春闇の竜と春風の妖精
その夜、人気がなくなり閑散とした春告げの舞踏会の会場で、風に散りゆく満開の桜の花吹雪を浴びて、一人の妖精がくるりくるりと踊っていた。
ゆるやかに波打つ淡い緑色の髪を靡かせ、夢見るような水色の瞳には金色の斑がある。
六枚羽を広げ、キラキラと溢れる妖精の粉が美しい。
それはそれは、世にも儚い美貌の女であった。
「エティメート」
不意に静かな声がかかり、女は踊りをやめて目を細める。
羽を広げると、さっと大きな木の上の方の枝に飛び移った。
「ダナエ。………前に、近付くときは事前に声をかけてと言ったでしょう?」
そこに立っていたのは、美しい一人の男。
白い片角を持つ、春闇の竜だ。
この竜は妖精の女を食べるので、気付かない内に近付かれてしまうとぞっとする。
「ごめんね、考え事をしてたんだ」
しかし、そう呟くダナエはどこか上の空であった。
「…………もしかして、今日の春告げの舞踏会で一緒に踊った人間の子?」
「うん。凄く可愛いし、食べたいとは思わないくらいに小さい」
「私は何の魅力も感じないわね。灰色で、まるで冬の霧の日のよう」
「あんなに可愛いのに?」
不思議そうに尋ねた美しい竜に、エティメートは溜め息を吐いた。
もう光らなくなった羽を揺らして、春風をふわりと巻き起こす。
「あなたと私の価値観は違うの。私は生粋の春。あなたは、春の闇なのだからまるで資質が違うわ」
「そうなんだ。……じゃあ、独り占めし易いかな」
「でも、冬の系譜や、夜の系譜からは人気があるかも知れないわよ?それに、仮面の魔物の指輪持ちなのでしょう?」
「そこまで仲良くはなさそうだった」
「ダナエ………、あの魔物は白持ちよ?怒らせるのはやめなさい」
叱られて困ったような顔をしたダナエに、エティメートは何とも言えない複雑な思いが揺れた。
(私の大好きな、美しくて孤独な春の闇)
初めて見たのは、花霞にけぶる小さな国の森の中だった。
エティメートの仲良しだった新緑の妖精をばりばりと食べていた美しい竜を初めて見た時、エティメートは一目で恋に落ちた。
しかし、食べられてしまう危険を冒して近付いた春闇の竜は、驚くくらいに趣味嗜好の合わない正反対の気質で、結局一晩お喋りしてから二人はせいせいして別れた。
話がちっとも合わずに、まるで楽しくなかったのだ。
それから、ふとしたところで再会すれば、少しだけ話すようになった。
この孤独な竜は、あまり寂しがりもしないくせに、人懐っこくこうして近寄ってくるのだ。
その度に、初めて出会った夜のことを思い出して、エティメートはチリリと遠い日の恋心が動く。
こんなに美しい生き物に恋が出来れば、或いはこんな風に特定の住処を持たない男に恋が出来たなら、エティメートはこんな美しい夜に一人で踊ったりしなくて良かったのかもしれない。
エティメートは春風の妖精。
美しいものが好きで、気紛れなのだ。
その為に、いつもエティメートの恋は壊れてしまう。
上手くいかないのだ。
だからいつも、この竜と上手くいけばどうなったのだろうと考えてしまう。
「エティは、今日のお相手はどうしたの?」
「………野暮なことを聞いたわね。その角を折ってしまうわよ」
「それは駄目だ。あの子はこの角が綺麗だって言ってくれたから」
「苛々する…………」
でもここで、ダナエはとても良いことを言った。
「あの子に名前を聞くのを忘れた……」
「そんな初歩的な失敗をしたの」
他の高位者の庇護や所有を受けた者の名前を得るには、きちんと名乗りを受けないと難しい。
よってこの竜は、お気に入りの少女の名前を呼ぶことも出来ない不遇の竜なのだ。
こんな美しい生き物ですら上手くいかないのだと考えると、少しだけ心が落ち着いた。
今のエティメートの心でも、哀れなものとであればお喋り出来る。
「名前そのものは知ってるの?」
「うん。………呼べば来てくれるかもしれないのに」
「来れないと思うわよ?だって、あの見目であなたが食べたくならないくらいの魔術可動域なのでしょう?転移なんて出来ないでしょうね」
「………そうなんだね」
しゅんと項垂れたダナエの姿に溜飲を下げ、悲しげな美しい生き物の姿を堪能する。
これでも、この竜は君が大好きだよと悲しく微笑みながら恋する女を食べてしまえる怪物なのだ。
そうならずに済んだ、昼間に見た人間の条件付けが、あまりにも奇跡的なのである。
(高位の生き物の愛を得ることは、あの人間も承知の上でしょうけどね)
仮にも仮面の魔物の指輪持ちである。
とは言え相手は仮面の魔物なので、指輪持ちを作るふりをしておいて、あっさり殺してしまう遊びかもしれない。
あの魔術可動域であれば不遇の人間であったのだろうし、そんな人間が白持ちの魔物に愛を囁かれれば、それは容易く舞い上がるだろう。
そうして甘く溶かした人間を絶望の海に沈めること程、あの手の魔物を喜ばせる遊びはない。
手が込み悪辣な罠を好むのは、暇潰しに飢えている魔物のやり口だ。
妖精の悪意も陰湿だとされるが、恋に限り、それを恩寵とする妖精は悪ふざけに使わない。
どんな軽薄な愛を囁く妖精であっても、妖精は己の“特別”を偽装することだけは出来ない。
妖精が耳飾りを渡したその時は、ただひたすらにその相手を愛しているのだ。
なので、いつも恋で他者を壊して遊ぶのは魔物ばかりだった。
その被害者達の怨嗟が世界に残っているからか、なぜか魔物の伴侶はよく死ぬと言われている。
対して、愛を重んじる妖精の伴侶は末長く生きるとされていた。
「アルテアに困らされていないだろうか」
「いるかもしれないわね。あの人間は脆そうだったもの」
「あの子に、野良竜だったら飼ってみたいと言われたんだ。嬉しかったから、また会えないと困るな……」
「ん?………飼いたいと言われたの?人間に?」
「うん」
「………人間に」
エティメートは呆然として、その恐ろしく馬鹿にした申し出を、なぜか嬉しそうに口にしたダナエを見返した。
彼は一応、最高位に近い程に長生きをした尊き竜である。
それなのに、飼いたいと言われて喜んでしまっていいのだろうか。
「…………そして、野良竜って何かしら」
「特定の組織や土地に落ち着いていない竜らしいよ」
「ご機嫌なのは、そんなことを言われても嬉しいからなの?」
「うん。他の生き物を育ててみたかったんだ。あの子なら可愛いし、魔術可動域は育たないから、この先も食べたくはならない。巣に連れて帰って、美味しいものを食べさせてあげたいな」
「…………双方の主張が噛み合ってないわよ。向こうは飼いたいと言っているのに、あなたも飼いたいみたいじゃない」
「一緒なのだからいいのではなくて?」
「一緒じゃ成立しないでしょ?どちらが飼い主になるのか決めないと」
それは考えてもいなかったのだろう。
ダナエは目を丸くして、やっとその事実に気付いたかのように頷く。
花明かりに濃紺の髪が鈍く輝き、満開の桜の下に立つダナエは、ぞっとするような春の夜の美しさだった。
「………では、あの子に決めさせてあげよう。また撫でて欲しいから」
「…………それでいいだなんて、ちょっと異常よ?」
思わずそう呟いたエティメートに、ダナエは春の色の瞳を細めて困ったように微笑んだ。
「そうだね。それはよく言われる」
この竜は、こんな風に悲しげに微笑む怪物なのだ。
今は自分と同じように不幸でいてくれないと困るのだけど、エティメートはそんな風に微笑むダナエが可哀想になった。
「……またその子に会えるといいわね」
「うん」
「でも、本当に仮面の魔物には気を付けてね。彼はとても狡猾で残忍な魔物として有名だわ」
「気を付けるよ。でも今日で、アルテアはあの子の持ち物になったみたいだから、いざとなったらあの子に助けて貰おう」
「…………ん?………仮面の魔物が、魔術可動域の低い人間の持ち物になったの?」
「アルテアから申し出ていたみたいだ。あの子の方が偉いのかな」
そこでダナエは、経緯は不明だけれどと言って、途中から聞いたという二人のやり取りを教えてくれた。
少し離れたところで盗み聞きしていたらしく、それもそれで恐ろしい。
「…………あの人間、何なのかしら」
エティメートはとても困惑した。
白持ちの魔物の指輪を得て、その魔物を完全に思いのままにしているようだ。
おまけに目の前のこの竜ですら、飼いたいという認識になるらしい。
よく考えたら、今日の春告げの舞踏会の女王に選ばれていたのだった。
あれだけ見事な花を咲かせた参加者は、近年見たことがない。
「そう言えば、あの子は、よくあそこまで花を咲かせられたわね。仮面の魔物の手助けかしら」
「咲かせた」
「…………あなたが?!」
「うん。一緒に踊りたかったから」
「…………そ、そう」
女性としての目線ではとても気持ち悪い発想であったので、エティメートはぞわりと粟立った腕を抱いた。
(………そうか、あの人間はきっとそういう資質なのかも知れない)
思い至ったのは、仮面の魔物もまた厄介な男だという点であった。
もしかしたらあの少女は、かなり厄介な男運の持ち主なのかも知れない。
ごく稀に、とびきり素晴らしい条件のお相手にばかり恵まれるくせに、その相手が総じて屑という不憫な者がいる。
その手の運命の持ち主かも知れないと考えたら、何だか腑に落ちた。
「………可哀想になってきたわ」
「最後まで踊れなかったから?でも、こっちを見ても悲鳴を上げない子供だったんだ。あのドレスも何だか触りたくなる感じで、ステップを間違えた」
「そういう意味でも可哀想に。ぼーっとしていたのね?手を離してあげれば良かったのに」
「一緒に連れて行けば、少しだけ二人きりでお喋り出来ると思って」
「…………わぁ」
「でも、踊る前に、あの子はアルテアと一定の繋がりがなくなってしまうと、死んでしまうって言われたから、糸だけ残しておいた」
「………それ、仮面の魔物に言われたの?」
「うん」
「それが脅しではなくて本当なら、相当に病んでるわね」
「そうかな?そういうの憧れるなと思った」
「…………うわぁ」
その後で、ダナエは嬉しそうにその人間のことを話していた。
エティメートも同伴した男性とどうして上手く行かなかったかを話し、二人でうんうんと頷き合う。
お互いの興味がお互いに向くとまるで噛み合わずに双方不快感があるのだが、こうして知人として話す程度なら良い相性の二人であるらしい。
「もうあの子は寝ちゃったかな」
「あら、もうそんな時間?」
そこでようやく、ダナエと話し過ぎたことに気付きひやりとする。
月が陰る角度と花の散り具合からすると、半刻くらいはお喋りしていたようだ。
(今は大丈夫でしょうけど、用心するに越したことはないわね)
うっかりにでも、この竜に恋をされるわけにはいかない。
エティメートはシーなので、そんなことになればあっという間にダナエの食事に上げられてしまうではないか。
本気で捕食しようとされれば敵う筈もないので、餌として認識されないように気を付けていた。
まだ幸せになっていないのだ。
こんなとこで竜の餌になる訳にはいかない。
「私はそろそろ行くわ。またね、ダナエ」
「もう行ってしまうのかい?」
「そうよ、私は春風ですもの」
「ふうん。それじゃ、またね」
羽を広げて舞い上がると、夜風に散りゆく花の雨の中を飛んだ。
うっとりと春の香りを吸い込み、その類い稀なる美しい夜に酔いしれた。
(ああ、こんな夜に誰かに触れられればいいのに)
その誰かを愛し、こんなに美しい夜の素晴らしさを二人で語り合えればいいのに。
そう願えば涙が溢れそうになったが、そんな夜でもやはり春風の中は素晴らしく心地良かった。
今日の舞踏会で一緒に踊った男は違ったけれど、いつかきっとこんな夜を一緒に過ごせるのだろう。
それはいつなのか、いつかそんな日が来てくれるのか。
わからないけれど、あのダナエにすら恋のお相手が現れたのだ。
きっとエティメートにも機会は巡ってくるに違いない。
(あ、………でも、ダナエのあれは恋ではないのかしら。寧ろ、気に入った子供が懐いたので、攫ってくるような感じね)
あの満開の桜の木の下には、とある男の死体が埋まっている。
妖精の体は植物のとても良い養分になるので、君は身勝手過ぎるから愛想が尽きたと吐き捨てて、春風のシーの心を傷付けた愚かな男はすぐさま殺して埋めてしまった。
なので、来年の春告げの舞踏会までには、あの木はよりよい花を咲かせるに違いない。
それまでに。
次はきっと、殺さずに済む運命の恋に巡り会えるだろうか。
そう考えて花の雨の中を飛び、春風の妖精は柔らかな風を引き連れていった。