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夜明けの森と青い髪の妖精



夜明け前の最も暗いその時間に、ネアは真っ白な森を歩いていた。

イブメリアの頃に見たような、豊かな雪に覆われた真冬の森だ。

今はもう、春が近付き枝葉が見えるようになっている。

なのでネアは、その白さを懐かしく思いつつ、ざくざくと雪を踏んで歩く。


はあっと吐いた吐息は白く、青みがかった樹氷の前でキラキラとダイヤモンドダストになって煌めく。


雪でしんと静まり返った森は、深呼吸をしたいくらいに静謐だった。

胸の内にまで染みる静けさが冴え冴えと美しい。


(もう、あの綺麗な瞳のグレアムさんは出て来ないのだろうか?)



さっきまで、みんなで温泉に入っている楽しい夢を見ていたのだ。

余程腹に据えかねたのか、きちんと全員が浴室着を着用しており、心の安らぐ素敵な会だった。


多分ここは、夢の続きの夢。


悪夢が訪れているときには夢らしい夢を見ずにいたが、久し振りに見る心が揺れる美しい夢である。



ざくざくと森を歩いてゆくと、一際立派な大きな木があり、ネアは目を丸くしてその見事な枝ぶりを見上げる。

真っ白に雪化粧していると、それは美術品のような壮麗さであった。

古の人々がそこに人知を超えたものを見たに違いないと想像させる、何とも神秘的な大木だ。



そしてネアが見上げるその木の枝には、一人の妖精が腰掛けていた。



(なんて長い髪なのかしら)


長い長い髪を引きずり、憂鬱そうに本を読んでいる。

髪は根元から鮮やかな南洋の青で始まり、毛先にいくにつれて白が混ざる。

ミルクブルーのような柔らかな色彩が美しくて、いつまでも眺めていられそうなグラデーションにネアは陶然と見惚れた。


大浴場で出会ったグレアムといい、もう充分に美しいものを見たと思ってもまた、新しく違う形の美しいものが現れる。

この妖精の髪はそんなものの一つに加えても充分なくらいのとびきりのものだった。


(…………六枚羽。この人はシーだわ)


白を持つのだからさもあらんという感じだが、淡い銀色の羽は綺麗に六枚見えている。

しゃりっと羽を広げて座る妖精は、まるでこの木の為の特別なオーナメントのよう。



ふと、軽い足音が聞こえた。


雪の上に足跡がつくものの、誰の姿も見えない。

ネアは一瞬ホラーかと思ったが、そのような感じの嫌な気配はなかった。



「………ああ、やっと戻ったのか。待ち侘びたぞ。ここにウィームの森を閉じ込めて、美しいまま残しておいた」



本から顔を上げた妖精が、穏やかに微笑んで靴跡の途切れた場所に立つ誰かに語りかける。

その声音は優しく、慈愛に満ちていた。



「………そうだ。俺はもうここから出られないが、好きなだけ本を読んで暮らせるのだから悪くもない。ダリルが幾らでも貸してくれるからな」


優しい優しい声にふと、話しかけられているのは子供なのだろうかと思う。

その子供を宥めあやすように、妖精は穏やかに笑うのだ。


その儚げな美貌と繊細な色彩に、ネアはなぜか胸が痛くなる。

もしかしたらそれは、すぐ側に立っている筈の子供の胸の痛みなのかもしれない。



「悲しむ必要があるだろうか。俺が契約する筈だった、第三王女は去った。しかしお前がこの土地に戻って来たのだから、約定は果たされた。ウィーム王家の血を引く者がいる限り、俺はこの森を守るだろう」


返す言葉に耳を傾けるように妖精は暫く黙っていたが、淡く苦笑すると小さく首を振り、柔らかな長い髪が揺れた。



「戦に加わり守る者、手を引き己の領域を守る者。様々な正しさがそこにあるが、俺は残すべきものを守る為に閉ざす道を選んだ。願いというものは皆違って良いのだ」



さあっと風が吹き抜け、雪化粧の大きな木から表面に積もった細かい雪がさらさらと風に流れてゆく。

花吹雪のようで例えようもなく美しい。



「勿論、失われたものがあり、胸が破れたこともある。しかしそれも過去のことだ。………俺は、あの哀れな塩の魔物のようにはなるまい。もはやお前と契約を交わす程に魂が残ってもいないが、幸いにして良い契約と守護を得たようだ」


片手を上げて言葉を止める仕草をしたのは、子供が何かを詫びたのだろうか。



「やっと戻ってきた本物のウィームの主人が喪われないだけの強さなのだから、俺は上々だと思っている。湖と森のシーか、……会って話してみたいな。今度是非連れてきてくれ。………ああ、やっと満願成就の日がやってきた。この森を残しておいて良かった。ここに眠る雪と森の魔術は強く、リーエンベルクの良い守りにもなる。愛しい子、困ったらいつでも森の力を借りにおいで」



微笑んだ妖精の羽が広げられ、きらきらと光っていた。

ああこの妖精は本当に嬉しいのだとわかり、ネアまで笑顔になってしまう。



願い待つということに正当な見返りがあったのだ。

それはネアにとって、この上なく幸せなお伽話である。

こうやって、待ち堪えた者にこそ奇跡が訪れるような、贅沢で我が儘な世界がいい。



はらはらと雪が降り始める。

少しだけ場面が変わり、木の上の妖精は誰かに気さくに笑いかけていた。


「来たのか!アーヘムまで連れて来るとは嬉しい限りだ。今宵は満月なので酒も美味かろう」


先程の子供に話しかけていた慈愛に満ちた微笑みとはまた違う、心を許した友に向ける笑顔は違う表情を見せてくれる。


「この菓子は何だ?今はこういうものが流行っているのか………」


お土産が気に入ったのか、少しだけ子供っぽい喜びを見せるかと思えば、年長者らしい懸念に声を曇らせもする。

しかし、その感情の揺らぎに未熟さは見えず、幾層にも重なった時間の織りを感じさせた。

導き守ることに慣れた者らしい、どっしりとした穏やかさが滲むので、耳に心地の良い聞いていると安心出来るような優しい声だ。


「そうか、ダリルもそんなことをな。……俺もそれが最上だと思う。しかし、あの子も成長したものだ。とは言え、この先もその治世を脅かす者は現れるだろう。全てを薙ぎ払う強い風のような、恩寵になり得る守護でも得られればいいのだが。強者の手は、幾らあってもあり過ぎるということはないのだ」


遠い目には微かな後悔が宿り、妖精は小さく苦く微笑む。


「ジゼルの心が、もう少し開いていれば良かったが、竜の宝を亡くしてもなお正気でいられるだけには、あれも踏み止まったのだろう。………王とは、厄介なものだな」


六枚羽を見る限り、そういった妖精もまた王か、或いは王に近しい階位の者に違いない。

だとすれば、彼は自分の運命についてもそう思うのだろうかと考えていると、また場面が変わった。



妖精は、木の下に立っていて目を閉じて空を見上げていた。

ゆっくりと開かれた瞳は柔らかな淡い水色で、金色の虹彩模様が美しい。



「悪夢が来るのか…………大きいな。あの子は大丈夫だろうか」



そう呟く声に滲んだ口惜しさに、ネアは、この妖精はさっきの子供を側で守りたかったのだろうと切なくなる。

森の守り手とは言え、せめて顔を出して安全を確かめるくらいのことが出来ればという感情がありありと伝わってきた。

この妖精もヒルドと同じように、庇護者としての気質が強い生き物なのだ。


風が揺れて、夜明けの空に小さな白濁が生まれる。

その靄のような白さが渦巻き、中心から濃密な闇色の霧が生まれつつあった。

それはミルクに垂らした墨のようで、どこか心を不安定にする色合いの空。

そんな空を妖精は暫く見ていたが、溜息を吐くと羽を畳んで大きく手を横に振った。


その途端、森全体を覆うような薄っすらとした藍色の膜がぼうっと光る。


「遮蔽は済ませたが、さて、余計な落し物をしてゆかないといいのだが………」


厳しい目で空を睨んでいた妖精のところへ、小さな妖精や魔物達がわらわらと集まってきた。

綺麗な目を瞠って、妖精は集まってきた小さな生き物達に肩を竦めた。


「お前達、木のうろにでもいた方が怖くないだろうに。ここは揺れるぞ?」


困ったように微笑んだ妖精に、小さな生き物達は震えながら首を振っていた。

涙目でじっと見上げて交渉する様は、ボール遊びをして欲しい時の銀狐に似ている。

ややあって笑ってしまった妖精が小さく頷くと、一斉にその肩や頭の上によじ登り始めた。

妖精は羽を広げて木の枝に戻り、その羽を僅かに広げたまま、居候達を守るようにしているようだ。


すると今度は、たすたすという軽快な足音を立てて、一匹の翼を持つ獅子が現れた。

尻尾だけがネアの知っている獅子と違い、まるで狐のような形状のふさふさの尻尾である。


(ほわ…………ライオン!!)


あまりにも素晴らしい容姿に、ネアは感動に打ち震えてその姿を眺めた。

毛並みも翼も淡い金色をしていて、勇壮な鬣が風に揺れている。

そして、まるで子犬のようにキューンと哀れっぽく鳴いた。


「やれやれ、メディア、お前もか。相変わらず怖がりなのだな」


妖精が呆れたように呟き、獅子は翼を広げると枝の上に飛び上がった。


「こら、同じ枝は駄目だ。木に負担がかかるからな。これは森の核、あまり迷惑をかけてやるなよ」


妖精に寄りそおうとした獅子はそう言われ、悲しげに耳を寝かせてしまう。

しゅんとしたまま隣の枝に移ると、じっとりとした目で妖精にへばりついた小さな生き物達を見つめていた。

きっと、妖精にくっついている彼等が羨ましくて仕方ないのだろう。


こうっと風が吹き、居候達がきゃっと悲鳴を上げる。

どうやらここに来たのは、とびきり怖がりな森の住人達ばかりのようだ。

この優しい妖精に守ってもらおうとしてこの木に来たに違いない。


(でも、この妖精が一人でいるのではなくて良かった……)


こうして守るべき者や仲間がいるのなら、それが温もりになるのだろう。

森の住人達に慕われ寄り添っている姿を見て、ネアは自分の心配が無駄になったことに安堵する。

もしかして、ずっと一人でいるのではないかと心配していたのだ。


やがて、悪夢の濃密な闇が森を包み始めた。

遮蔽が生きているのか森の中にまで入り込むことはないが、月も星もない夜空のように重苦しい暗闇を連れて来る。

ぐっと暗くなった森に、獅子が前足に顔を埋めて震えていた。



「…………厄介なものを連れてきたな」



どれだけの時間が過ぎただろう。

妖精が、眉を顰めてそんなことを言った。



「…………これを滅ぼすのは、俺でも厄介だ。封じることが出来ればいいが」



そう言って、森の奥を凝視する眼差しは静かな怒りに満ちていた。

羽が大きく広げられ、ぎらりと光る。

体によじ登っていた生き物達が、怯えるように妖精にいっそうにへばりついた。

そんな守るべき者達をそっと撫でてやり、妖精はまた視線をどこか遠くに戻す。


「………こやつが、リーエンベルクに落とされるよりは幸いか」


そう微笑んだ妖精は、凄艶な美しさだった。

長い長い髪が、悪夢の影を落とした風に翻り生き物のように淡く光る。


「私は悪夢の落し物を見て来よう。お前達は、メディアの側にいなさい」


小さな生き物達を任されてしまった獅子が、驚いたように尻尾をけばけばにした。

耳を立てて必死に首を振っているが、妖精は厳しく言い含める。


「戦えばお前は強いのだ。自分より弱き者達を守るように」


獅子はキュンキュンと悲痛に鳴いていたが、妖精にじっと見つめられると頭を垂れた。

諦めたように翼をびしりと伸ばし、凛々しい顔をしてみせた。


「はは、偉いぞ、メディア。お前がいてくれて、私は頼もしい限りだ」


キュンと鳴いた獅子の頭を手を伸ばして撫でてやり、腕を橋にして居候達を獅子の背中に移す。

とことこと移動しながら、毛玉のような妖精や栗鼠のような魔物達は、心配そうに六枚羽の妖精を見上げる。

一匹のモモンガに似た妖精が自分は残ると言わんばかりに肩に留まってきりりとしていたが、苦笑した妖精に指先で摘み上げられるとそっと獅子の背中に乗せられた。

モモンガは慌てて首を振っていたが、こちらも窘められて大人しくなる。


「では行ってくる。私が不在にしている間、この木を頼んだぞ」



そう言い残して、妖精は羽を広げてふわりと飛び立った。




「……………夢、だったのかしら」


鳥の鳴く声がする。

むくりと寝台から起き上がったネアは、最後の夢に出てきた妖精の物語をもう一度振り返った。

夢らしく、起きてから思い出そうとすると端から少しずつ崩れ落ちてゆく。

最後の方が途端に思い出せなくなって、慌ててペンを手に取る。

慌てて寝台の横にあるメモに書き留めて、朝食の席でエーダリアとヒルドに聞いてみようと思ったのだ。


あの妖精の言葉にはウィームという言葉が何度も出て来たし、ヒルドではないだろうかという存在が匂わされたこともあったような。


しかし夢は夢なので、その輪郭すらもう曖昧だ。

おぼろげな記憶を踏み渡り、ネアはあまり要領の得ない自分のメモを眺めた。


(妖精さんの特徴に、ライオン、………モモンガに、お菓子好き………)


もっと、何か大切なことが出てきたような気がするのだが、どうしても思い出せなかった。


ひとつ前の、みんなで温泉に入る夢に掻き消されてしまう。

これはもう、相当グレアムの容姿が気に入ったのだろうなと、ネアは自分でも理解した。

しかし、何か意味深だったのは後半の夢の方なのだ。



首を傾げながら起き上り、ネアはいつもより少し早めに身支度を始めた。

隣で眠っていた魔物は、火織りの毛布にくるまったまままだ寝息を立てている。

大浴場で悪さをしたお仕置きで巣に戻した筈なので、いつの間に隣に来たのかは、定かではない。









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