厨房と戦争
その日ネアは、引率の先生の気分であった。
なんとも個性的な魔物達を引き連れ、初めてアルテアのお宅訪問をするのだ。
しかもなんと、あの悪辣な魔物が美味しいお家ご飯を作って出迎えてくれるという、前代未聞のイベントである。
「よく考えたら、男性のご自宅に行って手料理を振舞って貰うなんて初めてのことなのです。何だか甘酸っぱい気持ちになりました」
この発言はいたく不評で、乗り物にしている魔物と、乗り物にしてくる狐が拗ね始める。
「ネア、気を付けないと」
「むぅ、ゼノにも叱られてしまいました」
「でも、美味しいご飯を作ってくれる人は、好きになるよね」
「そうなのです!そのご飯一つで、何だか諸々許してしまえるのですよね」
「でも僕は、お菓子の方がいいな」
「私はお食事の方が嬉しいです」
この会話を聞いたディノがぐっと恨みがましい目になってしまったので、ネアは慌てて己の失言を取り返そうと奮起した。
「でもディノは婚約者なので、私の作るものを食べてくれたり、一緒にお料理してくれる方が嬉しいです」
「そうなのかい?」
「ええ。一緒に作業している感じがして楽しいです」
「……じゃあ、一緒に料理する」
「ふふ。またやりましょうね」
狡猾な人間の手にかかってあっさり陥落した仲間を、銀狐はじっとりとした目で見ていた。
そちらも拗らせてはいけないので、ネアはさらりともふもふ持ち上げ作戦を敢行する。
「狐さんは、もふもふが素晴らしいので存在するだけで良いのです。…………あ、夏毛」
ここで銀狐は死んでしまったので、ぐんにゃりとした銀狐はゼノーシュが抱っこしていってくれた。
きっと美味しいご飯が出現すれば元気になってくれるだろう。
そうして家主が門を設置してくれた上でお邪魔したお屋敷は、ネアが思っているより遥かにロマンチックな建物であった。
門を抜けたので地面に下して貰い、ネアは感動のあまり声もなくその風景に見入ってしまう。
斑らに白みがかった青灰色の石を積み上げた壁には、淡く光る白い花をつけた蔓薔薇が生い茂り、庭には大きな木がある。
その木には親指の先くらいの小さな林檎めいた果実が実り、宝石のようなその実は風が吹くとシャランと涼しげな音を立てた。
アイリスに紫陽花、水仙に名前もわからぬ可憐な小さな花達が咲き乱れる庭園。
赤紫がかった苔むした庭石や、緻密に配置された小川の流れ。
お伽話の中に出てくる魔法使いの館のようで、ネアは感動のあまり溜め息しか出てこなくなった。
「…………リーエンベルクが大好きですが、このお家にも住みたいです」
思わずそう呟いてしまったネアに、魔物達がぎりりと眼差しを険しくする。
よりによってその言葉を聞き逃さないところで、家主が姿を現した。
「じゃあ、週末はこっちに住むか?ここはシュタルトだからな、ヴェルクレアから出なきゃいんだろ?」
「アルテアさん、今日はお招きいただきまして、有難うございます!週末にお泊りに来てもいいなら、ディノと一緒に来たいです!」
「………そいつもくるのかよ」
「ご主人様、外泊は禁止だよ」
「むぅ、外泊ではなくお泊まり会の一環なのでは……」
ディノは物凄く嫌そうだったが、ネアはこの魔法使いの館に一目惚れしてしまった。
必要以上に大きな邸宅ではないのが秀逸で、絵のような雰囲気で秘密めいた佇まいが美しいのだ。
「私は、お金を貯めます!」
「………何で突然守銭奴宣言をした」
「そして良い感じの中古物件を買うので、アルテアさんの監修でこんなお家にして下さい!勿論、報酬はお支払いします!!」
「ほぉ、リーエンベルクから出るのか?」
「いえ、リーエンベルクにずっと住んでいてもいいとヒルドさんが言ってくれたので、みんながいる場所を出たくはありません。なので、別荘にします。ディノ、頑張って働きましょうね!」
「いや、そいつがいるならいつでも買えるだろ」
「アルテアが監修した別荘…………」
ディノが悲しげに溜息を吐き、ゼノーシュがお労しいと呟いている。
しかしネアは、アルテアのインテリアセンスに夢中でそれどころではなかった。
「ほわ!あの二階の窓のカーテンが素敵です!」
「ほら、外から見てないで中に入れ」
「すぐさま中に入りたいのに、この外観をいつまでも見ていたい気持ちもあって、どうしたらいいのかわかりません……」
「俺もお前の魔物なんだから、いつでも泊りにくればいいだろ」
「…………むぅ。持ち家の素晴らしさに籠絡されて、このままずっと私の魔物でいて欲しいと思いかけてしまいました」
「ネア、浮気………」
頬を染めて未だかつてなく扱い易くなったネアに、屋敷の扉を開きながらアルテアが眉を持ち上げる。
内観も見てしまったネアは、よろりと後退しそうになり、荒んだ目のディノに抱きとめられた。
グレージュがかった柔らかな石造りの内観に、差し色で敷かれた見事な青緑とくすんだ赤紫の模様の絨毯。
それに、ふんだんに活けられた野生の花が何とも可憐で美しい。
「そうか、お前の弱みは物件なんだな」
「食べ物と財政を豊かにする祝福も好きです」
「欲まみれか………」
「否定しきれませんが、これでも清く正しく生きようと努力しています」
「じゃあ、この屋敷に住む権利と、お前好みの食事を三食、生活の面倒も見てやるとしたら、俺の伴侶にでもなるか?」
「…………こ、この家の権利」
「ネア………?!」
ネアの自制心がぐらりときたので、ディノが慌ててご主人様を揺さぶった。
我に返ったネアははっとして魔物を見たが、ディノの水紺の瞳はやはりこのご主人様には浮気の危険性があるらしいという疑惑でいっぱいになっていた。
「ディノ、私はこのお家にくらりときただけで、決してアルテアさんにくらりときたわけではありませんよ?」
「お前、そっちの方がろくでもないからな」
「暫定私の魔物なアルテアさんは黙って下さい。拗らせると、私の自由活動が制限される危機なのです!」
「………ネア、少し期間を早めようか」
「………それはまさか、婚約期間的な………」
「やはり一年で収めてしまおう」
「唐突に半分にするなんて、どれだけの荒技なのですか。練習期間も考えて下さい、一年で極める自信はありません」
「そこまで頑張らなくても、すぐに身に馴染むようになるよ」
それではまるで、ネアにも変態の素養があるみたいではないか。
大変に遺憾であるので、ネアは頑固に首を振っておいた。
公衆の面前で、すぐに変態になれる宣言などとんでもない辱めである。
なので、ここは大人の社交術を発揮して、するりと話題を変えてみよう。
「すっかりお家の外観に夢中で忘れていましたが、今日は有難うございますのお土産です」
「お前は妙なところで気を遣うな」
「お料理好きなアルテアさんの為に、面白い香辛料の詰め合わせにしました。そろそろ懐かしくなった頃かと思いまして、ガーウィンの激辛香辛料も入っていますからね」
「おい………」
「…………そして気付けば、ゼノと狐さんがいません」
「ん?さっきまでお前の隣にいただろ。………まさか、あいつ等………」
呑気に振り返ったアルテアの表情が強張る。
リーエンベルクに滞在していたことがある彼は、クッキーモンスターが時々厨房を襲うことを知っているのだ。
慌てて厨房に駆け戻るアルテアを見ながら、ネアは小さく微笑んだ。
「ほこりを育ててから、すっかりお父さんのようになりましたね」
「…………そうかな」
「そして玄関ホールも住みたいくらいに素敵です。やはり、いつか買う予定の別荘には家具選びの助言をして欲しいですね」
「屋敷が欲しいなら、いくらでも用意してあげるよ?」
そう呟いたディノは、ひどく悲しげであった。
ネアがアルテアの屋敷に夢中なせいなのだが、こればかりは嗜好の問題なのでその場凌ぎで宥めるよりも、慣れて貰おうと思う。
「何でもいいわけではないのです。ディノが、ラベンダーとパチョリの入浴剤が好きで、薄荷の香りの入浴剤は苦手なのと同じですよ。とても好きなものを見付けたので、是非にそれを欲しいなと思いました」
「それが、…………アルテアだった?」
「正確には、アルテアさんの家作りの才能だけですね。才能目当てで近付くので、素敵なお家作りに協力して貰い、お金を支払ったらアルテアさんはぽいです」
「アルテアとは住まないんだね?」
「あらあら、そんな心配をしてしまったんですか?一緒に住むのはディノですよ?」
「ご主人様………!」
「でも時々、こんな風に皆さんを招けたら楽しいですね」
「ご主人様…………」
時々物凄く排他的になってしまう魔物が暗い目になったので、ネアは艶やかな真珠色の髪を撫でてやった。
「ふと思ったのですが、ディノがくれた厨房のあるお家をあちこち手を加えていって、老後の別邸にするのも楽しそうですね」
「…………老後?」
「それと、厨房の方がとても賑やかですが、戦争でも始まったのでしょうか?」
「ノアベルトがつまみ食いをして叱られているみたいだね」
「子育て戦争のような賑やかさで、何だか微笑ましいです」
そうしてネア達も合流した厨房では、前菜の海老をつまみ食いした銀狐がいたく叱られていた。
お尻をずりずりとずらして部屋の角っこにいるので、これは間違いなくお尻を叩かれたのだろう。
本来のアルテアであればもっと違うお仕置きをしそうだが、ヒルドのお仕置きを見て刷り込まれてしまったらしい。
ネアを見付けて涙目になった銀狐は、ぱたぱたと走ってきてネアのスカートと一体化した。
「守って貰えると考えているようですが、狐さんが食べてしまったのが私の分であった場合、私からの制裁も待っていますよ?」
しかしネアにもそう脅されてしまい、銀狐はディノの肩の上に避難する。
尻尾が邪魔だなぁと言われながら、ディノの肩でぎゅっと小さく丸まって拗ねていた。
(すごい、お鍋やフライパンがたくさんある………)
自分の厨房でと言い出すだけあり、アルテアの屋敷の厨房はプロの料理人も顔負けの道具揃いとなっていた。
香辛料用の石のすり鉢や、干したハーブに使い込まれた焼き釜と、まるで料理上手のお婆ちゃんの家のような暖かな雰囲気に、ネアは何だかわくわくしてしまう。
窓の横には香草のようなものが壁から生えており、傍に菫の花の彫模様が美しいブロンズ色の鋏が置かれているので、ここから直接収穫して使っているに違いない。
葉っぱを毟り取るのではなく、鋏を使って収穫しているところが、ネアとは違い几帳面であった。
あまりにも惚れ惚れと観察してしまったせいか、アルテアが微かに居心地の悪そうな顔をする。
「邪魔になるから向こうで待ってろ。ゼノーシュも連れて行けよ」
「重大な任務を請け負いました。ゼノ、お食事が出てくるのを向こうで待っていましょう?」
「アップルパイ…………」
「なぬ、アップルパイがあるのですか?!」
「シルハーン、こいつらを向こうの部屋に出してくれ。このままパイを焼いた俺に心酔されるよりいいだろ?」
「ネア、向こうで待っていようか」
魔物達のふとどきな連携によって、ネアとゼノーシュは厨房から連れ出されてしまう。
もう少しパイの焼ける香りを嗅いでいたかったネアは、未練たっぷりのまま食堂に連れて行かれた。
「ディノ、どうしましょう。アルテアさんがパイまで焼けるのです」
「ネア、それはどういう意味なのかな?」
「時々パイを焼いて貰えるくらいの距離感は維持した…」
「ご主人様?」
「タルト派のディノにはわかりません!」
「僕はスポンジが好きだけど、全部作れるみたい。チョコレートケーキも作れるんだって」
「と言うことは、私の大好きなムース系なんてささっと作ってしまいますね」
すっかりネアとゼノーシュの心を奪ってしまった選択の魔物は、すぐに前菜のようなものの盛り合わせを持って現れた。
本日の服装は、シンプルな白いシャツに黒いズボンと黒い腰巻きのエプロンなので、まるでリストランテの新進気鋭のシェフのようである。
捲り上げた袖を止めているシャツガーターのバンド部分が青緑色のペイズリー柄で、そんなところでさり気なくお洒落だ。
「わぁ!」
ネアとゼノーシュが手を取り合ってしまうのも仕方がないくらい、色とりどりで美味しそうなお皿の登場だ。
「食べ過ぎる奴が混ざってるから、大皿じゃなく個別にしたからな」
「アルテアさん、これは何でしょう?!」
「スパイスとココナッツミルクで煮た鶏肉を、パイで包み焼きにしてチーズをかけてある」
「神がいました………」
「僕これおかわり!」
「…………おい、甘味と辛味と酸味でバランスよく食べろ」
「じゃあ、全部食べる!」
「お前の皿には元々三倍盛ったんだがな…………」
シェフは遠い目をしていたが、ゼノーシュはお皿を持ったまま可愛さでごり押ししておかわりを手にしていた。
アルテアにもその手法でゆくのが凄いし、何となく面倒を見てしまったアルテアも凄い。
リーエンベルクの常日頃の食事も文句なく美味しいのだが、アルテアの料理には異国風のものも多く、そこがまた目にも舌にも楽しい。
「ディノ、このパイ包みが神の食べ物になっています。私がお願いしていたゼリー寄せも、ハニーマスタードのソースでやはり神の食べ物でした!」
「ご主人様が浮気しようとしている………」
「食べ物に罪はありません。ほら、これを食べるのです!」
美味しいものを共有するべく魔物に自分のフォークで食べさせてやったネアに、頬を染めながら食べさせられてしまった魔物はたいそう恥じらってしまった。
精神が不安定になったからか、判断力を失い自らももそもそと食べ出してくれる。
(狐さんは…………)
その肩に銀狐がいないことに気付いたネアは、ゼノーシュの隣の子供椅子で、お皿に顔を突っ込んでがふがふと食べている姿を発見した。
クスクスのような小粒のパスタに、茄子と烏賊と海老のスパイシーなトマトソースをかけたものに夢中だ。
(狐さん用に子供椅子を用意してしまうあたり、確実にお父さんへの道を転がり落ちている………)
思わぬ面倒見の良さに感動していたが、アルテアは暇潰しで孤児院を庇護する神父の真似をしていたこともあるらしい。
選択を司る上で、善行めいたこともしているのだ。
「まぁ、あの時は食材がほとんどなかったから、その中での料理だったけどな」
「素敵な行いですね。その孤児院の子供達はどうなったのですか?」
「中に王の庶子が混ざっていたから、その後の革命でいい働きをしてたぞ。まぁ、そんなことをしてた訳だから、殆んど全員死んだな」
「………もしや、その目的で?」
「ああ。あの国は、王が有能で狡猾過ぎて崩すのも厄介だったんだ。その分ちび共を丁寧に教育してやったこともあって、上手く王と潰しあってくれた。暫くは国土が荒れて退屈しなかったが……」
経緯は善人のそれであるが、やはり目的は魔物らしいところであった。
そんな魔物に翻弄されてしまった子供達のことを思えば、少しだけ複雑な気持ちになったが、友人の首を搔き切ることも厭わない生き物なので、あまり考えないようにした。
「何だ?暇潰しで子供を駒にするのは不愉快か?」
「いえ、どんな風に誘導されてしまったとは言え、知らない方々の人生をアルテアさんに問うほど、私は善人ではありません。それと、お皿が空になりました!」
「お前はとことんぶれないな………」
感傷よりも食い気を優先したネアにアルテアは呆れていたが、ネアはその子供達はきっとこの魔物が好きだったのだろうと思うのだ。
どれだけ悪辣で残忍であろうと、高位の人外者達は魅力的である。
そんな人間の手に負えない生き物の目に留まってしまえば、人間の心がそう容易くその手を振り切れるだろうか。
そんなものに巡り合ってしまう運命というものは悲惨でもあるのだろうが、がらんどうの空虚さよりは遥かに鮮やかだろう。
「美味しいものを食べさせてくれて、知識を与えてくれる神父様を、きっと子供達は大好きだったでしょう」
焼きトマトが入ったビーフコンソメのスープにほっこりしつつそう言えば、アルテアは唇の片端だけで弄うように笑った。
「けだものの巣に放り込む為にな」
「あら、子供時代に得られた美味しいご飯だけでも、対価としては充分ですけどね」
「………お前の価値観はやたらと偏るからな」
「ふふ。完璧で優しいものでなければ嫌だなんて、それは幸福な人の言い分ですよ。人間はちょっぴりの恩恵でも美味しくいただける、貪欲な生き物なのです」
そうやって人間のしたたかさを教えてやったネアを、アルテアは奇妙に静かな眼差しで見つめていた。
ディノの分のバターを一個強奪したことに気付かれたのだろうかと、ネアは微かにひやりとする。
アルテアはバランス良く食事することを好む魔物なので、パンにこれでもかとバターを乗せるネアの手法はお気に召さないらしい。
しかし、アルテアの示す量ではネアとしてはバター感が足りないのである。
「お前がそうされたらどうする?」
「その孤児院の子供だったらでしょうか?……美味しくご飯をいただき、お勉強に付き合って貰い、立派に独り立ちした後に利用されてしまったら、おのれと思ってアルテアさんが地味に傷付くような噂を流します。評判を失笑めいた形で傷付けるような、危害は与えられないけれど何だか嫌なやつですね」
「やめろ…………」
「でもまず、利用されてしまうような面倒なことを強いられたら、これは嫌だなと戦線放棄して逃げるか、お家に引き篭もります。無駄な労力は使わない主義ですので、どれも無理なら、諦めてふて寝してしまいます」
「………確かに、お前ならそうするだろうな」
ディノが嫌がるのであえて直接的な表現はしなかったが、一回その選択肢があることを告げられているアルテアは察したようだ。
こちらの世界に来たネアの選択肢には、一発終了の御業も入っている。
倫理的にはひっかかるものなのだろうが、リタイアしてしまうという選択肢があるのはある意味とても強い。
なのでネアは、その手段さえ確保出来れば不利な環境を強いられても我儘放題でいられる訳だ。
「なのでまずは、どんな魔術よりも戦線離脱に向いた魔術を会得するでしょうね」
香草とプラムと一緒にいただく謎肉のコンフィを食べながら、ネアはそんなことをしんみりと口にした。
隣りの魔物がぎくりと体を揺らすので、あくまでも別の人生があったらと仮定しての話だと補足しておく。
意外にパンも美味しいので、気を抜くと食べ過ぎてしまいそうだ。
「そもそも、今の私にはそんな魔術を動かす可動域がありません。市販のやつがせいぜいです」
「ネアが虐待する………」
「今はディノがいるので使いませんよ。ディノを置いてはいけませんし、何より、困ったことになったらディノが助けてくれるでしょう?」
「でも君は時々、口を噤んでしまうからね。どんな苦痛でも、この世界のものは君には目新しいものばかりだろう。困ったことがあったら、必ず言うんだよ?」
「まったくだ。お前は自分の持った守護の多さを考えれば、報告だけで悩む時間もないくらいだろうが」
「一個増えましたしね」
会話を和ませるために一言足したネアだったが、その不用意な発言で銀狐が荒ぶってしまい、ネアは、宥める為に帰ったらボール遊びをしてやると言う羽目になってしまった。
「アルテアさん、今更ですがコンフィのお肉はなにやつだったのでしょう?」
「ああ、夜渡り鹿だな」
「…………あの口と性格が悪くて、毛布にしたくなる素敵なもふもふめだったのですね」
「お前の評価の半分は、特定の個体の感想だな」
「こんなに美味しくなるなら、お口が悪くても許すしかありません。そしてもしや、アルテアさんはコンフィ好きですか?」
「好きなのはお前だろうが。ご機嫌になるのはいつもコンフィだろう」
「む。………言われてみれば…………」
お肉はほろほろなので食べやすいのだが、骨もあるので銀狐はゼノーシュにお肉をほぐしてもらっている。
ぱくぱくと大量に食べながらも、隣の席の銀狐の為にお肉をほぐしている姿は、弟の面倒を見る少年のようで愛くるしい。
ここでネアは、大事なことを思い出した。
(そう言えばゼリー寄せ、狐さんのものって玉葱は………)
ネアのものには、鶏肉と幾つかの春野菜が入っており、新玉葱も入っていた。
銀狐のものを調べてやるのを忘れてしまっていたが、忘れていたことを今更明かすのも気まずいので、ネアはじっと銀狐の様子を観察した後、問題なしと判断する。
子供用の椅子まで準備してやったぐらいなので、そんなアルテアの優しさを信じよう。
少しの間はその罪悪感に苛まれたが、デザートでシナモンクリームを添えた焼きたてのアップルパイが出てくると、ネアの脳内はそれ一色になってしまう。
添えるものは選べたので、ゼノーシュはバニラアイスをこんもりと乗せてもらっていた。
ネアもその組み合わせが大好きなのだが、シナモンクリームは珍しいのでそちらにして貰う。
「どうだ?」
「…………むぐ。このクリームが少し苦みがあって、爽やかに甘いアップルパイと永久運動です!」
微かにほろ苦いシナモン風味のモカクリームが堪らない。
少し癖があるからか、お皿の上にはシンプルな生クリームも乗っていてその心遣いが憎いばかりだ。
笑顔で黙々と食べていたら、おもむろにアルテアに頭を撫でられた。
どきりとしてそちらを向けば、なぜか満足そうに微笑んでいる。
こちらを見ている赤紫の瞳の鮮やかさに、わけもわらずはっとしてしまう。
「も、もしや、これは私をムグリス化せんとする陰謀なのでは……」
その危険を孕んでいることに今更気付いて青ざめたネアに、選択の魔物は謎めいた微笑を浮かべた。
因みに、ディノもこのシナモンクリームを添えたアップルパイは美味しかったようで、いつの間にかお皿を綺麗に空にしてしまっていたくらいだ。
帰り道で、アルテアをずっと拘束しておけば、またあのパイが食べられますよと狡賢く囁いたご主人様に、ディノはほんの少しだけ悩ましい目をしていた。
次はチーズケーキを焼いてくれると誘惑されてしまったので、大変不本意ではあるが第二回のお宅訪問も敢行せねばなるまい。