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108. ちょっと距離を置こうと思います(本編)


星空の下で、終焉の魔物に組み敷かれている。

喉元を抑え込んだ片手と、指輪のある方の手の手首を抑えた手。

的確に押さえた相手が起き上がり難い位置に跨り、完全に抵抗は封じられている。


ネアは敢えて、なぜ怒っているのかわかるだろうかという質問に、わかり易い言葉では答えなかった。

ああいう画策を彼が何と表現するかによって、その思考の証跡が読めるかなと考えたのだ。

真上にいる魔物の白金の瞳が、思った以上に綺麗でずっと見ていられたこともある。


「ネア、俺を試したな?」


ややあって、ウィリアムは静かな声でそう問いかけた。

そうか、この場合ウィリアムが怒るのは、試されたことなのだとネアは得心する。

過去を穿り返されたことでも、傷付けられたことでもなく、彼は高位の魔物として、また一人の男性として、懐に入れてもいない人間に試されたのが不愉快だったのだろう。


「はい。試しました。わかっていた上で私の稚拙な企みに乗り、甘えさせてくれるかどうか。それがわかれば、ウィリアムさんはもうこちらのものだと思いまして」

「俺が怒るとは考えなかったのか?」

「なんとなくですが、ウィリアムさんはディノが荒れるのを嫌がるような気がしたので、もし願うような反応をしてくれなくても、表面上は穏やかに断ってくれるだけで済むと思いました」


ここでは少しだけ大人らしい対応をしておく。

勿論ウィリアムはわかっているだろうが、とは言えあけすけに怒らせてみようと思ったというのもスマートではない。

お互いにわかってはいても、表面上取り繕うという労力も必要ではあるのだ。


「そう楽観していることに気付いて、俺があえて危害を加えるとも思わなかったのか?」

「ちらりとは思いましたが、ウィリアムさんはそんなことはしませんよ」

「この状態でも、そう断言するのはどうしてなんだろうな………」


確かにこの状況はどうなのだろう。

体に確かな重みを感じるし、投げ出された手には砂の大地を感じる。

けれどもネアは微笑んで、その酷薄な白金の瞳の横に指で触れた。

微かに揺れる葡萄酒色の光彩に、白金の瞳が表情を変える。


「憧れが見えるからです。私がこの世界に来て学んだことは、あなた方がどれだけ想像し難い精神を持つ違う生き物だとしても、同じ部分もあるのだということでしょう。憧れや願いは、まさにそこなのではないでしょうか」

「…………憧れ?」

「あなたの憧れは多分、……自分と関わることで死なない人間なのだと思います。だからウィリアムさんは、私を傷付けられないのではないかと思ったのです。それは私が気に入っているのではなくとも、関わっても死なないというその事実だけで充分なのでしょう」



きっと、死なないで欲しかった人間はどこかに別に居たのだ。

その誰かに向けた悲痛な願いが残っているからこそ、この終焉の魔物はネアに甘くなる。


(例えそれが、自ら離した手ではあっても)


「あなたの願い方は鋭く割れてぎざぎざした、かなり困ったやつです。私は昔、同じような叶わない願いを持った人間の目を毎日見ていましたから、ああ、この人は同じ目をするのだなと感慨深く思っていました」

「………その人間は、俺に似ていたのか?」

「いいえ、ちっとも。ただ、願い事が似ているだけで。でもそういう目をした者は、しょうもないことだとわかってはいても、己の願い事を蔑ろには出来ないのです」

「…………ネアは、こんな風にされてもまだ、俺を怖がらないんだな」

「ふふ。わざと私を殺そうとしている魔物さんに私を連れ去らせてみたり、雪食い鳥の巣に放り込んだ人もいましたしね。それに、困ったことに私はウィリアムさんが大好きですし」

「…………っ、」


そこで何故か、ウィリアムは小さく呻いて片手で目元を覆ってしまった。

以前のヒルドもそうだが、こういう場合、上に乗った相手はなかなか下りてはくれないのだなと、ネアは変なことで知見を増やしてしまう。


(そこまで重くないから短時間ならいいのだけど、うちの魔物が見たら荒ぶりそう………)


ウィリアムは髪の毛からの盗撮を知っているし、先程もそれを封じるような動作があった。

ディノ自身もウィリアムからの妨害が入ると予測はしていたので、秘密会議の際に一定時間のシャットダウンを許容するように言い含めてある。

目隠しをされた途端乱入されてしまっては、進むべき話も進まないからだ。

しかし先程の目隠しから少し時間が経っているので、そろそろ突入があってもおかしくはない。


(そしてなぜか、上の方は意外な程ダメージを受けていらっしゃるけど、大丈夫なのかしら)


「……………ウィリアムさん?」

「…………………すまない。…………人間に好きだと言われたのは、初めてなんだ」

「まさかそんな!ウィリアムさんのことなら、大好きな人達はいっぱいいたでしょうに。それとも、お外ではものすごい悪さをしているのですか?」


そう首を傾げたネアに、ようやく手を下したウィリアムは、どこか自嘲めいた歪んだ笑い方をした。

さっきから首が自由になっているので、ネアは事態の山場が去ったことを知る。


(しかし、あの一言でくしゃりとなってしまうなんて、………魔物さんはやはり純情なのでは……)


狩り甲斐はないが、大好きだと伝えてあげるだけでいいのなら、本当のことであるし幾らでも連発出来そうではないか。

とは言え、先程までの行為は一昔前のディノのパフォーマンスに近いものがあるので、本気で排除しようと思っている相手に対して、あんな一言で陥落した訳ではあるまい。

是非にそうであって欲しい。


「………最後にはいつも、人間は皆、俺を罵って死んでいった。友人のままではあるが、決して許さないと言った者もいる。責めずに頷いた者も、俺がいなければと願ってはいたし、守護を与えた者の死に際の声は聞こえるものだからな」

「まぁ、それはなんて寂しくて悲しいことでしょう………」


この魔物は多分、ある程度しっかりと相手を愛する魔物だ。

それがわかるからこそ、ネアはその言葉に滲んだ自嘲が不憫になる。

見知らぬ誰がどう思うとしてもさしたる不都合は感じないが、愛する者に疎まれることほど心を削ることはない。


「…………いや。当然のことだろう。死者の王だからな」

「そのお相手の方々は、生きたいと望む方だったのでしょうね。でもきっと、ウィリアムさんが惹かれてしまうのは、生きることへの欲求がキラキラしているような、そういう魅力的な方なのかもしれないです」

「ネアは、気にならないと?」

「ふふ、あまり褒められた嗜好ではありませんが、死はとても素敵な非常出口のようなものですからね。以前の私ならば、是非に仲良くして欲しいくらいだったでしょう。今は逃げたら叱られそうですが、嗜好というものはあまり簡単に変わりませんから」

「今でも、死に焦がれることはあるのか?」


それは少しニュアンスが変わるので、ネアは小さく微笑んで首を振った。


「私にとっての死は、いつだって目的ではなく手段なのです。幸せで安らかにある為に必要なら憧れますし、他の手段で欲求が叶うなら倫理上そちらを優先します。ただ、怖いものではないですね」

「…………そうか、ネアは終焉の子供だったな」

「そう言われてしまうと、ウィリアムさんが私のお父さんみたいですね」


小さな笑い声には、今迄通りの温度があった。

暗くなく穏やかで、頬を撫でるように甘く優しい。


「それは困るな。…………きっと、今迄以上に」

「…………手がかかりそうだと認識されました」

「いや、そういう意味じゃない………が、ネアはそうか、割と不得手な分野だったな」

「……………む?」


そう微笑んだのは、今までに見たことのない目をした、ウィリアムだった。

上からどいてくれるどころか、意図的に少し圧を強められた気がすると、ネアは眉を顰める。

緩和したようで緩和出来ていないのなら、これは身の危険というやつなのだろうか。

伸ばされた手に頬を包まれて、覗き込む美貌の魔物は逆光になっても尚光るような白金の瞳で笑う。

指輪のある方の手首を掴んだ手は放してくれたが、両手を頬に添えられるとやはり身動きは出来ない。


(ウィリアムさん………?)


体を屈め、まるで甘やかな抱擁のように体を寄せられる。

吐息が触れそうな程の距離感にぎくりとしたネアに小さく唇をカーブさせ、そして、


「……………おっと、」


小さく呟いて体を起こしたウィリアムは、自分とネアの間に差し込まれた真っ白なステッキの持ち主を仰ぎ見る。


「おまえがその気になるのは珍しいが、悪いが余所でやってくれ」

「………そうか、アルテアには相互間守護がありましたね」

「そういうことだ。謹慎中のシルハーンでなくとも、俺はこいつを捕捉して悪夢を渡れる」

「やれやれ、俺の悪夢に勝手に入られても困りますね」

「…………お前、これが本当に自分の悪夢のままだと思っているのか?」

「…………あれ、これは」


いつの間にかすぐ側に立っていたのは、アルテアだった。

ネアが驚かないのは、現在リーエンベルクの住人に無償奉仕中であることを覚えていたからだ。

つまり、少しまずいかなと思ったので相互間守護から救難要請を出したのである。


(び、びっくりした!齧られてしまうかと!!)


ヒルドもそうだが、お仕置きであれ、齧るという行為にはもう少し慎重になって欲しい。

こちらの世界の人外者達に、あまりその種の攻撃はお勧めしない旨を共有したいところだ。


「おい、さっさと上からどけ」

「残念、もう少しこのままでいたかったですけどね。………ネア、悪かったな。立てるか?」

「…………むぐ、背中がふかふかの砂漠から、がっつり固い石に変わりました」

「悪夢が切り替わったらしい。趣味の悪そうな悪夢だし、アルテアかな。…………ネア?」


体をどかしてくれたウィリアムに手を引っ張ってもらい立ち上がったネアは、呆然と周囲の光景を見回した。

いつの間にか夜の砂漠は消え失せ、辺りを取り囲んでいるのは灰色の石造りの背の高い塔。

硝子とコンクリートで固められた、無機質な塔の群れだ。


四角く切り取られた夜空はべったりと黒く、星はあまり見えない。

ちかちかと瞬くネオンに、遠いクラクションの音と乾いた風の匂い。

はたはたとカーテンが揺れる薄暗い窓辺に、真っ白な薔薇のブーケが飾られた病室が見える。


体を強張らせたネアは手を引いてくれたウィリアムを一瞥し、ぺっと手を離すとアルテアの方を見てまた少し眉を寄せる。


「………今のそいつから離れたのはいい選択だ。ほら、こっちに来い」

「…………よく考えたら、どっちもどっちだという気がしてなりません」

「ったく。何で余分な警戒心だけは持ち合わせてるんだ」

「悪さをしたばかりの魔物さんではないですか。……………むぅ」


迷っている内にアルテアに持ち上げられてしまい、ネアは渋面になった。

この悪夢の中で一人でいるのは嫌なのだが、とは言えアルテアと悪夢という組み合わせにも不安がある。

対するアルテアは、大人しく手を引いたウィリアムを意外そうに見ていた。


「思ったより素直に手を引いたな」

「幸い俺は空気が読めるので、追い詰めて悪化させたくはないですからね」

「だそうだ。今の内に、こいつに決別宣言でも突き付けておけよ」

「誤解があるようですが、私はウィリアムさんのことは好きですよ?」

「威勢よく手を振り払ったばかりだろうが」

「個人的な好き嫌いと、最善の安全策という意味では別なのです。危ない真似をした魔物を謹慎させている最中に怪我をしたらご主人様の立つ瀬がないので、ここは慎重にいこうと思っています」

「よし、じゃあ危険な目には絶対に遭わせないから、こっちに来るか?ネア」

「……………ううむ」

「おい、お前は何で悩んだ」

「…………人柄を考慮しました。ウィリアムさんには下敷きにされたばかりですが、それで首を絞められるのと、悪夢の中や雪食い鳥の巣に放り込まれるのと、どちらがマシなのでしょう?」

「……………よくもまぁそこまで冷静でいられるな。それと、お前は少し離れてろ」


ネアを抱え直してウィリアムを邪険に遠ざけたアルテアに、灰色の街には不似合いな純白の軍服姿の魔物は淡く苦笑する。


「やれやれ、過保護なアルテアはまるで父親ですね」

「………わざとか」

「俺は親代わりになるつもりはないので、今はアルテアに任せますよ」

「おい、こいつはお前にとってどんな立ち位置だ?」

「む?大好きな親戚のお兄さんでしょうか」

「らしいぞ?」

「…………どこかで挽回しないとな。アルテアが邪魔さえしなければ、いい雰囲気だったんですが」

「どこがだよ。俺に来た救難要請だと、本人は齧られるのかと思ってたらしいぞ?」

「………………ネアそれは、…………ネア?」


そこでようやく不毛な言い争いをしていた魔物の片方が、ネアの顔色があまり良くないことに気付いてくれた。

心配そうに見つめられて不安度が増したので、ネアは渋々、アルテアにしっかり掴まることにする。


「この悪夢の中ではぐれたら、割と精神崩壊しますので、止むを得ません。離れないようにして下さい」

「…………お前の悪夢か!」

「因みに、先程からわりかし泣きそうです………」

「馬鹿、そういうことはさっさと言え!」

「アルテアさんの少し変な服装を見て、何とか心を和ませていたところです」

「……………お前な」


本日のアルテアの服装はかなり華美なものだ。

黒の刺繍も鮮やかなオリーブグリーンの三つ揃いに、葡萄色のドレスシャツにペーズリーのクラヴァット。

着る者を選ぶ華やかさと煩さだが、なぜだかアルテアは似合ってしまうようだ。

とは言え、元の容貌が華やかなので、やはりシンプル寄りの方がその美貌が引き立つのは間違いない。


ネアは、そんなアルテアの肩口に半分顔を埋めたまま、悪夢を踏み変えるその足元を見ていた。

あの病室の翻ったカーテンの向こう側には、誰がいるのだろうか。

小さな弟か、花を持ってきたジークかとも思ったが、そんな悪夢ならそこまで怖くないのだ。

であれば、或いは…………自分だろうか。


(ああ、一番嫌な悪夢だ。…………もしこれが夢だったら、果たして私は生きてゆけるのだろうか)


例えばもし、この優しい世界が、あの古い家のベッドや病院かどこかのベッドで見る夢であったならば。

目を覚ますとそこは、あの閉ざされた無機質な願い事の叶わない世界のまま。


心のどこかで、悪夢を見るならこんな形になるような気がしていた。

そんな苦痛に遭遇することもなく済み、前回の繊細で穏やかな悪夢で打ち止めかと安堵しかけたところだったのに。

そう考えてしまって具合が悪くなりかけたところに、耳元に穏やかな囁きが落とされた。


「大丈夫だ。取り残されたとしても、これだけしがみつかれてたら、俺も道連れだろ」

「…………無事に帰宅して下さい。ここは大嫌いです」

「ああ。もう抜けるから安心していい」


そう頬を撫でた手に甘えるように、目にしたくない悪夢を遮る為に肩口に顔を埋めた。

背中に回された腕に力が入り、こめかみのあたりに口付けが落とされる。

若干余計なことをされているのだが、ネアにはそれを咎める余裕もない。


悪夢を渡る気圧の差に、耳が痛むようなキンと張りつめた違和感が通り過ぎてゆき、

ふわり、と花の香りに包まれる。


「ほら、着いたぞ」


馨しい薔薇の香りに涙に濡れた睫をぱしぱしすれば、薄暗い部屋の中にはびっくりしたようにこちらを見返している美しい魔物がいる。

薔薇の祝祭で貰った薔薇たちに囲まれて、真珠色の長い髪の魔物は一枚の絵のようだ。


「………………ネア!」


覗き見が出来なかったのである程度気を揉んでいたのだろう。

慌てて立ち上がって傍に来てくれた魔物と、心配そうな静かな声に、きつく張りつめていた胸の底の恐怖が解けて緩んでゆくのがわかった。

怖々と周囲を見回せば、そこは見慣れたリーエンベルクのネアの部屋だ。

相変わらずの悪夢の暗さだが、何となくもう夕刻に近いような気がする。


(やっぱり、悪夢の中は時間軸が変なんだ……)


ディノと目が合えば、躊躇いながらも手を伸ばしそっと頭を撫でてくれた。

そんなことで容易く心が駄目になりそうになるので、ネアは何とか表情を整える。


「何があったんだい?」

「…………万事落ち着いたところで、最後の最後に悪夢めに足を引っかけて転びました。謹慎はまだ残っているので椅子には出来ませんが、三つ編みは貸して欲しいです」

「無理をしないように言った筈だよ。怖い思いをしたのなら、どうして私を呼ばないんだい?」

「一人なら二秒で呼びましたが、そもそもディノは謹慎中ですし、ウィリアムさんもいましたし、呼ぶ前に乗り物になっていたアルテアさんが嫌なところから出してくれました」

「でも、怖かったのだろう?ただそれだけで、謹慎なんてやめて呼んでもいいんだよ」

「じゃあ、今呼びます。ディノ!三つ編みを貸して下さい」

「いいよ。ほら、幾らでも引っ張っておいで」

「…………そして、ウィリアムさんが見当たりません。…………まさか、置いて来てしまったのでは」

「あいつなら、念の為に悪夢を閉じ直してる。あの悪夢が嫌なんだろう?引き摺られたりしないようにな」

「感謝しかありません!」

「おい、お前を持ち帰ったのは俺だぞ」

「命の恩人になられてしまった以上仕方ないので、椅子になることを許可します」

「おい…………」


ぶつぶつ言いながらもアルテアは椅子になってくれたので、ネアが落ち着いて我に返った頃には、アルテアの膝の上に座ったまま、隣に座ったディノの三つ編みを握りしめているという大変いかがわしい光景になっていた。

隣同士に座らざるを得なかった魔物達も仏頂面なので、正気に戻れば全員が喜ばしくない図式になっている。


「…………む。なぜか三つ編みが手の中に!」

「ネアが貸して欲しいって言ったんだよ」

「解せぬ………」

「よし、満足したならそれをさっさと離せ。何で俺が、シルハーンと肩を並べて座ってなきゃいけないんだ」

「アルテアさんは、なぜ勝手に椅子になっているのでしょう。新しい趣味に開眼…」

「してない。おまえをあやす為に膝を貸したんだ」

「解せぬ」


不可解な現状に困惑していると、戸口に薄闇の中で光るような白い軍服姿のウィリアムが姿を見せた。

飾緒だけでなく、あまり身に着けているのを見かけない頸飾までが白いので、不穏な生き物に見えてしまう装いである。

ウィリアムとは一連のやり取りを終えたばかりなので、ネアは微かな緊張感を持って見上げたものの、目が合ったウィリアムは柔らかく微笑んでくれた。


「ネア、落ち着いたなら帰ろうか?」

「……………ウィリアムさん」

「シルハーンも謹慎中だから、あまり刺激しないようにしないとな」

「………言われてみればその通りでした。記憶が曖昧ですが少し反省しています」

「まだ怖いようなら、俺が手を繋ごうか?」

「やぶさかではありません」


朗らかに先住者達を無視してゆく方針のウィリアムに、膝から下りようとしたネアの腰にがっしりと腕を回したアルテアがうんざりとした顔になる。


「ウィリアムさん、悪い奴に拘束されました……」

「お前な。あっちの軍服も、ついさっきお前の首に悪さをしたんじゃないのか?」

「結果として、首は無事だった展開ですね」

「だが、あいつに不手際があったからこそ、お前は見たくもない悪夢を見たんだろうが」

「悪夢に放り込んだひとにそう言われてしまうのが癪ですが、その通りかもしれません。………しかし、そうなると私は誰といればいいのでしょう?」

「ネア、私はもう充分反省したから、この部屋に帰っておいで」

「………………む」

「それと、ウィリアムが悪さをしたようだね。叱ってあげるから、話してごらん」


酷薄な水紺の瞳を細めてそう問うた魔物に、ネアは少しだけ考えて首を傾げた。


「面倒を押し付けた挙句、試すようなことをした結果、怒られました」


聞き出そうとした魔物も、傍観者の魔物も、その返答に眉を顰める。

返答の内容としては、まず間違いなくネアが悪いばかりだ。

言葉にして整理してみたネアもそう思うので、ウィリアム当人は尚更だろう。


「……………ディノは謹慎中ですし、大人しく部屋に戻ります」


いつもの魔物が隣にいる安心感は格別であったので少し気乗りしなくなっていたが、よいしょと立ち上がれば、今度はアルテアも邪魔をしなかった。

それどころか、こいつは何をしたんだろうという訝しげな目で見られてしまっている。

もそもそとその膝を乗り越えてウィリアムの方に戻ろうとしたネアは、不意に視界がぐるりと回転した。


「ふぁっ?!」


びっくりして舌を噛みそうになりながら視野を確保すれば、前方を横断中だったご主人様を横抱きにして膝の上に乗せてしまった悪い魔物と目が合う。


「…………ディノ?」


身を切る程に鮮やかなその色彩に戸惑い、艶麗に微笑んだその口元から目が引き剥がせなくなる。

魔物がただの魔物らしく、抜き身の刃のような鋭さで微笑みを深めて、ネアの頬をするりと撫でた。


「ここまでだよ、ご主人様。これ以上はもう駄目だ。戻っておいで」


微笑んではいるもののどこか頑なな口調に、ネアは微かに目を瞠る。

魔物がこんな風になってしまうことは少ないが、さすがにこれはもう諦めるしかなさそうだ。


「………困りましたね。私の大事な魔物は、随分な心配性です」

「ネア、……」

「と言うことなので、ウィリアムさん。私は事なかれ主義ですから無駄に無理はしないので、謹慎を解こうと思います」


さっぱりとした物言いで謹慎を解除したネアに、その場の魔物全員が目を瞠った。

しかし、ウィリアムはディノの空気感を察したのかすぐに頷いてくれる。


「………そうだな、ネアは怖い思いをしたばかりだし、シルハーンの側にいたいだろう」

「いや、だったらもう全部終わりでいいだろ。俺の呪いも解けよ」

「残念ですが、アルテアさんの呪いは私の力では期間短縮出来ないやつなのです」

「………ダリルか」

「はい。ダリルさんがいないとどうにもなりません」

「…………また今夜も激辛スープ味の水を飲むのか」

「ま、アルテアは自業自得ですね」

「お前は何でお咎めなしなんだろうな………」

「人徳みたいですよ」


どこか達観したように微笑んでから、こちらに視線を戻したウィリアムの目が優しくなる。

どうやら自分事にしてしまおう作戦は成功したようだと、ネアはほっとした。

これはポーズだけではなく、お爺ちゃんが孫を見る系の本格的に優しい目である。


「ネア、今回は少し短縮されてしまったから、オアシスでのテント遊びはまた今度な」

「忘れていました!今度お休みを取るので連れて行って下さい」

「ああ。俺もどこかでまとまった休みを取ろう」



そう笑って手を振ると、ウィリアムは部屋を出て行った。

これからエーダリア達と少し話をして、問題がないようであればウィームを発つらしい。

何だか寂しいような気がして、ネアはほにゃりと眉を下げる。


「さて、何があったのか教えてくれるね」

「何であいつはご機嫌なんだ。あいつが、自発的に休みを捻り出したことがかつてあったか?」


なぜかアルテアも残っているが、とりあえず悪夢はもう懲り懲りなので、ネアは二人いた方が安心かもしれないと考え方を変えてみる。


「この前ディノに言ったように、粛々と育児をお任せしていたのですが、やはり最初から気付いていたようでして」

「………それで、怒らせたのかい?」

「ウィリアムさんも、以前にディノがよくやった、怖がらせてみる系統の技を繰り出しました。でもそれは怖くなかったんです」

「…………馬乗りになられて首を絞められてもかよ」

「そう言えば、馬乗りになった方は、溜飲を下げてもなぜ乗りっぱなしなのでしょう?世の中の流行りはそんな感じなのですか?」

「………ネア、他の誰かにもやられたことがあるのかい?」

「ヒルドさんもそうでした。今回のウィリアムさんも、和解してからもそんな感じで、………謎に噛み付かれそうになったので、アルテアさんを呼んでみる羽目に」

「あのな、俺はお前に呼ばれてわざわざ助けに行ってやったんだぞ?」

「致し方ありません。無償労働中の悪いやつですからね。それに、私とて齧られるのは嫌ですから。そろそろ皆さんに周知して欲しいのですが、人間は怖がらせる為に気安く齧ってはいけないのです」


ネアがそう言えば、なぜかアルテアは頭を抱えた。


「お前にその手の情緒がないのはわかっていたが………」


しかし、ディノは小さく首を傾げ、質問を一つ重ねる。


「どうしてウィリアムに齧られると思ったんだい?」

「よく分かりませんが、本能的に?………ウィリアムさんは元々、端正な森狼さんのような雰囲気の方ですが、あの時は何というか食べられてしまいそうな感じがしたのです」


するりと指の背で頬を撫でられ、ネアは目を細める。


「そんな風にされて、色めいた懸念はなかったのかい?」

「む。…………ウィリアムさんは、あんまりそういう悪さを好む方ではありませんよ?いつでも優しいお兄さんという感じですから!」

「…………そうか、あいつは不憫なんだな」

「これまでの心象が影響したみたいだね」

「…………ディノ?もしかして私は、その手のことをされそうになったのですか?」

「いや、それはなさそうだ。多分君を怖がらせる為に齧ろうとしたのだろう。ああ見えてウィリアムは人間をつまみ食いするんだ。色々な魔物がいるからね、きちんと注意しているように」

「なんと!それは知りませんでした………。そうですね、私も齧られたら大惨事になるので、それはちょっと遠慮させていただこうと思います。あんな風に近付かれたら逃げますね!」

「……………憐れな奴だな」



ぽつりと呟いたアルテアが何やら遠い目をしていたが、とにかく場を引っ掻き回す魔物なので、ネアは気にしないことにした。

状況的にはそんな絵になり兼ねないとは言え、ネアは、今迄の関係性からウィリアムが自分にその種の興味を向けるとは思っていない。

そうなると、あの場面は二択になる。


即ち、齧ろうとしたのか、頭突きをしようとしたのかのどちらかだ。


(頭突きにしては近かったから、まず齧ろうとしたのだろう!)


さすが、よくわからないものまで食べてしまう不思議生物の魔物である。

うっかり少し食べられてしまったら困るので、用心しなければなるまい。

あの時ネアは、ほこりの食欲を思い正直結構焦っていた。

白夜の魔物とやらも人間を食べると聞いたし、雪食い鳥も然り。

こちらの世界の人外者にとって、人間は割とポピュラーな食料なのかもしれない。



「アルテアさんは、人間を食べたりするのですか?」

「………何でその質問になったのかは明白だが、食べたこともなければ、食べようと思ったこともない」

「そう考えると、本来はウィリアムさんよりはアルテアさんの方が安全なのでしょうか?」

「そうだな。だから、どうせ呼ぶなら俺にしておけ」

「…………やっぱり、ディノがいるので大丈夫です」

「おい………」

「ネアは、ウィリアムをどうするつもりなんだい?」


ディノが尋ねたのは、今後のウィリアムとの付き合い方についてであった。

案外この問題をずっと考えていたのかもしれず、眼差しが厳しい。


「ちょっと距離を置こうと思います!」

「…………ん?先程の様子を見るに、庇護を安定させたんじゃないのかい?」

「今回の事を経て、ウィリアムさんは傷深いが故の優しい人なのだなと感じました。あの内に秘めた感じの憂鬱さや孤独さにぐっとこないでもありませんが、しかし私は人様の心の傷をどうこう出来る能力はないのです。いつもの朗らかなウィリアムさんだけでいいので、頼れるところだけ美味しくいただくべく、ちょっと距離を置きますね!」

「…………それをくれぐれも本人に言うなよ?」

「アルテアさんならまだしも、ウィリアムさんにこんな言い方はしません!狩るだけ狩ったので、後はさり気なく距離を置きますよ?」

「よりにもよって、最低の選択肢を選んだな」


そこでネアは、目を瞠って黙り込んでしまったディノが心配になった。

あまりにも人間が合理的過ぎて怖くなってしまったのだろうか。


「ディノ………?」

「君は、………あまり感傷的な言動は好まないのかい?」

「あら、さては不安になりましたね?ディノとウィリアムさんは全く違いますので、同じ反応はしませんよ」

「………そうなのか、良かった」

「ふふ、しょんぼりですね。ディノは特別枠なので安心して下さい。いっぱしの男性の心の傷とやらは面ど………素人には手に負えませんが、可愛い大型犬が時々面倒臭くなっても、決して匙を投げてぽいしたりはしないでしょう?そんな感じです!」

「お前は、その説明の仕方をどうにかしろ!」

「派手派手スーツさんに因縁をつけられました。その呪いがだんだん気に入ってきたようです」

「…………やめろ」


よく考えたら、魔物は勝手に椅子になっているようだ。

それが気になったが、今のネアの説明で困惑はしているものの、自分が警戒せねばならない問題ではないと理解したのか、少しほっとしたような顔になる。

その安堵に緩んだ眼差しを見て、このままでもいいかと思い直した。


「謹慎は終わりだね。今夜からはやっと安心して眠れるよ」

「………よく考えたら、昨晩も隣にいたような」

「おや、そうだったかい?」

「あの怪我の度合いもわざとだったようですし、別のお仕置きを考えてもいいかもしれません」

「………体当たりにするかい?」

「………それはご褒美に変換されてしまうやつですよね?」

「ご主人様………」

「悦ばせてしまうだけなので、却下します」

「では、爪先を踏むかい?それとも、飛び込んでみる?」

「なぜそちらばかり提案するのだ!」


その後ネアは無償労働中のアルテアを通訳に立てることを思いつき、魔物がどうしてこんなにもお仕置きの内容を履き違えてしまうかのヒアリングをして貰った。


判明したことによると、最近はめっきりご褒美が減っていると感じているらしく、魔物はお仕置きにも変換出来そうな打撃系のご褒美をリサイクルしようとしているのだそうだ。

それでいけると思った理由がもうわからないので、わかり合うことは不可能そうである。



「…………正直、この通訳が今までの労働で一番しんどいからな」


ぱたりと長椅子に倒れてしまったアルテアは、どれ程消耗したのかそこで眠ってしまった。


「私の部屋で寝るのはやめていただきたい………」

「外に捨ててこようか?」

「………しかし、今日は恰好よく助けに来てくれました。止むを得ませんので、長椅子ぐらい貸して差し上げましょう。幸い、寝室とは内鍵で区切れますからね」

「浮気…………」


魔物が萎れたので、その夜は髪の毛を乾かす作業をやってやった。

髪の毛を拭いてやっていると自然に唇が微笑みを象ってしまうのだから、ネアには、やっぱりこの魔物が一番であるらしい。



結局、ディノの謹慎は半分程で終了となってしまった。





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