115. 成り行きで魔物を手に入れました(本編)
(体が、ゆらゆらしてる………)
どうやら眠ってしまっていたらしい。
抱き抱えられて歩いているのだとわかり、子供の頃の充足感めいた擽ったさにほにゃりと頬を緩める。
もういい大人であるし一人上手のネアだが、こうやって下心なく無条件で甘やかされるのは心が満たされる。
(ああ、これは親が子供を守るような抱き方だわ)
ぬくぬくとして幸せで、すりりっと頬を寄せて二度寝に入ろうとすれば、困惑した囁きにぎくりとした。
「………目が覚めたかな?」
「………むぐ?!」
ぎゃっとして顔を上げれば、心配そうにネアを覗き込んでいるのはダナエである。
さらりと溢れた濃紺の髪と、淡い桜色の瞳が美しい。
自分が今どうなっているのかを思い出し、ネアは慌てて頭を上げた。
「ご、ごめんなさい。もしや、運んでくれてますか?」
「足元が雪だから、その靴だと危ないんだ。場所を整えるまで待っていてね」
そう言った春闇の竜は、少し歩いて良さげな場所を選ぶと、ネアを片手で抱き直して自由になった方の手をさっと振った。
途端に藍色がかった紗幕のような結界が巡らされ、お椀状の空間が雪から隔絶される。
「もう大丈夫だから下ろすよ」
「はい。お手数をおかけしました」
そっと下ろされた地面は、雪の上にある筈なのにぶ厚い硝子板を踏んでいるような硬質な響きで靴音を鳴らす。
いつの間にか、ふかふかの毛皮のようなものが敷かれていて、ダナエはネアをそこに座らせようとしているらしい。
「…………ここは、戻り雪の魔物さんの領域なのですね」
「そう、春から少し戻された場所だ」
「お家に帰れるでしょうか……」
「時間軸が少し乱れているせいで、アルテアも探すのに手間取っているんだろう。でも、さっきの場所に糸を残してきたから、すぐに迎えが来るよ」
「良かったです!ダナエさんがいなかったら、またしても迷子でした」
ネアがそう言えば、ダナエは不思議そうに桜色の瞳を丸くする。
「よく迷子になるの?」
「よく、落とされたり巻き込まれたりします」
「………巻き込んだね」
「む。正直なところ手を離して解放して欲しかったですが、どこも怪我もしてませんし、ドレスも綺麗なままですから気にしていませんよ。ダナエさんは、落ちた時に怪我をしたりはしませんでしたか?」
「人間にそんなことを言われたのは初めてだ」
「そうでした、竜の方には羽がありますものね」
「………人間はほとんど食べてしまうから、あまり話をしたことはなかった」
「……………ぞくりとしました」
ネアが顔色を悪くしたのがわかったのだろう。
ダナエは小さく不器用に微笑んで、安全を保障してくれる。
「君は食べないよ。小さくて可愛いから。どんな種族も、子供は可愛いから食べないんだ」
「…………まさか、己の魔術可動域に感謝する日が来るとは……」
どうやらこの竜は、相手が子供かどうかで食料判定の基準を定めているらしい。
「もしや、アルテアさんも美味しそうだと思うのですか?」
「好きだと思わないものを食べても美味しくないからね。食べるのは女性だけだよ」
「何でしょう。色々と支障が出そうな嗜好なのですね。好きな方を食べてしまうと、いなくなってしまうので寂しくないですか?」
「すぐに食べてしまうから、寂しいと思う程一緒に居たことはないんだ」
「すぐに………」
「その日の内には」
「その日の内には…………」
我慢出来ない性格であるようだ。
「ええと、………好きな方しか食べないのですか?」
「普通の食事も好きだよ。一日五回は食べるかな」
「五回……。とても食いしん坊の知り合いがいるので、何だか聞き覚えのある数字です」
「そうなんだ。嫌がる子でなくて良かった」
「あら、嫌がられてしまうのですか?」
「春闇の竜は、春霞しか食べないのが普通だから、禍子だと言われている」
「そうなのですね」
こおっと音がして、雪の霞がかかった。
戻り雪にしてはかなりの風と雪だが、魔物の手によるものなのでこんなものかなとネアはすぐに視線を戻す。
「…………君は、怖くない?」
「ダナエさんが、人間も食べるからですか?」
「大体何でも食べるね。妖精や精霊も、魔物も」
「水盤や、柱は食べますか?」
「水盤…………?そういうものは食べない」
あんまりな質問に、ダナエは困惑したように首を振った。
「私が名付け親だった星鳥の雛は、そういうものも食べてしまうのです。なので、食いしん坊には慣れてるのでしょう。私や私の魔物も食べると言われたら戦わざるを得ませんが、そうではないので怖くはないです」
「そうなんだね」
「それどころか、こうして暖かい避難壕を用意してくれた優しくて綺麗な竜さんです!」
「…………有難う」
少しだけ微笑んだダナエは、随分と恥ずかしそうに控えめに微笑むので、何やらネアも照れてしまった。
(ど、どうしよう!愛くるしい!!)
もはやネアの脳内では、人見知りだが心優しい食いしん坊の犬である。
リーエンベルクには女性もいないし、野良竜なら飼いたいくらいだが、ディノに叱られそうだ。
「………そして今気付きましたが、それは角なのですね?」
ネアがそう尋ねたのは、角飾りだと思っていた白い角だ。
よく見たら、きちんと地肌から生えているので本物なのだと気付いた。
角がある人に出会ったのは初めてなので、触ってみたいのだが我慢する。
「うん。もう片方は、昔白夜の魔物に折られた」
「なんて嫌な奴でしょう!白瑪瑙のようでとっても綺麗なのに!!」
「…………綺麗だと言われたのは初めてだ」
またしてもダナエは恥じらってしまい、ネアも一緒に照れてしまう。
片手で残された方の角を押さえて目元を染められてしまうと、ごめんなさいと謎に謝りたくなった。
「こんなに綺麗なのに、言われたことがないなんて。……もしかしたらきっと、すぐに食べられてしまうので、みなさん言う時間がなかったのかも知れませんね」
「ネアも可愛い。瞳も艶々してるし」
(それはもしや、食べてしまうからでは……)
ほぼ全ての生者の瞳は艶々している筈なので、恐らくダナエが比較しているのは死体の目ではなかろうか。
そこそこ戦慄する発言だったが、ネアは大人の社交術を発揮して笑顔でお礼を言った。
「髪の毛は夜霧みたいで、唇も緋桜みたいだ」
「……っ!とても嬉しいですが、照れてしまうのでもう充分です!…………む」
そこで、おもむろにダナエはネアの頭を控えめにそっと二本指で撫でた。
おっかなびっくりの様子が可愛らしく、髪の毛を崩さないようにしてくれるのが優しい。
「………初めて人間を撫でた」
「初めてなのですか?」
「男は撫でたくないし、大抵の小さな人間も食べてしまうから」
「………みなさん、小さな頃から魔術可動域が豊かなようで羨ましいばかりです」
「………そうか、人間は弱いから、魔術可動域が低いと危ないんだ」
「一般的にはそうですね。でも私は、……ふぁっ?!」
突然、ダナエに額に口付けられ、ネアは真っ赤になった。
「よく落ちたり巻き込まれるみたいだから、危なくないように」
どこか得意げにそう言われ、ネアはまたしても不用意に祝福を増やしてしまった己を呪った。
この竜はどうやら、初めて人間を撫でたことで少しばかりテンションが上がってしまっているらしい。
とても可愛い張り切り方なのだが、後で叱られるのはネアなのが辛い。
おまけにこの竜は、褒めてくれるだろうかと控えめな期待の眼差しを向けてくるのだ。
(か、可愛すぎて辛い………!!)
思わず手を伸ばして、ネアもダナエの頭をそっと撫でてやる。
なぜにこんな心が動くのだろうかと考えたネアは、自分の可愛いの最前線が雪豹や虎であることを思い出した。
肉食の怖いやつだがどこか愛くるしいという点で、この竜はとてつもなくいい線を攻めてきたのだ。
「………初めて人間に撫でられた」
「………ダナエさん、野良竜だったりしませんか?」
「のら竜?」
「自分のお国や、詰めている団体はありますか?」
「ないよ」
「同居人の方やご家族は?」
「………いない」
「じゃぁ、お一人で暮らしているのですか?」
「………すぐに追い出されてしまうから、あまり一ヶ所には住めないんだ。森や、山に暮らしてることが多い」
「森や山にお家があるのですか?」
「空間を繋げる扉を作る。でも、魔術が弱い土地だと、木の上や洞窟にいる」
「野良竜!」
これはもう飼えるのではとネアは歓喜しかけてから、この竜は女性を食べるのだと思い出した。
飼ってしまったことで、ウィームの領民が減っていったりしたら大問題だ。
「…………むぅ、ダナエさんを飼うのは難しそうでした」
「当たり前だ、馬鹿」
「む、アルテアさん!」
悲しげに呟いたネアに、結界に寄りかかるようにして立ったアルテアが渋い顔をしている。
「戻り雪は黙らせてきたから戻るぞ。ダナエ、結界を解いていいぞ」
「…………もう少しここにいてもいいよ?」
「む、………もう少しだけお喋りしていても」
「おい、叩き割られたいのか」
「ダナエさん、この方が我が儘を言うので開けてあげて下さい」
「君が言うなら仕方ない………」
しょんぼりとしたダナエが結界を開けば、外は先ほどの横殴りの雪が嘘のように、はらはらと優しい雪が降っていた。
ネアは、すぐさまアルテアに持ち上げられた。
と言うより、ほぼ回収された感じである。
「アルテアさん、迎えに来て下さって有難うございます」
「もっと早く来るべきだったな………」
「あら、ダナエさんはとても優しい竜さんでしたので、仲良くしていましたよ」
「だからだ。ほら、戻るぞ。賞品が欲しいんだろ」
「そうでした!このカードを交換して貰うまでは、お家に帰れません!!」
「…………よし、気が逸れたな」
ネアの興味がすっかり賞品に向いてしまったので、背後で寂しげにしていたダナエは小さく溜め息を吐いた。
その姿に、アルテアは眉を顰めて目を細める。
「あら、悪い顔をしてますね」
「さてな。ったく、少しは自重しろ」
「なぜ叱られたのだ」
「おい、下りようとするな。掴まってろ」
「さっきまで吹雪だったので、お土産話としてここを見ておこうと思ったのです。……む、普通に岩場なのですね」
ひょいとアルテアの肩越しに見てみた戻り雪の領域は、ごつごつとした岩山の上だけの、簡素なものであった。
「あいつの本領は幻覚だからな。戻り雪の中では、愛する者に再会出来るらしいが、今は戻り雪が意識をなくしているから無理だろう」
「………さては、戻り雪さんに何かしましたね」
「この空間を解かないと、お前を連れ帰れなくなるぞ?」
「………それならばやむを得ません」
アルテアに抱えられたままネアが春告げの舞踏会の会場に戻れば、またもや会場はざわりと揺れた。
囁き合う声によれば、戻り雪の領域から戻って来られた参加者は初めてなのだそうだ。
「………アルテアさん、ダナエさんがいません!」
「置いてきた。あれは竜種の中でも高位の一人だ。自分で戻れるだろ」
「なんて可哀想なことをするのですか!」
「言っておくが、あいつの技量ならすぐにこちらに戻れたんだぞ。わざわざ、糸だけ残して言い訳出来るようにして、時間稼ぎしやがって………」
「野良竜なので寂しいのかもしれません。可哀想に……」
「おい、何でそこまで篭絡されたんだ。………野良竜?」
「領民を食べないのなら、リーエンベルクで飼いたかったのに、残念です」
「念の為に言うが、あいつはジゼルより高位の竜だからな」
春告げのダンスは途中で途切れてしまったが、会は滞りなく進んでいたらしい。
ネアが誰かの力を借りて咲かせた枝が会場の一角に祀り上げられており、その周囲をお米の精こと木蓮の魔物や、謎の小さな春の生き物たちが囲んではしゃいでいる。
春の系譜は割と移り気なのか、無事に奇跡の生還を果たしたネアへの興味はすぐに失われ、参加者達の関心は会の後半でいかに知り合いを増やすかのようだ。
「………とても精力的に社交されてますね」
「これも春の資質だ。社交的だが、軽薄で冷淡でもある。享楽的な夏といい勝負だが、俺はまだ夏の方がマシだ」
「何と言うか、おっとりと微笑んでいるけれど微笑んでいない感じがします」
思っていた春の姿とは違うと考えてしまったネアは、ここが人外者達の宴であることを今更ながらに実感した。
ネアの思う春の気質はあくまでも人間の、それも違う世界の感覚なのだろう。
「やあ、アルテア」
ネアがそんな風に悟りを開いていると、気安い口調でアルテアに声をかけてきた男性がいた。
濃い青の短い髪に砂色の瞳の、癖のある美貌をしていて、アルテアより指一本分程背が低い。
(………あ、)
そちらを一瞥もせずに呼びかけを無視したアルテアに、意外なものを見た気がした。
嘲笑していても面白がって会話をしてやりそうに見えるが、ここまでわかりやすく邪険にすることもあるようだ。
「その人間に指輪を与えたって本当かい?ドレスはなかなかのものだけど、それは君が贈ったものだからだろ。人間にだって、もう少し美しい女はいるだろうに」
そこまで言ってもアルテアが答えないのに、男性はまだ頑張るようだ。
ネアは少しだけ、ダリルの呪いを投げつけてやるかどうか悩む。
「君と同じ統括の、白薔薇がやっと来たようだ。その人間を連れて来ても構わないから、向こうで一緒に飲まないか?」
ネアがその指し示された方向をつい見てしまえば、確かに白っぽい髪をした男性がいるようだ。
前にグラストやゼノーシュが仕事で関わった白薔薇とは違うみたいなので、ネアは少しだけ見てみたくなり、アルテアの袖を引いてみた。
「やめておけ、もう竜を捕まえただろうが」
すぐさま窘められたネアががっかりしていると、代わりにと顎で指し示された方向から、お淑やかに歩いて来る、羊頭の女性がいる。
「関係者は皆あの頭なのですね……」
「あれが、春告げの精霊の系譜の精霊だからな」
「と言うことは、春告げの精霊さんは羊さんなのでしょうか」
「形があった頃はそうだったぞ」
「………そのままでいて欲しかったです。もふもふが……」
無視された青い髪の男性がむっとしているのがわかったが、賞品を貰えるネアはそれどころではなく、カードをいそいそと取り出し、ぺこりとお辞儀をした羊頭の女性に差し出す。
羊頭の女性はそのカードに持っていた薄い桃色のセロファンめいたものを重ねると、カードがぼうっと光り、文字が浮かび上がって装飾のあるチケットのようなものに変化した。
それをまた返してくれる。
「………有難うございます」
出来上がったものを受け取ったネアは、財宝やお金のように品物ではないのだなと何となく気落ちしながら、そのチケットに記された文字を読む。
その文字は、きらりと輝く黄色の結晶石を張り合わせて描かれている。
(………………え)
そして、固まった。
「どうした?春告げのものだから、回復や修復系統の祝福だったろ。………ネア?」
ネアが無言でそのチケットをじっと見下ろしているままなので、不審そうにアルテアも覗き込む。
すぐさま、隣で小さく息を飲む気配がした。
「これは……」
(これ、“過去の修復したい事象を一つだけ修復する”って書いてある……)
だとすればネアは、何を修復すればいいのだろうか。
このチケットを使えば、本当に何でも修復出来てしまうのだろうか。
それはつまり、過去を変えられるということなのだ。
(……………過去を、)
遠い誰かの笑い声が蘇る。
胸が痛くなる程にその復活を願った夜が、朝が、何度あっただろう。
時間を戻してくれるなら、この命くらい幾らでも差出せると何度願っただろう。
これを使えば、もう一度大好きな家族に会えるのだろうか。
「………あっ、」
ぼんやりとそのチケットを見ていたら、横から伸びた手にぱっと取り上げられてしまった。
驚いて顔を上げると、どきりとするぐらいに鋭い眼差しをしたアルテアがこちらを見ている。
「私の賞品ですよ、返して下さい!」
「…………これはやめておけ」
「危ないものなのですか?」
アルテアは危険を肯定はしなかったが、かといってチケットをネアに返すつもりもないようだ。
ただ、ひやりとするくらいに静かな怒りとも不快感とも言えない気配がする。
「ははっ、確かに人間風情には過ぎた恩恵だよね。アルテアが使ったらどうだ?でも、そこに仕込まれた魔術を超えるものは改変出来ないぜ?俺なら………っ?!」
まだ隣にいたのか、面白がるように話しかけた青い髪の男は、言葉の途中で喉を鳴らして声を途切らせた。
いつの間にか、その喉元には真っ白なステッキの先が突きつけられている。
「………黙れ」
アルテアの言葉は決して荒々しくはなく、寧ろゆったりとした静かな声だ。
しかし青い髪の男性は、血の気の引いた真っ白な顔に砂色の目を割れんばかりに見開いて、必死に頷いている。
後退しようとして足がもつれたのか、転びそうになってから震える手で口元を覆うと、よろよろと逃げ去っていった。
ふっと手に持ったステッキを消して、アルテアは酷薄な瞳を細める。
「…………アルテアさん、チケットを返して下さい」
そう繰り返したネアに、再び赤紫の瞳がこちらに向けられる。
残忍で老獪な魔物らしい鮮やかな瞳は、ぞっとする程に不機嫌であった。
「私の賞品なので、差しあげませんよ」
高位の魔物には精神圧があるので、アルテアの不機嫌さは周囲の者達にも少なからず影響を与えているようだ。
階位の低い者達は転がるように離れてゆき、それ以外の者達も、不機嫌な白持ちの魔物に向き合う人間を、怯えるような目で見て体を寄せ合っている。
遠くの方で、白薔薇だと言われた人影がこちらを見ているのがわかった。
「もしかして、そのチケットをどうしても使いたい理由があるのですか?」
「………賞品の魔術はお前に紐付けられている。お前にしか使えないものだ」
「では、返してくれてもいいと思います」
「…………お前は、これをどこに使うつもりだ?」
(……………ああ、そうか)
ネアはそこでようやく、アルテアならば、ネアがこのチケットに何を願うのか察しがついているのだと気付いた。
何かを答えようとして、上手く言葉が選べずに少しだけ躊躇してしまう。
心は決まっていても、言葉にすることが難しい一瞬というものはある。
その微かな逡巡に、アルテアが小さく舌打ちするのがわかった。
「これはやめておけ。その代わり、俺の領域で俺がお前の願いを一つだけ叶えてやる」
「………それはチケットの効能と同じなのでは?」
「時間軸を動かすことは出来ないな。その代わり、魔術の可能領域は随分と広がるぞ。効果を限定する必要もない。………何でもいい、言ってみろ」
「…………何でも」
すいと伸ばされた手に腰を抱き寄せられ、ダンスを踊る時のように体を寄せられる。
頬に寄せられた手には明らかな誘惑の色があり、何が何でも頷かせるのだという気配がした。
アルテアの場合、そこに揺蕩う誘惑の甘さには苛立ちが滲むのだと、ネアはその心の動きの違いを見て思う。
ディノが同じような懸念をもってネアに向かいあった時には、確かな恐怖の影を見たのだ。
「何でもなどと言ってしまって、私がもし、あなた自身を縛るようなことを望んだらどうするのですか?」
ネアの問いかけは静かだ。
あまりにも剥き出しの鋭さを恐れるというには、このアルテアの代替案は彼らしくなく隙だらけではないか。
「くれてやる。だから、まずはこのチケットの所有権を手放せ」
「………このチケットの持つ力はとても魅力的です。変えたい過去というものは、いつだってあるでしょう。人間のような強欲な生き物にこれを見せておいて、手放せと言うのは難しいですよ」
やると即答されたが、決してくれてやってはいけないものだと思うので、ネアは眉をぎりぎりと寄せた。
これがもし、先程の金色の髪の女性であれば、その言葉のままにアルテア自身を願うだろう。
そこでふと、ネアは考えた。
(…………と言うか、くれるなら多めに貰ってもいいのかしら)
「なら、その願いをこれから起こることに限定しろ。その対価に今の条件を飲んでやる」
「………これから起こることしか変えられないということですか?」
「それと、使う時は必ず相談することもな」
「え、……アルテアさんに?」
「…………シルハーンでも構わない」
「むぅ……………」
不服そうな声を出したネアに、背中の腕に力が篭るのがわかった。
「俺が、お前に選択肢を持たせている内に決めておけ。お前の意思を削ぐことも出来るんだぞ?」
耳元で囁やく言葉は睦言のよう。
その甘さと残忍さに、耳朶に触れた唇の温度にもぞくりとする。
「………では仕方ありませんね、その条件で受け入れます。このチケットを使うのは、これから起こることのみで、使う時は相談しますね。それから、アルテアさんを下さい」
「わかった。…………ん?俺をか?」
ほっとしたように息を吐いたアルテアは、そこでようやく自分が切り出した代替案の甘さに気付いたらしい。
その隙を指摘もせずにさらりと強奪した邪悪な人間は、にっこりと微笑んで補足した。
「了承してくれたので、契約成立ですね!アルテアさんはもう私のものなので、今後は私の大事な魔物に怪我をさせたり、悪さをしてはいけません!それと、私を怖いところへぽいっとするのも禁止です!」
「おい、待て。もっと詳細を詰めろ。幾ら何でも丸ごとはやらんぞ?!」
「あらあら、男性の方が言い出したことを撤回するのは格好悪いですよ?」
「……………まさかお前、最初から狙ってないだろうな?」
そのたった一つの願いを手放したにしては、ネアがからりとし過ぎていると察したのだろう。
アルテアの顔色が少しばかり悪くなる。
「アルテアさんが私のどんな願い事を懸念しているのかわかりましたが、その願いを叶えるつもりはありませんでした」
そうアルテアを絶句させてから、ネアは淡く微笑む。
つい一度弾んでしまい、がっしりと肩に手を乗せられ動きを封じられた。
「あの、あちら側の出来事はもう終わったのです。ここに来る前の私ならば、こんな機会を決して手放しはしなかったでしょう。例え己の命と引き替えだと言われても、私は家族を取り戻しました。………でも、あの世界の私の物語はもう終わったのです。今はここに、新しく置き去りにしてはいけない大切な私のものがありますから、……私はあの過去を変えようとは思いません」
そう答えたネアに、アルテアは目を瞠って、ただこちらを見ていた。
こういう時にはやはり、魔物の方が無防備な感じがして、ネアは彼らの無垢さが心配になる。
人間の選択のしたたかさに、こんな風に驚くなんてどれだけ純粋なのだろう。
「でも、やはり心が大きく動きましたので、すぐにそれはしないとは言葉に出来なかったのです。…………アルテアさん?」
「………お前が図太いのを、すっかり忘れてた」
「まぁ!取捨選択が出来ると言って下さい。それと、先程の約束は、欲をかいて穴だらけになってもいけませんので、少し詳細まで考えてみます」
「構わん、俺はくれてやる。ダリルやシルハーンに相談されて、ろくでもない効果をつけられるより余程マシだからな」
「それが穴だらけと言うのでは!それに、保護者責任まで負えないので、もう少し軽いものでいいのです」
「お前のものになってやるんだから、色々と責任を取れよ?」
「それが嫌なのだ!」
そこからはさすがに老獪な魔物らしく、散々会話で弄ばれたネアはいつかの報復を固く誓った。
「………とりあえず、チケットは返して下さい」
「駄目だ。これは俺が預かっておく。シルハーンでもいいが、どっちがいい?」
「それはもう、間違いなくディノで」
「即答かよ………」
「ご自身の過去の行いを振り返って下さいね。それから、………むぎゃ?!」
ひょいと持ち上げられて唇の端に口付けられて、ネアは咄嗟に頭突きで反撃してしまった。
憮然として、赤くもなっていない額を押さえたアルテアに睨まれる。
「………お前、その色気のなさをまずはどうにかしろ。シルハーンの要求に答える為に研鑽を積むんじゃなかったのか?」
「アルテアさんは、許容範囲外です」
「俺ももうお前のものなんだろ?俺にも欲求がある。息抜きには責任を持って付き合えよ?」
「そこまでいりません!」
「シルハーン用に練習するなら、俺が練習台になってやろうか」
「他者で練習すると、消したい過去が二倍になるだけだと私は学びました。お断りします!」
「………おい、誰で練習したんだ」
「ウィリアムさんと、不幸な事故でノアにも少しですね。二度とやりたくないです」
「………お前、自分の身を危うくするのも大概にしろよ」
「なので、二度とやりません。ディノからも、勉強の相手は自分がすると言われていますから。と言うか、アルテアさんはもっと自分を大事にして下さい。嫌がらせで押し付けるにも程がありますよ!」
「…………お前のそれは、時々計算尽くなのかと思うな」
少しぐったりしたアルテアに、床に下ろすように暴れていると、まるで子供にするようにお尻をばしりと叩かれた。
「っ?!………許すまじ」
「白薔薇に目をつけられる前に出るぞ」
「もう帰るのですか?………まだ遠くのお皿にお料理が残ってます」
「その食い気もいい加減にしろ。ムグリスを目指すつもりか?」
「……………我慢します」
渋々頷いたところで、誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「帰るのかい?」
「あ、ダナエさん!無事に戻れたのですね?」
「また会えるだろうか」
「む、懐きました!やはり、飼い…」
「やめろ。妙なものを連れて帰るな」
「でも、またダナエさんには会いたいです」
「駄目だ。帰るぞ」
「ダナエさん、アクス商会さんに取り次ぎを要請して下さい!」
「わかった」
「お前、いい加減にしろよ……」
帰り道でアルテアが本気で怒ったので、ネアは現状自分の持ち物になった魔物に理由の説明を図る。
「ダナエさんはあちこちを渡り歩いているようです。偶然にウィームに来てしまって調伏対象になっても嫌なので、どこかで一度、争いたくないのでヴェルクレアであまり目立ってはいけないとご相談してみなくては………」
「どれだけ気に入ったんだよ」
「愛くるしい肉食の生き物です!雪豹のようで撫でてあげたくなりますね……」
「…………まさか、その区分けなのか」
あれだけ高位の竜を捕まえてペット枠なのかとげんなりしつつ、アルテアの機嫌はなぜか回復したようだ。
「ディノ!春告げの女王に選ばれたり、戻り雪さんの領域に落とされたりしましたが、愛くるしい竜の方と仲良しになりました。野良竜なのでとても飼いたかったのですが、人間や魔物を食べてしまうので諦めますね。………あと、アルテアさんを手に入れました」
しかし、やっと帰って来たご主人様にそんな報告を受けた魔物は、あからさまにショックを受けていた。
「酷い、ご主人様が浮気して帰って来た」
そんなディノを見て、アルテアが愉快そうに唇の端をカーブさせる。
「悪いな、色々あって、こいつのものになった」
エーダリアやヒルドも絶句しているし、銀狐も全身をけばけばにして怒りに震えている。
これは少し、話し合いの必要がありそうだ。