14. さすがに私も落ち込みます(本編)
エーダリアに歌乞いの能力を観測された後、ネアは何度も人前で歌わされた。
無理強いされたのではなく、汚名返上の為に、自らの誇りの為に戦ったのである。
結果、自らの手での公開処刑に甘んじてしまった。
(むしろ、出し惜しみして秘密のヴェールに包んでおけば良かった!)
あまりの屈辱に机と一体化していると、美麗な妖精に追加攻撃を受ける。
「まさか、ネア様が歌えないとは……」
「ヒルド、歌えないではない。歌えてないんだ」
「……いいですか、ディノ、金輪際、エーダリア様に心を渡してはいけません」
「勿論、渡す予定が最初からないからね」
「お前が、例を見ないくらいの音痴なのは確かだろう。そもそも、なぜ私の評価を疑うんだ?」
「なぜでしょう。人徳でしょうか」
「ネア様、お怒りはわかりますが、地味に傷付いてしまいますので、お控え下さい」
魔物が歌乞いを慕うのは、魔物という生き物の欲求の順位に高く、歌というものが食い込んでいるからだ。
ただの音楽ではなく人間の歌を好む理由は不明だが、大多数の魔物にとっては甘美な嗜好品である。
だからからか、ネアの歌を判定する羽目になったゼノーシュは、生焼けのクッキーを食べさせられたような顔をして逃げて行ってしまった。
ネアとしては、心の傷が重症である。
「ネア、可哀想に」
「ディノ、満面の微笑みで頭を撫でないで下さい」
「じゃあ、椅子にする?」
「しません。私は今、自分の人生を振り返って、大変傷付いています」
ネアが音痴だと知った瞬間のディノは、魔物らしからぬ反応を示した。
あまりにも嬉しそうに微笑むので、ネアは死んだ魚の目とやらを、人生で初めて実践してしまったくらいだ。
もし、万が一にでも歌乞いとしての能力を発揮してもいけないのでと、窓にも結界を施し完全なる閉ざされた空間で行ったお陰で、発揮する力がなかった代わりに、恥辱の拡散をしないで済んでいる。
それだけが救いだと思えば、あまりの悲しさにネアは項垂れるばかりだ。
「失礼ですが、ディノ様は変わった歌が好きなのですか?」
「私の趣味は真っ当だと思うよ。ネアの場合、捕まえるのに必死で、歌はあんまり聞いてなかったからね。でも、ネアの歌は、……………可愛いかな」
「………ディノ、暫く椅子は禁止です」
「……………酷い」
暗に真っ当ではない歌唱力だと認めてくれた魔物に、ネアはますます落ち込んだ。
「そうだ。やはり、歌乞いなどという役目は身に余ったんです。これはもう、早急にお役目を辞して、永久にこの残酷な思い出から距離を置きたいと思います」
「ネア?!」
驚いたディノが、綺麗な顔を悲しげに曇らせる。
可哀想だとは思うが、人間は本当に不幸なときは、美しいものにも心を動かされないようだ。
「どうしてそうなるのだ。既に特等の魔物を捕まえているんだから、支障はないだろう」
「…特等ではなく、薬の魔物ですけどね」
「まだそうなってるのか…………」
加えて、ネアの弱点を発見して以来、エーダリアが妙に親身なのも、たいへん屈辱的であった。
そもそもこの魔術師は、国益の為の道具としての歌乞いが必要なのだろうに、この状況を喜んでどうするのだ。
「薬の魔物であれば、特に希少価値はない筈です。是非に私を解雇して下さい。婚約破棄もしたてですし、鉄は熱いうちに打てと言います」
「その前提からおかしいのだからな?」
「エーダリア様の、とても冷やかで人でなしでいらっしゃる対外戦略を生かせば、私を放り出しても疑問は持たれませんよね」
「もう一度言う。前提から訂正しろ」
午後もだいぶ回り、部屋の影は濃く薄暗くなりつつある。
困ったように頭を振りながら、ヒルドが魔術の火を灯してシャンデリアを輝かせた。
晩秋の陽は短い。
螺鈿細工の美しい机の上にあるのは、滅多に市場に出回らない茶葉を使った紅茶だ。都度の食事だけでなく焼き菓子も美味しく、濃密な魔術に守られた部屋はいつでも適温である。
こんな生活を心から惜しみ、ネアは、はたと気付いた。
(どうしよう、惜しむべき環境がほぼ食べ物の感想だった)
勿論それも惜しくないと言えば嘘になるが、生き恥を晒してここに残るつもりもない。
誇りの為に貧困に甘んじるつもりはないが、今のネアにはもう、部屋を借りる初期費用くらいのお金はあるのだ。
「ネア様、どうしてそこまで動揺しているんですか?」
「……………私の、人生が否定されたからです」
「しかし、あなたは歌を生活基盤としてはいないでしょう?」
机との一体化を少しだけ解いて、ネアは、綺麗な妖精の目を見返す。
「私は音楽家の娘ですし、子供の頃から音楽が好きでした。他所様に公開はせずとも、お風呂や家の居間で、家族相手には散々歌ったものです。そして自立してからは、国歌やお付き合いでの歌い場など、好まなくとも場を乱さぬよう、歌う場面もありました」
「……異世界の文化というものも、興味深いですね」
「私は、自分で自分を、音痴だと思ったことは一度もありません。……………それどころか、ずっと、ちょっと悪くない程度の自信を持っていました」
「…………耳も悪かったのだな」
「エーダリア様、お砂糖を忘れてますよ!」
「おいっ!ちょ、やめないか!何個放り込んだんだ?!液体じゃなくなっているぞ?!」
暴言には角砂糖を一掴みで応じ、ネアは続ける。
「つまり、ここで直面した真実を受け入れると、私は、私の今までの人生ごと、ひっくり返されてしまったという訳なんです」
「そんな大袈裟なものか。音痴なだけだろう?」
「きっと、音痴だと知らずに堂々と披露していた私の歌を聴いてしまった方々は、大変に困惑したでしょう。それを思うだけで、私は通り魔になりそうなくらいに心が暗闇に包まれます」
「通り魔はやめて下さいね」
慌ててヒルドが止めたが、つまり、それくらいの衝撃だったのだ。
「そんな私に、歌乞いという肩書きは呪い以外の何物でもありません。ここを出て、更に西に向かった先の学徒の都市、クーデリの幹線道路沿いにある素敵な煉瓦の家で、第二の人生を歩もうと思います」
「やけに具体的だが、さては下見してあるな……」
「こうなる前から、辞職する準備が万全なのはなぜなのですか……」
そこでふと、ネアはようやく、先程からディノが喋らなくなったことに気付いた。
視線を巡らせば、魔物は静かに座ったままでいる。
真珠色の髪に淡くシャンデリアの影と光が落ち、よく光を集める瞳には、夜明けの空の煌めきがチラチラと揺れていた。
静謐で不確かで、ひどく得体の知れない魔物めいた沈黙に、訳も分からずにはっとする。
「………ディノ、クーデリに住むのは嫌ですか?」
自分でもよくわからないまま、ネアはそう尋ねていた。
そっとこちらを向いたディノが、不思議そうに目を瞠る。
「私が、かい?」
「相談せずに転居先を決めました。お部屋も狭いと思います。……ディノは、そんな環境は嫌ですか?」
僅かばかりの沈黙が落ち、ネアは慄く。
もしかしたらこの沈黙は、何を馬鹿なことをと、魔物に手を振り払われるまでの待ち時間かも知れない。
なぜさっき、自分は、ディノの手を掴まなければと焦ってしまったのだろう。
「ネアが生きるところが、私のいる場所だよ」
「………良かったです。まったくもう、答えを焦らして不安にさせないで下さい」
「どうして、不安になったんだい?」
「ディノは、私と一緒に来るつもりがないのかと思いました」
「不思議なことを言うね。そんなわけがないのに。……さっきまでね、もし君が自分一人で逃げ出して、私を当然のように切り捨てるなら、……どうしてしまおうかと考えていたくらいなのに」
「……………物騒めいた選択肢で、自分の可能性を狭めてはいけませんよ?」
やはり、気の迷いではなかったようだ。
それどころか、とても正しい選択をしたらしい。
ネアは、失うのが歌唱力への信頼だけで済んだことを、神に感謝した。
「だから、辞職前提もやめないか。君は、託宣の巫女に選ばれた存在なんだ。どう足掻こうと、運命には逆らえない。手を尽くしても、私達が阻止するしないに関わらず、ここからは出ていけないぞ?強制力が働くからな」
物騒な単語に、また出会ってしまったようだ。
託宣とは、拘束魔術の一種なのだろうかと眉を寄せる。
「巫女様に、託宣をやり直して貰うといいのでは?」
「エインブレアは、再び眠りについた。次に目を覚ますのは、また、国の有事が訪れたときだ」
「…………、ただの睡眠ではないのですか?」
「千年も生きているからな」
どうやらあの御仁は、特殊技能を習得した人材らしい。
またしても常識を脅かされて、ネアは遠い目になる。
「………ディノ?どうしました?」
エーダリアとの会話の途中で、唐突に手を繋がれて、ネアは首を傾げた。
「なんとなくかな」
魔物の返答は珍しくはっきりとしないが、繋いだ手には少し力が篭った。
外気温からは少し低く、ひんやりとした大きな手は、寒さを感じる時にだけ、不思議にもじわりと暖かい。
「ふふ。じゃあ、こうして繋いでいましょうね」
そう微笑みかけると、魔物はようやくいつものように微笑む。
ネアはその後、ゼノーシュを仲間に引き入れたヒルドの卑劣な罠にはまり、辞職の機会を閉ざされることになる。
自分が可愛い事を理解してしまったクッキーモンスターは、泣き落としを覚えたようだ。