舞踏会のステップと淡雪と菫のドレス
リーエンベルクにやって来たシシィは、春らしい淡いピンク色のパンツスーツ姿であった。
新緑色の髪と瞳なので、途端に部屋が華やかになる。
「はぁい、ネア様!男共を昏倒させるドレスが出来ましたよ!それと、アルテアに随分と愉快な呪いをかけたそうですね。呪い明けから、猛然と新しい服の発注をかけてくれて、大儲け出来そうです」
「珍妙な服飾の趣味になる呪いですね!」
「私もその最中のアルテアを見たかったんですが、頑なに会ってくれなくて。でも、アーヘムが珍しく笑ってたので、相当な見ものだった筈。見たかったですねぇ………」
「謎に、鳥の頭が描かれた靴を履いていました」
「…………どこから手に入れたんでしょうね、そんなもの」
「小さなお子さんの室内履きみたいで可愛かったですよ」
喋りながらシシィが革の衣装ケースから取り出したドレスに、ネアは呆然とした。
「……………わ、…………神の仕事を見ました。勿体なさ過ぎて着たくないくらいです」
「あら、着て下さいましな。これで、アルテアを殺して貰う予定ですから」
「殺すかどうかはさて置き、ウエストが括れていることは証明します!」
「…………でもネア様、ウエスト二ミリくらい増えましたよね?」
シシィはふと、そんな恐ろしいことを言った。
ぎくりとしたネアは、自分の腰を両手で掴んでみる。
個人的にはわからなかったのでもう一度シシィを見てみると、難しい顔で首を振られた。
二ミリの増量がわかってしまうあたり、さすが仕立て妖精のシーである。
「……………認識してませんでした。当日までに戻します」
「そうして下さい。胸との対比があるので、理想の細さが必要なんです。このドレスは、少し肉感がある方が綺麗なので、妖精や魔物みたいにあまり細過ぎても生きませんけどね」
「そういうデザインなのですね?」
「ええ。上品だけど扇情的で、匂い立つように曲線を柔らかな布と精緻な刺繍で表現してあります。触れたくなるような柔肌がテーマですから、当日のお化粧は上気したような頬に、艶やかに薔薇色の唇、結い上げる髪型も崩し気味に巻いて後れ毛で誘惑しましょうね」
「………とんでもないテーマを耳にしました」
「淫乱ではなく、清純なくせに思わず寝台に連れ込みたくなるような、淑女のドレスです。たゆんと丸みを感じさせる胸と、その曲線から落ちる布地を意識したお尻のあたりの色彩が完璧に計算されていますから!」
「…………え、ええとここは不安を覚えても許される場面ですよね?!」
そして取り出されたドレスは想像よりもずっと可憐で、考えていたよりも恐ろしく計算尽くの凄まじいものであった。
「うふふふふ………」
さっそくネアに着せてみたシシィは、先程からこの笑いをやめなくなった。
本日はアーヘムは仕事で来れない代わりに、当日のメイクで来てくれるのだそうだ。
監視役のヒルドも仕事でいないので、部屋にはシシィとネアの二人きりである。
アンダードレスも脱いで着替えるので、魔物は部屋から追い出されていた。
(……………こんなに繊細で上品なのに、確かにかなり巧妙な仕掛けがあちこちに……)
勿論舞踏会用のドレスであるので、胸元はある適度大きめに開いている。
しかしそれは本来、舞踏会用のドレスとしては慎み深い範疇だ。
しかしこのドレスの凄いところは、肌と同色の透ける布地から、霧がかって見えるような乳白色、淡い菫色に変化してゆく胸元が、実際には肌が覗いていないところまで素肌を透かしているような巧妙なデザインにあった。
布地の色の変化と、結晶石を縫い込んだ見事な刺繍以外に装飾はなく、しかしシシィの言う通り、肌に吸い付き形を整えて胸の丸みをこれでもかと綺麗に見せてくれる形になっている。
(まるで素肌に色を乗せて、刺繍模様を描いたみたい………)
両肩を出し、背中もそこそこ空いているが、寧ろ上品に見えるのは何故だろう。
淡く滲ませた絵の具のように腰回りにかけて菫色を濃くし、しかし背面は開いた背中の部分からふわりと淡い乳白色になっている。
お尻の上のあたりまでがその色彩なので、素肌に霧をまとって刺繍を施したような工夫なのだろう。
(刺繍の絵柄と、ドレスに使われている色彩が絶妙なんだわ………)
過剰な装飾や強い色彩を使えば、途端にこのドレスは酷く下品なものに見えるだろう。
刺繍で表現されているのが、大輪の花などではなく、春の森を思わせるような爽やかな草木や、咲き始めの薔薇などの可憐なモチーフなのが心憎い。
結晶石はどれも、朝露を思わせる煌めきであった。
この刺繍で一気に、ドレスはデビュタントの初々しい美しさを纏うのだ。
「光の加減で、スカートの部分の布が淡くきらきらします!」
「朝靄を紡いだ布地ですよ。ベースは乳白色で、重ねた布地に菫色とほんの少しだけ淡い水色が入ります。ここの部分、踊るときだけ見えるように、ドレープの奥にスリットがありますから、ステップに合わせて少しだけ足首が見えますからね」
たっぷりとした布地を掻き分けると、確かに隠されたスリットがあった。
その部分が翻るにはダンスのターンが必要になり、ひらりとめくれるとその裏側に見事な刺繍が見える。
あくまでもさり気なく、しかし計算し尽くされた武器のようなものだ。
「胸のあたりは、形を崩さないように立体的に作ってありますが、少しも揺れないのも面白くありませんからね、ある程度自然に緩めています」
「………………そ、それは、あえて少し揺れるようにしたのでは」
「うふふふ、ダンスの時にあの男がどんな目をするやら!」
「復讐の道具にされるということを、生まれて初めて身を以て知りました………」
「さて、ネア様!実際にダンスでどうなるのか知りたいので、婚約者様にお相手をしていただいても?」
「む!では、この機に乗じてドレス自慢もしますね!」
「あらあら、うふふ。今夜は大騒ぎになりますよ」
「今夜…………?」
ペチコートを入れて膨らませるのは、背面だけ。
それもふわりと翻るスカートの布地を邪魔しないように抑えめのものなのだそうだ。
淡雪と菫のドレスという名前を付けたのはアーヘムで、シシィは朝靄の向こうに咲く花々のドレスと呼んでいるそうだ。
名前までいかがわしいものでなくて、ネアは心からほっとした。
「前面にペチコートを入れてしまうと、ごわごわするでしょう?ダンスの際の密着度の為ですが、デビュタントらしい可憐なデザインだと言い張って作りましたわ」
「…………すごく心配になってきました」
そして正確にはデビュタントではないのだが、それは良いのだろうか。
「靴はこちらに。肌馴染みの良い白からの、刺繍と結晶石は菫色ですね。これは私は手を出してませんけど、刺繍はアーヘムですよ」
「全身アーヘムさんの刺繍となると、お値段が怖いばかりです。…………胸回りの結晶石って、オーロラの結晶石ですよね?」
「正確には、雪原に落ちるオーロラの結晶石ですね。………ああ、ほら。ペチコートも完全な形ですわ。無粋に全部膨らませてお尻の形を消してしまうものですか!」
「デビュタントとは………」
そこで呼ばれて駆け戻ってきた魔物が扉を開け、
「……………ディノ?」
暫く絶句してしまった。
「ディノ、どうですか?とっても綺麗に作って貰いました!動きを見たいそうなので、ダンスのお相手をお願いしてもいいですか?」
「……………ネアが虐待する」
「なぜなのだ」
魔物は片手で口元を覆ってしまい、目元を染めていた。
しょうもないことで照れはしても、手練手管に長けた男性らしく、通常の誘惑に成り得るラインでは恥じらうことのない魔物だったが、これは対アルテア用に仕立て妖精がとんでもない仕掛けをしているので効果が出てしまったらしい。
「ネア、胸元は………」
「ここまでしか開いてませんよ。デザインも慎み深いです。しかし、色が肌に添うのでどきりとしますよね」
「…………そうだね。とても綺麗だよ。でも危ないからあまり外に出したくないかな」
「褒めてくれてほっとしました!こういう姿は嫌いなのかなと心配になりかけていたんです」
「…………可愛い。ずるい」
「相変わらず、狡いの基準が行方不明ですね」
歩み寄って手を出せば、その手を取ってくれる仕草はやはり手慣れたものだ。
これだけ着飾って向かい合うと、逆に、到底釣り合わないのではないかと思わせる程に美しい魔物である。
「まぁ!ドレスの色は婚約者様の色も添えましたから、そうして並ぶと婚約者同士という感じがしますねぇ。なんてお似合いの二人なんでしょう!」
(シシィさん、…………上手い!)
このドレスは、別にディノの色を取り入れて乳白色を使ったのではないことくらい、ネアも知っている。
あくまでも清純ながら肌の色合いを感じさせる色彩として、この色を選んだのだ。
なのでこれは、とても狡猾な緩和であった。
「ほら、ディノのくれた首飾りに映えますね」
勿論、狡賢い人間であるネアも、すかさずその策に乗ることにする。
当日は特別なアクセサリーはせず、魔物がくれた首飾りをすることにした。
繊細だがつけられた結晶石がとんでもないので、普段着にはシンプルだが、こうした装いでつけると上品で艶やかな首飾りに見えるのだ。
本当はヒルドの耳飾りも着けたかったが、こちらはデザイン上、違うものを着けることになった。
とても不安なのだが、当日アルテアが持ってくるらしい。
「なんで、君と踊るのはアルテアなのだろう………」
「あら、だからこそ最初はディノに披露したのですよ。一番に見せると言っていたでしょう?」
「……………ネア、あまり体を寄せると」
「む。ダンスなのですからこれくらいでは?」
「…………そうだったね」
着ている分にはしっかりしたものなのだが、やはり踊るときには刺繍や生地の薄さが怖いのだろうかとシシィを振り返れば、なぜかとてもいい笑顔でガッツポーズのようなものをされた。
(…………手の温度が)
しかし舞踏会用のドレスの難点は、攻撃がお相手にばかり向く訳でもないことだ。
背中に添えられた手の温度がしっかりと伝わる布地の心許なさに、ネアも少しどきりとする。
当日はアルテアも手袋をしているだろうし、彼の場合は肌の温度を感じても感じるのは違う種類のどきどきだろう。
「ネア、もう少し顔を上げて。………そう、こちらを見ていてね」
「むぐ……………」
「そう。いい子だ」
ここでディノに、ダンスの姿勢を注意された。
確かに視線が下に向いてしまうと踊り難いだろう。
しかし、しっかりとホールドされて魔物の水紺の瞳を見上げると、男性的な熱を孕んだ眼差しの強さにどきりとした。
はわはわし過ぎたネアは、ステップを間違えそうになってしまった。
ふわりと微笑みを深める水紺の眼差しに、また背筋がぞくりとする。
「シシィ、このドレスはまだ直すかい?」
「いいえ、万象の方。これで完璧ですわ!アーヘムも流石の仕事ぶりですね。刺繍の位置も完璧です」
「ならば、このまま少し借りるよ。春告げの舞踏会なのだから、ステップを間違えないようにした方がいい」
「そうですね、ドレスにも慣れていただかないと。………ただ、汚したり傷付けたりするような真似は謹んで下さいまし」
「そうだね。それに、その手のことは、残念ながらまだこの子には早いようだから」
「あら、ドレスを脱いだ後ならお好きに親睦を深めて下さって構わないですよ?とは言え、脱がす時には注意していただきたいので、家事妖精の手を借りて下さいましね」
二人の会話を聞きながら、ネアは遠い目になった。
この状況下で、この種の大人の会話で遊ばないで欲しい。
心臓に負担がかかるので、魔物の爪先を踏みたくなってしまうではないか。
幸いなことに、そこに救いの手が伸ばされた。
「シシィ、終わりましたか………?」
なぜか頑なに仕事の合間に顔を出すと話していたヒルドが、扉を開けて入ってきたのだ。
振り返ったネアは、悪い大人の遊びから解放され、ほっとして微笑んだ。
「ネア、入るよ」
一緒に出ていたノアも連れてきたらしく、彼は珍しくリーエンベルク内でも本来の姿のままでいる。
そして、二人とも固まった。
「ヒルドさん、ノア、どうでしょう?こんな風にドレスを仕立てたのは初めてなので、綺麗に作っていただいて感動してしまいました」
答えがないままなので、ネアは首を傾げてディノの方を見た。
「む…………」
なぜか魔物は、背中に回した手に力を込めてネアをいっそうに抱き寄せる。
ドレスの薄い布地は体の温度を感じ易いので、ネアは困り眉になってしまった。
これは、ネアとしても前面にもペチコートが欲しかった部分だ。
「…………わーお。シルが冷静なのが尊敬に値するね。僕は無理だな。すぐに寝…」
「ネイ、発言は謹んで下さい」
「ごめんなさい………」
なぜか二人が部屋の入り口から動かないので、ネアは魔物の手をべりっと剥がすと、自らそちらに歩いて見せに行くことにした。
綺麗なものを着ているので、自然に弾むような足取りになる。
「スカートはこんな感じなのです!…………ノア?」
「……………ごめんなさい」
「なぜ謝るのだ」
「それと、アルテアは殺そう」
「突然の殺害予告はやめて下さい。あ、あと背中の刺繍が可愛いのです。ほら、ここに綺麗な葉っぱの刺繍が……」
「ネア様、あまり無防備に動かれませんよう」
ネアがお気に入りの刺繍を見せようとすると、ヒルドに慌てて止められた。
舞踏会用のドレスなので動くなと言われると困ってしまうが、こちらも口元を手で覆われてぐったりしてしまったのでネアは目を瞠った。
(…………そこまでだろうか)
確かに素晴らしく狡猾なドレスだとは思う。
しかしながら、ネアが見かけた妖精や魔物の中には、遥かに扇情的なドレスなど幾らでもあったし、比べ物にならないくらい美しく色香に富んだ者達ばかりだった。
まさか魔術的な仕掛けでもしてやいまいかと振り返ったネアに、シシィは力強く頷いた。
「素晴らしいですわね。やはり、気持ちが伴う女にこの姿を見せられると、男もここまで骨抜きになるのですわ。良い被験者を見ました!」
「シシィさん、このドレスは意識系統を攻撃するような、魔術的な仕掛けはしてませんよね?」
「ええ、勿論。ただし靴には、足を傷めず動き易いような魔術が敷かれておりますよ」
「なんと!それは大歓迎です!!」
「言葉通り弾むように踊れますから、安心して楽しんできて下さいな。くれぐれも、春告げでステップは間違えちゃ駄目ですよ。戻り雪の魔物も、そのドレスじゃ平常心じゃいられないでしょうし」
「……………安心していましたが、念の為もっと練習しますね」
ここでネアは、ふっと隣にノアが立ったことに気付いた。
やけに真剣な目で見ているので、どうしたのかなとその青紫の綺麗な目を覗き込む。
「…………触ってもいい?」
「むぅ、刺繍の部分が素晴らし過ぎて、確かに触れてみたくなるドレスですよね。いいですよ」
「じゃあ、」
「…………待ってください、どうして手のひらをそちらに向けるのでしょう」
手の角度と向ける方向がおかしいのでネアが目を細めて叱れば、無言でやってきたヒルドが伸ばされたノアの手をはたき落してくれた。
「えー、ヒルドだって触りたいくせに………」
「堂々と強請るにも程がありますよ。ここから放り出されたくはないでしょう?」
ヒルドに視線で指し示された方を見たノアは、微笑んでこちらを見ているディノにぎくりと体を強張らせる。
「…………ごめんなさい」
「叱られるとわかっていてもしでかすのは、なぜでしょうね」
「僕だって善良に生きたいけれど、無理なこともあるからね。それとネア、アルテアにはこのドレスは勿体ないんじゃないかな?」
「いえ。このドレスで、私に腰の括れがないと言ったことを後悔させてやります!」
「…………変な部分の刺激をしないようにね。まぁ、君なら大丈夫そうだけど」
「変な部分?……………む、練習のお呼びがかかりました」
ノアと話していると、後ろから魔物に拘束されたので、ネアは眉をぎりぎりと寄せる。
何となく落ち着かなくなるドレス姿なので、いつものように甘えられるとぞわぞわするのはなぜだろう。
眉を寄せたまま振り返ると、ディノは僅かに視線を彷徨わせた。
「では、シシィさん、素敵なドレスを有難うございました!」
「アルテアが好きに作らせてくれたので、久し振りに楽しい仕事になりました。例のご衣裳をお考えになる場合は、私にやらせて下さいね」
「…………衣装」
「戦勝報告を楽しみにしてますわ。というか、まずは今夜を楽しんで下さいましね。うふふふ」
「…………今夜?」
ネアをたいそう困惑させたシシィは、またしてもヒルドに摘まみ出されてしまっていた。
しかしシシィを放り出した後、ヒルドは疲れたようにこめかみを揉んでいたので、あまり相性が良くないのだろうか。
「では、本番の衣装で練習してきますね!様子を見に来てくれて有難うございました」
わざわざ見に来てくれたのであろうヒルドとノアにもう一度挨拶に行けば、なぜか強張った表情で小走りは絶対に駄目だと必死に首を振られてしまった。
なぜか、二人ともそそくさと部屋から出て行ってしまう。
「ディノ、淑女たるもの、ドレスで小走りするなんてはしたないですか?」
「二人とも、具合が悪かっただけじゃないかな」
「むぅ、悪夢の後処理も終わったところですし、昨晩お二人でお酒でも飲んだりしたのでしょうか」
「かもしれないね」
ネアはドレスケースをディノに部屋へ移動させて貰い、手を引かれてダンス用に大広間に移動する。
下ろしたての靴は吸い付くように足に馴染み、まるでふかふかの室内履きのような柔らかさだ。
これならば、万が一の場合は走ったり蹴ったりも出来そうなので、ネアは胸を撫で下ろした。
ヒールがとても細いのだが、この歩き易さからするに破損してしまいそうという雰囲気でもない。
「…………ディノ、ここはいつもの大広間ですか?」
ネアはふと、見上げた天井や窓の装飾が違うような気がして、エスコートしてくれている魔物の手を引っ張って尋ねる。
気のせいでなければ、滲むような色彩はこの季節のものではなく、窓の外を降る雪はどこか淡い桜色を帯びていた。
以前、時代によって雪の色が違うと聞いたことを思い出したのだ。
「影絵の中だよ。邪魔が入らないようにね」
「あら、誰か悪さでもしそうな人がいました?」
「ノアベルトも、ヒルドも、随分と興味を惹かれていたようだから。もし、気が変わって戻って来ると困るだろう?」
「ダンスレッスンの邪魔はしないのではないでしょうか?」
「おや、君にはわからないかな」
「…………は!刺繍がきらきら光るので、狐さんがじゃれてしまう危険があるとか?」
「ネア…………」
柔らかな音楽が流れ始める。
ネアの理解度に少し困ったような目をしていた魔物が、流れるような優美な動きで手を取った。
持ち上げられた指先に触れるのは、馴染んだ筈のいつもの温度だ。
それなのに、こうして踊るとまるで違うものに感じるなんて。
流れてゆく旋律は、繊細なものだった。
音に流されてゆくようなオーケストラのそれではなく、囁く音楽に耳を傾けて踊るような、秘密めいた柔らかな調べに、最初は緊張していたネアも心地よくなってくる。
大きなシャンデリアは何とも言えない煌びやかな色に煌めき、窓の外の雪景色の清涼さとの対比で大広間を不思議な色合いに染めていた。
見上げれば微笑みかけてくれるのは、溜息を吐きたくなるくらいに艶麗な魔物。
その瞳に揺れる微かな欲や、感嘆や、無垢な喜びの色合いに、ネアもまた魅せられる。
ふわりと揺れるスカートの軽やかさや、その度に翻る色彩の美しさには女性としての充足感もあった。
あの白いケープもそうだが、お伽噺のように美しく特別なものが自分で纏えるということには、やはり特別な喜びがあるのだ。
(どうしよう、楽しくなってきてしまった………)
夢中で踊っている内に、外は黄昏の色を帯びている。
外側の世界とは時間帯が違うのだろうが、それでも随分と踊っていたに違いない。
「うん。随分と柔らかくなったね。ステップもここまで踊れれば大丈夫だろう。………まだ緊張するかい?」
顔を寄せて耳元で囁いた甘い声に、笑顔で息を弾ませたネアは首を振った。
「いえ、慣れました!」
「………………慣れた?」
「はい。最初はこんな特別なドレスでディノと踊るので、何だかドキドキしてしまいましたが、一緒に踊っていると、やはり心から安心出来る私の大事な魔物なのです。ですので、慣れました!」
「………………ご主人様」
「まぁ、どうして、くしゃりとなってしまったのでしょう?褒めたつもりですよ?」
その後、魔物はなぜかへしゃげてしまったので、ネアは困惑したままたくさん甘やかしてやった。
調子に乗って踊り過ぎてしまって、疲れてしまったのかもしれない。
甘えるようにして首筋に口付けられたのには閉口したが、ディノの長い髪の毛が刺繍に引っかかるといけないのでそんな近付き方をしてはならないと注意すると、余計に悄然としてしまう。
最後に少し体を離してまじまじとネアを見ると、どうしたのだろうと首を傾げたネアに、魔物はこの世の終わりのような顔をする。
「…………このドレスを着ているご主人様は残酷だ………」
「ごめんなさい、躍らせ過ぎましたね?楽しくてつい」
「…………………残酷だ」
「むぅ、次回からは他の方にも分担して貰って、ディノには無理をさせません。これで許してくれますか?」
「ひどい。浮気する」
「………………どうしろというのだ」
その夜の晩餐の席で、ネアはエーダリアと二人きりであった。
胃痛でも起こしていそうな渋面の上司に、魔物はどうしたのだろうと尋ねられる。
「春告げの舞踏会用のドレスが仕上がったので、ドレスでのダンスレッスンをして貰ったところ、寝込みました」
魔物なのだし、筋肉疲労ぐらいで寝込む訳もない。
しかしあの魔物は、なぜか拗ねてめそめそと巣の中に引き籠っているのだ。
疲れた幼児がぐずるような感じなので、ネアはそんな我儘の助はぽいっと置いてきて、美味しい晩餐を堪能している。
理由がさっぱりわからないままにネアも渋面で返せば、エーダリアは悟ったような遠い目をした。
「奇遇だな。ヒルドとネイも具合が悪いそうだ。今夜はとてもこの場に来られないということで、部屋で食べると連絡があった」
「…………ヒルドさんまで?!何か悪いものでも食べたのでしょうか?」
「お前は少し反省しろ」
「………………解せぬ」
美味しいサーモンとコンソメのジュレの前菜をいただきながら、ネアはあることを思い出した。
(そう言えば、シシィさんが、さかんに今夜というキーワードを出していたような)
あれだけ素敵なドレスを届けてくれたのに、ヒルドに粗雑に追い出されてしまったので呪いでもかけていったのだろうか。
ネアは少し心配になったので、元婚約者に率直にその旨を尋ねてみた。
「痛み止めや胃薬のような常備薬の備蓄はあるので、お部屋にお届けして貰いましょうか?」
「今夜はもう、あの二人のことはそっとしておいてやれ。それと、間違っても自分の魔物にもそんなこと言うなよ?」
「…………練習に付き合わせ過ぎて腰でも痛めたのかなと思いまして、湿布薬を勧めたら、巣に引き籠ってしまったのです」
「今すぐに、謝って来い!!」
エーダリアに叱られたネアは、食後のデザートまではしぶとく粘り、その後部屋に帰って巣の中に引き籠ってしまった魔物によくわからないまま謝ってみた。
しかしながら反応が芳しくなかったので、苦渋の選択として通信でダリルに相談してみたところ、秘策を授けられたので実行してみる。
しかしながら、巣から強引に引っ張り出した魔物に、“側にいないと寂しい”と伝えて頬に口付けをしてやったところ、無言で二時間も拘束椅子を発動されてしまったので、放っておけば良かったと思わざるを得ない。
脱出しようとして暴れたので、腰回りも少し引き締まっただろうか。
確かに、大変な夜になってしまった。