オレンジケーキと紅茶の精
「ゼノ、これは何でしょう?」
春告げの舞踏会から帰り、ドレスから着替えて落ち着いたネアは、ゼノーシュが出してくれたお茶菓子にわくわくと声を弾ませた。
因みにこれは朗らかなお茶会ではなく、事情聴取の席である。
「オレンジクリームのケーキだよ」
「ほわ。生地がブリオッシュのような感じでふかふかですね!」
「お前はまだ食べるつもりか……」
「お菓子は別腹なのです。あちらの会場では、デザートを食べる余裕がなかったではないですか。桜のお菓子がたくさんあったのに、帰って来た時にはもう何も残っていませんでした……」
「可哀想に、大変だったね」
「ディノ…………、拘束椅子を解除してくれないとゼノがくれたケーキが食べられません。お膝の上の銀狐さんも邪魔です」
春告げの舞踏会から戻って来たネアの報告を聞いてから、ディノと銀狐は荒ぶり続けている。
がっちりと拘束されて渡さないぞとアピールされるので、ネアは鬱陶しくなって、フォークを持つ為にえいやっと手を引き抜いた。
ついでに膝の上の銀狐も隣の椅子に移設した。
「酷い、ネアが虐待する」
「この場合、それは私の台詞ですね」
「浮気ばっかりする……」
「竜が飼いたいと言っただけで、きちんと諦めたのにそれでも駄目ですか?」
「アルテアまで………」
「それについては私もここまでいらないので、どうにか調整して欲しいです」
「わかった。すぐに捨ててこよう」
「全部捨てては駄目ですよ!アルテアさんが悪さを出来ないくらいの余地は残しておいて下さいね」
「うん」
「お前ら、全部聞こえてるぞ……」
斜め向かいに座ったアルテアが渋い顔をしているのは、ネアに近付こうとする度に銀狐が荒れ狂うからである。
けばけばになってネアの膝の上でムギャムギャ騒ぐので、うんざりした選択の魔物は少し距離を取り座っている。
「でも、あそこまで捨て身の慰留をされる程に思われているとは意外でした」
「お前、よくそれを自分で言えたな……」
「あら、さては照れてしまいましたね」
ネアがふふんと微笑めば、アルテアは少しだけ嫌そうな顔になった。
「ディノ、アルテアさんは案外良いお友達でしたね」
「…………は?」
ネアが何となく嬉しい気持ちでそう言えば、アルテアがぎょっとした顔になる。
振り返って顔を見たディノも、なぜか水紺の瞳を瞠った。
「え、………そうなのかな」
ディノはそう複雑な顔をしたが、素直でない魔物の為に、ネアはきちんと説明してやった。
「少し怒ったような感じでしたし、私がディノを見捨てると思って慌ててくれたに違いありません。色々しでかしますが、いざという時には己を犠牲にしてまで助けてくれようとするのですね。良いお友達なのかもしれないと、嬉しくなってしまいました!」
ネアが言葉にすればするほど、アルテアがテーブルと一体化してゆくのは何故だろう。
きっと気恥ずかしくなってしまったのだと考え、優しい目で見つめておいた。
「………お労しい」
ぽそりとゼノーシュが呟き、銀狐もへたってしまったアルテアを不憫そうに眺めている。
「あと、春闇の竜さんは可愛かったですよ!」
「酷い………」
「ネア、春闇の竜はどんな姿だった?」
重ねた言葉にまたディノが項垂れ、エーダリアが異様に興味を示した。
先程からそわそわしていたのは、春闇の竜についての情報を聞きたかったからのようだ。
身を乗り出したエーダリアの熱の入りように、ヒルドが小さく溜め息を吐いている。
「珍しい竜さんなのですか?」
「ああ。文献に名前は出てくるが、実物を見た者はほとんどいない。春霞を食べ、春の夜になると闇の中に時折薄っすらと見えることがあるのだそうだ」
「………とてもしっかりと見えていたので、食べ物が違うからなのでしょうか。他の春闇の竜さんとは食べるものが違うらしく、禍子であると自分で仰っていました」
「成る程!禍子とはまた珍しいな………。どんな容姿だった?」
益々盛り上がるエーダリアを、ヒルドがひと睨みしてきちんと座らせていた。
はっとしたように座面に腰を下ろしたエーダリアを見ながら、ネアはまだ夕方のこんな時間に二人が一緒に居てくれる有り難さを思う。
きっとネアのことだから何かしでかすだろうと考え、彼等は本日分の仕事を早々に片付けて時間を開けてくれていたのだそうだ。
そんな優しさをかけられて、嬉しくない訳もない。
(………こんなんだから、私はあのチケットを使おうとは思わないのだわ)
ここはもう、あの場所とは違うところ。
練り直されてこの世界に来たのだから、ここはやり直しの世界だと自分でも区切りをつけている。
しかし、そう心の整理がついたのは、ここにあるものを自分事として大切に思えるようになってからだ。
「濃紺の長い髪を三つ編みにしていて、ほわりと淡い桜色の瞳でした。白瑪瑙みたいな角は片側だけしかありません。…………一本は白夜の魔物さんに折られたそうです」
「そ、そうか」
ここでネアの声に怨嗟が混じり、椅子になっている魔物が浮気だと小さく呟いている。
「一日五食の食いしん坊さんで、それとは別に好きになった女性を美味しく食べてしまいます。好きにならない男性と、魔術可動域の低い子供は捕食対象外だそうです」
ここで全員の視線が、ああそれでという感じでネアを見た。
たいへんに傷付いたので、ケーキを貪るしかない。
オレンジの花蜜で香りをつけたクリームがさっぱりとしており、ふかふかの生地は口の中であっという間になくなる。
表面に粉砂糖が振ってある素朴なケーキに、前の世界で大好きだったお菓子を思い出した。
微かな郷愁の念に胸がちくりとしたが、チケットのことは考えないようにする。
でも、心を決めても未練がましく悩むのが人間なのだ。
「そ、それではウィームには招けないか………」
あからさまにがっかりしたエーダリアに、ネアはふと妙案を思いついた。
「それでご相談なのですが、エーダリア様」
「…………何だ?」
「その春闇の竜さんと、またいつかお会いする予定なのです。その機会を作ろうと思ったのは、うっかりこの国で追われてしまうとエーダリア様のいるガレンに討伐依頼が入りかねないので、ヴェルクレアではあんまり食べ過ぎないようにお願いをしておこうと思いまして。なので、もしその機会があった時は…」
「わかった。同行しよう」
「…………エーダリア様」
ヒルドがとても呆れているが、本人は幸せそうなので良しとしよう。
しかし、椅子になった魔物がふるふるしているので、ネアは少し心配になってきた。
「ディノは、ダナエさんに会ったことはありますか?」
「…………ないと思う」
「あら、じゃあその時はディノも一緒に行きましょうね。その時は、私の婚約者としてダナエさんに挨拶して下さいね」
「する………」
ディノが少し軟化したので、ネアはしめしめと拳を握った。
「お前、それが見え見えなのはどうなんだ……」
少しだけ復活したアルテアが指摘し、ゼノーシュは、もう一度お労しいと呟いている。
「アクス商会経由で連絡をして下さいねと言ってあるので、いつか連絡があるといいなと思います。また撫でてみたいです」
その途端、隣の椅子の上で銀狐が暴れ出した。
撫でて貰えるポジションが奪われると考えたらしく、仰向けになって足や尻尾をバタつかせている様は、とても高位の魔物とは思えない。
その姿に、ヒルドは向こう側で頭を抱えてしまっている。
「あら、狐さんはもうリーエンベルクの一員ではないですか。家族のようなものなのに、荒ぶってしまうのですか?」
不憫になってふわふわのお腹を撫でてやれば、涙目でこちらを見返した銀狐に微笑みかけた。
「でも、絨毯に悪さをすると、代わりにダナエさんを飼いたくなってしまうかもしれないので、絨毯は大事にして下さいね」
その言葉に尻尾をけばけばにした銀狐は、慌てて椅子の上で飛び上がり、きちんとお座りして頷いた。
「と言うか、その春闇の竜は飼うという認識なのだな……」
「あら、エーダリア様、ダナエさんは愛くるしい竜なのですよ!少しだけディノに似ているんです。と言うか、何だかディノに似ているのでぐっときたというか……」
「ご主人様がずるい………」
「なぜ責められたのでしょう……」
狡猾なご主人様のせいで、春闇の竜への好意を責められなくなったディノが項垂れ、ネアの肩口に顔を埋めてしまった。
「ディノ、お行儀が悪いですよ?」
「と言うか、そもそも椅子になってるぞ」
「上から降りようとするとすかさず拘束される、恐怖の拘束椅子なのです」
「ところでネア様、その竜とお二人の時は何もありませんでしたか?」
「懐いたくらいですね。…………あ、」
「ネア?」
そこで不都合な真実を思い出してしまったネアに、すかさず反応したのはディノだ。
隣の銀狐のみならず、まだ草臥れたままのアルテアからもじっとりとした視線が向けられる。
しかし、微笑んで続きを促すように少し首を傾げたヒルドが一番怖い。
「え、………ええと、祝福を貰いました」
次の瞬間、部屋の中には大仰な溜め息と呻き声、銀狐の鳴き喚く声が響いた。
ゼノーシュはマイペースにケーキのお代わりをしている。
ダナエは男性なので、ゼノーシュ的には気にならないのだろう。
「…………ご主人様」
「ディノ、ご主人様にも不意打ちということがありますし、好意でしたし、ダナエさんは初めて人間を撫でた後で少しはしゃいでしまっていたのです」
「おや、おまけにネア様を撫でたのですか」
「ヒルドさん……」
実はここで、ネアはもう一つ厄介な問題を抱えていた。
出来ればこんなところで切り出したくないが、中立派のゼノーシュや巻き込まれただけのエーダリアが同席している内に済ませてしまいたい。
「それと、三日後にアルテアさんにご飯を作って貰いに行きます」
「ネア…………?」
耳元のディノの声が低くなるのは当然のことなので、ネアは体を捻ってその水紺の瞳を覗き込んだ。
「これはやむを得ません。私の大切なゼリー寄せを食べ尽くしたことへの贖罪なので、私ももてなされに行かなければならないのです」
「まさか、アルテアの屋敷に行くつもりかい?」
「む。……慣れた調理器具がいいと言われました」
「一人で?」
「もしかして、ディノも食べたいですか?一緒に行きます?」
「…………おい」
「僕も行く!」
「そうでした、ゼノも美味しいものには目がありませんよね」
さらりとゼノーシュも参加し、出遅れた銀狐が慌ててネアの膝に爪を立てて体を寄せた。
「と言うことで、こちらは三人と一匹になりました」
「ちょっと待て、そいつらの面倒まで見るとは言ってないぞ?」
「暫定私の魔物なので、ご主人様の言うことを聞いて下さい」
「そこでだけ押し込んできたな………」
「因みに、狐さんのものからは、新玉ねぎを抜いて下さいね」
「わかった。これでもかと刻んで入れてやる」
ここで、たしたしとテーブルを前足で叩いた銀狐とアルテアが睨み合ってしまったが、これ幸いとネアはケーキに集中した。
椅子になっている魔物を振り返ると、少し割り切れない不快感が残るのか、そこはかとなくしょんぼりとしていて不憫になる。
「ディノ、春告げの舞踏会でお花がとても綺麗だったので、今度のお休みには二人でお花見に行きましょうね」
ぴっとこちらを見た魔物に微笑みかけ、空っぽになったお皿を名残惜しく見てからフォークを置いた。
そしてまたちらりと後ろを仰ぎ見る。
「それと、上手く調整して下さいね。………ごめんなさい。得るべき恩恵と掴むべき掴み方の調整が、私の交渉力では限界がありました」
ふっと目を瞠った魔物に背を向け、どすんと背中を寄せてネアは紅茶のカップを取り上げる。
「………ネア」
「困ったものに紐をかけられるなら、多少引き摺られて擦り傷を負っても、捕まえてしまいたかったのです。………またディノが怪我をしたら困りますし、私もうっかりディノを置き去りにしたくないですから」
まだ、ふわりと甘い春の花の香りがする。
あの素晴らしいドレスを着て訪れた舞踏会は、素晴らしかった。
そこが例え、あまり好意的ではない見知らぬ生き物達に溢れていても、目を閉じるだけで思い出せる、満開の桜や溢れんばかりのチューリップに菜の花、デイジー、ライラックの見事な木。
ふつりと口元が緩むくらいに、素晴らしい光景は人間の心には過ぎた恩寵である。
あの会場に行けただけでも、やはり幸福な一日だったと思う。
同伴者だったアルテアも、特別なお相手なのは間違いない。
(でも、やっぱり…………)
やはりここにいるのが、自分の魔物なのだ。
あのチケットを使わなくてもいいと思わせてくれた今のネアの家の、大事な大事なネアの魔物。
「だから、私が紐の先を掴んでおけばディノがどうにかしてくれると思ったのです」
「ご主人様……」
「頼ってしまってもいいですか?」
「ご主人様が頼ってくれた………」
紅茶を飲んでカップをソーサーに置いてから、もう一度振り返って顔を覗けば魔物はほろりと微笑んでいた。
こんなことでも喜んでしまう幼気な魔物だが、これでもしたたかに魔物であるので後はお任せしよう。
「きちんと管理しておくから、心配しなくていいよ」
「ふふ、ディノは頼もしいですね」
「ご主人様!」
「…………お前ら、少しはそのやり取りを隠す努力をしろ」
「あら、アルテアさんはディノの為にうっかり己を犠牲にしてしまうくらいなので、こうしてこちらの肌感を伝えてゆけば、自ずと自分の立ち位置を掴み取ってくれると信じてみたのです」
「わざとかよ!」
「きっと、アルテアさんならと信じているのです」
慈愛に満ちた微笑みを向けてみれば、選択の魔物はとても荒んだ目をした。
本格的に荒まないように言葉を足そうとしたネアは、ぽこんと小さな音がして視線を下に向けた。
「こやつは何でしょう………」
「紅茶の精だよ。砂糖漬けにして食べると美味しいんだ」
「…………え」
ネアのティーカップの隣に、小さな木の芽のような生き物が出現したのだ。
出現して早々に、ゼノーシュから砂糖漬けにしてやると言われたその生き物は、ふるふると体を震わせている。
目や鼻は見当たらないが、何となく感情の伺える動きをしていた。
「紅茶の精とは珍しいですね。私は初めて見ました」
「ヒルドさんでも初めてなのですね」
「私も見るのは初めてだぞ」
「エーダリア様も………」
「お前は妙なところで引きがおかしいからな」
「………アルテアさんに言われると、なぜかおのれと思います」
「なんでだよ」
ネアがじっと見下ろしていると、紅茶の精はこの人間の寛大さに賭けようと思ったのか、ぱっとテーブルに平伏してネアを崇め始める。
「………ディノ、何だか不憫になったので、野生に帰してあげて下さい」
「いいよ」
ぽひゅんと音がして、テーブルの上で平伏していた木の芽の姿が消える。
ゼノーシュが悲しげに声を上げたが、とても猟奇的なので砂糖漬けにして食べるところを見たくなかったのだ。
「それと、アルテアさんに秋の舞踏会にも連れて行って貰えることになりました。絶対に行きます」
「ひどい!」
宣言を投げ込む隙を狙っていたご主人様から唐突に虐待された魔物が、くしゃりとネアの肩に顔を伏せてしまう。
紅茶の精を取り逃がした心を鎮めるべく、四個目のケーキを食べていたゼノーシュが、ぽつりと呟いた。
「お労しい…………」