見回りと侵入者
傷薬爆発事件の直後のことだった。
慌てて飛んできて抱き締めてくれた魔物が、耳元で小さく呟く。
ある程度しっかりした言葉ではあるのだが、音の操作をしているのか誰も気付く様子もない。
「ネア、また何か危ないことがあるようだったら、そこまでだよ」
囁きには魔物らしい高慢さも滲んでいたが、それ以上にどこか寂し気でもあった。
だからネアは少しだけ考えて、荒ぶる魔物を抱き締め返す素振りでその耳元に囁き返す。
しかし、体を離してみると、なぜか魔物は目元を染めてまたしても被害者風に恥らっていた。
まるで恐ろしいものを見るようにこちらを凝視され少しむっとしたので、後はウィリアムに排除されるに任せる。
そうしてその日の夜、謹慎を言いつけられた筈の魔物と、謹慎を命じた筈のご主人様は、影絵の中に佇む瀟洒な屋敷の厨房で密会していた。
「ネア!」
「いけませんよ、お座りです!」
喜んだ魔物がすぐにへばり付こうとしたので、ネアは厳しい目で一瞥して、しゅんとさせる。
「ひどい…………。やっと会えたのに」
「晩餐の時にも会ったでしょう?しかも隣の席です」
「食べ物の交換もしてくれなくなったし……」
「お仕置き中だからですね」
そこでネアは、しょぼくれて椅子に力なく座った魔物に歩み寄ると、綺麗な真珠色の頭を丁寧に撫でてやった。
完全に犬としての評価になってしまうものの、目を瞠ってキラキラさせているのが、なんとも無防備で愛おしい。
(………何だか、最近犬化の頻度が高いような………)
ネアは、魔物らしいディノが結構好きだ。
なのであまり甘やかして犬化させたくないのだが、こんな目をされたらついつい撫でてしまう。
「ディノ、悪夢は大丈夫ですか?怖い夢を見て、また寝台から落ちていませんか?」
「…………寝台?」
「あら、謹慎中はあのお部屋は独り占めですよ?それなのに、広く使わないで巣の中に寝ているんですか?」
「ネアがいないしね………。でも、使っていてもいいなら、寝台で寝ていようかな」
「寒がりのディノが使えるように毛布も出してきたので、好きに使って構いませんよ。ただ、念の為に言えば、本来のディノの寝台は元々ディノの寝室だった筈のお隣の部屋に…」
「ご主人様は残酷だ………」
「すぐにくしゃりとならないで、現実と向き合うことも覚えましょうね」
暫くは大人しく撫でられるままに頭を差し出していた魔物が、そっと視線でお伺いを立ててくる。
あの時ネアは、今晩厨房に来れますか?と囁いたのだ。
時間も返事も確認しなかったが、こうして魔物はここで待っていたらしい。
「………ネア、まだ帰ってこないのかい?」
「あらあら、謹慎中なのにですか?」
「君は時々、私に何も言わないで危ないことをするんだ」
少し不服そうに、けれどもどこかあざとく呟いた魔物に、ネアは小さく微笑む。
これはきっと、謹慎を終わりにして貰えると考えているに違いない。
「これもまた、お仕置きの醍醐味でしたからね」
「…………ネア?」
「ねぇ、ディノ。あなたの為だからと言いながら遠ざけられてしまうと、何だか寂しくありませんか?」
そう尋ねると、魔物は水紺の澄明な瞳を丸くした。
「………それが、お仕置きだったのかい?」
「ふふ。人間はなかなかに嫌な奴でしょう?」
「ネア…………」
困ったように少しもぞもぞしてから、ディノはぱっと手を伸ばしてネアを抱き締めた。
単に欲求に負けただけなのか、ごめんなさいのハグなのかわからず、ネアは眉を顰める。
「もうしないよ、ネア。だから、戻っておいで」
「叱られている自覚が足りないようです」
「ご主人様………」
悲しそうにするくせに手は絶対に離さない魔物に、ネアはやれやれと苦笑した。
これから言おうとしていることは、この魔物をもっと悲しませるのだろう。
「やっと、お手紙を読んでくれたんですね」
「……………手紙?」
「さては読んでいませんね!浴室に置いてある、ディノへと書かれた水色の封筒です」
「浴室に行ってない…………」
「まぁ、あのお風呂好きな魔物はどこへ行ってしまったのでしょう?」
「誰も髪の毛を乾かしてくれないし、帰ってきても一人だからね」
「今までも一人で生きてきたのではないのでしょうか?その頃のことを思い出して、これからも頑張って下さい」
その一言で、魔物はぴゃっと竦み上がりネアにぎゅうぎゅうとへばりついてしまった。
「もう二度とわざと深い傷を受けたりしないから、どこにも行かないで、ネア」
「………おのれ、わざとだったのか!」
「お仕置きも時々でいい」
「さては、お仕置き目当てでもあったのですね………」
焦ったあまりにボロを出しているようだが、何もネアは当分の間は別居だと話している訳ではないのだ。
「手紙を読んでいないのに、どうして私が危ないことをしているなどと考えたのでしょう?」
「エーダリアが話していたからね」
「…………せめてそちらからでも、きちんと意図が伝わって良かったと思います。危うく連絡事故になるところでした……」
「でも恐らく、彼が話したのは表面だけのことだろう。だから心配なんだ。ネア、君は私のものなのに、これ以上の何が欲しいのだろう?」
(これだから、この魔物は………)
無防備に悲しげな目をした後で、今度はしたたかに荊の檻を巡らせてくる。
囁く声音は淫靡でさえあって、いつの間にか魔物の片手はしっかりとネアを拘束していた。
隙あらば籠絡してでも思い通りにしかねない残酷さも感じるくらい、やはり魔物という生き物は支配階級のふとどきな生き物なのだ。
だからネアは、飾らない言葉で答えた。
「ウィリアムさんが欲しいです。正確には、ウィリアムさんが、ディノを傷付けないと信じるに足るだけの、あの方の執着が欲しいのです」
小さな沈黙に少しだけ怖くなる。
この言葉はきちんと伝わっただろうか。
そう問い返したくなるのを堪えて、まずはディノの返答を待つ。
「君は、ウィリアムを籠絡したいのかい?」
ひやりとするような鋭い眼差しに、ネアは微笑んで頷いた。
「はい。言わば、自ら託児されに乗り込んでゆき、無下に出来なくさせてやろうという魂胆です!」
「…………ん?託児?」
「この微妙な距離感でも面倒見のいい親戚のお兄さんのような方なのですから、一度自分の手元に預けられてしまえば、自分の娘のような感覚で愛着を持って貰えるのではと企みました」
「…………娘でいいのかな」
「む、………孫ですかね?」
「…………孫」
魔物はとても混乱しているようだったので、ネアは手紙にも書いてきた作戦のあらましを簡潔に伝える。
「今のままでは、ディノの為に私に害をなさないウィリアムさんでしかありません。しかしそれでは、肝心なディノに何かしてやろうと思ったら終わりですので、私は、その逆も欲しいのです!四方八方から退路を断ち、ウィリアムさんという頼り甲斐があり過ぎる方の、“もしも”を防ぎたいのです」
「ネア、ウィリアムは争いを好まないし、私もそう容易くはウィリアムに害されたりしないよ?」
「わからないではありませんか。ウィリアムさんとてむしゃくしゃする日もあるでしょうし、ディノには私という不安要因もあります」
ディノはそこで、綺麗な目を揺らして小さく息を飲んだ。
「……そうか、今回のことで君は、自分が私にとっての足枷となると考えたんだね?」
「……そこまで邪魔なものには例えてませんでしたが、弱点になり得ると考えました。ジーンさんの件も、アルテアさんの悪ふざけも、そのどちらも私に向いた刃です。それに、ディノが私に出会ってから変わってきているのも事実です。……きっと以前のディノであれば、あんな怪我をすることもなかったでしょう?……ディノ?!」
そこでネアは、頬に手を添えて上向かされると、ディノとぴたりと額を合わされてしまった。
ぐっと近くなった距離よりも、微笑んだままのディノがとても怒っている気がして、途方に暮れる。
「君がいなければ良かったと考えることなどない。君がそう考えることですら、私は不愉快なんだ。だから、あまり私を揺らさないでくれ」
「……ディノ、私はあなたにとって自分が不必要だなんて考えていませんよ?そんな善人に見えますか?」
「しかし、君は実際に自分を削って私の足元を固めようとしているのだろう?ネア、それは君のするべきことではないし、君にさせるつもりもない」
柔らかな口調のままで滲む、男性的な冷ややかさは確かに怖くもあった。
けれどもその静かな不快感を向けられることよりも、ネアは相変わらずこの魔物が人間をまっとうに見てしまうことに、何だか口元が緩んでしまう。
「ディノ、寧ろ、強欲過ぎて自分を削れないのが私なのです。だから、私はずっとディノと一緒にいたいですし、その弱さを修正出来ない分、いざという時に面倒を見てくれる人材を逃がさず確保しようだなんて考えるのでしょう」
「………それが、ウィリアムなのかい?」
「ディノ、私はこれでも、ウィリアムさんの弱味を握っているのですよ?」
「弱味…………?」
「ふふふ。構っても死なない人間であるというだけで、人間好きのウィリアムさんには充分なのではないでしょうか!」
「………それは、確かにそうかも知れないね。でも、ネア……」
言い淀んだ魔物が小さく溜め息を吐いた。
ネアにとって想定内なのは、この魔物が結局のところネアにとても甘いというところなのである。
「ディノ、ディノは私より年上で私の婚約者なので、きちんと私を甘やかして下さい」
「どうしてこういう時ばかり、君は私を籠絡しにかかるのだろう……」
「あら、普段の私では物足りないですか?」
「普段のネアでも充分だけれど、こんな風に甘えてくれないからね……」
「ディノ、私達には介護要員が必要だと思うのです。良さそうな魔物さんがいるので、狩ってきてもいいですか?」
「………あんまり嬉しくない」
「まぁ、困った魔物ですね。………それと、多分ウィリアムさんは気付いているような気がします。私が、この魔物さんはどこまで信頼に足るのだろう、もうちょっと甘えてもいいのだろうかと、橋の強度確認のようなことをしているのを、やれやれ仕方ないなぁと見ているような気がします」
「ネア、………ウィリアムも高位の魔物だ。あまり深追いはしないように」
「大丈夫ですよ、案外いまいちな橋だとなれば、ぽいっと捨てて帰ってきます」
「え、…………」
「……………なぜそこで、極悪人を見るような怯えた目をするのかわかりません!」
背中に回された手が緩み、ネアは少し体を離した。
目の前の魔物から、ものすごく嫌だが許さないとこの人間は何をするのかわからないという煩悶を感じ取り、毎回そうやって折れるといいのだという邪悪な気持ちでほくそ笑む。
ややあって、ディノはぽつりと呟いた。
「手紙を書いてくれたんだね」
「読んでもらえていませんでしたが」
「………私は、エーダリアからこの話を聞いたとき、君はまた私に秘密で背中を向けてしまうのだろうかと考えていたんだ。もう少し、誓約を深めた方がいいのだろうかって」
「やめ給え!私は、そんな理由でまた揉めても転んでも嫌なので、きちんと他にも目的があることは共有するつもりでいました。しかし、そのまま伝えると謹慎が中途半端になるので、手紙に気付くまでの時間をあえて残したつもりだったんです」
「…………謹慎はまだ続くのかな」
「一週間ですね」
「…………一週間」
「本当は、ディノのお仕置きだけならせいぜい三日というところでしたが、ウィリアムさんの深層心理に訴えかけるには、最低でも一週間は必要です」
「…………ひどい」
「と言うか、そもそもは、ディノが怖いことをしたのが発端です。………しかも、深めの傷を受けたのはわざとだったのですね?その問題について、もう一度話し合い…」
「…………謹慎する」
うっかり企みを吐露してしまったことを思い出したのか、魔物はしょんぼりと俯いた。
少し可哀想な感じなので、ネアは自分を拘束したまま落ち込むディノの髪を撫でてやる。
「怖い夢は見ていませんか?」
「…………あの後はね」
「どうしても怖いことがあれば、私が一人でいる時にでも何か合図を下さい。ウィリアムさんは意外に厳しいので公の場では構ってあげられませんが、五分くらいならバレないので頭を撫でに駆けつけます」
「五分………」
「髪の毛をくれたので、見ていてくれるのでしょう?」
「うん………」
「ただし、変なところを覗いたら謹慎期間を倍にしますからね」
「…………ご主人様」
「さて、そろそろ部屋に戻りますね。ウィリアムさんと仲良しになってきますから、楽しみにしていて下さい」
「どうしよう、何だかすごく帰したくなくなった………」
「困った魔物ですね」
小さく溜め息を吐いて、ネアは三つ編みをぐいっと引っ張ると魔物の背中を屈めさせた。
届くようになった頬に背伸びして口付けする。
「今夜はよく眠れますように。…………ディノ?」
結果、魔物は飛び上がって逃げて行ってしまったので、ネアは簡単に客間に帰ることが出来た。
お風呂時間を密会に充ててしまったので、苦渋の選択をして今夜の入浴は我慢する。
香草のオイルを垂らしたお湯で濡らしたタオルで体を拭いて水の香りを纏うと、寝間着に着替えて寝台に潜り込んだ。
今夜のウィリアムは隣の部屋に戻っているので、もしかしたらここまで警戒する必要はないのかもしれないが、思っていた以上にスパルタだったウィリアムに密会がばれたら、叱られてしまうのは間違いない。
それに、ディノの謹慎への随分な厳しさは、彼自身の懸念を潰す為だけではないと考え始めていた。
(私が謹慎という建前を使った以上、その建前をきちんと運用し続けることも強いているのだわ)
そうであると仮定した場合、極力減点行動は控えたいところだ。
これからウィリアムを捕獲せんとするネアだが、こういうところでは意外に小心者なのである。
しかし、警戒はしてもし足りないということが夜半過ぎに判明した。
「ネア、謹慎中の魔物を寝台に入れたら駄目だろう?」
「………………むぐ」
気持ちよく熟睡していたところを、ネアは真夜中の見回りに起こされた。
体を起こそうとしたもののまだ筋力が使用可能ではなく、ネアは毛布に埋まったまま目だけ開ける。
「どうして、シルハーンと一緒に寝てるんだ?」
「……………お部屋にディノは入れておりません」
「じゃあ、これは不法侵入かな?」
「……………む」
眠たい目を擦って隣を見れば、確かに不自然に膨らんだ毛布の塊がある。
べしりと叩いてみるとぴゃっと動いたので、生き物が入っているのがわかった。
よく見れば、綺麗な真珠色の髪の毛が一筋、おさまりきらずに零れている。
「…………おのれ、毛布妖怪」
「よし、じゃあ俺が部屋に戻してこよう」
「むぐ、お任せします。おやすみなさい」
そこでぱたりと二度寝に入ったネアは、眠気にくすんだ世界の遠くでひどいと訴える魔物の声を聞いたような気がした。
しかしこればかりは謹慎中に不法侵入する魔物がいけないので、大人しく強制送還されて貰おう。
「……………むぐ」
しかし今度は、夜明けに侵入者の気配で起こされてしまった。
不審者は殲滅すべしの精神で捕獲して、またそのまま寝てしまうと、朝起きた時にとんでもない出会いが待っている。
気象性の悪夢の滞在中であるので、基本的にあまり昼夜の明度に差はない。
それでもどこか朝の空気というものは感じられるので、その空気の差を察知して目を醒ましたネアは、いつもの魔物ではない何者かがすぐ隣にいることに気付いて凍りついた。
「…………おはようございます」
「念の為に言うと、不法侵入じゃなくて見回りに来たらネアに捕まったんだ」
「…………ええと、そういう場合はそのまま寝るのではなく、是非に叩き起こして下さい」
「起こそうとしたら、チキン泥棒の汚名を着せられて噛み付かれたから諦めた。どんな夢を見ていたんだろう」
「…………大変申し訳ありませんでした」
「逃すものかと言われたな」
同じ寝台の上というかなりの至近距離からそう悪戯っぽく微笑まれて、ネアは何とも締まらない体勢でもう一度ごめんなさいと謝る。
これだけ美しい男性を寝台に引き摺り込んでおいてもセクシャルな空気が皆無なのもまた、ウィリアムの人柄のせいだ。
何しろ親戚のお兄さん感がただごとではないので、これでは道を踏み外しようもない。
(…………でも、……うーん、これは)
そしてやっぱり、ネアの作為など最初からお見通しなような気がする。
その上で、からかわれているのではないだろうか。
寛いだ顔で伸びをした終焉の魔物を見ながら、ネアは少しだけ悲しい気持ちになった。