113. 春告げの舞踏会に参戦します(本編)
いよいよ春告げの舞踏会となる日の朝、ネアはふわりとした花の香りで目が覚めた。
気分的な問題だろうかと思って起き上がれば、昨晩から少々荒ぶってしまい、隣で寝ていた魔物が悲しげに春告げの道が開いているねと呟くので、そのような仕様なのだろう。
いい香りで幸せな気分なので、ご機嫌で朝食を少しだけ控えめにしていただき、早めに訪れてくれたアーヘムに髪の毛を整えて貰いに行く。
人間の世界の多くの舞踏会とは違い、春告げの舞踏会は午前中から夜までの長いものだ。
この時間を装飾的な靴で過ごすのだから、歩き易さの魔術は心から有難い。
「化粧の仕方については、シシィから指導を受けているけどね」
「ふぐ…………」
少しだけ困ったように微笑みながら、アーヘムがお化粧までしてくれる。
ネアとしては、男性にお化粧されるのは初めてのことなのですっかり固まってしまった。
ディノだけではなく、ヒルドやノアまでじっとりした目でこちらを見ているので、アーヘムはさぞかしやり辛いだろう。
(ノアは、わざわざ元の姿に戻って見に来てるし……)
その上でヒルドの背後に隠れるようにして見ているのが謎だ。
「はい。これでおしまいだよ」
「有難うございました」
化粧用のケープを外して振り返れば、なぜかノアはヒルドの影に、ディノは座っていた椅子の背もたれに、ぴゃっと顔を隠してしまった。
「見て下さい、髪の毛もいつもよりふわっとさせて貰いました。髪飾りが魔法で形を整えて枯れなくした、生のお花なんですよ!ライラックと白い薔薇と、少し垂れ下がるようにしたもう一つの花は、スノードロップでしょうか」
「とてもお綺麗ですよ。随分と綺麗に飾れるものですね。これだけの花を挿しても少しも華美ではない」
「ヒルドさん、それはアーヘムさんの腕がいいからなのです!私も最初、お盆に乗っている花を見たときにはこんなに沢山かと心配になったのですが、素敵に上品にまとまりました。………ディノ、どうですか?」
「もうずっと、部屋から出したくない………」
「なぜに監禁…………」
膝の上の布も取ってもらい、立ち上がったネアがいそいそと仕上がりを見せに近付けば、つい今しがたまで穏やかに感想を言ってくれていたヒルドもさっと目を逸らした。
やはりドレスの破壊力がかなりのもののようだが、そろそろ慣れていただきたい。
何しろ、中身はいつものただのネアなのだ。
「ディノ、髪の毛を素敵に結い上げてもらって、お化粧もして貰いました。ご主人様の晴れ姿なので、拗ねないで下さいね」
またしても椅子の背もたれの影に逃げ込んでしまった魔物を、手を引っ張ってなんとかこちらに向ける。
ここまで過剰に反応されるより、普通に褒めて欲しいのでネアも少し頑固になった。
しかし、無理矢理引っ張り出された魔物は、水紺の瞳を瞠って途方に暮れたように目を伏せてしまう。
長い睫の影の下で、澄明な色の瞳が切なげに揺れた。
目元を染めているので、またしても清純な乙女に無体を働いているような気分になる。
「むぅ………」
「ごめんね、そんな顔をしないでネア。素晴らしく綺麗だよ。………ただ、少し刺激が強すぎるかな」
「やっと褒めてくれました!それに、ドレスの形としてはとても慎み深いのですよ?この背中の部分だって……」
体を捻って背面もきちんと布には覆われているのだと見せようとしたネアは、またしてもぴゃっと隠れてしまった魔物に半眼になった。
ここまで純粋に恥じらわれてしまうと、寧ろ変態としての素養の高さを示されるようでとても怖い。
「………ところで、なぜノアまで隠れてしまうのですか?得意分野ですよね?」
「うーん、あちこち触りたくなるからかな」
「ヒルドさんの後ろから出て来ないで下さい」
「見せるだけで終わりって狡いよね………」
「なぜに魔物さんの狡いの基準は、常に彷徨いがちなのだ……」
転移で会場に赴くのでコートは必要ない。
少しだけお喋りして待っていると、アルテアが来たのか魔物達が渋い顔で振り返った。
ぽふんと音がして、ヒルドの後ろにいるのがノアではなく銀狐になる。
すぐに扉が開いた。
アルテアは、今日はエスコート役の紳士らしく、扉を開けてからきちんと入ってきてくれるらしい。
アーヘムは少し下がり、ついでに背面のバランスをもう一度確認してくれているようだ。
「どうだ、ドレスは……………………そうきたか」
アルテアの驚きは短かった。
シシィの願いも虚しく、殺せるには至らなかったかとネアが少しがっかりしていれば、なぜか一歩後退される。
「む。扉を開けて入ってきたのですから、迎えに来てくれたのではないのですか?」
「……………ああ、そうだな。何か羽織らないのか?」
「転移で乗り込むのでコートはいらないと、アルテアさんから聞きましたよ?」
「…………そうだな、…………そうだった」
(この反応は、………どちらなのかしら)
ネアとて、女性らしい感覚も持っている。
こちらの世界に落とされてディノに練り直された体は、健やかになりはしたが、今までこちらの世界で見てきた人外者達のように、飛び抜けた美貌や可憐さを備えている訳ではない。
それはディノが元々のネアを気に入っていたからだそうで、身に纏う雰囲気のバランスを変えずに上手く練り直されているからだった。
なのだからつまり、本日のこの仕上げは、ネアとしての完璧なのだった。
何しろ一流の職人達の手が入っているのだから、この素材で出来る限り最上級の状態にあるのは間違いない。
(これ以上はないのだから、やっぱり褒めて貰えると嬉しいのにな)
シシィの復讐の道具にされることに甘んじたのは、ネアにだって多少は褒められたい欲があるからだ。
それなのに、魔物達のみならず、妖精のヒルドまで目を逸らすばかりというのは、許すまじ所業である。
きっと、グラストやドリー、ウィリアムあたりならさらりと褒めてくれただろう。
アルテアの反応もイマイチ分かり難くてがっかりしていると、ぱたんと扉を開けて、ドレスを見にゼノーシュが来てくれた。
「わぁ、ネア凄く綺麗だね。僕、普段のネアも好きだけど、リャムラみたいでびっくりした」
「………ゼノ!ゼノの感想が一番嬉しかったです!………それと、リャムラとは何でしょう?」
新しい名称に首を傾げれば、アルテアが少し離れた位置から教えてくれる。
「美貌で旅人を唆かす精霊だな。美貌や誘惑の代名詞にもなる生き物だ」
「ふむ。悪いけれど綺麗なやつなのですね。それと、アルテアさんはなぜ、どんどん遠ざかってゆくのでしょう?」
「気の所為だろ。ほら、そろそろ行くぞ」
「はい。今日は宜しくお願いします」
戻ってきて手を差し出したアルテアの衣装は、白い盛装姿だ。
魔物にはそれぞれ定型の服装というものがあり、恐らくスーツ姿をある程度の定型とするアルテアが、騎士服や古典的な王族のような装いをすることはない。
なので、こうして少しばかりクラシカルなケープを羽織られると、見慣れない姿にどきりとした。
片側の前髪を少し掻き上げたようなスタイルにし、少しはらりと崩れた前髪の一筋に何とも言えない色香がある。
片側にだけ飾り襟のあるケープを羽織って、繊細な春の草花をモチーフにした恐ろしく手の込んだブローチのような飾り留めで固定していた。
幾重にもなって落ちるケープの裏側は、鮮やかな織り模様と震えそうな程に精緻な刺繍が華やかだ。
飾緒は淡く透明度の高い金色で、結晶石を編み上げたような不思議な素材で鈍く輝く。
(全体的には白いのだけれど、ケープの縁の装飾で使っている艶消しの淡い金色や、紫がかった濃紺から白に変化してゆくケープの裏地の色のせいで、なんとも艶やかだわ)
高貴だが艶やかで、どこか自分なりの服装を楽しむ者らしく個性をつけているので垢抜けて見えた。
使われている宝石は全て透明度の高い瞳と同じ色合いのもので、その中には単純な光の反射とは違い、ぼうっと淡く魔術の光を帯びるものもある。
「…………お前、今日は勝手に一人で行動するなよ」
「儀礼の意味もある舞踏会なのですよね。きちんと弁えていますよ」
「そういう意味じゃない」
「………他のお客様を狩ったりもしません」
ネアがそう誓えば、なぜかアルテアはまるで苦労人のような溜め息を吐いた。
そしてネアは、まるで永久の別れのように悲しそうにする魔物達に見送られ、春告げの舞踏会に向けてリーエンベルクを出た。
出かけ際に、スカートの中に入り込んで付いて来ようとした銀狐をアルテアが尻尾を掴んで引き摺り出す場面があり、少し手間取る。
「……………わ……」
転移なので行程はとても短い。
柔らかな一歩の後に開けた素晴らしい光景に、ネアはぽかんとして周囲を見回した。
森の中に忽然と、舞踏会会場が現れた。
周囲には花が咲き乱れ、会場全体を満開の花を重たくつけた木々が囲んでいる。
どうやって敷き詰めたのかわからない床石は淡い桜色をしており、会場の縁で苔むして森と溶け合う様が素晴らしい。
木の根の浸食にひび割れた床石からすると、ここは歴史のある場所なのだろうか。
既に参加者たちはすっかり集まっており、ネア達は遅めの到着なのかもしれない。
アルテアであれば、少し遅めに会場に到着することを好みそうだ。
ネアの手をかけさせた腕を少し締めて、エスコート役が振り返る。
「アルテアさん?」
「気に入ったのはわかるが、弾むな」
「む。喜びのあまり少し体が動いてしまっただけです。二回しか弾んでいませんよ」
「………とりあえず、今日はもうやるなよ」
「子供っぽかったですかね……」
叱られたようだとネアが眉を下げれば、唇の端を持ち上げてふっと笑う気配がある。
「己の身を危うくするなよ。俺はウィリアム程行儀が良くはないからな?」
「………次に仕損じたら齧る宣言でしょうか」
「…………まぁ、それもそれで悪くはないがな」
「…………っ?!」
そこでアルテアは、すいと顔を寄せてネアの目元に口付けた。
ものすごく嫌そうな顔をしたネアの耳元に唇を寄せて、したたかに甘く囁く。
「有象無象の集まる場所だ。今日は、大人しく俺のお気に入りになっておけ」
「…………反射的に殺してしまわないよう、自分を戒めます」
「やれやれ。…………シシィのやつとんでもない仕事をしたな」
「アルテアさん?」
「独り言だ。聞かなくていい。それと、これで仕上げだな」
「耳飾りを忘れていました………。ほゎ………何て綺麗なんでしょう」
白いベルベットの小箱を開けて差し出されたのは、見事な耳飾りであった。
幾つもの細やかな結晶石がしゃらりと下がったもので、枝から花が垂れ下がるように見えるようなデザインになっている。
朝靄の結晶だという乳白色の宝石に、透明度の高い淡い菫色の夜明けの結晶石、そこにアルテアが衣装で使っているのと同じ赤紫の宝石がきらりと混ざる。
リーエンベルクで渡さなかったのは、何となくこの石のせいだろうなとネアは考えた。
「こんなに素敵なものを用意して下さって有難うございます!」
「角度があるからな、つけてやる」
「あら、こういうものは自分でつけた方がしっくりきますよ?」
「いいからじっとしていろ。ほら、暴れるな」
むがむがしつつ何とも気恥ずかしい感じで耳飾りをつけて貰い、ネアはやっと会場に入れるようになった。
踏み出した靴先が、こつりと床石を踏んで気持ちのいい音を立てる。
ふわりと髪を揺らしたのは春の風だろうか。
先程までは聞こえなかった音楽が、会場の領域に踏み込んだ途端に耳に届くようになった。
心が浮き立つような甘い香りに、せせらぎめいた水音。
うっとりとお昼寝をしたくなるような、春の日差しと花々の庭の中、ここは、世にも美しい生き物達の舞踏会の場。
彼らは、白持ちの魔物の登場に皆ふわりとお辞儀をした。
時折優しく吹く春の風に、はらはらと花びらの雨が降っている。
「やあ、アルテア。君が人間を連れてくるのは珍しいね」
「リーヌス…………相変わらずだな」
さっそくアルテアに声をかけたのは、淡い桜色の巻き毛の男性だ。
男っぽい甘めの美貌はどこか眠たげで、肩口くらいまでの髪を髪紐で結んでいる。
優しいセージグリーンの瞳は、いつでも笑っているみたいな柔和な印象を受けた。
(…………この人も、ノアのような感じの趣味なのかしら)
ネアがそう考えたのは、彼の周囲には三人の女性がいるからだ。
三人で競うように彼の手を掴んでおり、お互いを敵視しているのか、物凄く尖った目をしている。
三人共目の覚めるような美女なので、冷やかな空気を纏うとかなりの迫力だった。
(でも確か、春告げの舞踏会への出席は、厳格にお相手がいることが決められているのではなかったかしら?)
だとすると余ってしまっている男性がどこかにと思って見回せば、奥の方に何やら悲しげにお料理を食べている二人の男性が見えた。
時折こちらの方を見るので、まず間違いなくこの女性達のお相手だった男性だろう。
「春の夜には女性の温もりが不可欠だよ。…………ふうん、不思議な色合いだ。特別目を惹く感じはないけど、柔らかそうだし、この子も面白そうだね」
男性らしい値踏みの目で見られたネアは、微笑んだままその温度をぐっと下げた。
ボラボラの時のように魔物の指輪を見せておこうかなと思案している隙に、正面のリーヌスという名前の男性が微かに目を瞠るのがわかる。
彼の視線を辿れば、どうやらアルテアの表情に何か不穏なものを見たらしい。
男性が連れている三人の女性も、今にも倒れそうな酷い顔色になっている。
「………いや、すまない。失言だったな。君が本気で不愉快そうにするのは珍しい。……さぁ、春の乙女達、向こうに行こうか」
そそくさと離れてゆく四人を見送って、挨拶もしないままお開きにされたネアは、アルテアの方に視線を戻す。
「なんというか、わかりやすい方でした」
「あれも一種の病気だな。自分への愛情を試す為に、女達に殺し合いをさせることもある。春宵の魔物だ」
「確かに、春の夜はどこか危うい感じがするかもしれません。そして、どんな威嚇をしたのですか?」
「俺は何も言ってないけどな。それに、お前がそれを聞くのは野暮だぞ」
「むぅ。教えて貰えれば、今後生かせそうな技だと思うのです」
「………………何でそっちに振り切った」
「武器は一つでも多く持つ主義です!」
「お前、そのドレスを着ているときぐらいは、大人しくしてろ」
「…………確かに、この素敵なドレスで戦いたくはないですね」
先程の魔物にじっと見られたときに、あまりいい気はしなかった。
柔らかだがどこかねっとりした残忍さを感じるくらいなら、ネアは生粋の残忍さの方がまだいい。
そういう意味では、先程の魔物のような者は、リーエンベルクの周囲にはいないのだ。
「こちらに到着してからは、何かお作法はあるのですか?」
そんなネアの今更の質問に、アルテアはまず参加者の概要から教えてくれた。
「春を司る者は四柱いる。春宵の魔物と、春闇の竜、春風の妖精に、春告げの精霊だ。精霊が最も高位だが、これはもう実体を持たない階層だからな。ほぼいないと思っていい」
「と言うことは、先ほどの魔物さんはそれなりに高位なのですね?」
「大したことないぞ。伯爵位だ」
「伯爵様も偉い方ですよ。……となると、あとは妖精さんと竜めを見れば堪能しきったことになりそうです」
「………竜の扱いだけ異様に低いな」
「けものだからでしょうか?むぐっ!」
そう答えたネアは、アルテアの指先で唇を押さえられた。
おのれと思って見上げると、なぜか妙に真剣に視線を合わされる。
組んでいた腕を解かれ、腰に回された手のせいで体が触れるので解放して欲しい。
「アルテアさん?」
「……………っ、……春闇の竜は、現存する竜の中では飛び抜けて残忍な方だ。くれぐれも対処を間違えるなよ?」
視線を外したアルテアは、片手で額を押さえた。
なんだかぐったりしているので、疲れているのだろうかとネアは眉を顰める。
「もしかして、少し疲れていませんか?」
「………さぁな。何だ、心配になったのか?」
ふっと危うい微笑みを浮かべた赤紫の瞳に、ネアは大真面目に頷く。
指の背でするりと頬を撫でられた。
「勿論です。この舞踏会が終わるまでは元気でいて下さいね。ダンスの練習もしたのに踊っていませんし、まだ何も食べてません!」
「………だろうな」
「なぜ残念なものを見るような目をするのでしょう?今日は私の保護者なのですから、元気でいて下さいね。……むぐ!」
ここで絞め技なのかぐっと抱き寄せられ、目にも楽しい綺麗な料理が乗った卓に向かおうとしたネアは、地味に爪先を踏んで抗議する。
「おい、踏んでるぞ」
「わざとです!」
「スリジエが近い。少しこうしてろ」
「………なぜこんな優雅な会場なのに、危険だらけなのでしょう?」
不満を口にしながら視線を巡らせたネアは、その美しい魔物に目を奪われた。
「…………華やかでとても綺麗ですね。魔物さんですか?」
「ああ」
スリジエこと桜の魔物は、黒髪の女性である。
艶やかな漆黒の髪を結い上げ、白蝶貝と春霞の結晶石の簪で飾った妖艶な美女だ。
典雅な装いは深紅と淡い桃色で、ネアは是非にお話をしてみたいなと憧れの眼差しを向けた。
「自己顕示欲の強い男だから、あまり関わるなよ?」
「おとこ?…………妖艶な美女さんです。お相手の方も男性ですよ?」
「あいつは男だ。スリジエの花と同じ、両性なんだ」
「両性なら、女性の方でもあるのでは。…………もしや、心が女性という感じなのでしょうか?」
「ああ、そういうことなんだろう」
「私の夢を返して下さい。大好きな花の一つなので、お会い出来るのを楽しみにしていたのに……」
「オレンジの花と、アイリスもいるぞ」
「とてもしっかりとした男性ではないですか!綺麗な女性の方はいないのですか?」
「木蓮はどうだ?」
「……………もはや人型ですらありません。お米の精でしょうか」
「強いて言うならば、木蓮の形なんだろ」
ネアの目には、子犬サイズのお米の精としか思えない生き物だが、白いのできっと高位の生き物なのだろう。
どう舞踏会で踊るのか、寧ろ踏み潰されてしまわないのか謎が深まるばかりだ。
手や足がどこにあるのかもわからず、もそもそと体を揺らして移動している。
カテゴリ的には、パンの魔物や霜食いと同じ区分にしたい。
「あちらにいらっしゃる方が、素敵な美人さんです!」
「春風だな。気紛れで残酷だから、関わるなよ」
「どうも、関わるなと言われる割合が異様に高いような気がするのですが……」
「春と夏の系譜は、残忍な性質が多いんだ」
「季節から感じる雰囲気では、春が一番優しそうなので意外でした」
「善良だとは言わないが、穏やかさを見るなら秋だろう。冬は他者にそこまで執着しないが、冷淡ではある」
「私の財政を豊かにしてくれる秋に心惹かれるばかりです」
「なんだ、秋も連れていって欲しいのか?」
「む。…………アルテアさんは、秋の舞踏会にも誘われているのですか?」
「大国の統括だからな」
「差し押さえします!!」
ネアが思わずそう名乗り出れば、アルテアは小さく笑った。
いつもの悪巧みの色めいた微笑ではなく、仕方がないなというような一瞬の愉快そうな笑顔に、ネアは少しだけ驚いてぴたりと止まる。
「ん?どうした?」
「アルテアさん、ほこりの保護者になって丸くなりました?」
「あいつのせいで散々なんだぞ。なるわけないな。餌として買ってやった帆立で酷い目に遭った」
そこでネアは、帆立の呪いについて教えて貰った。
「……………確かに、人の顔が帆立に見えたら、心の病気になりますね」
「俺を慰めるなら、やり方を教えてやろうか」
「お作法があるのですか?」
「ほお、その気になるのは珍しいな」
「…………何となくわかりました。ダリルさんの呪いがもっと欲しいだなんて、アルテアさんもおかしな趣味に目覚めましたね」
「やめろ………」
ここでまた、アルテアに数人の者達が声をかけて行った。
ここは階位が低めで代わりにお行儀も良く、高階位のアルテアへの挨拶のようなものだ。
「アルテアさんは、仮面の魔物となっているのですね」
「対外的にはな。面倒は御免だ。さて、これからすることの説明に戻すぞ」
「そうでした!」
ネアもうっかり忘れかけていた説明が再開された。
説明によれば、春告げの舞踏会では、まずはこのような挨拶や社交の時間があり、それを経てダンスとなる。
このダンスの時間には少し問題があり、通常はお相手を変えて色々な者と踊るのだそうだ。
「とは言えお前を野放しにすると事故になるからな。今日は俺以外とは踊るなよ」
「たいへんに不本意な評価ですが、やむを得ません」
「それと、その後は春告げの儀式がある」
「む。儀式ですね」
「各自が春の枝を預かり、春を芽吹かせるんだ」
その一言で、ネアは顔色を悪くした。
「………魔術可動域六を何だと思っているのでしょう。とんだ無茶振りです」
「だろうな。勿論、出来ない奴等は他にもいる。そういう場合は周囲の者や、同伴者が手を貸す。最も春を得た者には褒美が出るが、そもそも春を司る者の独擅場だな」
「褒美が…………」
「その目をやめろ。欲をかいて騒動を起こすなよ?」
「むぅ。…………わ、音楽がかかり始めましたよ」
「…………弾むな。何曲か踊ってから、お前の目当ての食べ物の卓に入ってやる」
「すぐさま踊りましょう!」
「成る程、よく分かった。あの鳥の食い道楽は、お前に似たんだな」
あえて体を捻るような不自然さはなかった。
アルテアに手を取られると、いつの間にかダンスの姿勢に収まっており、本当に巧みな者はこんな風にエスコートしてくれるのだなと、ネアは少し感心してしまう。
見上げると唇の端を持ち上げて微笑む姿は、暗く艶やかだ。
咲き誇る春の花を背にして、その魔物らしい残忍さが際立つことは、彼らしい美貌であった。
知らない曲は彼に身を預けているので、くるりとターンで回されると、腰に回された手に力が入るのがわかった。
ぐっと体を寄せられ、ふと陰った眼差しの淫靡さに少しどきりとする。
(すごい、花びらの雨の中で踊っているようだわ……)
アルテアの肩越しに見る舞踏会の会場は、何とも幻想的な光景だった。
踊っているのは息を呑むほどに美しい男女達で、翼や羽のある彼らの上にははらはらと花の雨が降るのだ。
「…………むぐ」
踊りながらさり気なく額に口付けられ、ネアは眉を顰める。
「二曲目になる。ま、周囲への牽制だな」
「その割には悪い顔をしました」
「お前の面倒を見てやってるんだ。役得も必要だろ」
そこでアルテアは、さり気なく近付いてきた何組かを視線で遠ざけた。
やはり特等の魔物であるので、アルテア目当てでお相手の男性を引っ張ってここまで来ていた女性陣はがっかりしたようだ。
二曲目に入ると、周囲の目がちらりとこちらに向くのがわかり、ネアも緊張する。
(でもまだ、数組は同じお相手で踊ってるけれど、………明らかに恋人同士という感じだものなぁ)
だからこそ、周囲もまさかなという目でこちらを見るのだろう。
どう見ても、この会場にいる女性の中ではネアが一番庶民的なのだ。
自分史上最高であれ、妖精や魔物と並ぶとやはり人間となる。
二曲目はワルツの旋律になったので、ほっとして肩の力を抜くと、ネアは素晴らしい履き心地の靴を生かすべくダンスを楽しむことにした。
花の雨の中で、色々問題はあるにせよこんな美しい男性と踊るのも特別な体験だろう。
(わ、あの女性は何て綺麗なのかしら。目がシトリンみたいだわ。それに髪の毛が黄金を紡いだよう!)
周囲を観察する余裕が出来たことで、ネアは微笑みを深めてその美しさを堪能することが出来る。
しかし、すぐにアルテアに邪魔されてしまった。
「おい、余所見が過ぎるぞ」
「綺麗な人達ばかりなのです!それと、今はお料理の配置を確認していました。ミモザの木のある方のテーブルに行きたいです」
「…………お前な」
ネアは、呆れた顔をしたアルテアの肩に乗せた手に力を入れた。
お目当てのテーブルにある料理を逃す訳にはいかないので、全力で訴えようと思ったのだ。
「あのテーブルは必須ですからね!……………アルテアさん?」
「…………ん、ああ。わかったわかった」
「……………ふぁっ?!」
どこか上の空で背中の手をするりと撫で下ろされ、ネアはぎゃっとなる。
布地が薄い上に背中は大きく開いているので、そんな風にされると擽ったいのだ。
「ぞわっとするのでやめて下さい!」
「へぇ、背中か。…………おい、わざと足を踏むな」
「ステップは間違えてませんよ。アルテアさんは凄い魔物さんなのですから、爪先も丈夫でしょう?」
「そんなに遊びたいのなら、もっといいものを教えてやる」
「おのれ、ぞわっとするやつはやめて下さい!爪先を滅ぼしますよ!」
わざと耳元に唇を寄せられて、ネアは荒れ狂った。
ステップを間違えるわけにはいかないダンスの中で反撃するとなると、もはや頭突きくらいしか手がないので出来る限り爪先を踏みながら反撃の機会を狙っていれば、不意にアルテアが声を上げて小さく笑った。
ネアも驚いたが、彼がこんな風に笑うのが余程珍しかったのだろう。
思わず振り返ってしまった男性が、あっと小さく声を上げる。
どうやらステップを間違えたらしい。
「……………アルテアさん、今の方、足元にぱくっと穴が空いて落ちてゆきましたが」
「戻り雪の魔物の領域に飛ばされたな。お前も気を付けろよ」
「アルテアさんのせいで注意が逸れたのでは………」
「一緒に踊ってる女が、頭突きをする為だけに体を寄せてくるのは初めてだ。そりゃ笑うだろうが」
「獲物を逃さない為の、苦渋の選択でした」
「そうか?俺はてっきり挑発されてるのかと思ったが」
「…………っ?!してませんよ!」
確かに体が密着し過ぎているので、ネアは少し離そうとしたが、腰に回された手がそれを許さない。
ドレスの前面にはペチコートがないので、たっぷりとスカート部分には布地が使われているとは言え、いささか慎しみ深いという範疇は超えている。
「く、くっつき過ぎです!」
「誘ったのはお前だろうが」
「言い方!」
「最初にも言っただろう。俺は他の奴等程御しやすくはないぞ?」
「………こうなったら、ダリルさんの呪いを」
「やめろ…………」
ぎくりとしたアルテアが少し体を離してくれたので、ネアはほっとした。
(む。………ところでこれは、何曲目かしら)
戦いながら踊っていたので、ふと視線を奥に向ければ、既にダンスを切り上げている者達も見える。
と言うか、とてもこちらを見られている。
(……………アルテアさんが目立つからなぁ)
まだ全員を見たわけではないが、わかりやすく身に白を纏う者は少ない。
恐らく、この会場ではアルテアが最高位だろう。
そんな彼が、ネアと戦いながら踊っていたり笑い声をあげたりしたので、それは目立っていたのだ。
(…………あ、)
その時、大きな桜の木の下に春の夜のような豊かな濃紺の髪の男性を見た。
淡い桜色の瞳を瞠ってこちらを見ている。
長い髪を片側で三つ編みにしているところがディノと同じで、つい目を惹かれてしまったのだ。
どこか困惑したようにこちらを見た眼差しも、しゅんとしている時のディノに似ている。
つい、お愛想で微笑んでしまってから、見ず知らずの相手に失礼だったろうかと、ネアは慌てて視線を外した。
幸いちょうど曲の終わりであったので、アルテアの肩をぐっと掴んで食事の乗ったテーブルを指し示す。
「もう、結構な方が踊り終えてますよ。お料理が……」
「…………ああ。次の曲で終わりにするか」
「おのれ。さては、ダンス好きですね!」
「普段は二曲も踊らないけどな」
「…………と言うことは、さしものアルテアさんも、この素敵な会場の空気にはしゃいでいるのでしょうか」
「なんでだよ」
やがてダンスも終わり、少し居心地が悪いくらいの注目を受けつつ、ネアはお目当てのミモザの木の下のテーブルにアルテアを引っ張ってゆく。
食べたかったサーモンとチーズのパイのようなものの残数の少なさに焦ってしまい、腕をぐいぐい引っ張って歩いてしまうと、周囲があからさまに困惑しているのがわかった。
だがしかし、ここは緊急事態なので致し方ない。
何とか間に合ってお皿に確保すると、ほっとして笑顔になった。
(うん。お料理もとても美味しい………!)
呆れるアルテアを横に防壁代わりに設置しつつ、ネアは上品で手の込んだ料理達に舌鼓を打つ。
ドレスとの兼ね合いもあるので量を控えなければいけないのが残念だ。
しかし、こんな目に遭うのであればもっと食べておけば良かったと後悔するのは、その半刻後のことであった。