111. もう一人のシーに出会います(本編)
気象性の悪夢が晴れた。
ネアとしては、落とされたり落ちたりと様々であったが、元の世界を垣間見たり、砂漠を歩いたり熱帯雨林で呪われたりと、実に目まぐるしい数日間であった。
魔物的にも、喉を掻き切られたり、謹慎処分となったりしていたので感慨深い数日間だったのだろう。
極めつけに昨晩はウィームの大浴場でディノの友人に出会い、ネアは濃い数日間を振り返りながらいつものホイップバターに舌鼓を打つ。
香辛料入りの赤いバターも待ち侘びていたので、朝食でいただくパンは四枚になった。
少しどうかなと思ったが、昨晩の大浴場での運動量はそれなりのものだったので、変動なしとなっていることを願いたい。
最悪の場合は、魔物の髪を洗ってやるか、水泳教室としよう。
「ヒルドさん、つかぬことをお伺いしますが、ウィームのどこかに長い水色の髪の毛の六枚羽の妖精さんはいらっしゃいますか?」
朝食の席でも、エーダリアにはひっきりなしに連絡が入っていた。
それを整理する為にヒルドも同席していたので、ネアは二人の会話が終わった隙を見計らって尋ねてみる。
その質問に、ヒルドは微かに眉を持ち上げた。
「…………ディートリンデのことでしょうか」
元の世界の感覚で言えば女性名であるが、こちらの世界においてはその種の区分はない。
マリアという名前の男性もいるし、カルロスという名前の女性もいる。
種族ごとに、それぞれ名付けのお作法があるようだ。
「お名前は存じ上げないのですが、大きな木に腰かけているのを見ました」
「ディートリンデですね…………。ネア様、彼をどこで見たのでしょう?」
「……………それが、会ったことのない方なのに、夢の中に出てきまして。何かそういう力をお持ちの方なのかなと………エーダリア様?」
気付けば、食事中だったエーダリアが立ち上がりかけていた。
深刻な顔でテーブルに手をつき、身を乗り出している。
「ネア、どんな夢だったんだ?」
「え、ええと。淡い金色のふわふわな獅子さんがいました!ディートリンデさんはお菓子が好きで、大切に思う子供がいるようです。あ、後はモモンガがいましたよ」
「…………ディートリンデに何かあったわけではないのだな?」
そう尋ねられたとき、ネアはやはり大事なことを忘れているような気がした。
夢の終わりに不穏な気配があった筈なのに、目を醒ました時にはもう何も覚えていなかったのだ。
「エーダリア様、昨日悪夢が晴れた段階で、ディートリンデとは会話をしております。緊急に助けを必要とするようなことはないと言っていました」
「そ、そうか。…………そうだったな、ヒルドは言葉を繋げるのだった。ネア、すまない。少し動揺した」
「いえ。大切な方であれば心配になってしまうのも仕方ありません。……でも、私もなぜ知らない方が夢に出たのか少し気になるので、その方がご心配であれば様子を見てきましょうか?」
「ネア様、彼は、昨日ご依頼した飛び地の森に住んでいるんです」
何となく責任も感じたのでそう言えば、ヒルドが彼の住まいを明かしてくれた。
あのどこか箱庭めいた森の様子は、そういうことだったのかとネアも腑に落ちる。
もしかしたら、そこで繋がった何かが、ネアにその妖精の夢を見させたのかもしれない。
「では、その飛び地の森を最初に見てきますね」
「念の為に、そうしていただいても宜しいでしょうか?ただ、ディートリンデですから、大きな問題があれば連絡が来る筈です。現在、彼の司る飛び地の森に異変があったという報告もありませんので、深刻になり過ぎる必要はないでしょう」
「その妖精さんに何かあると、飛び地の森に異変があるのですね」
「ええ。あの魔術は繊細なものですからね。ディノ様、問題ありませんでしょうか?」
ヒルドはディノにも確認を取り、魔物は特に拘りもなく頷いた。
「門の調整はいつでも出来るからね」
「もしかして、水竜さんの領域に入ったときのようなものですか?」
「あの飛び地の森は、定められた者以外は入れないようになっているんだ。閉じて残された森だからね。森の番人に招かれた者だけが出入り出来ると言われているけれど、それでも行き来出来る回数は決められている」
「………その貴重な数回を、ここで使ってしまっても良いのでしょうか?何かあるといけないので早々にご訪問するのは決まりとしても、せっかくなのであれば、エーダリア様やヒルドさんもご一緒に行きますか?」
そう提案したネアに、エーダリアは少しばかりの後悔が滲んだ表情に、ヒルドは柔らかな苦笑の眼差しになる。
「ネア様、あの森に入れる機会は各自決められているのですよ。私は夏至祭の翌日と、収穫祭の後の休息日のどこかで、エーダリア様は年に五回までですが、実はもう既に二回訪れておりまして……」
「早めに使ってしまったのですね」
「一度目の訪問は、新年の祝賀の後で記憶になかったそうで、二度目をその翌日に訪れて、ディートリンデを驚かせたようですよ」
「…………もしやお酒の……」
ネアがそう言うとエーダリアが項垂れたので間違いないだろう。
酔っぱらって遊びに行き、その記憶を失くしてまた行ったに違いない。
だがこれは、ネアとしてはかなり意外であった。
一緒に飲んだ時に潰してしまったことはあれど、エーダリアが酔っ払いとしてふらふらと出歩くという認識はなかったのだ。
言うならば、お行儀よくこてんと眠ってしまう酔い方だと思っていたのだが。
(しかし今は、エーダリア様の酒癖よりも、その妖精さんの様子を見に行くのが先決!)
ネア達は、ディノが道を整えることによっての、特殊な入り方になる。
これは、既に認識されているエーダリアやヒルドには出来ないやり方で、勝手に入ってしまってから認証してくれ給えという強引さである。
問題が起きないよう、ヒルドが悪夢明けの一報を入れた時に、そういうことがあるかもしれないと話してあるそうだ。
つまりその時からもう、ネア達に頼むつもりだったのだろう。
なぜならば、この侵入方法が可能なのはディノだけらしく、他の高位の者では閉ざされた空間の外壁を壊すことは出来ても、するりと入り込むことは出来ないのだとか。
「………私の魔物は凄かったです」
「これは、彼が閉鎖の条件付けをしていないことと、私が万象だからだよ。切り分けて閉ざしても、そこもまた世界の続きだからね」
説明を聞けば、これはその妖精も凄いことをしているのだと納得する。
つまり、世界を切り分けて閉ざしているのだから。
「ディノ、今日は早めに出てもいいですか?」
「構わないよ。お茶を飲んだらもう行くかい?」
「そして、五分程の所要時間で、ささっと寄りたい場所があります」
「わかった。急ぐんだね」
「では、この後で行ってきますね。エーダリア様、ヒルドさん、何かあれば連絡しましょうか?」
「いや、中からの通信は難しいかもしれない。私が動揺したことで、急がせてしまったな」
「森の閉じ方が特殊ですので、可能であればで結構ですよ」
重ねてエーダリアとヒルドがそう言うのだから、かなり特殊な場所なのだろう。
ネアは部屋に戻ると、急いで備蓄していたとっておきのお菓子を大きな袋に詰めた。
その大袋を首飾りの金庫にぽいっと入れて、不思議そうにこちらを見ているディノに説明する。
「飛び地の森の妖精さんは、お菓子好きです。あまり外部と繋げられない場所なのですから、お土産は多めにしました。事前に分かっていれば良かったのですが、もし困っていらっしゃるのであれば早く伺いたいですし、ここは買いに行く時間を短縮して私の備蓄から。でも乾物ばかりなので、一瞬だけザハに駆け込んで、チョコレートの詰め合わせを買ってから乗り込みます!ディノ、そういうことですから、今日は転移多めでお願いしますね」
「もしかして、その妖精が気に入ったのかい?」
「と言うより、エーダリア様やヒルドさんにとって大事な方のようですし、初対面のご挨拶も兼ねてですね。個人的な興味があるとすれば、ふわふわの獅子さんを撫でてみたいくらいです……」
「………獅子」
魔物はそこで少し悩んだようだ。
ゼベルのこともあるので、獅子に対する興味が浮気かどうか考えているのだろう。
あまり悩むとろくなことがないので、ネアはディノを急かしてザハの前に転移して貰った。
ふわりと足元の空気が揺れ、見慣れたウィームの街に足裏から着地する。
「街は、……良かった。雪溜まりが出来ていたり、お花が折れてしまっていたりはしますが、建物に損傷はなさそうですね」
悪夢が晴れて以来初めて街に出たので、ネアは心配になって周囲を見回したが、屋根や木から落ちた雪が歩道に溜まっていたり、花壇の花や若い木が折れてしまっているくらいだろうか。
勿論、被害の出ているところもあるのだろうが、人々は久し振りの買い出しに忙しなく動き始めていた。
屋内退避が解除され、やっと公に外に出られる領民達の表情は明るい。
とは言え、市場はなぜか昨晩も営業していたそうで、エーダリア達は渋い顔をしていた。
あまり厳しく取り締まると不満が出るので、そういう場合は、万が一の危険がないようにと影からこっそり魔術師達が見張るのだそうだ。
領民達も、遮蔽厳守の期間が終われば外に出ても罰則までは受けないと知っており、なかなかに逞しい。
「ディノ、………屋根の上にパンの魔物さんが……」
「飛ばされたのかな……」
「お腹を出して寝ているので、なかなかに図太いですね。そして、お腹は焦げ茶だと始めて知りました」
そんなウィームの街を眺めて一つ頷くと、ネアは、扉を開けたばかりのザハに入った。
こちらは災厄の訪れなどなかったかのように、いつも通りのザハである。
営業開始と同時に乗り込んだ初客だったことが幸いし、すぐに買い物も終わり、素敵にラッピングされたチョコレートの詰め合わせも首飾りに仕舞われた。
(他のお店も考えたけれど、やっぱり、“すごく急いでる感”を察して、素早く出してくれる店員さんの能力が素晴らしい!)
そういう気遣いが出来るのが、やはり安心のザハなのだ。
チョコの作りも綺麗だし、あの小さな生き物達も喜ぶだろう。
(…………小さな生き物達?)
首を傾げたネアに、魔物がこちらを見た。
「どうしたんだい?」
「夢の中の記憶が、少し戻ってきたような気がしたのです」
「飛び地の森に近付いたからだろう。とすれば、やはり夢ではなく、その土地と繋がって見たものなのかもしれないよ」
そんなことを教えて貰いながら、ネア達は次の転移で大聖堂の裏手にある、飛び地の森の前に立っていた。
繊細な銀色の柵に囲まれた小さな森は、決して広くは見えない。
けれど柵の隙間から覗き込めば、不思議な程に奥行きがあるように見えるのだ。
(そう言えば、よくこの柵から森を覗いている人がいたけれど、変な生き物がいたのかなと思うくらいで気にしてなかったわ)
さすがに本日は観光客の姿はなく、代わりに教会に属する妖精達が、大聖堂の外壁の魔術の確認に余念がない。
その大聖堂に背を向けて、二人は銀柵に向かい合った。
「さて、ここから入るけれど、少し込み入った入り方になるから、離れないようにね」
「わかりました。ディートリンデさんの心配をしながら、己が二次遭難するような真似はしません」
大人しく魔物に持ち上げられ、ゆらりと転移で足元が切り替わる。
悪夢が去ったばかりで忙しなく人々が行き交う大聖堂の周囲であったが、誰もネア達に気付かないので、人避けの魔術があるのだろう。
「……………わ、ふかふかの新雪です」
その中には、確かに広大な森があった。
冬の最盛期に夜からたっぷりと降った雪を思わせる、少し青みがかった綺麗な雪景色だ。
ネアを抱いたディノの足元で、柔らかく真新しい雪がざくりと沈んでいる。
「ここは、ウィームの最も美しい冬が閉じ込められているんだよ。時期的にはイブメリアの頃かな。この森の番人は、雪のシーだからね」
「ディートリンデさんは、雪のシーなのですね!」
「雪のシーは数が多いが、その中でも最古参の一人だ。ウィームに最も古くからいる妖精の一人だよ。…………おや、妙なものがいるね」
ネアに説明をしていたディノが、ふっと目を細めた。
鋭く酷薄になる水紺の鮮やかさに、ネアは、ぽこんと蘇った記憶にはっとして小さく息を飲む。
よりによってその大事な部分が崩れ落ちてしまっていたことに、頭を壁にぶつけてしまいたくなる。
「ディ、ディノ!!思い出しました!悪夢が厄介な落し物をしていったと、夢の中でディートリンデさんが言っていたのです!急いで行ってあげて下さい!!」
「まだ、何かの問題が起きているような気配はないかな。………祟りもの、………いや、凝りかもしれない。私から絶対に離れないようにね」
「はい!」
雪を蹴ったディノは、幾つか短い転移を重ねたようだ。
着地の度に景色が変わり、思いがけずこの森がどれだけ広いのかを理解することになる。
さらさらと風に粉のような雪が舞い上がり、悪夢の晴れた陽の光にきらきらと輝いた。
「少し多めに踏んでいるから、揺れるかもしれない。大丈夫かい?」
「多めに踏んでいるのは、転移のことですか?」
「そう。まだこの世界の中で番人の承認を得ていないからね。君は迷い子だから、誤って弾かれてしまわないよう、転移の距離を短くしているんだ」
「ごめんなさい、大変でしょう?」
「私に負担はかからないよ。でも、君が焦っているのに少し時間がかかってしまう」
そう言ったくせに、ディノがその場所に到着するまでには三分もかからなかった。
要するに、一瞬で辿り着けないことを詫びたのだろう。
「ほら、彼がそのシーだ」
「………怪我をしたりは、していないようです……ね」
そこは、森が少し窪地になっているところだった。
周囲を大きな木が天蓋のように覆っていて、雪で白くなった枝がレースのように見える。
その影を落とした窪地の中央に、その妖精は立っていた。
ミルクブルーの長い髪が風に靡き、ディートリンデは目を閉じてただ立ち尽くしている。
羽が大きく広げられた妖精らしい姿の美しさに、ネアはつい息を止めてしまう。
(なんて絵になるひとなのだろう………)
「…………ウィームの愛し子か」
静かな囁きが、ふつりと落ちた。
淡い水色の瞳が開き、こちらを見る。
「それと、……驚いたな、やはりここまで白いものなのか」
これだけの妖精であっても、ディノを見たときにはやはり微かな畏敬の念が滲むのだから、この魔物が特等の生き物だと再認識させられた。
ネアが慌てて挨拶をしようとすると、妖精は片手を上げて微かに苦笑し、まずは自らが優雅に一礼してみせた。
片足を不自然に固定しているので、その下に何かがあるのだろうか。
からりとした平静さに、ネアは特筆すべき問題はなさそうだとほっとした。
「お初にお目にかかる、万象の王」
「おや、以前にも君には会ったことがあるよ」
「…………ん?そうなのか。俺は認識していなかったが、いつのことだろう?」
「人間に擬態していたからね。君は、王の手を払い国の守護を投げ出し、森に戻ってゆくところだった」
「あの頃は、………まだ若かった。庇護する者達が喪われてゆく早さを知らずにいられた、愚かな頃だ。情けないところを見られていたようだな」
目を細めて小さく笑ったディートリンデが、こちらを見たので、ネアは魔物に抱えられたままぺこりと頭を下げた。
「初めまして、ディートリンデ様。ネアと言います」
「そなたの名前は聞き及んでいる。エーダリアが世話になっているな」
「いえ、エーダリア様はとても良い上司兼、大家さんですので、私も同じようにお世話になっているのです」
「はは、そこで世話などしていないと言わないのが良い。そなたがウィームを訪れてから、あの子の視野は随分と広がった。これでもう少し、他者の手を借りることに融通が効くようになれば良いのだが」
「安心して下さい。エーダリア様が手を貸してくれと言えなくても、私は、エーダリア様がずっと元気でいてくれないと困ってしまうので、強引にでも手を貸してゆく所存です!」
ネアの宣言に嬉しそうに微笑むのだから、この妖精はとても彼を大事にしているに違いない。
(………やっぱり。あの夢の中に出てきた子供は、エーダリア様なんだわ)
この妖精が契約をする筈だった第三王女の息子がエーダリアだ。
だからこそ、彼にとってのエーダリアは、正式なウィームの主人でもあるのだろう。
「ああ。あの子を宜しく頼む。我々妖精は、契約の子供の子については、後見人としての責を持つ。俺は契約の子供と会うことは出来なかったが、今やその子供がこの森に来て酒を飲み交わすまでになった」
穏やかで厚みのある声に、悲しみと喜びが混ざる。
「第三王女様にお会いすることは出来なかったのですね」
「………ああ。ヴェルリアの方針は、教育の施された王族の全て殺すことだった。第三王女が見逃されたのは、彼女がこのウィームの思想や、家族への愛に触れていない赤子であったからなのだ。だから俺は、その危うい均衡を崩さないよう、最後まで彼女と会うことはなかった」
(そうか、この人はそういう守り方をしたのだ)
第三王女の王都での扱いは、決して恵まれただけのものではなかったと聞く。
なのだから、会いに行って自分が味方だと言ってやれたならば、どれだけ嬉しかっただろう。
(でもそれは、第三王女様の為ではなくて、自分の為の行動になってしまうから)
我欲で手を伸ばすことでその安寧を脅かすことを懸念して、ディートリンデはそんな自分の願いを殺したのだろう。
以前ダリルから、エーダリアの母親は内々に殺されたと聞いているので、その時の苦悩はどれだけのものだったろうか。
残される彼女の子供の為に堪えたのか、或いはもう既に割り切れるようになっていたものか。
(……………でも、)
ネアには一つの懸念があった。
エーダリアの母親を手にかけたのは、ヒルドだということは、ネアにも知らされているのだ。
実はこれは、エーダリア自身から伝えられたことだった。
『私とヒルドの間では解決したことだが、お前が妙なところから耳にして迷走するといけないからな』
ヒルドとて隷属の身であったのだし、その後にどれだけ手を汚し、自分を生き残らせる為に陰惨な仕事をしていたのか知っているのだから、自分はもう気にしていないのだと、エーダリアはそう淡く微笑んでいた。
しかしそれは、あくまでも二人の問題である。
殺された第三王女を庇護する筈であったこの妖精は、ヒルドのことをどう思っているのだろう。
(…………でもそれは、知っていても、知らなくても、二人の問題だわ)
その僅かな懸念と躊躇は飲み込んだ筈なのに、ネアは目の前の妖精には全て見透かされている気がした。
「だが今は、エーダリアにも、ヒルドやアーヘムらの友人達にも会えるからな。良い時代になったものだ」
そう笑ったディートリンデの目には、微かに年長者らしい悪戯っぽい色が見える。
その目に、妙なことで悩んでいるなと笑われたような気がしたのだ。
(………きっとこの人はそれを知って、その上でヒルドさんと友達になったような気がする)
「ふふ、そんな風に仰られていることを、エーダリア様やヒルドさんが聞いたら喜びそうです。………それと、ディートリンデさんは、何か今お困りのことはないですか?」
「………まぁ、ないとは言えない状態なのたが、そなたにもわかるか」
「うちの魔物が、何かがいると話していました。お困りでしたら、お手伝いさせて下さい」
「ふむ…………」
そこで、ウィームの雪のシーは顎に手を当てて考え込んだ。
悩む余地があるのだから、大したものではないのだろうかと首を傾げたネアに、ディートリンデはとんでもない爆弾を落とすことになる。
「そなたには、あまり関わらせたくないのだ。エーダリアから、この生き物に悩まされたと聞いていたからな」
(何かしら、………もしや、咎竜とかだったり)
ぞっとしてディノの首に回した手に力を込めたネアに、魔物は微笑んで首を振ってくれた。
「大丈夫だよネア、咎竜ではないから」
「…………む。あやつではないのですね」
「そんなものがいるのに、君を近付けさせる訳がないだろう?その場合は、この妖精のことは放っておくよ」
「それもそれで駄目なやつですね。……しかし、ならばどんな生き物がいるのですか?」
「万象の王よ、少し下がってくれるか?」
「離すなら一部だけにしてくれないか。この子はそれをとても嫌うからね」
「む……………」
ばさりと羽を広げて銀色の美しい羽色を見せると、ディートリンデは固定していた足を僅かに動かした。
「実は、押さえ込んだものの、俺も動けなくなってしまってな………」
ぼこん、と地面の雪が陥没した。
羽を広げてバランスを取ったディートリンデに、ネアは目を丸くして雪を跳ね上げて動き出したものを見つめた。
(そうか、この人は雪のシーだから、雪で動きを封じてたのだわ………)
そして、雪の中から踠き出るようにして、一本の脚が突き出した。
「………………っ?!」
一瞬その形を見てしまっただけで、ネアは声にならない声を上げて、ディノの首元に顔を埋めた。
「やれやれ、ここまで大きなものをよくも落としていったものだね。ネア、暫くそうしておいで」
「凝りの一種なのだろう。実態がないから森の結界を超えてしまい、恐らく中で実体化したに違いない」
「もう一度雪の中に戻して貰おうかな。………ネア、すぐに見えなくなるから、安心していいよ」
「支障と無理がないのであれば、すぐさま撃滅して下さい!」
最悪の敵の出現に荒ぶったネアは、抱きついたまま魔物の背中をばすばすと手で叩いた。
しっかり命令して戦わせなければと奮起し、ネアは顔を上げてきっと魔物の目を覗き込んだ。
すっかり涙目になってしまっているが、きりきり働いて貰わねばならない。
しかし、突然のご褒美に、魔物はぱっと目元を染めてしまった。
「…………何それ、可愛い」
「そんなことはどうでもいいのです!あやつをこの世から撲滅して下さい!!」
「わかったよ、ご主人様!」
「…………実際に目の前で見ると、やはり凄い躾け方をしているな……」
ディートリンデが呆然としているが、もはやネアは雪のシーへの心象などどうでも良くなった。
象よりも大きい蜘蛛など、この世にあってはならないものなのだ。
どれだけ残虐だと言われようと、二度と見ない為だけにでも滅ぼして貰いたい。
「おのれ、蜘蛛め!私の視界を脅かすなど、言語道断。ディノ一人で大変なやつであれば、ウィリアムさんやアルテアさんにも応援を頼みますので、確実に滅ぼして下さい!!」
「私一人で問題ないから、他の魔物を不用意に呼ぶのはやめようか、ご主人様」
「むぐ、しかし、まだ蜘蛛めがいます!」
「ほら、もういないから怖くないよ。私一人で大丈夫だっただろう?」
そう頭を撫でられてそろりと振り返れば、ディートリンデは、既に近くにある大きな木の枝の上に避難していた。
窪地は雪が抉り取られたようになくなっているが、その代わりに先程までその下にいたであろう生き物の姿もない。
「おお、一瞬でいなくなってしまった。さすがのものだ」
そう呟いてほっとしたように微笑んでいるので、力になれたようでネアも安堵する。
雪のシーが手を翳せば、抉れた大地は瞬く間に白い雪に覆われた。
「………そしてディノ、天敵の出現に荒ぶってしまいましたが、怪我をしたり健康を損なったりはしていませんか?」
「あのくらいなら何ともないよ」
反省したご主人様に伸ばした手で三つ編みを引っ張って貰えた魔物は嬉しそうにそう言ったが、少し離れたところでディートリンデが“あの程度……”と呟いているので、そちらには少しダメージを与えてしまったようだ。
ディートリンデはすぐに木から下りてきて、また優雅に頭を下げてくれた。
このシーの微笑みは力強く、こうして頭を下げはしても決して卑屈な感じはしない。
「来てくれて助かった。礼を言う」
「いえ、あの形状の生き物を一匹でも減らせただけで、私にとっても良い一日になりました!」
「そ、そうか。であれば良かった。……それと、実はもう一匹悪夢の落し物があるようでな。手を貸して貰えるだろうか」
「く、蜘蛛ですか?!」
「そうではないだろう。どうやら翼があるもののようだからな。実は、こちらの方が交渉の余地はあるものの、階位が高い生き物でな」
「今日は、元々そのようなお仕事を申しつかっているので、幾らでも言って下さいね!」
まだ仕事が残っているようなので、ネアは魔物に地面に下ろして貰った。
こうしてディートリンデと合流したのだから、もう弾かれてしまうこともあるまい。
(お菓子のお土産は、あのちびちびした生き物達と合流してからあげよう)
目的の場所はすぐ側だそうで、ディートリンデに案内されながら森を歩きながら、ネアはディノの腕を引っ張った。
「保護されている場所にも、こうして悪いやつが入り込んでしまうんですね」
「ここは閉じている分、一度入り込まれてしまうと、追い出すのが厄介なのだろう」
「次のものも、凝りさんですか?」
「いや、この土地に拒絶されたことで祟りものになりかけてはいるが、普通の生き物だね」
そう教えてくれたディノに、ディートリンデも頷く。
「悪夢に巻き上げられ、凝りのものの派生に巻き込まれる形でこの土地の隔絶魔術に滑り込んでも死なない程度には高位だが、身を隠して様子を見ているようなので、大人しく出ていってくれればいいのだが……」
そう呟くディートリンデに、ネアは少しだけ遠い目になった。
(それって、そこそこ厄介なやつなのでは………)
ちょっと見に行こうかという規模のお客さんではなさそうなので、ネアは気を引き締めることにした。
お目当てのライオンに会えるのは、まだまだ先になりそうだ。