シーメア
初めてその人を見たのは、いつのことだっただろう。
彼はいつの間か、いつも庭にひっそり立っている人だった。
それは不思議なことだった。
しがない下流貴族の家の庭に、世にも美しい一人の男性が、時折立っているのだ。
そして彼は、シーメアにしか見えないのである。
「あなたは、私を連れてゆく死者の王なのかしら?」
ある日、思いきってそう声をかけてみると、彼は驚いたように瞬きをして、参ったなと微笑んだ。
シーメアの国にもいる近衛兵のような、けれど見たこともない美しい白い軍服を着ていて、その初めて見る白い軍服の凄艶さに子供ながらにどきどきしてしまう。
「時々、こうして姿を消していても、見付かってしまう事があるんだ。君は特別ないい目を持ってるんだな」
「…………あなたは、私を殺しにきたの?」
「うーん、随分とそう尋ねるけど、君は殺される理由に心当たりがあるのか?」
「私は生まれつき心臓が悪いの。あまり長く生きられないのよ」
「そうかな?血色もいいし、元気そうだ。長生きすると思うよ」
「…………それ、ほんとう?」
「人間のことはよくわからないけどな」
そう笑ってくれた男性は、シーメアの頭を撫でたさそうにしてから、苦笑して首を振って姿を消した。
シーメアはその日のことを両親に伝えたが、両親はシーメアが長生きすると言われたことよりも、相手が真っ白な服を着ていたということに大騒ぎして、王都の教会から魔除けの術符が取り寄せられたくらいだった。
「でも、いいひとだったの」
「シーメア、人外者にいいひとってあるのかな。みんな怖いと思うよ」
「ローレイは臆病者ね!優しい目をした、とっても綺麗な男の人だったのよ」
「………シーメアは面食いだからなぁ」
「ローレイの馬鹿!せっかく私の秘密を教えてあげたのに!!」
シーメアはただ、その美しい生き物から長生き出来るよと言われたことが、それだけのことが嬉しくて堪らなかったのだ。
大好きな家族のみんなが、シーメアは体が弱くて可哀想にと悲しんでいる。
その大好きな人達の悲しみを払えるかもしれない素敵な言葉を、あの男性がくれたのだ。
それは、どれだけの喜びだろう。
どれだけの、希望だろう。
しかし、それから一年もしない間に、シーメアの周囲はとてもきな臭くなっていた。
魔術可動域も低い一介の男爵令嬢の前に、白持ちが現れたという噂は、あっという間に多くの者の知るところになった。
それはシーメアが喜んで、そして怯えた両親が何人もの人に話してしまったからだったが、稀なる者との出会いというものは、決して良い縁ばかりを呼び込むものではなかったのだ。
次に彼と出会ったのは、真っ暗な屋敷の中でだった。
シーメアは食料庫の中で泣きながら、家人達が殺されてゆく音を聞いていた。
白持ちと縁のある子供を奪いにきた襲撃に、家族達はシーメアを隠し応戦することで守ろうとしてくれた。
しかし、さしたる武勲も持たないような家人達と、このような目的の為に鍛え上げられた賊達とでは明らかに身体能力に差があった。
一人、また一人と倒れる誰かを呼ぶ声が聞こえる。
殺されてゆく使用人達や、倒れたらしい長兄を呼ぶ声に震え上がり、シーメアは声を上げて泣いていた。
飛び出してゆく勇気はなくても、こうして泣いていれば誰かがシーメアを見付けてくれるかもしれない。
シーメアさえ連れ去られてしまえば、この襲撃は止むだろう。
まだ子供だったシーメアは、そんな風に考えていたのだ。
「もう大丈夫だ。あんまり泣くと、目が溶けるぞ」
ガチャリと扉を開けて、そんなシーメアを迎えに来てくれたのは、見知らぬ一人の騎士だった。
背が高く黒い髪に青い瞳をしていて、目尻の下がった優しい顔の男性だった。
「君のお兄さんも、何とか持ちこたえられる傷だろう。もう悪い奴らはいなくなったからな」
「………あなたは、誰?」
「おや、忘れてしまったのかな?先週からこの家で働き出したばかりなのに」
「………嘘だわ。だって見たことないもの」
「うーん、そう言われると悲しいな。ほら、みんなに元気な顔を見せてあげよう。みんな頑張って、君を守ってくれたんだ」
「お兄様!お兄様の怪我をどうにかしなきゃ!」
彼はその日は、シーメアに触れることを躊躇わなかった。
子供ながらに姿を変えているから大丈夫なのだろうと考えて、心臓が悪いせいで同じ年の子供達よりだいぶ小さなシーメアはふんすと胸を張る。
髪の毛を黒くしたぐらいで、シーメアが気付かないと思ったら大間違いだ。
「どうしてそんな目で見るんだろうな……」
「白持ちのひとは偉いんでしょう?だから、悪いのをやっつけてくれたの?」
「………どうして君にはいつも見付かるのか、俺にもわからないよ」
そう笑った男は、ウィリアムと名乗った。
それが、シーメアが彼と暮らしたほんの僅かな日々の始まりだったのだ。
前回の反省を生かして、シーメアはいつの間にか雇用されていた使用人の正体を、誰にも言わなかった。
彼は、兄達の武術指南として呼ばれた騎士であり、片目の視力がたいぶ落ちたことを理由に王都の騎士団を辞めたという経歴であった。
「ウィリアムは、ずっとここにいてくれる?」
「いや、俺にも本来の仕事があるからな。ずっとはいられないよ。今は珍しいくらいに世の中が平和なんだ」
「じゃあ、いつかいなくなっちゃうのね」
「その時には、厄介なものが来ないように掃除をしていくから、安心していい」
「ウィリアムがいなくなったら、誰が私に木苺を食べさせてくれるの?」
「はは、シーメアの問題はそこか」
「ローレイも寂しがるわ。あなたのこと大好きだもの」
「ローレイは可愛いよな。素直だし、剣の腕もいい。彼はいい騎士になるだろう」
「私は可愛くないの?!」
「はは、可愛い、可愛い」
「気持ちがこもってないわ!」
ウィリアムがシーメアの屋敷に勤めていたのは、二年ほどの間であった。
その間にシーメアを襲ったような狂信的な者達は綺麗に捕らえられて裁かれてゆき、不思議なくらいに周囲は穏やかさを取り戻した。
兄達はウィリアムのことが大好きだが、その兄達よりも彼に夢中だったのはローレイだ。
幼馴染のローレイはよくシーメアの家に遊びにきており、その目的はいつだってウィリアムに会う為だった。
「ローレイはウィリアムの話ばっかり」
「俺といるときは、シーメアの話をよくしてるけどな」
「どうせ悪口ばっかりでしょう?」
「そんなことないぞ。ローレイは、シーメアのことが妹みたいで可愛くて堪らないんだろう」
「レディを捕まえて妹だなんて、失礼にも程があるわ」
「シーメアは頑固なんだなぁ」
頭を撫でられて、シーメアは涙を堪える。
シーメアだってウィリアムが大好きなのだ。
秘密の守り手がいなくなってしまったら、これからどうやって生きていけばいいのかわからない。
ここで暮らしている間も、ふっと姿を消していたり、家人達には認識させないままに一週間くらい姿が見えないこともあった。
夜はいつもどこかへ出かけているようだ。
本業が忙しいのだろうかと考えていたが、彼はとうとうここから去ってしまうらしい。
少しだけ大人になり、シーメアはかつてウィリアムが言ったように、無邪気に長生き出来るとは思わなくなってきた。
やはり心臓が悪いのは確かであり、それは体が大きくなることで負荷を大きくしていっていた。
そしてその発作のほとんどは、ウィリアムが屋敷を空けている時に起こることが多かった。
(だから、いつもはウィリアムが守ってくれていたんだと思う)
それなのにいなくなってしまうなんて。
そう考えて涙を堪えていると、しゃがみこんだウィリアムがふわりと頭を撫でてくれた。
「体のことは心配しなくていい。ただ、無茶はしないようにな。ローレイの言うことを聞いて、週に一度の薬もきちんと飲むように」
「なんで、ローレイの言うこと?」
「それはまだ秘密かな」
その秘密が明かされたのは、ウィリアムが立ち去った二ヶ月後のことだ。
ローレイの家から使いが来て、まだ幼いものの二人の婚約が決まり、シーメアはそちらの家に行儀見習いという建前で預けられることになった。
何しろ、ローレイの家は諸々あって男爵家に落ち着いた一家ではあるが、元は伯爵位の家柄からの流れを分けた生粋の貴族である。
お金持ちでもあるので、すぐにお医者さんを呼べるのだ。
その上優しい人達ばかりなのだから、シーメアの家族も大喜びである。
「ローレイと結婚するの複雑だわ」
「そう?僕はシーメアで良かったよ」
「お馬鹿ね、ローレイ。私は体が弱くて、あんまり上等な奥さんにならないわ」
「それって重要なことかな。シーメアはいつも元気だし、僕はシーメアと一緒にいると楽しいから、やっぱりシーメアで良かったよ」
「お気楽な三男坊ねぇ!」
ローレイの言葉は少し、ウィリアムに似ていた。
まるで弟のように纏わりついていたので、似てしまったのだろうか。
でも、確かに今まで出会ってきた人達の中では、シーメアもローレイが一番仲良しなのだ。
(だったら、これでいいような気もする!)
そんな事を考えて笑い合ったその日から、数年が流れた。
シーメアの国の国境域では、何度か戦争が起きた。
最初の戦争で二番目の兄が命を落とし、その翌年にはローレイの兄が一人命を落とした。
そして三年後に、シーメアの家族はみんな流行病で死んでしまった。
胸が潰れそうなくらいに泣いても、もうウィリアムが助けに来てくれるとは思わないくらい、シーメアも大人になった。
彼は多分、とても高位の魔物か精霊なのだろう。
そんな彼が二年も側にいてくれただけで、シーメアは奇跡だと思っている。
ローレイとは婚約したまま月日が流れ、彼の両親や本人も含め、家族を亡くしたシーメアの第二の家族のようになっていた。
だからこそ、彼らは言ってくれるのだ。
結婚の問題については、好きなようにしても良いのだと。
充分に結婚適齢期となったシーメアが誰を選んだとしても、家族として仲良くしてゆこうと。
それはきっと、一人になったシーメアがそれでも決して自由を失わないようにと、心からの愛情を与えてくれているからこその言葉だろう。
(でも、私には特別な才能もないし、こんな体で他のどこに行けるというの?)
そう思って苦笑しながら窓の外を見る。
冬になると体調を崩すことが多くなった。
そして子供の頃のように窓から庭を見下ろしていて、また彼を見付けたのだ。
「ウィリアム!」
窓を開けて声を上げたシーメアに、ウィリアムは驚いたように振り返った。
「…………ウィリアム?」
振り返ったその顔を見て、シーメアは驚いてしまう。
彼は出会った頃の朗らかな微笑みではなく、酷く疲れたような顔をしていて、その瞳はぞっとするぐらいに陰っていた。
「…………困ったな。その年齢になっても、まだ俺が見えてしまうんだな」
そう笑ったウィリアムは、可哀想なくらいに疲れた美しい男性だった。
擬態している筈なのに、なぜか彼は明らかに人間には見えない。
「会いに来てくれたの?ローレイは仕事でお屋敷にいないのよ。………ウィリアム、酷い顔色よ」
「………ああ。北の方の戦線を見て来た。あの辺りは酷い有様だな」
「ウィリアム。…………上がって、少しでいいから座って休まないと!」
「…………シーメア」
慌てて立ち上がってバルコニーに通じる硝子戸を開けると、ウィリアムが困ったように名前を呼ぶ。
窘められたのがわかったが、シーメアは構わず扉を開けてその手摺から身を乗り出す。
「どうせあなたは周りには見えないんだから、心配なんてしなくていいの。ほら、倒れそうじゃない、どれくらい寝てないの?」
「………うーん、三ヶ月くらいかな」
「ちょっと!」
必死に手を伸ばしていると、やがて諦めたのかウィリアムは一つ溜め息を吐いて、ひらりとこちらに上がってきた。
「あまりにも酷い戦線だったんだ。……何でかな、シーメアとローレイの顔が見たくなった」
そう呟かれてしまった途端、シーメアは泣きそうになってしまう。
こんな疲れてボロボロになっても、この生き物は美しく気高い。
そんな特別な生き物が、こんな何にもない人間を頼って来たのだ。
「とりあえず、眠って。私はずっとここにいるから」
「シーメアも具合が悪かったから、この部屋にいたんじゃないのか?」
「私はいつものよ。暴れなければ大丈夫だから、私のためにも少しだけ休んで頂戴」
「はは。シーメアは逞しくなったなぁ」
「レディに何てことを言うの、そんな風に弱ってなかったら怒るところだわ」
シーメアは最初寝台を貸そうとしたのだが、さすがにそれはと頑なに断ったウィリアムは、長椅子に横になるとあっという間に眠ってしまった。
それは、何とも言えない光景だった。
他の人には見えないくせに擬態までしているようだが、とてつもなく高位に違いない美しい生き物が、シーメアの部屋で眠っている。
「………ウィリアム」
その名前を呼んだとき、胸が震えた。
よくわからないけれど、ウィリアムがここに来てくれたことが、今こうして目の前で眠ってくれていることが、ただひたすら嬉しかった。
そうしてウィリアムが起きた後、二人はたくさん話をした。
ウィリアムのこと、シーメアのこと。
あの日、ウィリアムがシーメアの屋敷を出て行ってからの日々を埋めるように、たくさんお喋りをした。
少し笑ったり、泣いたりしつつ、シーメアは久し振りに心から安心してたくさんのことを話した。
今、目の前にいるのは、なんと、幼い頃のシーメアが指摘した通りの死者の王。
終焉を司る魔物なのだそうだ。
だから彼は、擬態をしていないとシーメア達には触らない。
そのままの姿で触れると、死にはしないが終焉との絆を結んでしまい、結局死に近くなるのでとても危ないのだとか。
つまりこんなとんでもない生き物なので、シーメアのちっぽけな悩みや愚痴、甘えや疑問をぶつけても、彼はびくともしない。
そして彼は、シーメアを小さい頃から知っているのだ。
これ程に安心できるお喋り相手が他にいるだろうか。
「すごいな。正体を隠さずに人間とこんな風に話したのは初めてだ」
「その本が気に入ったの?私のお気に入りなのよ」
「俺も好きだな。ハーミットの詩集か………」
「ウィリアム、私のおすすめは次の章なの。めくっていい?」
「うわ、順に読んでるんだからやめてくれ!」
シーメアと死者の王はまず、友達になった。
幾つかの想定外の事件があり、その秘密にローレイも加わり、よく三人で飽きずにお喋りをしていた。
シーメアが体調を崩せば、ウィリアムがどこからか魔物の薬を取り寄せてくれる。
頭を撫でる優しい手と、穏やかな微笑みに潜む諦観の美しさに、シーメアは燃えるような恋をした。
それは、生まれて初めて知る胸が震える愛というものだった。
「ごめんなさい、ローレイ。私との婚約を破棄して頂戴」
「言われるかなと思ってた。ウィリアムなら、僕も諦めがつくな。頑張っておいで、シーメア。もし上手くいっても、僕だけ仲間はずれにしないでおくれよ」
舞踏会の夜、とうとうそう切り出したシーメアに、ローレイは微笑んで頷いてくれた。
大好きな幼馴染のその言葉が嬉しくて、シーメアは早くも涙目になってしまう。
(勝算はあるの!)
勝算はあるのだ。
三日前の満月の日、月明かりの下で今夜の舞踏会のダンスを練習していたシーメアに、その練習相手をしてくれていたウィリアムは口付けしたのだ。
だから、
だからきっと。
「ウィリアム、私をあなたの恋人にして」
そう告白したシーメアに、ウィリアムは目を瞠って動きを止める。
舞踏会には参加しない彼に、どうしても一曲踊って欲しいとこの庭園で待ち合わせしていた。
シーメアは青いドレスを着ていて、ウィリアムは真っ白な盛装姿であった。
「…………ローレイは、」
「ローレイのことは大好きよ。世界で一番の大好き。でも、あなたとは違うの。ウィリアム、私はあなたを愛しているの」
「シーメア…………」
その目が躊躇いに揺れるのを見ていた。
でもシーメアは、あの口付けの夜に、彼はその迷いを捨てたのだと思っていた。
ウィリアムを、信じていたのだ。
伸ばされた手が、一度だけ強くシーメアを抱き締め、
そして離れる。
「………ウィリアム?」
「すまない、シーメア。……俺では駄目だ。ごめん、………君の手を取ることは出来ない」
「ウィリアム!私は、あなたが死者の王でもへっちゃらよ!!だって、」
「………シーメア、俺が君を選ぶことはない。だから君も、二度とこんな風に俺を望んでは駄目だ。人間なのだから、終焉なんて望んではいけない」
「…………ウィリアム、何を言ってるの?ウィリアム!!」
足がもつれて、無様に転んだ。
伸ばした手は空っぽなままで、立ち去ってゆくウィリアムは振り返らない。
いつもなら、シーメアが躓いただけで駆け寄ってきたくせに、その姿はあっという間に夜闇に消えてしまった。
(きっと、動揺してしまっただけ。すぐに後悔して、ごめんって謝って戻ってきてくれる)
そんなことを考えながら、ハーミットの詩集を握りしめたまま窓の外を見ている。
ローレイが心配そうに何度も部屋に来るが、この詩集はまだウィリアムが読みかけのままなのだ。
そこに挟まれた栞だけが命綱のようで、寝るときも枕元に置いておかなければ眠れなかった。
春が来た。
夏が来て、秋になり、また冬になる。
それは、幼い頃から大事にしまっておいた、たった一つの宝物を失くしたような、失意と諦観の日々だった。
ローレイは何も言わなかった。
婚約破棄のことは、シーメアが独り立ち出来るぐらいに元気になったらみんなに言おうねと頑固に言い張り、根気強く扱い難いシーメアの面倒を見続けてくれた。
本当は知っているのだ。
ローレイはまだ、ウィリアムと会っているらしい。
時々会ってお酒を飲み、この国の話や他の国の話、戦争の話をして仲良くしているらしい。
ローレイにとってはウィリアムは良き兄で、親友で、頼りになる師のようなものなのだ。
そしてシーメアが初恋に敗れてから一年半後、ローレイはシーメアに求婚した。
「シーメア、僕と結婚してくれるかい?まだまだ待てるけど、君もそろそろドレスが着たいだろう?」
「………私が元気になったら、婚約破棄のことをみんなに言うんじゃなかったの?」
「でもシーメア、まだあの山には登れないよね?」
「だいたい、どうして私の独り立ちの基準が、あの山に登れることなの?!そこそこに険しい裏山なのよ?!」
「あはは、だってほら、一番近い山だったからさ」
視線を落として膝の上で組み合わせた自分の手を見つめる。
痩せた手だ。
淑女らしい繊細な皮膚ではなく、少しばかり骨ばった病と闘う手。
「………ローレイ、私は丈夫な奥さんになれないわ」
「君にはずっと傍にいてほしいだけで、健康な奥さんになることが一番重要な訳じゃないからね」
「………それに、……違うの。あなたと、ウィリアムは……」
「いいよ」
微笑んでそう言って、ローレイはいつもの気弱そうな目で笑いかけてくれる。
「いいよ、ウィリアムを愛したままで。僕だって、死者の王には敵わないし、ウィリアムのことは大好きだからね。それに、ウィリアムのように愛してはいなくても、君が大好きなのは僕だって知ってるから」
「ローレイ………」
確かにその通りだった。
シーメアが人生において、ローレイ程大好きだと思った人はいない。
でも多分、惨めで無鉄砲な愛というものと、穏やかで優しい大好きとでは色合いが違うもので。
「ずっと一緒にいたんだ。これからもずっと一緒にいようよ」
「馬鹿なんだから、ローレイ」
その年の夏の終わりに、シーメアはローレイと結婚した。
長過ぎた婚約期間にやきもきしていたローレイの家族は大喜びで、ローレイの母親は、シーメアと別れたら許さないとローレイを脅していたのだと教えてくれる。
ローレイの父親も、もはや娘のように慈しんでいたシーメアを失うことなど考えたくもなかったそうで、その夜は誰よりも泣いていた。
「………ウィリアムがお祝いに来てくれたのね」
「律儀だよね。見て、すごい薔薇だよ」
式の後にローレイが少し姿を消していたので探していると、腕から溢れそうなくらいの薔薇を抱えて立っていた。
「部屋に飾ったら怒るかい?」
「………何で私に訊くの?普通逆じゃない?」
「だって、彼から何か貰ったの初めてだからさ」
「ローレイ、もじもじしないの、気持ち悪いから」
ローレイと結婚してからの半年は驚く程体調が良かった。
子供が出来たことがわかり思いがけない贈り物に喜んでいると、遠方に駐在している義兄からのお祝いのカードに混じって、見知らぬカードが混ざっていた。
“君達が幸せでいてくれると嬉しい”
(…………ああ、)
そのカードを読んで、それがウィリアムからのものだとわかった。
そして彼が、とうとう自分達と決別しようとしていることも。
(行ってしまうんだわ)
不思議と、家族を一人旅立たせるような、穏やかな悲しみに身を浸していた。
胸は苦しくならず、あの時の絶望は影も形もなかった。
そうなって初めて、シーメアは自分がローレイをきちんと愛せていることに気付いて、何だかびっくりしてしまう。
「ふふ、……なーんだ、上手くいったじゃない」
そうか、自分の一番はいつの間にかローレイになっていて、ウィリアムに向けたあの激しい愛は、若かりし頃の思い出に変わったのだ。
そう考えると安堵して、そしてもの凄く嬉しかった。
(だって、と言うことは今の私は、この世で一番大好きな人とその家族と、ここで幸せに暮らしているということなのだもの!)
踊り出したいような気持ちでウィリアムのカードを丁寧に引き出しにしまうと、西の砦の視察団に同行しているローレイに魔術通信の予約をかける。
(来年には、この子がもう産まれているんだわ)
膨らんできたお腹をさすって、引き出しの中のウィリアムのカードを思った。
いつかこの子供とお喋り出来るようになったら、お母様は死者の王に恋をしたことがあって、お父様は友達だったのよと自慢してやろう。
きっと、もの凄くびっくりするだろう。
(…………未来)
そこには、きらきらと輝く美しい未来があった。
とても大切な、家族がいた。
「ローレイ、お仕事してる?」
夕刻に繋がった魔術通信で、シーメアはご機嫌だった。
「してるよ。馬に乗り過ぎて、腰がおかしいけどね。お隣の国を警戒しているからって、転移ぐらい許して欲しいよ」
困ったような優しい声が愛おしくて、シーメアは微笑んで頷いた。
「そう言えば、ウィリアムに会ったんだ」
「ウィリアムに?」
「あまり国境域に近付かないようにって言うんだよ。彼もいつまでも過保護だよね。仕事なんだからって言ったら、じゃあ仕方ないってさ」
「そう、………なの」
ぽつりと、不安の雫が落ちる。
(…………ウィリアムはどうして、今更、私たちにさよならを伝えたのかしら?)
かなり長く一緒にいたこともあるから、シーメアはウィリアムが恐れていることをよく知っているのだ。
彼がいつも恐れていたのは、自分がシーメア達と関わることで、近くにある戦場で率いる死者達を呼び寄せてしまうことだった。
(でも、半年前に停戦条約が結ばれて……)
今はこの国の周りはどこも、戦争などしていない。
(…………西の砦に近付かない方がいいのはどうして?)
考えかけて恐ろしくなって、シーメアはその思考をぱたりと閉じた。
とは言えウィリアムなのだ。
あれだけローレイを可愛がっていたのだし、さすがに駄目だと思えば手を貸してくれるに違いない。
けれど、明日にでも疎開先を考えておくのもいいだろう。
ローレイに相談して。
最後にウィリアムに会ったのは、隣国がこの国への侵攻を開始した三日後のことだった。
真っ黒なドレスを纏ったシーメアが庭に佇んでいると、いつかの夜を彷彿とさせる酷い顔をしたウィリアムが現れる。
「良かった、ここにいてくれたか。シーメア、とりあえずこの国から出すから支度をしてくれ!」
そこに立っているのは、シーメアが最初に見た、純白の美貌の魔物だった。
人間達が死者の王と呼び、魔物達すら恐れる高位の魔物の一人。
「…………ウィリアム、私は行かないわ」
静かな声でそう答えると、ウィリアムは小さく呻いて頭を抱えてしまう。
こんな美しい魔物らしくない、やけに人間的な仕草だった。
「シーメア、聞き分けてくれ。今回の戦争は殲滅戦になる。このままここに君を置いてゆけば、君は生き残れないだろう。俺は、………それは耐えられない。お願いだから、一緒に来てくれ」
はらりと庭の木から葉が落ちる。
子供の手のような形をしているので、子供の頃よくローレイと集めて遊んだものだ。
「どうして、あの人にはそう言わなかったの?」
「シーメア?」
不思議そうに名前を呼んだウィリアムに、シーメアは胸が潰れそうになった。
必死に鼓動を昂らせないように自制して、最後の宝物が入ったお腹を撫でる。
「どうして、…………あの人にもそんな風に逃げろって、死んでしまうと言わなかったの?!」
そこでようやくシーメアの言いたいことがわかったのか、ウィリアムは白金の瞳を辛そうに歪めた。
「シーメア落ち着いてくれ。ローレイにもきちんと逃げろとは言った。でも彼は……」
「あなたがそう言えば、あなたが今のように取り乱して、心から生きろと言えば、あの人も馬鹿じゃないのよ?彼は踏みとどまったわ!決して、西の砦になんて行かなかった」
「…………シーメア」
その時、真っ直ぐな強い視線に射抜かれたように呆然とこちらを見返す、愚かな魔物を見ていた。
「あなたにとって、ローレイはそこまでのものではなかったんだわ。あれだけ友達だと、弟のようだと言いながら、あなたにとっての彼は、あっさりと手を離せる相手だったのよ」
その言葉が彼の心を切り裂くのを見て、その絶望が穏やかな瞳を凍てつかせるのを見ていた。
(だってさっき、わかってしまったのだ)
自分を逃がそうとしたウィリアムの必死さに、その真摯さに、これはローレイに忠告をした彼とはまるで違うとわかってしまったのだ。
けれどもその特別さを知ることは、今はシーメアの心を切り裂くばかりだった。
なぜならば、今のシーメアにとっての最愛は、ウィリアムではないのだ。
「あなたは所詮魔物なのね。やはり、私達のように誰かを愛したりなんて出来ないのだわ」
「…………シーメア」
名前を呼ばれた時、それが彼からの救いを求める声だとわかっていた。
彼が自分に許しを求めており、自分が彼の手を借りて生き残ることでしか、彼を許してやることは出来ないのだと。
(ずっと昔、子供の頃からあなたを愛していたわ)
だけどその思いは壊れて、ローレイがシーメアの心の全てとなった。
それなのに、この男はその世界すら殺してしまったのだ。
じゃあ仕方ないのだと、そんな残酷な言葉で締め括ってしまったのだ。
穏やかに微笑んで、大事だと口ずさみながら、その手帳に記した仕事の一頁として。
ただの、あの薄っぺらい頁の一つとして。
(愛していたからこそ、私は絶対にあなたを許さないわ)
噛み締めた歯の強さに、ぎりりっと血の味がする。
今この目の前に立っているのは、救えた筈の大切な夫を見殺しにした魔物。
「あなたの手など取るものですか!私はこの屋敷に残ります。ここにはまだ、私の家族がいるのよ。あなたは、私にそれすら捨てろと言うのね。夫を失ったばかりの私に、家族すら捨てて一人ぼっちになれと!」
「シーメア、多くは連れていけないんだ。それに、君を一人にするつもりはない。だから、」
「ねぇ、ウィリアム。今の私には、あなたが居ても何の意味はないのよ?」
涙が溢れた。
大好きだったのだ。
大好きで、大好きで、その背中や目線を追いかけてばかりいた小さな頃。
シーメアはもうずっと、ウィリアムのことばかり追いかけて生きていた。
それがどんな生き物なのかわかっていたくせに、自分に触れてから突き放した彼を、それでもまだ愛していたシーメアを、ローレイは大事に大事にして温めてくれた。
毎日お喋りをし、抱き締め合って優しい世界を作り、このまま幸せな家族になる予定だったのだ。
その、やっと息を吹き返したばかりのシーメアの小さな世界を、この魔物は薄っぺらな微笑み一つで滅茶滅茶にしてしまったのだ。
「もう帰って。そして、二度と私の目の前に現れないで。私はあなたを憎む程に単純でもないけれど、………でも決して許さないわ」
頼りなげに立っている魔物は、まるでどうしたらいいのかわからないようだった。
ただこちらを見返すことしか出来ず、そしてシーメアの心の動きなど決してわかりはしない。
「あなたのことは、今でも大切な友達だと思っているわ。私達人間はね、厄介なものになってしまったからと重荷になる愛情を捨てはしないの。だからあなたは、かつて私が愛したひとだし、あなたは今でも私の大切な友達。それはローレイにとってもそうだったのでしょう。………だからこそ、私は絶対にあなたを許さない」
「シーメア、俺は…………」
ああ、これが最後だと思ったから涙が溢れた。
これが最後の声、彼を許してやる最後の機会。
だからこそ、シーメアは決して微笑んだりしなかった。
痛む胸を押さえて、凛と背を伸ばしたまま、その魔物を否定する。
「行かないわ。あなたとだけは、決して行かない。あなたには理解出来ないでしょうけれど、私は今だってここに居て幸せなのよ」
「…………そうか。じゃあ、仕方ない」
それはとても暗い声だった。
乾いて疲れた、悲しげな声だ。
でもその一言は、シーメアにあの日のことを思い出せてしまう。
『仕事なんだからって言ったら、じゃあ仕方ないってさ』
同じ言葉でローレイは見捨てられた。
あの翌朝、西の砦は落ちた。
砦にいたこの国の男達は全て処刑され、破り捨てられた停戦条約の写しの条文と共に砦の前の石垣に亡骸を晒されたのだ。
「………その言葉を覚えておきなさい。それがあなたよ、それが死者の王。………だから人間は、あなたを愛したとしても、あなたを好きだと言う者は決して現れないわ。だってあなたは、いつだって私達の願いを殺してしまうのだもの」
きっと、それはシーメアがウィリアムに向けた最後の甘えだったのだろう。
憎むことが出来たのは、彼が最後までシーメアを傷付けない魔物だったからだ。
庭に立ち竦む魔物を置き去りにして、大切な家族の元に帰る。
ローレイが死んだとしても、まだシーメアの幸福の全てが失われた訳ではない。
夫の訃報に一緒に泣いた義母や義父の為にも、この先にだって幸せを増やせる可能性のあるここで、無理などするものか。
ローレイの分も、この子のことを守ると誓ったのだ。
でもそれは、夫を見殺しにした魔物の手を借りてではない。
ここにいる大切な人達と一緒に、家族と一緒に残された幸せを守ろうと思う。
「シーメア、良く頑張ったわ!元気な赤ちゃんよ!!」
義母の声が遠く聞こえる。
戦火を逃れる中で随分と無理をしたせいで、出産は命懸けになってしまった。
本来ならこんな風に立ち会う筈もなかったことだけど、今のシーメア達が避難している屋敷は狭い。
だから人生最後の瞬間に、みんなが側にいてくれることとなった。
(お義母様、お義父様………)
産まれたばかりの我が子を抱かせてくれたみんなが泣いている。
産婆を務めてくれたのは、女中頭だったシンマだ。
シーメアがこの家に来た頃は、家が恋しくて泣いていた小さな子供にホットミルクを作ってくれた優しい女性だ。
その隣で泣いているのは、義兄の妻達。
彼女達は夫を失っても実家に戻ることもなく、ここでシーメアや他の家族達を支えてくれた実の姉のような女性達だ。
シーメアの子供の世話は任せてくれと、頼もしい約束をしてくれた大好きな家族。
義父が足を悪くしていたことと、息子達が全員戦死してしまったことが重なり、この一家は早々に亡命を決意し、随分と時間はかかったが今はこうして隣国に逃げ延びている。
義父を除けば女ばかりの家族だが、シーメアが産んだ赤ちゃんは何とも元気そうな男の子だった。
産まれた瞬間から義父は大はしゃぎで、その喜ぶ声が聞こえてきたシーメアは幸せいっぱいだった。
愛する者達を喜ばせることほど、幸せなことはないのだ。
(幸せだわ。………そう、色々あったけれど、こんな風に大事にされて、私はとても幸せ者だったのだわ)
シーメアの家族は彼女を愛してくれた。
それは血のつながった家族も、そしてこのローレイが与えてくれたもう一つの家族も。
様々な愛情の形があるけれど、こんなに深く愛されるということがどれだけの幸福なのか、シーメアは一度だって忘れたことはなかった。
そう。
どんなに声を上げて泣いているときだって、シーメアは自分が不幸だとは思わなかったのだ。
「いい子で………ね、…………ローレイ」
そう名付けると決めていたのだ。
この家族と一緒に、またあの優しいローレイになって、父親のような素敵な男性になりますようにと。
最後に手を持ち上げて我が子を抱き締めたかったが、もうその力は残っていなかった。
眦から溢れた涙が、小さなローレイの方に流れてゆく。
(ごめんなさい、小さなローレイ。向こう側は男ばかりで苦労しているでしょうから、お母様は先に向うに行って、お父様の面倒を見ているわね)
そう考えて、微笑んだ。
あの日、引き出しに仕舞ったウィリアムからのカードは、そのまま屋敷に残して来た。
ローレイが隠し持っていた結婚式の日に貰った薔薇の押し花も、ウィリアムが好きだと言っていたハーミットの詩集も。
ウィリアムはとても大切な友達だった。
けれども、あなたと会わずにいれば良かったと思わずにはいられない。
誰かを憎むということは、とても疲れるのだ。
その鋭さばかりが唯一つの、シーメアの人生における澱みである。