嘘の精と春の訪れ
その日、ウィームには嘘の精の訪れが発表された。
嘘の精とは、気体化してしまっている精霊の一人で、悪戯に世界中を駆け回っている困った生き物だ。
この精霊が訪れた土地は正直者が一人食べられてしまうという逸話があり、この発表があると土地の者達は皆、すぐさま罪のない嘘をついてその厄を逃す。
「本当に食べられてしまうのですか?」
「ああ。だが、一人ではないな。少なくとも五人は食べられる」
「………嬉しくない真実でした」
「本当は三人だ」
「…………エーダリア様、さてはここで厄逃れをしましたね」
「どうでもいい者に嘘を吐いても意味がないのだそうだ。そうなると私の場合、ヒルドやお前たちなのだろうが、お前で済ませておくのが一番被害が少ない」
そう言ってから、エーダリアは何かの書類を手元でこそっと開いてから顔をしかめてまた閉じた。
時々業務報告時に見る仕草で、これは厄介な宿題を溜めているときの習性だ。
多分、ヒルドからのものだろう。
(それを溜めた状態で、嘘は吐けないだろうな……)
「………確かにヒルドさんだと叱られそうです」
「それと、嘘を吐くのは最低でも五回は重ねておけ。そのくらいが安全の線引きになる。これは嘘ではないからな」
「とは言え、私は正直者ではないので大丈夫なのでは………」
「お前は何かと危ういだろう」
「…………確かに紅茶の精の件で、少し危機感を持ち始めました」
「もっと早く自覚するべきだったな……」
「いつの間にか、ノアとも仲良しになっているエーダリア様に、一般人寄りな感じで言われたくありません!」
「いや、ネイを連れてきたのはお前ではないか」
「ふっ、私を連れて来たのはエーダリア様ですよ」
「……………そう言えば」
そこでエーダリアが頭を抱えてしまったので、ネアは勝ち誇った顔で執務室を出たが、よく考えれば己をも損なう自爆式の攻撃だったような気がする。
春告げの舞踏会が終わり、ウィームにも春の到来が布告された。
他の領土とは違い、ウィームの春は完全に雪がなくなりはしないものの、それは辛うじて残る程度のものとなり、一晩寝て眼が覚めるとすっかり雪が減ってしまっていたので、ネアは何だか寂しくなった。
その代わり庭園や並木道には花が咲き乱れ、小さくぽわぽわした春の精達が大はしゃぎで飛び回っている。
鳥の姿をした魔物や妖精に、ローゼンガルデンでは薔薇の妖精達がおはようと挨拶を交わす頃。
ジゼル達のように雪や冬の系譜の人外者は、城や領地に籠る為の準備を始める。
少し寂しくなるが、これも季節の巡りなのだろう。
これからは、ネアの知らない生き物達がまた出てくるのだそうだ。
「おや、ネア様。本日のお仕事は終わりですか?」
「ヒルドさん。ええ、今日の提出分は終わってしまいましたので、もし何かありましたら言って下さいね」
「では、私の部屋にいらっしゃいますか?」
ふいにそう言われたネアは、髪を掬い上げられ口付けられるとびっくりして固まってしまう。
妖精が異性を部屋に誘うということには、随分と色めいた意味合いがある。
「……………ヒルドさんのお部屋に?」
「おや、悪戯が過ぎましたかね。嘘ですよ」
「…………び、びっくりしました!」
くすりと笑って手を離してくれたヒルドに、ネアはばくばくした胸に手を当てて溜め息を吐いた。
普段の印象をがらりと変えて、ヒルドは時々こうしたことをするのが心臓に悪い。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたね。ですが、己にとって大切な者に吐かないと意味がありませんから。それと、外に出るなら戻り時の妖精達にご注意下さいね」
「もどりじの妖精さん?」
「ええ。戻る時間の妖精という意味でして、心の時間を戻してしまう妖精なのです。こうして大きな季節の変わり目には、前の季節を惜しむ者が多くいるでしょう?そんな者達の心を餌にして、心の時間を戻す邪悪な妖精が現れます」
この世界には、多種多様な生き物達がいる。
なので良くも悪くも評価は様々であったが、こうしてその辺にいる生き物への事前注意として、しっかり邪悪という表現を聞くと不安になる。
ネアは少しぞくりとした。
「邪悪な妖精さん………」
「悪意のある生き物ですからね。蜂鳥に似ていますが、黄色と黒の体毛をしておりますので、決して触りませんよう。とは言え、刺した者の心の時間を一年から二年ほど巻き戻すだけですので被害は軽微ですが、場合によっては面倒なことになりますから」
さらりと言われたことに、ネアは震え上がった。
「け、軽微ではありません!一年も心の時間を巻き戻されたら大惨事です!!」
「ええ。ネア様のように、短い時間で環境を大きく変えた者にとってはそうなります。ただ、効果は半日ほどで消えますので、ご安心下さい」
「………でも、その半日程の間で誤った判断をされてしまう方もいるのでは?」
怖くなってそう尋ねたネアに、ヒルドはふわりと微笑んで頭を撫でてくれた。
ヒルドがこうして甘やかしてくれると、ネアは少し照れてしまうのだが、今日ばかりはそれどころではない。
「戻り時の妖精に刺されると、鋭い痛みがあり、刺された箇所に小さな花の形の痣が出来ます。特徴的ですので、本人も今の自身が特異な状態にあることを理解出来るのですよ」
「私の場合、戻り時の妖精さんに刺されたという特徴についても忘れてしまうのでは?」
「それなりの痛みがあれば、人はその痛みを誰かに訴える筈です。医療機関の者や魔術師達は皆知識を得てますからね」
「……………良かったです。それなら、最悪のことにはなりませんね!」
「ええ。効果が解けるまでは本人も言動を自粛しますからね」
「………念の為に伺いますが、これは嘘ではないですよね?」
「おや、私が注意喚起で嘘を吐くとお思いですか?」
「ごめんなさい」
最後に仕損じて叱られつつ、ネアは大事な情報を持って慌てて部屋に帰った。
「ディノ、事件です!今日は色々と危険情報がありました」
「おや、どうしたんだい?」
部屋はまだ祝祭で貰った薔薇に溢れている。
状態維持の魔術をかけてもらっているので、他の花を飾りたくなるまではこのままでいようと考えている。
悪夢の来訪もあったりしたので、じっくりと堪能出来ている何でもない日が、とても有り難い。
本日分の仕事も終えてのんびりしていた魔物は、ぱたぱたと戻ってきたご主人様をさり気なく腕の中に閉じ込める。
アルテア捕獲事件以降、この魔物は少しネアへの独占欲を強めてしまった。
(アルテアさんの件がまだ宙ぶらりんのままだから、余計になのだろう)
ネアがアルテアを手に入れるという言葉を上手く置き換えるにあたり、ディノは少し悩んでいるようだった。
ネアが得ようとした恩恵は確かに貴重なもので、選択の魔物を手に入れたという恩恵の中には、安易に手放してしまうには惜しいものが多いのだそうだ。
ディノの方が高位なので、アルテアとしてはある程度の契約が破棄されてしまうのは覚悟の上であるらしい。
その上で、例え一時でもネアのものであったという事実を得ておくことに、アルテアなりの価値を見出したようだ。
確かに、その言葉の響きはとても親密でいかがわしい感じであるので、ネアも少し複雑な限りである。
おまけにまだ現在進行形なのだ。
これはもう、常々の悪さを楽しむアルテアとしては良い玩具以外の何物でもない。
うっかり捨て身でディノを助けてしまったことを恥じていたので、その純粋なイメージを払拭するべくあえて悪さをする可能性もあると、ネアは少しだけ警戒していた。
しかし、ダリルにそのことを相談したところ、今はきっとそれだけの気力はないだろうと言われたので少し不思議に思っていた。
(何だろう……。思いがけず自分が友人思いであることが発覚してしまい、本人も動揺しているとかかしら?)
そんなことを不思議に思いながらディノに嘘の精の訪れを伝えると、ああそんな季節なんだねと頷いた。
「なので今日は、ディノに嘘を吐きますね!」
「わかった。私はネアに嘘を吐けばいいのかな?」
「お手柔らかにお願いします」
「…………うーん、何だろう。好きな生き物を飼っていいよ」
「まさか、それが嘘なのですか…………?」
「うん」
それはもう、決してペットを飼ってはいけないということなので、ネアは図らずも打ちのめされることになった。
厄除けの体で、ご主人様の希望を奪うのはやめて欲しい。
「ネアは?」
「む。…………これでも己は中々の策士だと自負しているのですが、こうして嘘を吐くのは難しいですね」
「それが嘘なのかい?」
「さり気なく私の才覚を全否定されました……。ディノなんて大嫌いです」
「え、………」
そこで魔物は、絶句してしまった。
ふんすと胸を張って悪戯っぽく言ってみたネアは、魔物が綺麗な目を瞠っておろおろとするのを愕然とした気持ちで見上げる。
「ディノ………?嘘ですよ?」
「……………大嫌いって言われた」
「ちょ、…………ディノ、こんなことで泣いてはいけません!」
「こんなこと…………」
「え………」
ここで魔物は、ばさばさと長い睫毛を伏せて完全に涙目になってしまった。
慌ててネアはぎゅっと抱き締めてやったのだが、どうやら心が既に不安定なところに攻撃されたので、被害が大きくなってしまったらしい。
「ディノ、今のは嘘ですよ。嘘なので、つまり真実はその逆ということになります」
「逆…………」
「はい。本当は、ディノのことが大好きなので、泣いてしまったらとても悲しいです。ディノが泣いてしまうと、罪悪感のあまり、私も泣いてしまうかもしれません」
「………そう言えば、君はあまり泣かないね」
「なぜ興味津々なのだ……」
何とかディノを宥めすかして泣き止ませた頃には、ネアはもう嘘を吐くどころではないくらいに疲労困ぱいしてしまう。
「ディノに嘘を吐くと疲れるので、銀狐さんで遊んできます」
「酷い…………」
「ディノ、私は今までの二時間ディノに付きっきりでした。ご主人様にも休み時間を下さい」
「…………私といるのは疲れるのかい?」
「あら、そこが気になってしまいましたか?ディノと一緒にいるのは大好きですよ」
「………それは、嘘ではない?」
「む、疑い深くなりましたね」
「ご主人様…………」
もう一度体を返してえいっと抱き締めてやれば、魔物はこれは本当だろうかという目でこちらを見ている。
少しだけふるふるしているので、抱き締められたことにはきちんとダメージを受けているらしい。
「大好きですよ。ただ、ご主人様はこれから四回もの嘘をつかなければいけないので、一件に時間のかかりそうなディノよりも、容易く弄べる銀狐さんで済ませることにしました」
「あれもあれでしたたかだと思うけれど?」
「あら、私の狡猾なやり口を見てみますか?」
そこでネアは、お部屋にいた銀狐を捕まえて、本日は嘘の精がウィームに来ていると伝えて注意喚起しておくことから始める。
銀狐はネアの正面にきちんとお座りして、いい子で話を聞いていた。
いい子にしていないとダナエに取って代わられてしまうので、お利口さのアピールをしているようだ。
「なので、お散歩に行きましょう」
ぴしりと尻尾を上げて、銀狐が喜びの表情になる。
「嘘です。ボール遊びが本当でした」
ショックを受けた目をしてから、思わぬご褒美に銀狐は絨毯の上で弾んで喜びを示した。
「嘘です。実はお風呂に入れるつもりなのです」
ぱさりと尻尾が落ち、少しだけふりふりと揺れる。
「それも嘘で、実は毛玉を撲滅するべく、今日は少し手荒にブラッシングする日でした」
途端に銀狐は、尻尾をけばけばにして涙目で絨毯に爪を立ててしまう。
「ふふ、全部嘘ですよ。私の嘘の目標回数は達成したので、協力してくれた銀狐さんにはこれです!」
ネアがさっと取り出したボールに、銀狐はしぱっと尻尾を上げて歓喜の表情になった。
ていっと投げてやれば、転がるようにボールを追いかけてゆく。
はしゃぎ過ぎて、最初は上手く走れずに足がもつれる程の喜びようだ。
「………と言う感じです」
「ご主人様………」
あまりにも悪辣なノルマの達成の仕方に、魔物は慄いてしまったようだ。
さっと背後から拘束されたので、これ以上に被害を拡大しないようにと捕まえられたのかも知れない。
「もう嘘は打ち止めですよ?」
「うん。でも、嘘の精が来たら守れるようにね」
「そう言えば、ディノがいれば安心だったのでは………」
「でも、私もこういうことをするのは初めてなんだ。嘘の精の訪れの為に用心した方がいいなら、慎重にしておかないとね」
「…………今迄は気にしたことがなかったのであれば、問題ないような気がします」
しかし念には念をと言うことで、ディノは銀狐とのボール遊びで、投げたふりをしたけど投げてないという嘘でノルマを達成した。
散々弄ばれてしまったが、結果としてはたっぷりボールで遊べた銀狐はご機嫌である。
ノアの嘘の精対策は大丈夫かなとネアが心配していれば、夕方からはデートがあるというノアが人型に戻りつつ教えてくれたことによると、階位的に魔物達は何の心配もないのだそうだ。
「むぅ、何だかんだで狐さんのボール遊びに二時間も費やしてしまったので、どっと疲れました。もしや、これは狐さんの罠だったのでしょうか………」
「かもしれないよ。あれは、交渉事には長けた魔物だから」
「そんなディノだって、ボールで遊んであげていました」
「ネアが楽しそうに見ているからね」
「…………まさかの理由を知りました」
「君は、私にあれの面倒を見て欲しいのだろう?」
「………最近ディノは、私のして欲しいことが色々わかってしまうようになったんですね。ふふ、頼もしい魔物が側に居てくれるのでとても幸せです」
「そう言えば、君を捕まえてからもう半年を過ぎたんだね」
ふっと、ディノが珍しく感慨深い表現をした。
ネアもその時間の長さを思い、自分の生まれてからの年月の中でのこの半年の彩りの多さを考える。
そのほとんどを与えてくれたのは目の前の魔物なので、週末のお花見のときにはいっぱい楽しませてやろう。
それ自体を目的としてのお花見をするのは初めてだと聞いたので、ネアはとても張り切っていた。
ゼノーシュに教えて貰い、綺麗な桜が咲く場所も押さえてある。
場所を教えてくれたゼノーシュが、僕も使うと言って桜の木に状態維持の魔術をかけてくれたので、今週末まであの桜は満開のままなのだ。
(お弁当を作って…………)
明日が楽しいということは、何て素晴らしいのだろう。
明日も、明後日も、そこに大切な人達がいて、希望があるということは。
その恩寵に胸が苦しくなるほど、心がほこほことして微笑みが零れてしまう。
「ディノ、週末のお花見が楽しみですね」
「二人きりだよね?」
「ディノは春告げの舞踏会にも行かせてくれたので、二人きりにしました!お弁当を作るので、楽しみにしていて下さいね」
「お弁当………」
またしても初めましてのキーワードに、魔物が目をキラキラさせる。
その水紺の瞳の美しさに、ネアは何とも言えない満たされた気分になった。
こんな風に世界が美しいばかりだったので、事故でも災厄でもない純粋な悪意というものの在り処を、すっかり忘れてしまっていたのかも知れない。
その週末、ネア達がお花見に行くことはなかった。