の暗闇を踏んでの一瞬の酩酊にも似た浮遊感の後、そこはもうリーエンベルクの中であった。

柔らかな絨毯に、膝に力が入らないせいで足が沈むような感覚がある。

顔色を悪くしているネアに気付いたのか、ディノはこちらを見て安心させるように微笑んだ。


「さてと、…………擬態を解くけれど、毒が少しだけ回ってしまったから、数分は不愉快なことになるだろう。ノアベルトを側に置いておいで」


そう言って頬を撫でてくれた手の甲には、鮮やかな花模様の痣がある。

その模様を目にした途端、言葉では理解出来ていたことがすとんと胸に落ちた。

途端に怖くなって、小さく息を飲む。


「私を庇って、………戻り時の妖精に刺されたのですね?」

「ごめん、また怖がらせてしまったね?でも、大丈夫だから少しだけ我慢してくれるかい?」

「………ごめんなさい、ディノ。私が不注意でした」



あのコグリスに手を伸ばしたのはネアだ。

自分の迂闊さを思って魔物にぎゅっと抱きつけば、微笑みを深める気配がある。


「私達を狙ったものであったし、私ですら気付くのが遅れた。君のせいではないし、君がまた私を忘れてしまうのではなくて良かったんだ。…………ノアベルト、この通りだ。少しの間だけこの子を頼むよ」


はっとしたネアが振り返れば、呼ばれたのか、異変を察知して駆け付けてくれたのか、いつの間か背後にノアが立っている。

今まで寝ていたらしく服装は乱れているが、やはり魔物らしく美しく小さく微笑む。


「わーお、シルでも擬態してると戻り時の妖精に刺されるんだね。ネアのことは見ているから、安心していいよ」

「…………ディノ」


すっと体を離され、ネアは胸が締め付けられた。


「すぐに治して下さい。忘れられてしまうと悲しいです」

「うん。………すぐに帰ってくるよ、ご主人様」



そう言い残した魔物は、苦しげに息を吐くことも、床に崩れ落ちるようなこともなかった。

ただ、擬態を解き見慣れた艶麗な真珠色の魔物に戻ってから、深い溜め息を吐いた後に、ぞっとするほどに澄明な水紺の瞳でこちらを見返しただけで。


ネアを自分の背中の後ろに押しやったノアが、微かに緊張しているのがわかる。

そう言えば、この二人が友人になったのは、つい最近のことなのだ。


ディノが口を開くよりも先に、片手を上げて害意はないことを示したノアが話しかける。


「シルハーン、まずは手の甲を見て理解してくれるかな?君は人間に擬態している時に、戻り時の妖精に刺されたんだ。少しの間だけ不自由だろうけれど、まずは、君が今どんな風に生活しているのか説明するよ」


さすがに高位の魔物らしく、ノアの声音は穏やかで流暢であった。

しかしネアは、目の前で不思議そうにこちらを見ている魔物の酷薄な眼差しに、胸が潰れそうになる。

初めてのものと向き合う表情には、見慣れた親密さは欠片も残っていない。


「………ふうん。戻り時の妖精にね」



ややあって、そう呟いた声の冷ややかさに、ネアはぎくりとした。


(ああ、………このディノは、私を知らないのだわ)


戻り時の妖精の毒は、刺された者の心の時間を一年から二年程巻き戻すと聞いていた。

以前ディノから、この世界に落とす前までネアのことを見ていたと言われたことがあるので、それよりも以前まで戻されてしまったのだろう。


これは何だろうという目でじっと見つめられると鼓動が早くなる。

同じ姿形をしていても違う人のように感じることがあるのだと、ネアは初めて知ることとなった。


(………ディノも、雪食い鳥の時にはこんな思いをしたのかしら?)


ネアは我儘なので、あんな風に何日も我慢するのは嫌だ。

少しでも早くこんな怖い時間が終わって、元のディノに戻って欲しい。

そして、もう大丈夫だよと言って欲しかった。



「成る程、私は歌乞いの契約の魔物なのか」

「そう。それにこの子は、君の指輪を持っている。婚約者なんだよ」

「…………婚約者」


小さく呟いた声音に不安になってノアの背中越しに覗くと、目が合った魔物がおやと小さく微笑む。

この見知らぬ表情をした魔物はとても穏やかだ。

けれどその穏やかさは、どこか冷めていてぞくりと鋭い。

得体の知れない魔物らしい気配がする。



「君が私の婚約者か。初めまして」

「……………ネアと言います。その手の甲は、痛くないですか?」

「少しだけ痛んだけれど、今はもう感じないようにしたよ。不要なものだからね」

「…………シルハーン、少し気になっているんだけど、体の調子がおかしかったりはしないかい?」

「しないよ。どうしてだろう?」

「………君は数分だと言ったし、確かにどれだけ毒が回ろうと、戻り時の妖精ごときのものが僕達を長く損なうことはない。………でも、少し長くないかな?」

「え、…………」



そのノアの言葉に、ネアは思わず声を上げてしまった。

顔を強張らせたネアに、振り返ったノアがそっと手を握ってくれる。

けれど彼は魔物なので、無責任に大丈夫だとは言わなかった。


「さて、よく分からないがいずれ戻るんだろう?」

「………そうだよね。今はもう毒の調整は出来ないのかい?」

「無効化してしまったものだから、触れられるものが残っていないんだ。でも確かにこの痣は消えないね」


まるでその不思議さが愉快だとでも言わんばかりに、万象の魔物は唇をゆったりとカーブさせた。

煌めいた瞳がちらりとこちらを見たが、ネアはどう答えてやればいいのかわからず、ただ立ち尽くしているばかりだ。





数分どころか数時間経っても尚、ディノの記憶は戻らないままであった。

ネアが、あの広場で向けられた悪意がどんなものなのかを知るのは、その後のことである。




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