105. 利害が一致していたようです(本編)
背中にへばりついて泣いている生き物がいる。
心を鬼にして無視しているが、本当はその頭を撫でてもういいよと言ってやりたいのだ。
しかしその反面、ネアはとても自分勝手でもあるのでこの取り決めを撤回するつもりもなかった。
「………ネアが虐待する」
「嫌な言葉を覚えましたね!」
「…………婚約破棄はしないよ」
「婚約破棄をする為のお仕置きではありませんよ。今回の処分は、ディノにとって、私がディノが酷い怪我をするのと同じくらい辛い思いを体験して貰う為の罰則です」
「悪夢が来ているのに、君を一人になんてしたくないんだ」
「本日の出来事と矛盾しておりますね。それに、ウィリアムさんは悪夢との相性が良くてとても安定しているようです」
「ウィリアムなんて…」
「悪いやつになるのなら、更に罰則を重くしてしまいますよ?」
「ご主人様!」
ようやく歯磨きが終わったネアは、まだめそめそとしている魔物に向き合い、そっと俯いた魔物の髪を掻き分けて頬を撫でてやる。
「ディノ、私はあなたが大好きです。だから、あんな風に酷い怪我を負われてしまうと、心臓が止まりそうになりました」
「…………もう二度としない。約束する」
「そうして下さい。でも、罪と罰の帳尻は合わせなければいけないので、きちんと罪を償って下さいね。こういうことは、曖昧に口約束で済ませるよりも、体に覚えさせる方が良いそうです!」
「虐待する…………」
ふわりと微笑んで、ネアは打ち拉がれた魔物の頬に口付けしてやった。
目を丸くした魔物は蹲ってしまい、今度は足にしがみついたまま、ずるいと呟いている。
「今回のことは、私を守ろうとして下さったのだということはわかっているんです。やり方がまずくて結果マイナスになりましたが、ディノ、私を怖いストーカーから守ってくれて有難うございました」
「それなのに、君はいなくなるんだ………」
「それは、結果として私の心に消えないトラウマを植え付けたからです」
涙に濡れた目をまた丸くした魔物に、ネアは根気強く微笑みかけてやった。
「ディノは、私に何度も悪夢のことを謝ってくれましたね。でも私は、悪夢なんかちっとも怖くありませんでした。………あの日、焼け焦げていなくなってしまった両親の話をするよりも、今は、私の大事な魔物が血だらけになる方が恐ろしいのです」
「…………ネア」
「在りし日の宝物は、もう失われたものです。それよりもどうか、今の私が持っているたった一つの宝物を損なわないで下さい」
「………一つなのかい?」
「そうですね。言わばディノは灯りなのです。ディノがいて世界が明るくなるので、他の素敵なものがよく見えるようになるのですから、勝手に怪我をしてはなりません」
「…………ネア、ごめん。ごめんね、怖い思いをさせてしまったね」
「むぐ、……そこを指で拭われても、泣いておりません!ご主人様を懐柔しようとしても駄目ですよ!」
「………君だって危ないことをするのに」
「こういうものは、男性の側が我慢することです!それに、私は以前からディノが上手くやって下さいと話していましたよね?なのになぜ、ディノがしでかしてしまうのでしょう」
「……………ご主人様」
「さ、寝ますよ。今夜は個別包装なしですが、大人しくしていて下さいね」
そう言えば今度はたいそう恥じらってしまったので、ネアは眉を顰める。
危ないので個別包装なしだと言われたからの流れだが、本当にそうなのだろうか。
この、時々勝手に被害者になるシステムも解除して欲しい。
「もしや、個別包装していても問題ないのでは………」
「駄目だよ、ご主人様。そんなことしたら、悪夢に攫われてしまうからね。だからこの後も、必ず寝るときはこちらに戻ってくること」
「明日からの運用は、ウィリアムさんに相談してからですね」
「…………ひどい。ネアが浮気する」
「人聞きの悪い荒ぶり方をしないで下さい!ドリーさんに引き続きウィリアムさんにまで変なことを言ったら、交代期間をがっつり伸ばしてしまいますからね!」
「虐待する………」
「おのれ、何でこんな言葉を覚えてしまったのだ!」
その夜の魔物のべったり具合は酷いものだったし、朝はより悪化して雛を巣立ちさせる母親の気分もわかりそうな具合であったが、ネアは、残虐でずる賢い人間のスキルを如何なく発揮して無事に部屋を出た。
浴室でひと仕込みしている間にエーダリア達の棟に泊まっている銀狐が部屋の外まで見に来ていたくらいなので、かなりの騒ぎようだったに違いない。
「ほら、私の髪の毛にディノの髪の毛が織り込まれているのでしょう?何かあったらすぐにわかるのでは?」
「きっとウィリアムが邪魔をする………」
「あらあら、ではその場合は必要だと思うからでしょうね。ウィリアムさんは余計なことはしないと思いますよ」
「せめて悪夢が終わってから、夏くらいにすればいいのに」
「随分後回しにしましたね!でも、悪夢監視の為にウィリアムさんが予定を整理してきてくれた今がいいんですよ。ディノだって、一週間丸々私がここを離れてしまうよりいいでしょう?」
「ネア…………」
ふうっと溜め息を吐いて、ネアは手を繋いだ魔物に、愛用している手鏡を持たせてやった。
練り直しの際に、なぜかこの手鏡だけがこちらの世界にやって来てしまった、言わばかつての世界の唯一の遺品である。
特に前の世界への思い入れがあるような品物でもないが、この手鏡は初めての歌乞いの時に使ったものなので大切にしているのだ。
「ディノ、ご主人様の宝物を預けます。私の代わりだと思って、これを守っていて下さいね。それと、無事に謹慎が終わったら、頑張りましたパーティをしてあげますから、好きなものを作ってあげます。食べたいものを考えていて下さい」
「ご主人様がいい………」
手鏡を握り締めてそう呟いた魔物に、ネアは遠い目になる。
手鏡では平べったすぎて、到底ご主人様に思えないのだそうだ。
「更に言えば、ご主人様は飲食禁止です」
そして、妙に遠く感じた道のりを経て、何とか朝食の席に合流した。
「おはようございます」
「おはよう、ネア。良かった。少し手間取りそうなら、迎えに行こうかと思ってたんだ。さあ、シルハーン交代ですよ」
待っていてくれたウィリアムにさらりと申し出られてしまい、ディノはくしゃくしゃになって部屋の隅に丸まってしまう。
「こら!きちんとご飯は食べて下さい!」
「ネア、魔物はある程度食べなくても問題ないから、放っておこう」
「むぅ、ウィリアムさんがスパルタですが、もう私の相棒はウィリアムさんなので賛同します」
そう頷いて椅子についたネアに、エーダリアが慄いたように顔を青くしていた。
アルテアを警戒してそちら側に座っている銀狐も、身体中の毛が逆立ってしまっている。
「おや、ネア様も結構容赦ありませんね」
「ヒルドさん?……しかし、謹慎はそういうルールですから」
「これは、これは。ディノ様には辛い一週間になりそうですね」
「ふふ、謹慎なので仕方がないのです。因みに今日はこちらに居られる予定ですから、何かあったら声をかけて下さいね」
まだ悪夢は硬化しているままなので、ウィリアムはリーエンベルクに滞在することとなっている。
本日の日中はウィリアムが借りている客間で一緒に過ごし、夜までには、お隣の部屋を完全遮蔽にしてくれるという話になった。
エーダリアから続き間を提供する話も出たが、さすがに王の婚約者なのでとウィリアムは朗らかに辞退する。
悪夢の中だから危ないと魔物はごねたが、ウィリアムは微笑んで大丈夫ですと宣言した。
(…………強い)
「そう言えば、アルテアさんは死んだままですね」
「昨晩は屋敷に戻ったみたいだな。仕事だからこちらに戻るだろうが、少ししっかりして貰わないと」
「激辛味覚か、もう一つの方、どちらかで精神を損なわれているのでしょう」
「そう言えば、今日はどんな服装で来るのか楽しみだったんだ」
案外意地悪なウィリアムに、ネアも頷いて同意を示しておいた。
しかし、何とか出勤してきたアルテアは、賢く黒一色の服装で乗り切っている。
髪型が若干抵抗の跡が見られることと、無駄に派手なペンを持っているので、ここから少しずつ転落してゆくのが見られるのだろうか。
「もう少しで堕落しそうですね」
「……………黙れ」
「まだ元気そうです」
「服選びで二時間かかったんだぞ。取り寄せの魔術を禁則にしたから、何とか手持ちだけでどうにか出来るが………」
「と言うことは、髪の毛の危険度が増しましたね」
「……………やめろ」
どうやら、アルテアは禁則によって、酷いセンスの衣料品を取り寄せてしまうことを封じたようだ。
しかし、やる人はどこからでもしでかすので、ネアは時間の問題だと割り切っている。
カーテンやシーツなど、生活の中に布物は沢山ある。
ファッションの世界は奥深いものだ。
本日は冒険しようとして我に返って元どおりにしてきたらしい髪型は、あとどれくらい保つのだろうか。
明日には新しい彼に出会えそうだ。
「エーダリア様は今日は何かお仕事ですか?」
「難しいだろうな。通信も断絶しているし、悪夢の硬化も著しい。リーエンベルクの遮蔽強化だけ密に計らい、残りの時間は魔術基盤の改良でもしているつもりだ」
「あの、お魚さん達だけでもすごいのに、まだ高みを目指してしまうんですね!」
「捕食者相当の術式に怯えないような対応策を練りたいのだ」
「基盤さん同士は問題ないのでしょうか?魚さんと鳥さんがいますよね?」
「………………確かにそうだな」
その指摘に、エーダリアがその発想はなかったという顔になったので、ネアは悲しい気持ちになった。
一目見て、どう考えても食べるものと食べられるものの種族ではないか。
(ともあれ、今日が本業務のある日でなくて良かった)
悪夢関連で手が必要な時は、お仕置き中のアルテアが対処するだろうし、場合によって不都合や不安があれば、ディノを抑えに使ってくれればいいと考えている。
そう考えると、この悪夢で隔離されてしまっている期間は、あまり有給休暇を脅かさない素敵なタイミングでもあった。
心配なのは悪夢が明けた直後のことであるが、寧ろその直後はウィリアムも現場を見て回りたいそうなので、問題なくウィームに居られそうだ。
「じゃあ、こちらは少し悪夢の内観を見て回ろうか。ネアは初めてだよな?」
「む。悪夢の内観とはなんでしょう?」
「鳥籠を緩めているから、表層の悪夢が展開されている現場が幾つかある筈だ。悪夢が派生した際に、他者の悪夢に巻き込まれることがある。実際のものを目にしておけば、どこかで知らぬ間に取り込まれていても気付き易いだろう?」
「ウィリアムさんと一緒なら安心ですね!見てみます」
朝食を終えて立ち上がったネアは、部屋に残るらしい他の面々に挨拶をしてから、歩幅を合わせてくれるウィリアムに付いて部屋を出た。
退出際に不憫になって、つい部屋の隅で蹲った魔物の頭を撫でていってしまえば、部屋を出てからウィリアムに謹慎にならないと叱られてしまう。
「ネア、はぐれないように手を」
「はい。なぜでしょう、少し緊張してしまいます」
「うーん、相棒初日だからかな。俺も慣れないから、掴まっていてくれるか?」
「ふふ、ではお言葉に甘えて掴まりますね」
窓の外は墨染の不思議な美しい空だった。
昨日までのべったりした闇とは違うどこか繊細な闇が染み入るような闇は、ところどころが淡く鋭く何とも美しい。
触れれば恐ろしいのだろうが、こうして窓の内側から見ていると穏やかにさえ見えた。
「昨日と籠り方が違うのは、シルハーンが少し表面を削いだからだろうな」
「そんなことも出来るのですか?」
「面を整えることで、気象的な弊害を少し減らせるんだ。時間が経つとまた荒れてきてしまうだろうが、それまでに悪夢そのものの威力が落ちていればこのまま衰退していくかもしれない」
「途中からはくしゃくしゃでしたので、エーダリア様を呼びに行った時でしょうか?」
「ああ。アルテアと話を詰めながら、ひとまず削いだんだろう」
「……………良い子でした」
少しだけ謹慎処分への不憫度が上がってしまい、ネアは眉をもにょりと下げる。
しかし新しいパートナーは意外にスパルタであり、肝心なところで認識が甘いものを甘やかす必要はないという判断であるようだ。
ふわりと頭を撫でられ、そう言い含められる。
(もしかして今回のディノの謹慎は、ウィリアムさんも必要だと思っていたことなんだろうか)
ふと、そんな気がした。
隣を歩いている柔和な微笑を持つ魔物は、存外にしたたかに物事の流れを調整する。
しかしそれは、緻密に汲み上げられた崩壊までのスケジュールを管理しながら、世界中を巡る死者の王らしい老獪さなのだろう。
「……ネア、気付いているかも知れないが、悪夢の探索はあくまでも、二人になる口実だからな」
不意に、そんな事を言われた。
息を吐くように淡く苦笑して、ウィリアムに腕を引かれる。
「それはやはり、ウィリアムさんも企んでいることがあるからでしょうか?」
「どちらかと言うと懸念かな。ちょっと触るぞ?」
伸ばされた手が髪に触れて、柔らかく指で梳いてゆく。
きっと覗き見防止なのだろうが、ネアは少しだけ小さな頃に父親に髪を編んでもらったことを思い出して切なくなった。
「………さてと、これでいいかな。歩きながら少し話そうか」
「む。さては位置の特定を警戒してます?」
「はは、ネアは意外に鋭いな」
鮮やかな青い絨毯の敷かれた廊下を歩きながら、ウィリアムは規則正しく軍靴の踵を鳴らす。
足音もさせない魔物が多い中、彼はどこまでも堅実な魔物だ。
「シルハーンが髪を切っただろう?」
「ええ。私が迂闊に守りを強化して欲しいと強請ってしまったのですが、あの綺麗な髪を切り落とされて息が止まるかと思いました」
「………まったく。それならシルハーンも、もっと他にやりようがあるだろうに」
「危ないことをしないように言ったつもりでした。………それは完全に私自身の為でもあるのですが、そう言っても尚、ディノは髪の毛は切るし、怪我もしてしまうのです」
それが悲しかった。
わからないと言うことで済ませるには、あまりにも恐ろしいことなのだ。
「俺の懸念もそこなんだ。前に、髪を不用意に切らせないように言っただろう?あれでも万象なのだから、考えなしに不安定になられると、厄介なんだ」
「その不安定さが、他のものに影響するからでしょうか?」
そう尋ねたネアに、ウィリアムは苦笑して首を振った。
「もう今更、煩わしさだけの為に、シルハーンの楽しみを奪ったりはなしないよ。………ただ、……そうだな、その不安定さで君に逃げられるとまずい」
「…………む」
「現に、ネアは今回のシルハーンのやり方が、相当悲しかったんじゃないか?」
「……そうですね、人生をかけてやっと見つけた素晴らしいセーターに、君を水溜りから守ってあげるよ!と言われて、地面の汚い泥水の中に横たわられてしまったような、愕然とした思いでした」
「すごい例え方をしたな。……でも、わかるような気がする」
「水溜りくらい私はばしゃばしゃと歩きますし、そんなことよりも素敵なセーターをずっと着ていたいのです。とは言えそれは私の我が儘なので、セーターにはセーターの言い分があるでしょうが」
「うーん、何で例えをセーターにしてしまったのか悩むところだけど、自分の活かし方を知らない愚かなセーターの話だと俺も思う」
「……セーターは、体も心もほかほかにしてくれます。私はこんなにいいものを知らずにきたので、大事に大事にして長く着ていたいと思うのです。泥水でがびがびになられたら、むしゃくしゃして泣きたくなってしまいます……」
いなくならないで。
失われずに、どうかずっと傍にいて。
そう願うのは多分、大切なものを何も持っていなかった哀れな人間の執着からくる我が儘で、やっと見つけた宝物を暗い倉庫にしまい込む愚かさのよう。
「でも少しだけ、わかってしまうのです。髪の毛をくれた時、ディノはそう出来ることが嬉しかったと言いました。自分ではないものの為に己を差出せるということは、とても幸せなことですよね」
「ああ、君を捕まえてからのシルハーンは、とても幸せそうだ。……ネアも、幸せそうだな」
「………ええ、とても。自分以外の要素がない世界で生きていると、時々自分という厄介者の面倒を見るのが嫌になるんです。こやつめをぽいっと放り出して自由になりたいと切望することもありましたが、この世界に来てからそう思わなくなったんですよ」
「シルハーンがいるから?」
「私はそれだけでいいと言えるほど善良ではないので、もう少し欲まみれな感じですね」
この世界の明るさは、案外単純なものだ。
大切なものや欲しいものがあること。
怖いものの分量が、それを上回らないこと。
それっぽっちが叶うからこそ、ここはまるでおとぎ話の宝箱のよう。
「俺の例え方も良くないが、そんなネアの周りを、甘え方も守り方も知らないちょっと馬鹿な犬が跳ね回ってると、いつかどこかで事故りそうで悩ましいんだ」
身も蓋もない懸念を吐露したウィリアムに、ネアはかえって安心感を強めてしまった。
「………やはり、そう例えられるウィリアムさんだからこそ、安心して相談出来る気がします」
「知らなかったものを知った時、自分が変わったと知ることは簡単だ。でも、その自分を維持する為に変化させなければいけないことも必ずあって、その覚悟も必要になる。シルハーンには、それを理解して貰いたいな」
その言葉には、どこか個人的な苦味が混ざっているようで、ネアは首を傾げた。
「………ウィリアムさんも、そういうことがあったんですか?」
踏み込んでいいものか少し悩んでから聞いてみると、ウィリアムは複雑そうな笑みをみせた。
「昔にね。俺は自分を変え損ねて、彼女は去った。彼女が去って初めて、俺は彼女を苦しませていたことに気付いたし、変えなければいけなかったことが、自分では問題だと思っていなかったことだと気付いたんだ」
「ウィリアムさんは、こういう悩み方はしないと思っていました。何というか、手に取るか、手に取らないかを自分で選ぶだけの人だとばかり」
「それは買い被りだな。これでも、昔の恋人に呪われたことがある」
思いがけない告白に、ネアは目を丸くした。
「意外です!恋人さんとは、円満な別れ方しかしていないと思っていました!ウィリアムさんでも、そういう失敗をしてしまったのですね………」
「俺の場合は、甘え過ぎたことかな。特別だからこそ許して貰えると考えたけれど、特別だからこそより慎重に慈しまなければならなかった部分でも甘えてしまった」
(………耳馴染みのいい台詞だけど、その結果呪われたなら、結構とんでもないことをしたのかしら……)
少しの不安に苛まれ、ネアがじっと見上げていると、ウィリアムはたじろいだ目をする。
これは女性を呆れさせる万国共通の男性の怯え方なので、恐らくその手の過ちを犯したのだろう。
「ウィリアムさんの場合だと、お仕事が忙しくて放置したとか、そんな感じですかね」
「…………わかってしまうものなんだな」
「わかってしまうのはなぜでしょうね」
生温い眼差しに耐えられなくなったのか、ウィリアムが教えてくれたことによると、一年ぶりにきちんと時間を取れた恋人に会うなり、ぱたりと熟睡してしまったのだそうだ。
しかもその日、中々会えない恋人に痺れを切らし、お相手の女性は彼に求婚していたのだとか。
「………もしや」
「自覚はなかったが、求婚中に寝たらしい」
「呪われてしかるべきやつです」
「あの頃は、年単位で寝られないくらいに戦乱続きだったからな」
「ウィリアムさんなら、もっといい危機回避の方法があったでしょうに……」
「どうかな。大切な女性だったけれど、伴侶にするかどうかは難しいところだったから、宥め方もわからなかったぐらいだ。まぁそんな訳だから、もしロクサーヌに会うならば、俺の話はしない方がいい」
「…………ロクサーヌさん」
思いがけない名前に、ネアは驚いた。
それはいつか聞いた彼の心に残る女性とは別の人のようだったので、彼にも色々な恋の履歴があるのだろう。
どこか気まずそうに視線を逸らしているところに、何だかくすりと笑えた。
「元々、魔物は恋を失い易いし、相手に死なれ易い」
「………ほほう」
「あ、今の話の言い訳じゃなくてな。俺の場合は自分のせいだが、種族的な業と言うか、宿命と言うか、どれだけ万全にしたつもりでもそういう事故が多いんだ。魔物の伴侶の事故死率はかなりのものだからな」
「…………そういう傾向があるんですね」
「そうなんだ。………だから、シルハーンにはネアをあまり怖がらせないで欲しいと思っている。あまり怖がらせると、終焉の子供は発作的に逃げるからな」
それはネアの困った特性でもあったので、眉を寄せてむぐっと黙り込む。
確かに拗れると投げ捨てて逃げ出したくなるのは否めない。
「変にすれ違っての事故死なんて絶対に避けたいから、シルハーンにはもう少し慎重になって欲しいんだ。こうやって、俺が守護していられる間に少し反省してくれるといいんだが」
「…………ウィリアムさんは、ディノに優しいんですね」
それまで、ネアはどこかウィリアムは苦笑しながらも完璧な従兄弟のお兄さんという心象でいた。
しかし、こうして話を聞いていると、案外苦労して兄達の面倒を見ている弟のような感じに思えてくる。
(ヒルドさんが話してくれた、内戦の後の王子様みたいに………)
「前の万象は、それで伴侶を亡くしたそうだ。万象の崩壊は二度と御免だからな」
「………前の万象の方をご存知なのですか?」
「いや、直接知っているのは先代の万象の崩壊でも生き延びた、数人の高位精霊ぐらいだと思う。文明の退化と言えば聞こえがまだいい方だが、実際にはほぼ全てをまっさらにしていった崩壊だからな」
「………そうだったんですね」
前に少しだけ、崩壊と世代交代は違うと聞いたことがあった。
崩壊という言わば憤死のようなものとは別に、司るものの衰退による消失や、司るものが形を変えてゆく中で先代が消えて、新しい魔物が生まれることもあるのだそうだ。
「公爵位の崩壊では、国が滅ぶと言われている。そのときは万象が失われるという大惨事だったから、世界が均されてしまっても不思議はないな」
「前にディノから、先代は女性の方だったと伺いました」
「ああ。自由に姿を変えていたそうだから諸説あるが、ネアぐらいの少女の姿だったとも言われているんだ」
ウィリアムが聞いたという話によれば、先代の万象の伴侶が失われたのは些細な事故だったそうだ。
しかし狂乱した万象のもたらした災厄はあまりにも甚大であり、世界は広くにわたり壊れてしまった。
「そして最後に、その世代の終焉の魔物が、死者の行列を引き連れて世界を巡り巡った。死者の行列が後方から灰になってゆき、最後に終焉の魔物が砂になって崩れ、世界は一度終わったと言われている」
窓の向こうの悪夢が、複雑な影と淡い光で廊下に模様を描く。
揺れている木はリーエンベルクにはない不思議な水色の葉っぱを持つ木だ。
極彩色の鳥の影が見え、この悪夢の物語はどんなものなのだろうかと不思議になる。
「どこまで生きるかはさて置き、俺はそんな仕事はしたくないんだ。だからネア、くれぐれもシルハーンを暴走させないでやってくれ。その為の教育なら、幾らでも手伝うからな」
微かな切望を込めてそう言われて、ほんの少し理解したような気がした。
それがきっと、ウィリアムの持つ悪夢の一つなのだろう。
ネアが以前アルテアの悪夢で見たリーエンベルクの廃墟のように、ウィリアムはきっと、誰も居なくなった世界で最後尾となって死者の行列を率いる自分が見えたことがあるのだ。
(だから彼は、今回の私の提案にこんなに協力的なんだわ)
「ウィリアムさんにそんなことはさせません。頑張って自衛しますので、色々相談に乗って下さいね」
だからネアは、とは言えそもそも人間の寿命が微々たるものなのだとは言わなかった。
それを再確認させてしまうのはとても残酷なような気がしたし、ネアがいなくなったその後も大事な魔物が健やかに生きてゆけるように、環境づくりにも勤しむ覚悟だ。
「ところで、窓の外にいる目に眩しい極彩色の鳥は何者でしょう?」
「ああ。南方の国に住む、滝壺の精霊だ。今は滅多に見かけなくなったが、熱帯雨林の中にある魔術の都が栄えた頃は、あの鳥がたくさんいたんだ」
「まるでここに存在するかのように見える悪夢なのですね。滝壺の精霊さんはものすごく暗い目をしていますので、こちらを見ていると不安になります」
「目が悪くて、ああいう目つきになるらしい」
「…………なんと」
懐かしそうにそう語るウィリアムにふと、これは彼の見る悪夢の欠片のような気がした。