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107. 危機管理的には問題ありません(本編)



その日、悪夢は最後の山場だということで、リーエンベルクの朝食の席は、少しだけ明るい空気に包まれていた。

本日のメニューは遮蔽明けを見越したものになっており、新鮮なミルクやバターなども並んでいる。

これらの食品は備蓄を続けるにしてもそろそろ使い時なので、状態保存の魔術庫から出してもらい、無事にネアのお腹に収まった。


オレンジと洋梨のタルトも綺麗に平らげ、ネアはハジカミを使った鯖のマリネを名残惜しく眺める。

とても気に入ったのだが、この魚料理は災厄ご飯として作られた保存食であり、また暫くはお別れだ。

不足しがちな栄養分を補う為にお茶請けとして出される果物の砂糖漬け達も、次の災厄まではまた瓶詰、或いは樽詰めにされてさようならとなる。


(と言うか、素敵に整ったご飯ばかりで、栄養分の不足など感じられなかったような……)


風習として残っている食べ物でもあるので、昔はこのようなもので遮蔽期間中の栄養分を補ったのかもしれない。

葡萄酒の代わりに、栄養分の高いお米などを使ったとろりとした白いお酒を飲む風習もあるそうだが、これは未知のお酒が及ぼす影響を考慮して、ネアは控えさせていただいた。

とても美味しいそうなので、悪夢が明けてからお休みの日にでも飲んでみようと思う。


「四日目か………。これで明けてくれれば、ハイダットにしては短い隔離で済んだものだな」

「郊外では、悪夢が晴れ始めているところもあるそうですが、念の為に完全に明けるまでは緊急時以外の外出規制をかけたままにしてあります」

「ああ。毎回のことだが、この時期にもあえて外出して命を落とすものがいるからな……」


エーダリアの顔色が冴えないのは、嵐の日に海辺に行ってしまう若者枠が出現し始めるのがこの時期だからなのだそうだ。

因みに、嵐の中畑を見に行ってしまう老人枠が出現するのは災厄に入ったばかりの頃である。

また、災厄の間中を通して盛り上がってしまう一定数の魔術師もおり、そちらは自己責任としてウィーム領は一切関知しない。

この一定層には残念ながら精霊なども含まれることがあり、前回の悪夢の際には裸で踊っていた精霊の男性が系譜の王によって捕縛されている。

その騒ぎに対応したグラストは、たいへん申し訳ないと王自ら頭を下げられたそうで、語り継がれる伝説的事件の一つになっていた。


「尾長鳥の系譜だな」


その概要を聞いただけでウィリアムはそう断定する。


「尾長鳥の精霊さんは、踊るものなのですか?」

「気持ちが盛り上がると踊る種族性があるんだ。主に求愛で踊るが、暗がりを好む精霊だから悪夢が嬉しかったんだろう」

「………男性と言う名称が出ましたので、人型の精霊さんなのですよね?」

「人型に腰羽根、鳥の尾がある。尾は長く羽が艶やかな方が美しいとされていて、尾長鳥の精霊は皆洒落者としても有名だからな」

「……………そして、暗がりで踊るのですね」


あまり出会いたくないという結論に達し、ネアは脳内の会ってはいけない生き物リストにその名前を書き込んでおくことにした。

直接の害はなさそうだが、確実に不審者の行いである。


「そして、現リーエンベルク一の洒落者さんは、どこへ行ったのでしょう?」


最近、あれだけ朝が弱かったアルテアが律義に朝食の席に顔を出している。

味覚問題がとても辛いのか、或いは窓の外が暗いので起きやすいのかどちらかだろう。

しかし本日は姿が見えないようだ。


「アルテア様なら、東棟の屋根の隙間に入ったコグリスの回収に行っておりますよ」

「…………コグリスの回収」

「悪夢を避けて入り込んでしまったようです。しかし、あまりに無理に入り込まれてしまうと、雨どいの魔術を損傷しかねませんからね。中庭にある保存庫の一つを解放しましたので、そちらに移動させていただくよう、お願いしました」


ヒルドは随分とさらりと言っているが、これはつまり、アルテアがあの猫耳のもふもふ妖精達をたくさん持って移動するという、とてつもない光景が繰り広げられていることになる。

外に出られるのであれば是非に見てみたかったが、不憫なコグリスたちが安全な物置に避難出来るということだけでも良しとしよう。


「……………悪夢の展開もそろそろ打ち止めだな」


コグリスのことをつらつらと考えていたネアは、そう短く呟いたウィリアムに視線を向けた。

お隣のディノは、昨晩の侵入騒ぎで叱られたからか大人しく食事をしているようだ。

しかし、三つ編みはさり気なくネアの膝の上に置かれている。


「悪夢が明けたら、一度どこか外に出たりします?」

「そうだな。旧ガゼットの延長線上にある国の一つを、少し見ておいた方が良さそうだ」

「どんなお国なのでしょうか?」

「水白の砂漠と、林檎の花のオアシスがある国だ。美しい国だが、生まれるものに禍子が多い土地でもある。あまりにも突出した力を持つ子供が悪用されると、国が荒れやすい」

「そういう傾向にあるということは、過去にも戦乱のようなものがあったのでしょうか?」

「いや、………あの国自体は荒れないんだ。決して失われず、運命に翻弄されやすい子供が産まれる土地という呪いを受けた国だからな。夜は砂漠の窪みにテントを張って泊まるんだが、星が綺麗だぞ」

「夜の砂漠!!楽しみです!!」


朝食を終えて部屋に戻りながら、ウィリアムが教えてくれた。


その国にはかつて、林檎の魔物と白百合の魔物が住んでいた。

豊かな森に育まれた小さな国には、二人の魔物の愛情に祝福された幸せな子供達ばかりが生まれたとされている。

けれどもある日、林檎の魔物を精霊の王子が殺してしまった。

精霊の王子は、誘惑を資質とする美しい林檎の魔物に懸想し、連れ去って殺してしまったのである。

それを知った白百合の魔物の怒りは凄まじく、森の精霊を殺し豊かな森を滅ぼすと、辺り一帯を砂漠に変えてしまった。

それ以降、その土地には呪われた子供が産まれるようになってしまったが、林檎の魔物が殺された場所には今も林檎の木々が生い茂るオアシスがあるのだそうだ。

花が満開になる夜には、時折白百合の魔物の姿が見られることがあるという。


「ちらりと林檎の魔物さんの話を聞いたことがあるのですが、今の林檎の魔物さんではもう駄目なのでしょうか?」

「まったくの別人だからな。以前の林檎は、穏やかで美しい女性だった。今の林檎の魔物は赤い髪の青年なんだ」

「………別人というよりも、もっと厄介な壁が立ちはだかってしまいますね」


人間であるネアからすれば、穏やかな美女が司る誘惑というのはかなり破壊力が高そうだと思ってしまう。

何となく脳内でその美しい女性を想像してしまえば、伴侶だったという白百合の魔物の心中は如何程だったろう。

イメージが浮かんでしまえば、そこに付随する苦痛もよりリアルに想像出来てしまう。


美しい美しい砂漠のオアシスで、白百合の魔物は一体何を思うのだろう。



「白百合は、珍しく伴侶を失っても狂乱しなかった魔物でもある。彼は、………我慢強い男だからね」

「ではきっと、愛するものが失われた先で生きてゆくということはとても恐ろしいでしょうね。その方に、新しく大切なものが出来ればいいと、思わずにはいられません」

「………ああ、苦痛を堪えて呑み込んでしまいそうだからな」

「ただ生きて、自分の意識があるというだけでも、心を食い荒らしてくる喪失は随分な苦痛だと思います」

「…………そうか。そうなのかもしれない」


静かに頷いた横顔を見て、ネアはウィリアムの履歴に思いを馳せた。


(ロクサーヌさんの求婚の途中で眠ってしまったり)


人間が好きで人間にも友人がたくさんいたと言いながら、滅ぼさねばならなくなるので、その友情はいつも絶ち切れてしまうのだと酷薄な目で語ることもある。

風竜の王子を庇護し風竜を絶滅から守ってみたり、一介の騎士として生活してみたり、人間の少女に恋をしたこともあると聞いている。


美しいくせに凡庸にも見え、堅実で聡明で、穏やかだが残酷な死者の王。



「………ん?どうした?」


見ていることに気付かれてしまって、ウィリアムは穏やかに笑って振り返る。

ネアはふと、こんな風に穏やかに笑っているだけでは、何かを覗いただなんて言えないような気がした。

どんなに怖くなくても、どんなに優しくても、これは多分、ウィリアムの外側なのだ。

つまりこれは、そう取り繕われた彼の計算の上の表情なのだ。


「ウィリアムさんも、そんな風に誰かを亡くしたことがあるのですか?」

「…………いや、彼女は最後に俺を選ばなかった。幼馴染と結婚して、彼を愛していたよ」

「前に話してくれた方ですね?……その方は、ウィリアムさんの気持ちをご存知だったのでしょうか」

「ああ。告白こそ出来なかったが、知っていただろう。だから、あの日の彼女が俺の手を取らなかったのは辛かったが、彼には敵わなかったよ。………二人とも、戦乱の国で死んでしまったが」


そう笑う。

笑うけれど彼は、いつもよりどこか投げやりな微笑みを纏う。

以前にも思ったことだが、この問題はきっと彼の中に残る深い傷の一つ。

残るのは既に愛情や後悔ではなかったとしても、まだ時折痛むような、そんな傷跡なのだと思った。


(それは、二人が亡くなってしまったのが戦乱だったから?それとも、思いが叶わなかったから?)


「戦乱で亡くなられてしまったのなら、ウィリアムさんにとってはあまりにも近しいですね」

「俺が何を司る者なのか伝えたのに、二人とも最後まで頑固だったからな」


多分、いつものネアであればここで足を止める。

他の誰かであればともかく、ウィリアムに対してはここで手を引いただろう。

踏み込めば無粋だと彼は気付く人であるし、そこに踏み込むことを許す程にネアが近しい存在でないことも、ネアがそんな自分の立ち位置を理解していることもわかっているからだ。


「…………後悔しているのは、わざと手を取らなかったからですか?」


こちらを見返したウィリアムの瞳は静かだった。

一瞬それが静謐な湖面のように凪いで、ふっと揺らいでからいつもの微笑みに取って変わる。


「そうだな、もしかしたらという可能性があったからこそ、俺はあの日のことを何度も思い返すのかもしれない」


ごうっと強い風に窓が揺れ、悪夢の向こう側に正常な空の隙間が見えたような気がした。


「そこに欲しいものがあると知っていて、けれども手を引っ込めてしまった場合、なぜでしょうね。………その日のことは、決して忘れられないんです」

「ネアも、わざと手を伸ばさなかった?」

「ええ。でも私の場合はまだ幼く、そして愚かだったので、なぜそれを欲しいと思ってしまうのかその時はわかりませんでした。そんな私でさえ、あの日のあの瞬間のことは克明に思い出せてしまう」

「その懊悩に、決着はついたのか?」

「ええ。他にもっと欲しいものが出来ましたから。でも、私はその日のことを決して忘れないでしょう。忘れないということを選んだことを、後悔はしません」

「……………そうか」


ウィリアムの声はいつも通りだ。

そのいつも通りすぎる声に、ネアは小さな諦めを噛み殺す。



(…………さすがに揺らがないか、)



取り繕った優しさが剥がれたら、もう少し生の言葉で話せるかと思ったが、ウィリアムは踏み込んだネアの愚かさに目を瞑るらしい。

心が動くような過去に紐付く会話であれば、或いはと思ったのだが。

そう、冒険をしてみた分だけ密かにがっかりしていれば、ウィリアムから声をかけられた。


「この先に少し悪夢の澱み深いところがある。覗いてみるが、一緒に来るか?」

「……………行ってみたいです」

「こうやって悪夢の深層を覗けるのは、今日が最後だろうからな」


(…………と思ったらそうでもないらしい?)


こんな時でも、ネアは不思議と怖くなかった。

ウィリアムは苦笑してネアの頭をするりと撫でると、はぐれないようにと手を繋いでくれる。

伸ばされた手に、さぁこの手を取る勇気があるだろうかと問いかけられた気がした。

ウィリアムの指先が梳くようにして揺れた青灰色の髪を視界の端に捉えて、ネアは小さく微笑む。

決して向こう見ずではないが、それを覗きたいと思うのも人間の性なのだろうか。

仕方のないものだ。


「私は機会を無駄にしない派です!連れて行って下さい」

「ああ。手を離さないようにな」


足元に揺らぐのは漆黒の靄のようなもの。

悪夢の表層に流れるその靄を蹴散らして、真っ白な軍靴がかつりと音を立てる。

黒い靄にたなびいた白いコートに目を奪われて初めて、いつの間にかウィリアムの服装が見たこともない軍装になっていることに気付いた。

儀礼用にも見える装飾的な軍服だがあまりにも白いので、人ならざる者らしい拒絶感がひしひしと伝わってくる。

帽子で翳った表情の中でも、白金の瞳はぼうっと明るく獣のようだ。

そんな瞳を細めて、ウィリアムは如才なく先程の会話を続ける。


「ネアは、その男の手を取らなかったことを後悔はしないのか?」

「彼が私の家族を殺さなければ私達の線は重なりませんでしたし、私が彼を殺そうとしなければ、あの人は私を目に止めることもなかったと思います」

「………それでもという言葉の先を考えたこともないのか?人間はそういうときは揺れないのかな」

「私は思いません。私は何度選択を迫られても彼を殺すでしょうし、彼だってよく知りもしない邪魔な家族を殺すでしょう」


結末が変えられないとわかっていたから、ネアは決して後悔しなかった。

病室に残された薔薇を見て胸が潰れそうになっても、あの墓地には決して行かなかった。


人並みの愛情や幸福を手にすることが出来ないという怖さのフィルターをかけて、あの夜に彼ともう少し言葉を重ねればどうなったのだろうと思いはしても、その理由は失われた愛に向くことはなく、自分勝手な人間の感傷はどこまでも自分の為なのだ。



「…………わ、砂漠ですね」


辿り着いた先は、夜の砂漠だった。

ざりりと爪先が砂に沈みかけ、慌てて立ち方を変える。

遠い満月に照らされた砂漠は、途方もなく青く暗く、深海を歩いているような不思議な感覚になった。


(さっき話していたところだろうか。それとも、ここは違う砂漠なのかしら……)


「ウィリアムさん、ここは?」

「残念ながら林檎のオアシスのある砂漠ではないが、ここも有名なところなんだ」

「砂が、鈍い銀色のような不思議な色ですね。まるで雪景色のようでとても綺麗です」

「あの砂丘の向こうに、キャラバンが見えるだろう?どれだけ歩いても近付くことは出来ない一団なんだが、もし近付くことが出来ると、あの隊列の中に会いたいひとを見ることが出来るそうだ」


ウィリアムの言葉に目を凝らしてみれば、確かに随分先に一列に並んで歩いてゆく人影が見える。

はっきりとは見えないが、駱駝だけではなく他にも奇妙な動物にまたがった人々がいるようだ。


「ウィリアムさんは、会ったことがあるのですか?」

「あの隊列を率いているのは、呪縛を司る魔物でな。俺よりは階位が下がるせいか、俺の呪縛を引き込む程ではなかったんだろう。あの中に知った顔はなかったよ」


砂漠のずっと向こう側の空は、赤く燃えている。

その赤さを見て、不意にネアは悟った。

ここは、ウィリアムの悪夢の中なのだ。


(………だからその領域では、いわば終焉の魔物としての彼の正装姿なのだ)


しかしそう考えれば、彼が話した武器として使う悪夢の形が思い起こされないこともない。

死者の王が見る悪夢の中に放り込まれたら、人間は果たして無事に帰れるのだろうか。

魔物の線引きは時々とてもいい加減なので、ネアは少し不安になる。


その間にも、幾つも連なる砂丘の向こう側で、街が焼け落ち、船が波間に沈んでゆく。

森が失われ、立派なお城が炎に包まれて、決壊した堤防が人々を飲み込んでしまう。

手を引かれてゆっくりと歩いてゆくその道中で見ていた終焉の多くが消えてしまえば、夜の砂漠はまた穏やかな美しさを取り戻した。


夜の砂漠を渡る風に音はない。

ただ、夜の青さを陽炎のように揺らすばかりだ。


(でも、ウィリアムさんが一番恐ろしいのは、この誰もいない穏やかな世界なのだろう)


彼自身が話していた、多くのものが終わってしまった世界の最後尾になる悪夢。

一番人間に寄り添う魔物であるのに、こうして見てみればウィリアムの悪夢は実に乾いている。

ネアの夢に浸食してきていたのがアルテアの悪夢なら、誰もいない部屋で目を醒ましたというディノや、統一戦争時の夢を見ると言うノアのその誰よりも、ウィリアムの夢は情景的で個人の感情が見えないものなのだと思う。


死んでいった友人達や、失われてしまった恋の分岐点をここで見ないということが、ネアは少しだけ意外だった。


(となると、やっぱり踏み込んでおいて良かったのだわ)


知らないまま、そういう形であるものと信じているのは危うい。

多少水面が波立つのだとしても、いい加減に繋いだ手が解けてしまうよりは余程いい。


夜の砂漠の冷たい風に目を細めて、どこか遠くを眺めているウィリアムの表情を窺う。

そろそろだろうかと思うくらいには、二人の間の空気は淡く張り詰めているのだ。


そしてネアは、その向こう側を移動してゆく物体に目を丸くした。


「…………ウィリアムさん、妙なやつが現れました」

「っ、よりによってここで現れたか。………俺も未だに、あれが何なのかわからないんだ」

「種族的には何なのでしょうね」

「精霊だと思うんだけどな」

「と言うことは、あんな風体で感情的なやつなのですね……」


振り返ってそちらを見たウィリアムが、小さく呻き声を上げてしまったのも仕方あるまい。

見た目だけで説明するのなら、綺麗にこんがり焼けたコッペパンの群れのようなものが、ぼすんぼすんと弾みながら集団移動していた。

この悪夢に反映されてしまうぐらいなので、ウィリアムも、余程心に残っている姿なのだろう。


「酷い死者の行列が出た後の土地や、誰もいなくなった街に時々出現するんだ」

「…………見ていると心が不安定になります。あの生き物の目や口がどこにあるのかを知る為だけにもちょっかいをかけたくなりますが、あやつに近付くぐらいないら永遠に知らなくてもいいという不思議な気分ですね」

「あの集団が現れると、死者の行列も逃げて行くぐらいだからな。触らない方がいいだろう」

「恐ろしいパン軍団でした………」


ある程度張りつめた時間であったが、二人とも、そのコッペパンの群れが完全に姿を消すまで口を開けなかった。

ぼふんぼふんという、砂地にパンを叩き付けるような音が遠ざかってゆき、ネアは軍隊のように整ったパンたちの動きに感心したまま無言で見送ってしまう。


そこに、男性的な小さな溜め息が落ちた。


「…………とりあえず、あまり離れない方がいい。あんな生き物もいるからな」

「あえて言ってしまうのなら、あのパンもどきのせいで、そこそこ真剣だった空気が霧散しました」

「………………ネア、俺も躊躇ったのに、よくそれを口に出してみようと思ったな」

「ウィリアムさんがとても困っていましたので、あやつを見付けてしまった自分に責任を感じたのです」

「………………そんなところで律義なくせに、さっきは踏み込んでみようと思ったのか」


溜め息交じりの静かな声。


ばさりと風に広がるロングコートは、ネアには名前もわからないような複雑な星章や大綬のような帯ものがひらめく。

全てが素材や色味を変えた白一色の装いは、雰囲気こそ違えどディノと同じようなものだが、翻ったコートの裏が血の様に赤く、一切の色味を排除した魔物の王の装いとはまた趣きが変わる。


(…………ああ、綺麗だ)


やはりこれは、人間が死に際に見上げる色彩なのだろう。

軍帽で翳った白金の瞳の方が、いつもの穏やかな瞳より好きだなと考えているなんて、ウィリアムは思いもしないに違いない。


「知りたかったからです」


誤魔化すことは出来た。

パンもどきのお陰で空気は緩んでいたし、ウィリアム自身もどちらに転ぶかと悩んでいる節がある。

でもネアは、飾らない言葉で答えた。


「何を知りたい?俺を?或いは、その過去を?それとも、どこまでを許されるかを?」


問いかける声は柔和なままで、けれどもその微笑みの温度は低い。


「あなたがディノの為に整え、許してくれるものの線引きに、どこまで私が入っているのかを知りたかったのだと思います。あなたが本当はどんな方で、どんな風に恐ろしいものなのか、その恐ろしさの色合いや深さを。でも、そうやって尋ねられてしまえば、私は全部を知りたかったのかもしれませんね」


繋いだ手を持ち変えられて腕を引かれたとき、ネアは、ウィリアムがさり気なくディノの指輪のある方の手を上手に掴んだことに気付いた。

先程の髪に触れた仕草といい、やはり彼は抜け目ない。


ぐいっと腕を引っ張られ、腰の低い位置に回されたもう片方の手を軸に力を入れられると、ぐらりと体が倒れて視界が回った。


「………っ!」


こぼれんばかりに星屑を湛えた夜空が見える。

降り出しそうなくらいの満点の星の下、引き倒された砂漠の砂は柔らかく、決して嫌な感触ではなかった。

自力で起き上がれないようにと、倒された直後に首を押さえ込んだ手は、命の欠片を感じ取れないくらいに冷たい。


その冷たい手の指先に力が籠り、喉の柔らかな皮膚を歪ませる。

まだ気道を損なわれる程の苦しさはないが、もし彼がネアを殺してしまおうとするならば、一瞬でこの首を折れるだろう。


「…………受け身が取れるとは思わなかった」

「こうやって引き倒されて殺される可能性を踏まえて、受け身の訓練をしたことがあるのです」

「そう言えば君は、そんな履歴だったな。さて、どうして俺が怒っているかわかるか?」


また指先に力がこめられ、息を吸う動きに負荷がかかる。

馬乗りになられた体の重さはそこそこなのだが、暴れられないように、膝や腰などを上手く抑え込んでいるのがさすがだ。


「踏み込んで嫌なことを指摘されたから、ではないみたいですね」

「そうだな。踏み込んだだけでは、殺してしまおうかとは思わない」

「あら、……」


ネアは目を瞠って、絶望感を滲ませる白というものを見ていた。


「殺されてしまうのですか?」

「どうして、人間はいつもいなくなってしまうんだろうな………」


そう笑う酷薄さに、ネアはにっこりと微笑んだ。

魔物が微かに眉を顰めるの見上げながら、牙を剥いた森狼を撫でるような、静かな声で語りかける。


(……………そうか、この人は結末を変えられるものを失くしたんだ)


先程の答えがネアには分った気がする。

恐らくウィリアムがなくしたものは、自分の意志で一線を引いて敢えて突き放した何か。

自分の裁量次第では救えたものを、変えられた筈の結末を、彼は手放してしまったのだろう。

だからこそウィリアムは、こんな目をして人間はすぐに死んでしまうと嘆くのだろうか。


どうして見捨てさせるのだと、そんな嘆きを込めて。


(覚えておこう。ウィリアムさんは、例え大事に思う人間であっても、その手を離せるひとなんだわ)



「ウィリアムさんと、こんな風にお話しするのは初めてですね」

「もしそれが目的だったのなら、君の為にこの胸を開く必要が俺にはあるだろうか、と言ってみようか」

「皆無です。なので、嫌な人間の私は、正攻法での突破にしませんでした」

「そう飄々と言われると、信頼されているのか、見くびられてているのか難しいところだな。………さて、どうしたものか」


美しい魔物の口元を歪めた微笑みを見ていた。


(きっと、この表情は無意識なんだろうな………)


相変わらずの困惑したような、憂鬱そうな声音とは不似合いな残忍な微笑み。

彼は、そんな自分の表情に気付いていないような気がする。

いつだったか、アルテアが話していたことがあるのだ。

死者の行列を率いるウィリアムは、親しい者達を滅ぼす際にはひどく苦悩しながらも、反面、その眼差しは実に生き生きとしているのだと。

つまりそれは、魔物は司るものの資質の影響を多大に受けるというようなことなのだろう。

この魔物は、本心と本性が別、そんな感じがした。



青い青い砂漠の夜空に、一筋の流星が流れてゆく。

圧の強まった終焉の魔物の指先の冷たさを喉元に感じながら、ネアはどこまでなら魔物を呼ばずに許されるかをこっそり悩んでいた。








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