112. ライオンにめろめろになりました(本編)
ディートリンデに案内された森の奥には、湖畔に水仙が咲き乱れる鮮やかなクロムブルーの湖があった。
「…………ほわ」
ネアが興奮のあまりディノの手をぎゅっと握ってしまうくらい、そこは美しい湖であった。
お伽話の中では、こういう湖には精霊や妖精が住んでいるものだ。
そう思いかけて、前に立っているディートリンデ程にその光景に相応しいものはいないと考えた。
(凄い、まるで絵本の挿絵のようだわ…)
大興奮のネアの隣で、魔物は理不尽にご主人様に攻撃されてふるふるしていたが、訝しげに振り返ったディートリンデに気付き、頑張って堪えたようだ。
「何だろう、今日はご主人様がたくさんご褒美をくれる……」
「ディノ、絵のようなところですね!」
「確かにラーフェルンの湖は美しい。ここにはかつて泉の乙女が住んでいて、通りかかる人間の心臓を食べてしまったものだ」
「………ディートリンデ様の解説で、一気に凄惨な事件現場になりました」
「様などと呼ばなくて良いぞ。ヒルドもシーだが、そなたは普通に呼んでいるだろう?」
「………では、ディートリンデさん、でしょうか?」
「俺としては、ウィームの子供なのだから、敬称など付けなくてもいいと言ってやりたいが、さすがにそれは契約の魔物が不愉快だろう。それで構わない」
「………有難うございます。そう呼ばせていただきますね」
そこでネアの声が硬くなったのは、やはり魔術可動域的には子供の区分なのかとがっかりしたからだ。
しかし、その事情は聞いていないのか、ディートリンデは困ったように眉を寄せる。
「………そなたの口調は、俺にもそうだが、契約の魔物にまで随分と硬いのだな。愛し子とて、もはやこの世界の子供なのだ。おおらかにしていれば良い」
(………む、そっちの問題………)
それはネアも、いつか誰かが言い出すのではないかと以前から悩んでいたことであった。
なので説明しようとして口を開きかけたところで、魔物がふわりと微笑む気配に上を見上げる。
「いや、この子はこれでいいんだよ」
「馴染むのを待つつもりかもしれないが、しかし、彼女も気を張ったままでは疲れるのではないか?」
「そうではなくて、これがこの子の有りのままの話し方のようだから」
「…………これが?」
当たり前のようにそう言ったディノに、ネアは目を瞠る。
「ディノ、…………気付いていたんですか?」
「おや、私が気付いていないと思っていたのかい?困ったご主人様だね」
「………そう言えば、いつからか砕けた言葉で話して欲しいと強請らなくなりましたね」
「うん。以前よりずっと、君の表情は柔らかくなったし、寝惚けていても話し方は変わらないからね」
「良かったです!いつディノに、喋り方をどうにかして欲しいと言われやしないか、そうしたらどう説明すればいいのか、実は少し悩んでいたんです」
「…………そなたは、その言葉遣いが楽なのか」
ディートリンデは少し驚いたようだったので、ネアはいつかディノに説明する為にとっておいた言葉を幾つか引っ張り出した。
「こちらの世界でも大差ないかもしれませんが、私の生まれた世界では、親しい者同士はもっと崩した言葉で会話をするのが常でした。実際、私も家族とはそうしていましたし、知人や同僚などとはそのようにしていたのですが………」
ふとした時に、言葉に迷うことがあった。
さして親しくない者と話す方が楽で、踏み込んだ関係の誰かと当たり前のように話すべき言葉の方が難しい。
だから多分、これは一人上手らしい弊害で、自分は他者と距離を詰めるのが苦手なのだと思っていた。
「でも、違ったんです。こちらに来て、全ての関係性を最初からやり直してお喋りをしていたら、この方がずっと楽で、ずっと私に向いているのだとわかりました。なのできっと、私はこちらに来たばかりの頃より言葉選びは余所余所しいのかも知れません。しかし、本人的にはとても楽で幸せなので、他者の評価などぽいっとやって、楽に生きようと思った次第なのです」
ふんすと胸を張って宣言も新たにしたネアに、妖精は生真面目に深く頷いた。
「他者とは違えど、生き易さを見付けたのであればそれが最良だ。とは言え、親しい者を悩ませぬよう、近しい者達にはそれとなくその事情を伝えてやるといい」
「はい、そうします」
「………知らないままでもいいんじゃないかな」
「む。さてはそういう作戦ですね!ご主人様の対人関係は伸びやかに育てて下さいね」
「…………ご主人様が浮気する」
「人聞きの悪い言葉も禁止です!ディートリンデさんが誤解して驚いてしまうではないですか!説明するとしたら、リーエンベルクの皆さんくらいですから、荒ぶってはいけません」
「アルテアや、ウィリアムも?」
「あら、そのお二人はそこまででは………」
安堵するかと思った魔物は、なぜかネアのその言葉でまたふるふるとしてしまった。
人間の我が儘さに慄いてしまったようだが、仕方のない線引きというものがある。
(アルテアさんは、あまり境界線を近くすると悪さをされるかもしれないし、この前からウィリアムさんは何だか本能的に、あまり近付き過ぎてもよくない気がするし………)
あくまでもこの二人は、悪い遊びばかりしている親戚のお兄さんと、少し疎遠気味だが会うと孫煩悩なお爺ちゃんというくらいの程々の立ち位置でお願いしたい。
「………君は、あの二人とももっと関わりたいのかと思っていたよ」
「お二人のことはとても好きですが、私は脆弱な人間ですので、手のかかる魔物のお世話は、ディノまでしか受け付けられません。なので、更に踏み込むには、お友達になる喜びよりも、危険が大き過ぎる旨味の少ないものだと思うのです」
「ご主人様……」
「あらあら、どうしてしょげてしまったのでしょう?お友達が粗雑に扱われて悲しくなってしまいましたか?」
「思っていたより線引きが容赦ないので、自分の立ち位置が不安になったのだろう」
首を傾げたネアに、年長者らしくそう教えてくれたのはディートリンデだ。
どこか遠い目をしているが、思わず魔物が頷いたのでネアの注意はそちらに戻った。
「ディノは線の内側です。いつも一緒にいるし、そもそも私は婚約者なのでしょう?さっきの言葉遣いのことは気付いてくれたのに、また不安になってしまわないで下さいね」
「ご主人様!」
喜んだ魔物をよしよしと撫でたところで、先程から立ち尽くしている三人の向かい側で、ざわりと木が揺れた。
動かずにいたのはやはり、悪夢の落し物の生き物が姿を現わすのを待っていたようだ。
「やっと出て来たか」
「困ったな、これはネアが好きそうな生き物だね」
「…………グリズリーは好みではありません」
「毛がたくさん生えているのに?」
「また誤解を受けそうな言い方を選びましたね………」
木の影から姿を現したのは、獰猛そうな大きな熊であった。
鋭い爪のある大きな手と、二本足で立ち上がってこちらを見ている隆々とした筋肉に覆われたその大きさとで、さすがのネアもこれを可愛いとは言えない。
(と言うか、造形的な好みもありますし……)
目の前の熊は、可愛いと言う容姿の生き物ではない。
そもそも、ネアの熊に対する評価ラインは、子熊程度までで止まってしまう。
「羽がある熊さんを初めて見たのですが、あの凶悪な体格に愛くるしい白い翼がついていると素材の無駄使い感が凄いです……」
「ネア、これは魔物だから可愛いだなんて言う必要はないからね」
「白持ちであったか。これは厄介だな……」
羽付きのグリズリーのような魔物は、こちらを見て狡猾そうな黄色い目を細めた。
焦点の定まらない目と、口元に残る口泡が、どこか正気を欠いた禍々しさを醸し出している。
「ネア、壊したら怒るかい?」
「む。悪いやつなら成敗して下さい」
「では壊してしまおう。ほぼ正気を失っているし、足元は祟りものになってしまったようだ」
「………足が蜥蜴さんになってます。それと、黒い靄が……」
「悪夢の残りを絡みつかせているんだろう。もしかしたら、中身は悪夢かもしれないね」
「…………中身」
魔物が教えてくれたことによれば、稀に悪夢の中で命を落とした生き物が、中身に悪夢を詰め込んだまま生前と変わらぬ姿で動くことがあるらしい。
しかし容れ物も悪夢に合わせて変質してゆき、やがては祟りものになってしまうのだそうだ。
「ふむ、それやもしれんな。凝りが巻き込んだとばかり思っていたが、その理由の方がこの森に入り込んだ理由も説明がつく。俺一人であれば、交渉を図ってみようと侮ってしまっていたところだ」
ディートリンデは神妙に頷くと、一歩前に出たディノに道を譲った。
すぐ横できらりと陽光を透かした妖精の羽の美しさに、ネアはあらためて感動する。
色合いが違うので、やはりヒルドの羽とは印象ががらりと変わる。
このシーの羽は、確かに雪原の美しさであった。
「ネア、終わったよ」
「…………もうですか?!」
少し拗ねたような声に視線を戻せば、グリズリーがいた場所にはもう何もなかった。
ネアがディートリンデの羽に見惚れている一瞬で片付けてしまったようだ。
「浮気してた…………」
「ディートリンデさんの羽は、やはり雪の妖精さんだなと思って見ていただけですよ。それよりも、悪いやつを退治してくれて有難うございました」
「…………爪先を踏むかい?」
「…………症状がぶり返してきたことに戦慄を禁じ得ません」
「ご主人様…………」
すっかり悪癖全開となった魔物の三つ編みを引っ張りつつ、ネアはディートリンデに向き合うと、他にも不具合がないかどうかを尋ねた。
雪のシーは、あれだけの魔物が一瞬で始末されてしまったことと、思いの外変態的であった万象の魔物という二点から心にダメージを重ねていたようだが、気を取り直したように微笑んでくれる。
「いや、もうこれで悪夢の落としていったものは全てだ。手を貸して貰うどころか、全てそちらで処理して貰ってしまったな。あらためて、礼を言わせてくれ」
「いいえ、ディートリンデさんは私の大切な方々の大切な人ですから、お力になれて嬉しかったです。それと、あまり来れないところですので、お菓子のお土産を持って来ました!ちびちびさん達はお菓子を食べますか?」
「ち、びちびさん……?」
「森にいる小さな愛くるしい生き物達です!………し、獅子さんもいるのですよね?!」
張り切りすぎて若干前のめりになったネアに多分ディートリンデは引いていたが、獅子は焼き菓子などであれば食べるだろうと教えてくれた。
「ふわふわの鬣を撫でたら嫌がりますか?!」
「メディアは撫でられるのが好きだから嫌がりはしないだろうが、そなたの魔物は大丈夫なのか?」
「ご安心下さい。うちの魔物は、ご主人様の幸せの邪魔をしない良い子なのです。そうですよね、ディノ?」
「…………ひどい」
「獅子さんを撫でるのを許してくれたら、今夜は髪の毛を洗ってさしあげますよ?」
「撫でていい…………」
「ディートリンデさん、許可が出ました!」
「あ、ああ。………であれば、移動しても構わないか?メディア達は、少し離れたところにいるのだ」
「はい!」
ご機嫌のご主人様に三つ編みを引っ張られ、魔物はしょんぼりと付いてくる。
あまりにも浮気の心配をしているので、ネアは決してライオンを伴侶にはしないと説明してやった。
「ゼベルさんの結婚は特殊なものです。普通の人間は、お喋り出来ない獣さんと結婚したりはしません」
「…………すっかり時代は変わってしまったのだな。そのような人間が現れたのか」
ゼベルの話を聞いたディートリンデは困惑していたが、彼がリーエンベルクの第二席騎士だと知るともっと混乱していた。
一度の転移を経て、三人はネアが夢で見たあの見事な大木のある場所に出た。
ここからでも木の上に淡い金色の塊が見え、こちらに気付いたのか動くのがわかる。
「ディノ、獅子さんがいます!」
「ご主人様が大喜びしてる………」
ゆっくりと近付いてゆけば、枝の上で立ち上がった獅子は翼を広げて警戒するようにこちらを見ている事がわかった。
少し震えているので、隣を歩くディートリンデがくすりと笑う。
(そうか、この子達は怖がりだから、真下ではなくて少し離れた場所に転移したんだ)
「メディア、下りておいで。リーエンベルクからの御客人だ。お土産で菓子を持って来てくれたらしい」
笑いの滲んだ声でそう話しかけたディートリンデに、木の上の者達は顕著な反応を見せた。
全員がけばけばになって、驚きと喜びを示している。
じわじわと喜びが増したのか、ぴょいぴょいと弾み出す生き物もいる。
しかし今度は、うっかり枝の隙間から見えてしまったディノに震え上がっていた。
「むぅ、ディノを怖がってしまいました」
「怖がっているようだから、ここで帰ろうか」
「よし、ディノは少し離れていましょうか」
「ひどい!」
羽を広げて枝に飛び上がったディートリンデが、優しい声で獅子達に話しかけていた。
「厄介な来訪者がいたが、それは御客人が倒してくれたからな。もう悪夢も晴れたし、安心していいぞ」
わらわらと獅子の体からディートリンデの腕に移動してゆく生き物達は、そこなら安心と言わんばかりに興味津々にこちらを見下ろしていた。
またディートリンデがいる方の枝に移ろうとして叱られている獅子が可愛い。
「ディートリンデさん、皆さんが和むようにお土産を広げますね」
「気を使わせてすまない。……ほら、菓子を出してくれるらしいぞ?」
「ミュッ!!」
一番乗りで下りて来たのは、モモンガのような生き物だ。
短い羽が見えたので、どうやらこれは妖精らしい。
ネアが首飾りの金庫から引っ張り出した大きな袋に期待のあまり武者震いしているので、その中からまずは好き嫌いのなさそうなクッキー缶を出せば、飛び上がって宙返りした。
「ピッ!」
「キュウ……」
「ムギュウ!!」
「グー………!」
ネアがモモンガに急かされつつクッキー缶の蓋を開けると、周囲には甘い香りが広がり、木の上の生き物達はあっという間に籠絡されてしまった。
ざあっと枝を揺らして落ちる果実のように飛び降りてくると、ネアの周囲は喜びにはしゃぐ小さな生き物達でいっぱいになる。
その姿に怖さを食欲が上回ったのか、獅子もばさりと翼を鳴らして下りて来た。
そろりと近寄ってきたところでネアに微笑みかけられ、ふさふさの尻尾をふりふりしてから、ちゃっかり隣を確保する。
(か、可愛い!!!)
あまりの可愛さに精神が揺らいだネアは、あっさり依怙贔屓を始めた。
「あなたには、クッキーは小さいかもしれませんね。もう少し食べ応えのある焼き菓子もあるので、待っていて下さい」
そう言ってネアがバターたっぷりのマドレーヌを出すと、獅子の尻尾はぶんぶんと激しく回され、近くにいた毛玉の生き物が吹き飛んでしまうくらいになる。
ジャムクッキーを抱えたまま吹き飛ばされた毛玉は、ミーミー鳴いて怒っていた。
「ネア、この者達は悪夢でそれはそれは怯えていたのだ。よい贈り物を持ってきてくれて有難う」
「いえ!ディートリンデさんは何がいいですか?早めに申請しないと、この子達に全部食べられてしまいますよ?」
「ん?………お前達、食べ過ぎではないのか?ココム、それではお前の体より大きいだろう?!」
ディートリンデにココムと呼ばれた淡い黄色の毛玉に妖精の羽のある生き物は、ペンギンの羽のような手で必死にマドレーヌとクッキーを確保している。
すごいのは、気に入ったらしい珈琲味の小さなクッキーを、一人占めせんと荒ぶっているところだ。
「…………また頼んでやるから程々にするようにな。……メディア、お前も翼の下に箱ごと隠すのはやめなさい」
小さな生き物達を叱りながら、ディートリンデも、さり気なくマドレーヌとチョコレートとジャムのドライケーキを確保している。
(これは、かなり好きな人の反応だわ……)
ネアは少し考えて、ザハのチョコレートは別れ際にディートリンデだけにあげることにした。
「新年と夏至祭、イブメリアの時期の訪問の際には、エーダリアが祝いの料理を沢山持ってきてくれるのだ。この森に住む者達はそれを随分と楽しみにしているのだが、このようなものだとここまで喜ぶのだな………」
「ふふ、きっと悪夢で怖い思いをした分、甘いお菓子が嬉しかったのでしょうね。………まぁ!」
そこでメディアが、甘くて美味しいお菓子をくれたネアにごしごしと体を擦り付けて甘えた。
目をキラキラさせて大好き認定してくれたのがわかったので、ネアも破顔するしかない。
ふわふわの鬣を撫でてやれば、尻尾がまたぶんぶんと振られる。
(は、初めてライオンさんを撫でることに成功!!)
平静さを装いながら、ネアはぱっとディノの方を振り向き、野望を果たした自慢げな微笑みをみせる。
「愛くるしいです!」
「ネア……………」
魔物は、周囲のちびちびした生き物達を怖がらせてはいけないと厳命されているので、恨めしい表情になりながらも我慢しているようだ。
「もふもふの堪能が終わったら、次のお仕事に向かいましょうね」
「ご主人様が虐待する………」
「会話の流れ的に労働虐待のようになるので、ここでその言葉を使うのはやめて下さい」
さっきから、震えつつクッキーを齧りながらディノをじっと見ている兎のような生き物は、恐らく魔物なのだろう。
体の震えが止まらないくらいにディノに畏怖しつつも、苺のクッキーを食べたい欲求には敵わないようだ。
そんな兎の魔物は、さかんにネアとディノを見比べてネアの方が偉いと判断したのか、食べ終わるとなぜかネアに敬礼して木に戻っていった。
やがて、小さな生き物達の狂宴は終わった。
他にも森には住人達がいるそうで、みんなのものを食べ尽くしてはいけないと、ディートリンデが幾つかの箱を取り上げ、大いに抗議されつつ何とか事態は収束する。
「また今回のような怖い災厄が来た後にはこちらに様子を見に来ますので、その時はよく頑張りましたのご褒美にお菓子をたくさん持ってきますね」
帰り際にネアがそう言えば、生き物達は飛び上がって喜んでいた。
まるで英雄の凱旋のように木の上から見送られ、ネアは大きく手を振る。
「あそこに集まっていたのは、特に怖がりな個体ばかりでな。先程の言葉はとても助かった。ご褒美があるとなれば、彼等も取り乱して怪我をしたりせずにしゃんとするだろう」
帰り際に聞けば、あの小さな生き物達は、災厄の度に慌てて逃げようとして木から落ちたり、パニックになって森で迷子になってしまったりするのだとか。
転移に向いた土地まで案内してくれつつ、そう苦笑して教えてくれたディートリンデに、ネアは微笑んで首を振った。
「私も悪夢は初めてでしたが、あんなに暗いとは思わずにびっくりしました。あの子達もきっと怖いのでしょう。…………あ、ディートリンデさん、これはご自身用に隠し持っていて下さいね。大人にもご褒美は必要ですから!」
「………これを、俺に?」
黄金色のリボンのかかった艶やかな濃紺の箱を渡され、ディートリンデは目を丸くした。
すぐに何の箱だかわかったのか、ふっと微笑みを深めると小さく礼を言い、嬉しそうに箱をどこかにしまう。
髪の毛の影で二度微笑みを深めたので、相当嬉しかったらしい。
「これで日々の楽しみが増えた」
「今日は急いで来たのですぐに買える物にしましたが、他に欲しいものがあれば、次回に持ってくるので言って下さいね」
「今はこれで充足しているが、また思いついたらヒルドに伝えておこう。今日は手間をかけたな。万象の王、呪悪を排除してくれて助かった」
「構わないよ。これが仕事だからね」
「はは、そうだった」
ざあっと清涼な風が雪深い森を渡ってゆく。
木々が揺れて白く柔らかに煌めき、美しいウィームの冬がそこにはあった。
微笑んで見送ってくれる雪のシーは、その冬の主人らしい玲瓏たる美貌で微笑む。
「では、お邪魔しました」
「ああ、場の安定が取れなくなると困るので残念ながらいつでもとは言えないが、そなたの契約の魔物に機会を図って貰い、また遊びにくるといい」
「はい!」
転移の淡い暗闇を経て、二人は再び大聖堂前の広場に立っていた。
先程よりも人通りが多くなっており、朝のミサの歌声や賑やかなお喋りに満ちた雑踏には、信仰と同時に生活の音が溢れている。
転移の為に持ち上げられていたのを下ろして貰ったところで、ネアは眉を顰めた。
「………ディノ?」
魔物がなぜか、ネアのコートを丁寧に払っているのだ。
いつの間にかコート用の竜毛のブラシを持っているが、ネアは寧ろ、ディノがこんなものを使うのだと知っていることに驚いてしまった。
「獅子の毛がついてるから」
「…………怖い」
「後で手も洗ってあげるよ」
「凄く怖い…………」
先程撫で回した際に、目視出来ないくらいのライオンの淡い金色の毛がコートについたようだ。
ディノは、擬態をしていない代わりに周囲の人々には姿が見えないようにしているようだが、それでもこんな場所で美麗な魔物から一心不乱にコートを掃除されるのはかなり辛い。
まずはお掃除魔物をひとまず放置し、エーダリアとヒルドに通信でディートリンデの無事を伝える。
やはり飛び地の森の中では通信が届かなかったので、事後報告としたが二人ともほっとしたようだ。
「さて、この後は禁足地の森に行きましょうね。この様子だと、お店もやっていそうですし、どこかでお昼ご飯を食べてから行きますか?」
「…………グヤーシュ」
「ふふ、じゃあスープのお店にしましょうね」
久し振りの青空に、陽光で解けた雪の塊がばさりと落ちる音がする。
(ここにも雪がたくさん残っているけれど、やはりあの向こうとは季節が違うんだわ)
飛び地の森には、三時間程の滞在だったようだ。
時間を確認すれば、お昼には半刻程早いがこの嫉妬心に溢れたコート掃除をやめさせる為にも、さくさく移動しよう。
「禁足地の森にも、何か落し物があったりするんでしょうか?」
数日ぶりに外に出て賑わっているスープ屋さんで昼食を摂りながらそう話しかければ、いつもの姿に擬態した魔物は、なぜか難しい顔をした。
「獅子はいないと思うけれど、落し物はあるかもしれないよ」
「獅子さんから離れて下さい」
「ご主人様が他の男をたくさん撫で回してた」
「言い方!」
「あの獅子は精霊だから、あまり懐かせない方がいいよ」
「む。それを言われるとぞっとするくらいには、ジーンさんが気持ち悪………怖かったです」
「可哀想に。でも、君への執着はもう失ってゆくから、安心していいよ」
そう、頬を撫でる手の温度は甘い。
微笑んで頷いてから、今は傷一つない魔物の滑らかな首元を見た。
あの日にリノリウムの白い床に落ちた血の赤さを思い、ネアは胸が痛くなる。
ふっと、その肌の無事を確かめる為だけに、指先で触れてみたくなる。
手のひらで滑らかな肌に触れて、安堵だけの為にその温度を感じたかった。
「…………っ、」
「ネア、どうしたんだい?顔が真っ赤だよ」
「危うく公衆猥褻の罪を犯すところでした。食べたら禁足地の森でしっかり働いて、己の煩悩を撲殺します!」
「…………しなくていいのに」
「ディノ?」
その後、ネア達は禁足地の森の見回りも終えて無事に夕方前にはリーエンベルクに戻った。
悪夢の後は、展開された実現する悪夢からの落し物があるらしく、ネアは本来ウィームの森にはいない筈の外来種を狩りの獲物とし、ほくほくと喜びを噛みしめる。
結果、凝りの蜘蛛を一匹と、グリズリーの魔物、そして大蜥蜴の魔物を駆除したディノは、洗髪のご褒美の他に爪先も踏んで貰えたので、晩餐までには機嫌を直していた。
その晩餐の席で、街の魔術基盤の修復を終えたエーダリア達と一緒に悪夢の後始末についてあれこれお喋りをしていると、ヒルドがあることを思い出した。
「ネア様、そう言えば明日は、仕立て屋が来られるのですよね?」
「そうでした!悪夢で少し後ろ倒しになりましたが、ドレスが出来たので合わせと、最終のお直しがあるのです。今日をお仕事にして貰って、明日がお休みで良かったです」
「………また仕立て妖精が来るのかい?」
「ディノ、明日は春告げの舞踏会用のドレスの試着があるので、明日着て見せてあげますね」
「ドレス…………」
「よく考えたら、もう四日後なのですよね。アルテアさんのお仕置きも終わる頃ですし、ちょっと楽しみになってきました」
「ご主人様が虐待する……………」
晩餐時にご主人様の不用意な発言で魔物はくしゃくしゃになってしまったが、本当に潰れてしまうのはその翌日のことになる。
因みにその日は、ヒルドとノアもなぜか具合が悪くなったので、エーダリアはずっと渋い顔をしていた。