114. ステップを間違えた人がいます(本編)
春告げの舞踏会の会場は、多彩な時間の空を反映する仕掛けがあるようだ。
満開のミモザの木の下で美味しく料理をいただいていたネアは、木々の向こうに見える空が、いつの間にか花曇りの空になっていることに気付いた。
着いたばかりの頃は、時間に見合わず早朝のような澄んだ淡い空色だったので、不思議だなと思っていたのだ。
「アルテアさん、お空の色がどんどん変わってきました」
「ん?ああ、あらゆる春の空があるらしいからな」
「…………もしや、春の嵐があったりしませんよね?むぐっ……!!」
そこでアルテアに鴨のコンフィめいたものを口に押し込まれ、ネアは渋面になる。
お行儀が悪いし、ウエストの調整の為にも食べる量を考えているのだ。
ムグリス化しようと企むのはやめて欲しい。
「食べきれないものを押し付けないで下さい!大人なので、きちんと配分してお皿に上げて下さいね」
「お前の好物じゃないのか」
「大好物ですが、ここでしか見ないお料理もあるので我慢しているのです!このドレスでムグリスなどと言われるものですか」
「……………安心しろ。少なくとも、ムグリスには似てない」
「少なくともという表現の向こう側は、何が潜んでいるのでしょう?」
「お前、踏み込むのはいいが、自分の退路を断つぞ?」
「何が潜んでいるのだ…………」
(おや…………?)
ここでネアは、すぐ側の木の横に先程ダンスの時に見かけた男性がいることに気付いた。
何となくしゅんとした大型犬のような雰囲気があり、気になってしまう。
(一人でいるし、お相手がいなくなってしまったのかしら)
そうなると、あまり見るのも可哀想だ。
そっとしておいてあげようと、視線をアルテアに戻したネアは、いつの間にか、アルテアが見知らぬ美女に話しかけられていることに気付く。
(儚げな感じの絶世の美女!)
ネアは、魔物らしい美貌の女性をこっそり近くで見られて、ほくほくと喜びを噛み締める。
木漏れ日のような淡い金色の髪に、新緑の瞳が美しい。
「………でも、少しだけですわ。いけませんの?」
「取り込み中だ。他所をあたれ」
(おお、お誘いを受けている!)
女性の可憐な声が悲しそうなのでどうぞどうぞと行かせたいところだが、さすがに一人でいるのは無用心なので、連絡先の交換のようなものが出来ればいいのにと勿体無く思う。
或いは、隣に置物として置いておいてくれるのなら、しばらくお喋りしていてもいいのに。
「…………何だその視線は」
「今日は保護者なのでいなくなると困るのですが、後日のお約束をしたりしなかったのですか?」
不快にならないないよう、女性がいる間は気付かないふりをしていたネアだが、アルテアが彼女を追い返してしまうと、渋い顔でそちらを見た。
「余計なお世話だ」
「あんな可憐で美しい女性なので、同性から見ても勿体無いと思ってしまうのです」
「悪いが暇潰しなら間に合ってる」
「………そんなことを言っていると、その方にも愛想を尽かされてしまいますよ。……痛いです!」
忠告してあげたのにおでこを指で弾かれたネアは、頭にきて爪先を踏もうと足を伸ばしたが、巧みに避けられてしまった。
その時、ふわりと視界が陰った。
(……………あら)
先程の男性が横に立ったのだ。
驚いてそちらを見ると、ネアが意地汚く最後の二個を取ってしまった春菜と鶏肉のゼリー寄せを見ている。
この世は弱肉強食であるが、こんなにしゅんとされると他人様の分まで奪ってしまったことに、ネアは申し訳なくなった。
「まだ手をつけていないので、嫌でなければこちらを召し上がりますか?」
「ネア!」
鋭く背後から名前を呼ばれ、ネアはアルテアを振り返った。
「アルテアさんにはあげませんよ」
「馬鹿か!見ず知らずの人外者に食べ物を与えるな」
「む。餌付けすると厄介だとかそういう……何をするんですか?!」
そこでネアは、アルテアに問答無用で残っていたゼリー寄せをぱくりと食べられてしまい、顔を強張らせた。
「ダナエ、これは俺の連れだ。食事なら向こうでやれ」
ダナエと呼ばれた濃紺の髪の男性は、微かに眉を下げた後でふいっと背中を向けて歩いて行ってしまった。
自分の分のゼリー寄せまでもが消えてしまったことに激しく動揺しながらネアは震える手でお皿を置き、暗い眼差しでアルテアを見返す。
「この恨み………」
「春の者には気を付けろと言っただろうが。ましてや、自分の皿の上から食べ物を与える行為は、相手に心を傾けているという意味になるんだぞ?」
それはすっかり抜け落ちていたことだったので、ネアは仕返しをしようとしていた足をそろりと引っ込める。
その動きでふわっと揺れたスカートが柔らかくきらきらと輝いた。
「なぬ。………あの方も怖い方なのですか?少しだけ、萎れた時のディノに似ていてほっこりしました」
「………あれは、春闇の竜だ。一人でいるのも、同伴者を食い終わったからだろう」
「…………それはもしや、栄養補給としてのお食事ですか?」
「言葉通りその意味だ。下手したら食われてたぞ」
だからアルテアは、あの男性に食事なら向こうでと言ったのだろう。
そんな邪険にしなくてもと考えてしまったネアは、やはり見た目通りではないこの世界の生き物にあらためて気を引き締めた。
「助けてくれて有難うございます。実は結構可愛いやつめと思ってしまい、あわよくばお喋りなどしてみようと企んでしまいました」
「………ああいうのが好みか」
「そして、私が、図々しく最後のお料理を二個とも強奪したことを、永劫に秘密にするよう脅すつもりだったのです」
「待て、どうしてそうなった」
「淑女たるもの、二個しか残っていないお料理を、二個も強奪するなど誰にも知られたくないものです。しかし、そこまでの危険を冒して手に入れたお料理は、悪い魔物に食べられてしまいました………」
「あんなものがいいなら、今度食べさせてやる」
「何と無責任な言葉でしょう!さては勝者の余裕で、私の心を粉々にするつもりですね…………」
食べ物の恨みは恐ろしいのだ。
とても執念深い顔になった同伴者に、アルテアは唇の端を歪めてまた呆れた微笑みを浮かべる。
「味は覚えたからな。今度作ってやるよ」
「………同じやつですよ?」
「料理は得意だからな。ただし、あまり日が開くと忘れるぞ」
「明日も出掛けると魔物が拗ねてしまいますので、三日後くらいなら!」
「………恐ろしい程に前のめりだな」
「わかっていませんね。食べたいと思ったものは、食べたい欲求の旬があるので、今欲しいくらいなのです」
「ったく。お前が手練手管に長けた女なら、誘い文句かと思うところだな」
「困った方ですね。ただれた会話遍歴を積み過ぎです」
やれやれと溜め息を吐いたネアに、アルテアは目を眇めてひらりと片手を振る。
「積むも何も、瞬き程しか生きていない人間が容易く物差しを向けるな」
「ふふ。所有時間が短い分、人間の方が気楽なのかもしれませんね」
微かな酷薄さを滲まされたので、ネアはふわりとそれをいなした。
微かに眉を顰めた選択の魔物は、不可解な顔でこちらを見下ろしている。
「…………お前は、シルハーン以外の言葉は追わないんだな」
気付き驚いたようにそう言うのは、何をだろうか。
ネアは首を傾げて、少しだけ思案する。
「追いかけていってこらっと叱るのは、あの魔物が、少なくとも今は私のものだからです。自分のものは大事なので、不具合や想定外があればじっくり向き合いますよ」
「成る程、壁の向こうの存在は、どうであろうと気にならない訳か」
弄うように言うくせに少しだけ不愉快そうなのは、彼が酷薄になった一瞬を気にせずに流したからだろうか。
長命なくせに変なところが子供っぽいのが魔物なので、ネアは困ったなと溜め息を吐きたくなる。
この手の議論が転がると、やはり相手は老獪な魔物なのだ。
これを続けてゆく程の技量はないので、どこかで足を掬われそうでひやりとする。
「確かに家族という感じはしませんね。でも、アルテアさんは、アルテアさんらしく在っても気にならない程度の距離感なのでしょうし、それと同時に、ディノよりも安定しているとも思うので安心して放置出来ます」
「安定してる、ねぇ」
「うちの魔物のように泣き出してしまったり、巣に立て籠もってめそめそしていたりしないでしょう?」
「……………しないな。と言うか、あらためて言葉にすると酷い有様だな………」
「そして変態です。実は最近、ご褒美が欲しい病気がぶり返しました」
「おい、こっちを見るな。その問題は自分達でどうにかしろ」
「きっと、さっきのようにたくさん爪先を踏んだら、うちの魔物は大喜びでしょうね……。アルテアさん、会話の途中でふっと切実な目をして、腕を叩いて欲しいと言われるのがどれだけ辛いかわかりますか?」
「やめろ、俺はそれ以上知りたくないからな!」
アルテアが露骨に嫌な顔をしたところで、二人の前に穏やかな目をした羊頭の男性が立った。
腕にかけた籠から綺麗に整えられた枝を一本ずつ渡してくれ、ぺこりと一礼してまた次のお客のところにゆく。
歩き去ってゆく羊頭の男性の背中を見送ってから、ネアは渡されたものに視線を戻し、アルテアの袖を引く。
「この小枝をどうこうするのですね?」
「魔術を通して咲かせるんだ」
「熱々の紅茶を冷ます能力を身に付けたとは言え、こやつは枝のままでいてくれる自信があります」
「なんだ、氷の祝福でも手に入れたのか?」
「アルテアさんが薔薇の祝祭で捕獲してくれたリズモからのとびきりの祝福でしたが、お茶を温くすること以外には役立ちませんでした」
「哀れな奴だな………」
「心から言いましたね!許すまじ!」
「おい、…………弾むな」
「あまりに心ない言葉に、地団駄を踏んでいるのです!」
がすがすと床を踏みならしたネアに、近くにいた木蓮の精がさっと距離を取った。
微かに怯えた雰囲気を出しているので、恐ろしいけだものだと思われたのかもしれない。
それを見ていたのか、アルテアはぽつりと嫌なことを言い出した。
「お前はどうやら春の系譜には受けないらしいな。どうなるかと思ったが、この会場の男どもは、お前には女としての興味はまるでないらしい」
「…………さては死にたいのですね?」
実はそれは、ネアも思っていたことであった。
転職候補だった魔物達や、様々な場所で出会った者達など、なんだかんだと構ってくれる生き物達も見てきたので、この会場の中にいる人外者達の無関心度がよくわかるのだ。
例えばドレスや髪型に目を向けて興味を示すご婦人がいても、アルテアと喋っているところを驚いたように見ている男性がいても、あの子は誰だろうというようなネア個人へ向ける興味はまるで感じない。
個人的に向けられた視線は、最初の春宵の魔物の下卑た興味くらいがせいぜいのものである。
「特定の層があるんだろうが、こうも顕著に出るとは思わなかった」
「繊細な心を砕く悪辣な虐めです……」
「何だ、気にしてたのか?俺は気に入ってるんだから、別にいいだろうが」
「あのお米の精にすら、邪悪なけだものを見る目で避けられたので、少し悲しくなりました。おまけに小枝が咲きません……」
既に会場には、貰ったばかりの小枝に見事な花を咲かせてはしゃいでいる者達がちらほらといる。
どうやらこれは春告げの舞踏会の楽しみの一つだと知り、ネアはしょんぼりした。
試合に放り込まれて、あっという間に不戦敗にされた気分だ。
(いいな。みんなが綺麗な花を咲かせた枝を持っているのに………)
「ほら、貸してみろ」
「………咲かせてくれるのですか?不正も厭わないくらい、この枝をどうにかしたいです」
「ここで咲かせた花が、春を占う魔術の儀になるんだ。咲いた花の数が多い方がいいらしいからな、俺が手を貸してもとやかくは言われない」
ネアの枝を一度取り上げ、アルテアはすぐに二、三輪の花を咲かせてくれた。
どうやらこれは、桜の枝のようだ。
ぽつりぽつりと咲いた花は可憐で、ネアは嬉しくなる。
誰もが花の咲いた綺麗な枝を持っている中で、ただの茶色い小枝を握り締めている事ほど辛いことはない。
「有難うございます!……ふっくらした花が可愛いですね」
すぐさまご機嫌になったネアに、ちゃっかり自分の枝はそこそこ咲かせたアルテアが、笑って頭に手を乗せてくる。
「髪の毛が!お花の恩があるとは言え、髪型を崩したら爪先を滅ぼしますよ!」
「髪を乱すなら場所を変えた方がいいだろうな。空を見てみろ、始まるぞ」
「…………始まる?」
ネアが目を瞠った直後、あたりがすっと暗くなった。
春の陽が陰るように太陽が雲に隠された明るさになり、空の縁が青く滲んだと思えば夕暮れの胸を打つような青い闇が落ちてくる。
「……………花明かり」
ふわりと舞踏会の会場を照らしたのは、見事な花明かりであった。
枝や木の根元、床やテーブルの上に置かれた結晶石がぼんやりと淡く光る。
その光と、冴え冴えと満開の花木を照らした満月に、周囲は幻想的な光景となった。
ここでネアは、あることに気付いた。
「こんなに美しいのに、陽が陰ったことを残念がる方が多いのですね」
青い闇が落ちてきた時、ネアは歓声を上げたくなったというのに、周囲からはがっかりするような声が聞こえて来た。
そのことに驚いたのである。
「それが春の質だ。だから、ここでお前が受けないのはそういう理由なんだろう。好む物の資質が違うんだ」
「さり気なく私を傷付けるのは禁止です……」
「俺はこちらの方が好みだし、他の誰よりもお前の方がいいけどな」
「え………」
「ん…………?」
さらりとした言葉の甘さにネアが声を失うと、眉を持ち上げたアルテアも、なぜか絶句した。
言った本人に狼狽される程嫌なことはないので、ネアが少しあわあわしていると、気を取り直したのか、弄うように艶めかしく微笑みを深められた。
「少しばかり、本気で手を出すのも悪くないかもな」
「不穏な予感しかしません……」
「籠絡の為のドレスを着て腕の中にいるなら、落とされてやるなりの報酬が欲しいところだ」
「………報酬?」
わあっと歓声が上がるのは、青い闇が更に暗さを増し、すっかり会場が春の夜になったからだ。
花明かりで周囲はより煌々と白く輝く。
その中で見事に花を咲かせた者達の枝は、花明かりを切り取ったように明るく目立つ。
どうやら、その花明かりを競っているらしい。
そんな喧騒を背にしてケープの内側に入れられてしまうと、酷く背徳的な感じがした。
腰に手を回されぐいと抱き寄せられたので、ネアは抵抗するよりもまず、せっかく花を咲かせた枝が折れないよう、その枝を持った手を遠ざけて守る方を優先してしまう。
その結果、かなりぴたりと体を寄せられてしまった。
(ド、ドレスが………!)
薄布で寄り添うと温度が伝わり過ぎる。
背中を撫で下ろす手の温度に、いつの間にかアルテアが手袋を外していると気付き、また混迷の度合いが上がる。
「そして、飾緒とベルト的なやつがこわこわします!」
「………お前に情緒がないのは今更だな。後で脱いでやる」
「それに、背中をぎゅっとされると、胸が圧迫されて苦しいです」
背中に当てた手に力を入れられ、きつく抱き寄せられる。
困るのは、肉体の質量を無視して力を入れるので、胸が潰れ苦しくなることだ。
「悪いが、俺はこの感触が気に入っている」
「絞め技禁止ですよ!私の背骨はそこそこ脆い筈なので、大事に扱って下さい」
「扱ってるさ、この上なくな」
「なぜにより一層ぎゅっとしたのだ!……ふぁっ?!」
そう呟いて頭を下げると、アルテアは苦しい体勢で見上げたネアに、ふわりと口付けた。
実はこの時、目を丸くしたネアには、動揺のポイントが二つあった。
「………アルテアさんから、家族相当の祝福が」
「…………お前、まさかここでもおかしな方向に振り切るか」
「それと、手の中の枝がもふぁっとなりました」
「…………おい、どうしたんだそれは」
やけに静かなアルテアの声に視線を枝に向ければ、先程まで数輪の花が咲いていたばかりの枝は、まるで満開の桜の木の枝を折り取ってきたような素晴らしい花付きになっている。
溢れんばかりの満開の桜は美しいが、どうして突然そうなったのか不思議でならない。
「は!もしや、この枝を咲かせる為の祝福だったのですか?」
「…………祝福ね。…………まさかお前、他のやつにも、こんな祝福を貰ったんじゃないだろうな?」
「家族や親しい友人同士の挨拶や祝福だと聞いていましたが、今の所はヒルドさんだけですね。あ、でもちび狼のときのグレイシアにもして貰いました!」
「…………そうか、俺はグレイシアの後か」
「む。なぜに項垂れてしまったのでしょう?そして、お花を有難うございました」
「……………それは俺じゃないぞ」
「………と言うことはまさか、私にとうとう魔術の才能が開花…」
「言っておくが、お前でもない。他の誰かの御節介だな」
「まぁ、優しい誰かさんがいたのですね。………しかし、そうなるとなぜ突然祝福をくれたのですか?」
不思議なってそう聞いたネアに、アルテアは虚ろに遠い目をしてから、ふと何かに気付いたように満更でもない顔になる。
「…………この方が無駄がないからな。お前は春の奴らに受けが悪いし、このくらい補填しておいた方がいいだろう。また後で少し足しておいてやる」
「……………むぐ。あのやり方は恥ずかしいというか、ぞわっとするので他の方法にして下さい」
「…………お前のその感想、まさか嫌悪感じゃないだろうな?」
「嫌だという感じではないのですが、何だかやはりやめて欲しい感じではあります」
「…………成る程」
「悪い顔をされました。それと、そろそろ離して下さい。何か表彰的なことをして盛り上がっているので、そちらが見たいです」
「………ん?ああ。枝の花の批評だな…」
ようやく体を離してくれたアルテアが、そこで物凄く嫌そうにネアの枝を見た。
「アルテアさん?」
「おい、それをこっちに寄越せ!お前の枝を交換…」
しかしその時にはもう、ネアの持っている素晴らしく満開の枝に目を止めて、メェーと鳴いた羊頭の生き物がすぐ横に立っていた。
持っていた枝を恭しく取り上げられ金色のカードを受け取ったネアは、それをアルテアに見せた。
「む…………。何かに選ばれました」
「…………春告げの女王だ」
「女王………。またしても女王の称号を増やしてしまいましたね」
「くそ、ろくでもないものに選ばれやがったな。これで、誰かと踊るしかなくなるぞ………」
「誰かと踊るしかなくなる?」
「因みにそのカードが後で褒美になるから、きちんとしまっておけよ」
「絶対になくしません!首飾りにしまっておきますね」
毎年の春告げの舞踏会では、こうして花枝の見事さを競い、その花の多さで春の豊かさを占う儀式がある。
大抵は春の系譜の者が選ばれ、割と身内のものとして盛り上がるのだそうだが、よりによって今年の春告げの女王は人間なのだ。
ざわりと周囲が囁き合うのは、春告げの女王、もしくは春告げの王は、この後で春を司る者とダンスをしなければならないからだ。
春風の妖精は女性であるし、春告げの精霊は気体になってしまっているので、必然的にネアは、春宵の魔物か春闇の竜と踊るしかなくなる。
周囲がざわめいているのは、春の系譜の者からすればネアはさして魅力的ではないので、系譜の高位の者がどうしてあんな貧弱な人間と踊らねばならないのだろうと不愉快がっているようだ。
困ったネアもアルテアを見上げたが、儀式の一環であるので断ることは出来ないらしい。
これを断ると、手にした春の恩恵がこの春から失われることになってしまうのだとか。
(ダナエさん、ダナエさんはどこだ?!)
春宵の魔物はとても嫌だと考えたネアは、咄嗟に濃紺の髪の背の高い男性を探して視線を彷徨わせた。
(確か、濃紺と水色の服だったような……)
「ネア、ダナエはやめておけ。春宵には俺が…」
「…………あの方はちょっと…っ?!」
「……見付けた」
聞き慣れない声が落ち、不意に背後から片手を取られたネアは、掬い上げるようにして手を取った相手を仰ぎ見る。
その途端何故か、ダナエと呼ばれる春闇の竜は、ぱっと目元を染めて狼狽えた。
(……………あ、そう言えば竜の媚薬が)
露骨な反応に、ネアは思い当たり過ぎる節がある。
そう言えばそれがあるのだと思い出し、反対側で腕を引いたアルテアに、ほわりと微笑んで安心させる。
「竜の方なら大丈夫です!」
「とは言え、そいつは…」
「食べたりしない。おいで、春宵は悪い生き物だから近付くと危ない」
アルテアの言葉を遮ってそう宣言したダナエは、目を瞠った魔物に飄々と頷いてみせた。
この竜がそんなことを言うのはよほど珍しいのか、アルテアはかなり驚いているようだ。
「最初に見た時から、小さくて可愛いと思っていた。大事にするから心配しなくていい。……それに、いい匂いがする。竜の媚薬を飲んでる?」
「まぁ、わかってしまうのですか?ご不快でしょうか?」
「嫌ではないよ。いい匂いがして、余計に可愛いと思うくらい」
「それなら、良かったです。もしかして、見付けたと仰ってくれたということは、探して下さっていたのですか?」
「春宵は危ないから」
(とても優しそうだし、悪い方ではなさそう?)
どうだと視線で問いかければ、アルテアは何故か片手で額を押さえた。
「………そうだったな。受けのいい界隈は、いつもの手当たり次第のお前らしい」
「………言い方に悪意があるのは何故なのでしょう」
「ダナエ、くれぐれもそいつに悪さをするなよ?魔物の指輪持ちを安易に損なうな」
「………指輪を与えているのか」
またざわりと周囲が揺れ、あちこちから指輪をという言葉が聞こえてきた。
どうもアルテアがネアに指輪を贈ったような感じになってしまっているが、大丈夫なのだろうか。
ネアが周囲の反応を見ている内に、アルテアとダナエは、何かを低い声で話し合ったようだ。
「ほら、行ってこい。それと、ステップだけは踏み間違えるなよ?」
「問題児のように送り出さないで下さい!……ダナエさん、宜しくお願いします」
渋々という体でアルテアが手を離し、先程からずっとネアの手を握りっ放しであったダナエが短く頷いた。
「おいで、足元に気を付けてね」
「はい。普通に踊れば良いのですか?」
「そうだよ。でもまずは、中央に出よう」
人垣を抜けて会場の中央に出れば、そこまでの道のりであれこれと噂話が聞こえてきた。
みんなのお喋りを聞いていると、どうやらこのダナエが踊るのは初めてのようだ。
あまりにも沢山の者達の様々な感情を向けられると寧ろ麻痺してしまうのか、ネアは他の参加者達の視線に萎縮することはなかった。
きっとこれが人間の目であれば緊張したり、不快であったりしたのだろう。
だが、こちらを見ているのはどれも美しく人ではない生き物ばかりなのだ。
「ここからだよ。足元は大丈夫かい?」
そう尋ねるダナエは、やはりどこかディノに似ていて、ネアは心が柔らかくなる気がした。
ディノとは違いぶっきらぼうな感じだが、どこか老獪ながらも無垢で無防備な感じは大型犬のようで親しみやすい。
身に纏うのは白に近い水色の盛装で、濃紺と桜色がかった金色の装飾が美しい。
少し教皇服めいたかっちりとした服装で、ストラのようなものには素晴らしい織り模様の上に水色と桜色の宝石が散りばめられていた。
頭の左側にだけ、白い華奢な鹿角のような装飾をつけている。
「………もし、爪先を踏んでしまったらごめんなさい」
「一周するだけだから、緊張しなくていいよ」
慣れないのか、そうぎこちなく微笑んだダナエに、ネアはホッとして頷く。
音楽が流れ始めた。
甘やかな調べは今迄のどの音楽とも違って、しかしディノに万全にして貰ったネアは、ステップに困ることはない。
違う音楽で同じようなリズムのダンスがあり、これはそのステップで踊れるようだ。
(良かったわ、踊れそう!)
爪先が軽やかに床石を踏み、音楽に合わせて体をくるりとターンさせる。
耳元で揺れる耳飾りの感覚と、柔らかく広がったドレスのスカート。
精緻な刺繍がきらきらと花明かりに煌き、溜息を吐きたいくらいに美しい。
腰に手を回され見上げる姿勢のまま、後もう少しだぞと安堵したネアが微笑めば、淡い桜色の瞳が微かに揺れた。
「あ、」
「む?」
次の瞬間、ダナエがしまったという目をしてこちらを見た。
「間違えた」
「…………はい?!」
「ごめん」
「え、えええ?!待って下さい、何で道連れに?!手を離し…」
どうやらディノに似ているとほっこりしてしまったのが、本日の敗因であったようだ。
ダンスの姿勢のまま、片手と腰をホールドされている状態で逃げられる筈もない。
ぱかりと開いた足元の暗闇に、ネアとダナエはすぽんと飲み込まれてしまった。