103. 少しも似ていないと思います(本編)
悪夢の中でウィリアムに回収されたネアは、すっかり動揺してしまったので子供のように抱き上げられていた。
「………ま、魔物さんは、首を斬られたら死んでしまいますか?」
「シルハーンなら大丈夫だ。悪夢の外に気配があるし、ほら、ネアにもどうやら魂を預けているみたいだ」
そう掬い上げてくれたのは、ネアの髪の毛の一房であった。
涙目のまま瞬きをすれば、ウィリアムがディノに施されたものを教えてくれる。
「髪は魔術の場になるものだからな。ここに、自分の魂を織り込んであるんだろう」
「むぐ、……私の髪の毛にしか見えません」
「ネアの髪に混ぜてあるから、もう君の髪として成り立っているんだ」
「少し怖さもありますが、今日は頼もしかったです。……無事なんですよね?」
「ああ、大丈夫だよ。……ただ、外にも少し妙なものがあるから、それの対処をしているんだろう。ネアの話を聞いていると、最初からシルハーンはある程度の予測をしていたみたいだな」
「……お外に厄介なものがいるのですか?」
「恐らく、精霊だろうな。悪夢と精霊の組み合わせは厄介だから、ネアをここに入れたのかもしれない」
「悪夢と精霊の組み合わせは厄介なのに………?」
よく理解出来ずに首を傾げれば、ウィリアムは丁寧に説明してくれた。
「精霊は悪夢に隠れて動くことに長けているんだ。ただし、こうやって展開されてしまった悪夢になると、関係者以外は入れなくなるから、停滞期の間は安心出来る」
「もしや、アルテアさんも知ってたのでしょうか?」
「うーん、知らなかっただろうな。悪夢の調整は手がかかるから、かなり鈍くなってただろうし………」
一瞬、アルテアにも織り込み済みであれはパフォーマンスだったのかと思いかけたネアは、すっと眼差しを暗くした。
やはり、厳しい鉄槌を下さなければなるまい。
「と言うか、ウィリアムさんは最初からアルテアさんが悪さをしていると気付いていたのですね……」
「いや、何て言うか、……アルテアがやらかさない筈もないからな」
「…………ある意味、とても信頼されています」
「ネアにこんなことをしたくらいだから、アルテアは側にいるのは間違いないだろう。逃げないようにしておいたからな」
そう頭を撫でてくれたウィリアムに気を良くして、ネアは自分も報復手段を既に展開していることを告白した。
「朝食のお部屋で後ろから捕獲されたとき、これは動くなと感じたので、アルテアさんの手にべしりと呪いを貼り付けておいたのです」
「呪いか。シルハーンに用意して貰ったのか?」
「ダリルさんです!」
「うわ、ダリル製だと酷いんだろうな」
アルテアが近くに居るに違いないと聞かされていたので、ネアは声を潜める。
ウィリアムは、他人事なので愉快そうに微笑んでいた。
「これでもう、ここからは出れるのでしょうか」
「そうだな、もう少し様子を見て、悪夢が育ちきる前に出ようか」
「もし、お外が危なくてここに避難させられたのであれば、リーエンベルクから出た方がいいですか?」
「実はな、暫くはリーエンベルクから出られないんだ。悪夢の外殻が硬くなっていて、それが緩むまでは無理そうだな」
「…………出られないのですか?」
びっくりして問い返したネアに、ウィリアムは柔和な微笑みを浮かべてもう一度頭を撫でてくれた。
「怖がらせないように、シルハーンも黙っていたんだろう。昨晩あたりから兆候があったし、こういう悪夢の硬化はよくあることだから、あまり心配しなくていい」
「…………むぅ、……だからディノは、私に何度もリーエンベルクを出るように提案したのですね」
食い意地が張りすぎていてその提案を却下してしまったネアは、理由を説明してくれれば良かったのにとしょんぼりした。
(理由を説明してくれたら、ディノにあんな怪我をさせたりしなかったのに……)
喉を押さえた手に、ごぽりと落ちた血の激しさ。
その赤い赤い色を思い出すと、体が震えた。
またじわりと涙が滲んでしまって、ウィリアムが心配そうにこちらを見るのがわかる。
「ネア、あんまり思い詰めないようにな。恐らく、その精霊を炙り出す為に敢えてアルテアの策に乗ったんだろう」
「ふぐ………。………ん、敢えて…………?」
じりっとネアが眉を顰めたその瞬間、ぐらりと地面が揺れた。
悪夢が満ちたのかとどきりとしたネアだが、ウィリアムは微かに首を傾げた。
どこか酷薄な眼差しになると、目に優しいウィリアムの面にも魔物らしい美貌が浮かび上がる。
「…………ウィリアムさん?」
「これは、アルテアの嫌がらせだな。やれやれ、相変わらず懲りない………」
(お、怒ってる…………)
「地震か何かでしょうか?」
「いや、生き物だろう。地下から這い上がってきているみたいだ」
「地下から這い上がってくる類の生き物は大嫌いです………」
「よし、今回の件が終わったらきつく叱っておこう」
この様子であれば、アルテアはまず間違いなく、ウィリアムからもきついお仕置きをされてしまいそうだ。
ネアの報復はじわじわと心を抉るやつなので、ウィリアムには厳しいお仕置きを任せたい。
先程からちらりと一点を眺めているので、あの辺りにアルテアが潜んでいるのだろうか。
いつの間にか、ネアの悪夢はどこか感傷的な霧が晴れて、これからの青空を予感させる朝の清々しい空気となりつつあった。
遠くで教会の鐘が聞こえる。
それは胸を刺すいつかの鐘の音ではなく、穏やかな重なりで静かな墓地に響き渡った。
遠くにある灰色の雲は、やがて雨を降らせるのだろうか。
そうなる前にここを出たいと、ネアは小さな我が儘を胸の底で温める。
そんなことを考えて少しだけ注意が逸れている内に、ふわりと影が揺れてアルテアが当たり前のように合流していた。
「お、派手に揺れてるな」
(おのれ、…………赦すまじ!)
あれだけ危ないことはしないように言ったにも拘らず、どうやら自ら傷を負ったらしいディノも聞き取り次第では処分する方針だが、まずはこの目の前の選択の魔物が犯人なのである。
ダリルから貰っていた呪いを使い、見事成敗してくれよう。
「アルテア、少し悪さをしたみたいだな」
ウィリアムがかけた声もかなりの冷ややかさだが、ネアも百倍返しの追加処分を決めたので、実は先程から呪いの上乗せをする準備を整えている。
「お前、レインカルみたいな顔になってるぞ?」
「……………黙り給え」
その意気込みが伝わってしまったのか、ウィリアムと会話をしていたアルテアは、陰惨な人間の眼差しに怯えているようだ。
大変不本意な言いがかりをつけられたので、ネアはいっそう眼差しに憎しみを込めた。
このまま呪いでお腹でも痛くなってしまえば良いのにという気分で睨んでいると、大仰に溜め息を吐かれて頭を撫でられた。
「あいつがあの程度で損なわれるわけないだろ。暇潰しだよ、暇潰し」
「おのれ、その手をどけなさい!」
ばしりと叩き落としつつ呪いを上乗せし、ネアはにんまりとほくそ笑んだ。
「…………待て、お前今何をした?」
「十倍返しを百倍返しにしたところです。どんな恐ろしい報復になるかは、あまりにも残酷で私の口からは言えません」
「おい……」
「それよりも、ウィリアムさんにけしかけた何某かの後始末をつけて下さい」
ネアがそう言うのは、現在この悪夢の地盤を揺らしているのが、アルテアがウィリアムを足止めする為に育てた怪物だと聞こえてきたからだ。
ネアに悪さをする為の準備が用意周到過ぎて悲しくなるが、嫌われているというよりは、これがアルテアの性質なのだろう。
(と言うか、悪夢のピークが来てしまう前にここから出たいということは、この人達はきちんと理解しているのだろうか?)
いささか口論しつつものんびりとしているので、ネアはぎりぎりと眉を顰める。
それに気付いたらしいウィリアムが、笑いの滲んだ声で耳元で謝ってくれた。
「すまない、ネア。誰かがアルテアの玩具で勝手に遊んだらしくて、少し手こずりそうなんだ。悪夢からは守るから、もう少しだけ我慢してくれ」
「なぬ、……そんなに困った感じなのですか?」
「アルテアが自己破産しそうなくらいには」
「いっそ、自己破産させてみましょうか」
「俺が自己破産したら、お前達があいつの相手をするしかないんだぞ………?」
「安心していいぞ、ネア。これでも第三席の魔物なんだから、頑張って盾になって貰おうな」
そこでまた、大きく地面が揺れた。
ぞわりと地割れから這い出すような嫌な登場方法により、かなり大きな生き物が姿を現す。
ネアは、地割れから何かが覗いたタイミングでウィリアムの手でさっと目隠しをされてしまったので、あまり見ない方がいい容貌のものらしい。
(ちらりと毛皮だか羽だかが見えたような。………哺乳類系か鳥類系かしら?)
そして、慣れ親しんだ魔物とは違う乗り心地に躊躇していれば、ウィリアムの肩にかけた手をしっかりと首裏に回すように指示される。
もぞもぞとその指示に従っていると、二人の魔物の話から外部の手が入ったことでこの襲撃者が想定外の大きさになったようだとわかった。
「………ったく。お前らは離れてろ。ウィリアム、少し展開が荒くなるから、巻き込んでそいつを死なせるなよ」
「うーん、元凶に言われたくないなぁ」
責任を取って対処するらしいアルテアは、ジャケットを脱いでいるのか衣擦れの音がした。
「ネア、そういうことだから少し揺れるぞ」
「わかりました。……ふぁっ?!」
そうウィリアムが言うや否や、距離を取る為の跳躍ではなく、明らかに回避行動的な衝撃があり、ネアは首がもげそうになる。
むち打ちになるのではとひやりとしていれば、ウィリアムが首に手を添えてくれて魔術がじわりと染み込むのがわかった。
手厚く気にかけて貰えて、ネアは何だかほっこりするのだが、乗り物になるのはディノの方が上手なようだ。
「アルテア、上位精霊どころか、最高位に近い精霊の手が入ってますが、思い当たる節はありますか?」
「………さっぱりだな」
ウィリアムの呼びかけが敬語に戻ったことと、アルテアの声が低くなっていることを踏まえるとかなり困った状態のようだが、本当に大丈夫なのだろうか。
(さっきから、精霊という言葉が随分出てくるけれど、ディノは大丈夫かしら………)
怒っていることと、心配はまた別の話だ。
なのでそんな風に考えると胸がキリキリしてしまい、ネアは唇を噛みしめる。
その途端、ふわりとまたディノの香りがした。
(ディノ………!どうせ側に居てくれるなら、早く戻って来て無事な姿を見せてくれればいいのに……)
そんなネアの小さな体の強張りに気付いたのか、ウィリアムが心配そうに声をかけてくれる。
「ネア、大丈夫か?気分が悪くなったりしたら、すぐに言うんだぞ」
「ずっと目隠しをされているのは、そこまで悪いやつだからなのですか?」
「大晦日の怪物が嫌いなら、見ない方がいいな。俺達が見てもそこそこに悍ましい容姿の生き物なんだ。…………シルハーン、間に合いましたか」
「ディノ?!」
「おっと、ネア。シルハーン、こちら側に来てくれますか?」
待ちに待った魔物の名前が呼ばれ、ネアは大慌てでウィリアムの目隠しを外してしまった。
直前に忠告されたばかりだったが、一刻も早くディノの無事を確かめたかったのだ。
慌ててウィリアムが体の位置を変えてくれ、ネアを目を怪物から逸らしてくれる。
「ネア、大丈夫だったかい?」
そこには、心配でたまらなかった真珠色の魔物がいた。
「ディノ!!」
ウィリアムに抱えられたままぱっと笑顔になったネアに、一見どこにも損傷がなさそうに見えるディノが宥めるように甘く微笑む。
艶やかな白の装いは汚れもなく、先ほどの怪我が夢だったかのようだ。
「ごめんね、ネア。少し時間がかかってしまった」
「ディノ、く、首は………、首は大丈夫ですか?!」
「ほら、もう大丈夫だよ。一人にして、怖い思いをさせてしまったね」
ウィリアムからディノに手渡され、抱き上げられたネアは、熱心に大事な魔物の首元をチェックする。
少し喉元をはだけられて丁寧に触られてしまったので、途中からディノは目元を染めてふるふるしていた。
「可哀想に、痛かったでしょう?」
「………君はいつも、そういう風に言ってくれるんだね」
「あんなに血が沢山流れたんですよ、当たり前です!アルテアさんには、きちんと報復してありますからね」
「………報復?」
「とびきり心を抉る、ダリルさん特製のやつです。それと、ここを出たら、どうしてこんな事になったのか教えて下さいね」
「うん。アルテアやウィリアムが居るのはわかっていたのだけれど、君は突然一人にされてしまって怖かったよね」
(…………悪夢は、……怖かったのだろうか?)
そう言われてしまうと、ネアは少しだけ疑問に思った。
そもそも今は停滞期間であるようなので攻撃性はないのだろうが、ネアが考える悪夢というものより、今のところだいぶ優しい。
少し心を痛めた場面とて、ネアを傷付けたのは悪夢ではなく思い出の方であった。
「こちらでは、まだ怖くありませんでした。ディノが怪我をした時の方が、余程心臓が止まりそうでしたよ」
「恐ろしくないという事も、悪夢の質の一つなんだよ。優しいものが心を損なうことも多いからね」
「………かも知れませんね。ディノにはこちらが見えていたのでしょうか?」
「君が見えていたものはね」
後方からそこそこに激しい音がするので、アルテアは頑張って自己破産と戦っているようだ。
感動の再会中のネア達の前に立って防護壁になってくれているウィリアムが、穏やかに他人行儀な声援を送っている。
「ディノ、さっき蝶を追いかけていたのが弟なのです。うちのユーリは可愛いでしょう?…………あら、弟にまで悋気を起こさないで下さいね」
「君はもう私のものなのだから、夢に足を取られないようにね」
「ふふ、私の大事な魔物に、家族を見せたかったのです。ほら、撫でてあげるので機嫌を直して下さいね」
「………ノアベルトの自制心が羨ましい」
「あらあら、ここでぷいっとされても面倒臭いだけなので、このまま素直に籠絡されて下さい」
「ご主人様…………」
微かに甘えるように背中に回された手を寄せられたところで、背後で物凄い音がした。
バリバリと雷のようなものが弾け、アルテアの低い悪態が重なる。
「むぅ、苦戦してますね」
少し心配になってきたネアに、隣まで後退してきたウィリアムは、どこか呆れたような目でそちらを見ている。
「服や手を汚さずに勝とうとしているからだろうな」
「僅かな同情心が灰になりました」
「押さえて消してしまえばいいのにね」
「シルハーン、それが出来るのはあなたくらいですよ」
「君にも出来るだろう?」
「あなたよりは、少し時間がかかりますけどね。……うーん、もしかして、あの獣に餌を与えて大きくしたのはジーンですか?」
「ああ、困ったものだ」
(…………ジーンさんが?)
思いがけない名前に不思議になったが、先程からばらばらと枝葉の欠片が飛んでくるので、事実解明は後回しにしよう。
悪夢の中で更に結界を張るとややこしくなるそうで、ばしりと飛んできた枝が額に当たったので、アルテアへの報復は強化しておかざるを得ない。
「……………む」
そこでネアは、己の迂闊さに小さく呻いた。
「ネア?」
「………普通にあちらを見てしまいました」
「しまった、シルハーン、ネアの目隠しをしてあげて下さい。合成獣ですから…」
「ごめん、目隠しをしてあげれば良かったね。ネア?」
「ネア?」
ディノとウィリアムの胡乱げな声に、ネアはそろりと振り返った。
目の前では、アルテアがお屋敷くらいのサイズの獣と交戦している。
双方魔術合戦の様相を示しており、獣はどうやら高階位の魔術が使えるようだ。
「なかなかに、愛い奴です」
そうネアが評するのは、獣のような四つ足で、大きな翼を持った獣だ。
鱗のあるライオンのような体に鷲の頭があり、一角獣めいた角がある。
「…………おぞましくはないのか?」
「グリフィンのようで、格好いいもふもふだと判断しますが、もしやこちらの世界の評価としては、悍ましい生き物なのですか?」
「合成獣だからね」
「ディノもそう思います?」
「………あまり好ましくはないかな。アルテアはどうやら、嫌悪感を高めるためにあえて作ったようだ」
「むぅ、足が分厚くてもふもふで、なんとも可愛いやつなのですが………」
「そう思えるのは凄いな………」
ウィリアムすら引かせつつ、ネアはその獣を暫し観察した。
頭部が鷲なのはさて置き、ボディの方に何やら既視感がある。
綺麗な緑色の毛皮と鱗のある、がっしりとした体躯だ。
「ディノ、もしかしてあの子は、竜を基盤にして合成されているのでしょうか?」
「元々は竜だったものを、魔術で捻じ曲げて造形を変えたのだろう。………ネア?」
そこでネアは、ディノを困惑させつつ大きく片手を振り回した。
交戦していた獣がそれに気付き目を向けたので、振り返ったアルテアがぎょっとした顔になる。
「おい?!馬鹿かお前は!注意を引いてどうするんだ!」
アルテアには叱られたが、ネアを抱えているディノはひとまず好きにさせてくれるようだ。
「よし、獣さんと目が合いました。………おすわり!!」
「ネア?」
ご主人様の奇行に首を傾げていた魔物が声を上げるのとほぼ同時に、ネアは冷徹な声で指令を出す。
どすん、と大きな音がして、グリフィン紛いの怪物が律儀にお座りをした。
あまりにも激しく座ったので地面は惨憺たる有様になったが、きちんと両足を揃えてこちらを見ている金色の目はどこかとろんとした期待を浮かべている。
「ディノ、元が竜なので言うことを聞きました!」
「………そうか、君は竜の媚薬が使えるんだった」
「しかし、あれもいけるのか、ネアは相変わらず凄いな………」
すっかりアルテアなど眼中になくなってしまった怪物に、試合放棄された選択の魔物はぐったりと肩を落としている。
だいぶ苦戦していたようなので、あんな荒んだ目になってしまうのは仕方ないのかもしれない。
「お前、それが出来るならさっさとやれよ………」
「犯人めが煩いです!そしてディノ、あの子は飼えますか?」
「え、…………ネア、あれは駄目だよ」
「しかし、尻尾?……も、ふりふりで可愛いやつですよ?」
「お前が尻尾と称したのは、大蛇だからな?」
「尻尾として運用しているのであれば、多少顔がついていても尻尾です」
「うーん、人間は凄いなぁ」
「ネア、考えてご覧。あれは魔物を食べるように改良されているし、あそこまで大きくては飼えないよ」
「首回りの羽根がもふふわで可愛いのに………」
その後、散々魔物達を困惑させたが、結局グリフィン紛いの怪物の飼育は許されなかった。
毒霧を吐くし、ベースが死霊なので周囲の森や草花を枯らしてしまうと言われ、渋々諦めたのだ。
どうやら竜の骨から作り上げたものであるらしく、魔術を解けば元の骨に戻ってしまうらしい。
こちらを見て元気に大蛇の尻尾を振っている姿を見ると悲しくなるので、ネアは精一杯いい子いい子と声をかけてやった。
どうか穏やかな気持ちで成仏して欲しい。
「やれやれ、終わったな」
「アルテアの自損事故を見れた一日でしたね」
「やめろ…………」
こちらに戻ってきたアルテアは、珍しく疲弊していた。
ボラボラの時の憔悴ぶりとは違い、息を上げた彼を見るのは初めてだ。
タイを緩め、微かに乱れた髪が妙に色めいている。
「アルテアさんは意外に弱い…」
「ふざけるな、あれは特等の魔物並みだぞ」
「ご自分で作られたやつですよね」
一度は反論したものの、アルテアはその問いかけですぐに黙った。
「それにしても、よくあそこまで育ちましたね」
「血肉でも与えたのだろう」
「うわ、………精霊らしいな」
ディノとウィリアムが世にも恐ろしい話をさも想定内のように語るので、ネアは精霊とは何だろうと考える。
(それと、少し陽が陰ってきたような……)
不安になったので、負傷明けの魔物の三つ編みを引っ張り、ついでにぴょこんと出てしまっている不揃いな短い髪をそっと撫で付けた。
「ご主人様…………」
「ディノ、ここが私の悪夢なら、雨が降るとあまり良くなさそうです。雲が出てきたので出して下さい」
「うん、そうしようか。ここは、墓地なんだね……」
「この墓地は写真では見たことがあるのですが、来たことはないんです。なので想像で補完してしまったのか、向こうの奥に我が家があったり、大聖堂は首都のものだったり、継ぎ接ぎなんですよ」
ざあっと雨待ち風が木々を揺らし、陽が陰ったせいで気温が下がってきた。
死霊魔術を解かれて骨のかけらに戻ったグリフィンは、ネアの嘆きようを考慮したウィリアムが、大きな木の下に埋めてくれた。
「……………話していたのが、君が殺した男かい?」
「ええ。何だか不思議な感じがしました。あんなにたくさん話したのは初めてですから」
「…………そう」
どこか含むところがある様子の魔物に、ネアは小さく微笑んだ。
悪夢に住んでいるからこそ、彼はもう死者なのだと話してもディノに分かるだろうか。
忘れることはないだろうが、決してこの魔物より優先することもないのに。
「………そっくりだったな」
しかし、そんなことを言い出したのはアルテアだった。
首を傾げたネアに、ディノもどこか悄然とするので、どうやらその問題が引っかかっていたようだ。
「誰か、ジークに似ている方がいるのですか?」
「…………お前、まさか認識してないのか?」
「アルテアさんが似ているのは、服装だけですよ?」
「俺な訳ないだろ。あれはどう見ても………」
「む、なぜウィリアムさんを見るのですか?似てません」
「………そうか、目も悪かったんだな」
「アルテアさん、報復率が千倍になってもいいのでしょうか…………」
「やめろ………」
(…………あら、)
そこで、ネアは悲しげに目を伏せた魔物に気付いた。
長い睫毛が真珠色に煌めき、先程の酷い傷を見た後なだけに、その白い無垢さが際立つ。
「ディノも似ていると思います?」
「…………似てない」
「ほら、ディノは似てないと言っているではないですか!」
「あのな、確実に自分に言い聞かせてる言い方だろ。そいつの顔を見てみろよ」
「ふうん、俺に似てるんですか?」
そこで、ネアの悪夢を見ていなかったらしいウィリアムが興味を示し、ディノは暗い顔のまま頑固に首を振った。
隣のアルテアは深々と頷いている。
「似てないと思いますよ。髪の色も目の色も違いますし」
「お前の認識は色だけか。造作の問題だろうが」
「髪型も違います!」
「おい、ウィリアム。少し前髪を上げてみろ」
「うーん、本人が似てないと言ってるしなぁ」
そう言いながらもウィリアムは付き合い良く前髪を掻き上げてみせ、ネアは首を傾げる。
「残念ながら、あまり似てないです」
「そっくりだろうが!お前は、視力を調べろ」
「ディノ、アルテアさんが難癖をつけてきます!」
「……………うん。懲らしめておくよ」
「ほら見ろ、明らかに落ち込んでるだろうが」
「寧ろウィリアムさんよりも、ノアの方が似ているくらいですよ。昔のノアは、同じ髪型でしたし」
「……………ん?最近も会ったのか?」
「さてと、私は自分の悪夢などと早々におさらばしたいので、お外に戻りましょう、ディノ」
アルテアはとても疑わしそうな顔をしていたが、銀狐の正面で食事していても気付かない鈍感さなので、このままにしておいても大丈夫だろう。
「そうだね。まずはここを出ようか」
「………ディノは、怒らないのですね」
「ネア?」
雨待ち風が本格的になってきた。
その風に長い髪を流して、穏やかに微笑んだディノに、ネアはぽつりと呟く。
不思議そうな顔をしたディノを見て、ネアは何だかむしゃくしゃしてきた。
実は、さっきからずっと、引っかかっていたのだ。
(…………心配したのに)
喉を押さえて俯いたまま、したりと嗤った気配は老獪な魔物のそれだった。
なのであの怪我は想定外の事故ではなく、ある程度予測通りの怖くない傷だと理解はしたのだ。
それでもネアは、目の前であんなに酷い怪我をした人を見るのは初めてだったし、それがたった一つの大切なものとなれば、とても怖い。
それなのにこの魔物は、傷を負わされたことが辛いとか、傷を負ってしまってすまないとか、そういうことは一度も言わないのだ。
「あんな酷い怪我をさせられて、お友達とはいえ怒らないのかなと……」
「私はあの程度では損なわれないから、彼も遠慮しなかったのだろう。だから、怒ってはいないかな」
「…………そうなんですね」
「勿論、君を悪夢に放り込んだことについては叱っておくよ。でもそれは、私も避難壕代わりに使えると考えてしまったんだ。ごめんね、ネア」
「その件についてはいいんです。何度も説明するので、予定があるのかと思って覚悟していました。なので、いざとなったら敵を殲滅出来るように、ヒルドさんの靴紐のブーツを履いて完全防備しています」
「………でも君は、少し怒っているような気がする」
不思議そうにする魔物に、ネアは淡く微笑んだ。
話し合うべきところではないし、むしゃくしゃするのを通り越して少し切なくなったからだ。
ディノは少し困ったようにしていたが、ネアに促されて悪夢を出ることを優先する。
そして無事に悪夢を出て地上に戻れば、精霊に荒らされてしまったという悪夢は、確かに気象的にも少し荒れ気味であった。
これでもディノが表面を整えたそうなので、もっと酷かったのだろうか。
実は少しだけ、ネアは朝食を食べた部屋に戻るのが怖かった。
さっきまでは他に考えることがあったものの、終わって落ち着いてから、ディノが酷い怪我をした場所を見るのが嫌だったのだ。
けれど、戻ってみればそこは藍色の絨毯を敷いたリーエンベルクの一部屋に過ぎず、あのリノリウムの床の面影は微塵もなくてほっとする。
「ああ、それと悪夢の派生理由がわかったから、エーダリア達に共有しておこうか」
「何度か話題に上がった精霊さんの仕業ですか?」
「いや、どうやら、避難先でほこりが、悪夢の精霊の王を少しだけ食べてしまったようだ」
「…………え」
思わずネアは絶句し、絶賛他人行儀な対応中の筈のアルテアと目を合わせてしまう。
「…………あいつが?精霊の王を?」
「浅瀬に来ていたところを、味見したようだね。幸い、気に入らなかったらしくて一口以上は食べなかったそうだ。それで、悪夢の精霊の王が荒れたのだろう」
「ああ、だから切実な感じがしたんですね。実際に助けを求めていたわけか」
「…………その前に、精霊の王の守護結界をすり抜けられるあの鳥は一体何なんだ」
(……………ん?)
頭を抱えてしまったアルテアの横で、ウィリアムが少しだけ不思議な動きをしていた。
虚空で綾取りのような指の動かし方をすると、見えない何かをぽいっとアルテアに放り投げる。
目が合ってしまったネアに微笑み、人差し指を唇に当ててみせた。
「ウィリアムさん、さっきのは何だったのですか?」
その後で、エーダリア達を呼びに行きつつ、リーエンベルクの結界の補填をするという役目を申し付けられたアルテアと、その監視係として同行したディノが少しだけ外した際に、ネアはそう尋ねてみた。
ディノがアルテアに同行したのは、見張りよりも話し合うことが目的だと感じたので、ここで大人しくお留守番している。
「俺なりの監視策かな。最近、アルテアには何かと悪さをされてばかりだから、用心の為にね。ネア、内緒にしておいてくれるか?」
「勿論です。………それから、実はウィリアムさんにお願いがあるのですが」
少しだけ悪戯っぽく笑ってみせたウィリアムに、ネアは考えていたお願いを切り出すことにした。
(このやり方を試すなら、今しかないと思うから)
色々考えてみたが、ディノが本気で反省しそうなお仕置きが他に見付からなかったのだ。
「お願いか、何だろう。あらためて言われるとドキドキするな……」
「レーヌさんの件でも色々あったのに、うちの魔物が、まだ平気で危ないことをしてくるのです。さっきも何でもないことのように飄々としていて、私はたいへん腹が立ちました!」
「……ああ、確かに今回のやり方だと、目の前で怪我をされたネアは怖かっただろう」
その言い方で、ネアはウィリアムだけはネアが怖かったものを正確に理解してくれているとわかってほっとする。
「………あの魔物は、私に悪夢が怖かったかと聞くくせに、自分の怪我についてはさっぱりなのです。ディノはもう、私の大事な魔物なので、今までのような好き勝手は許しません!」
「成る程、それで今回のことでもしっかり躾けておきたいんだな?」
「はい。なので、ウィリアムさんに少し手助けして欲しくて……」
「わかった。俺で出来ることなら、手伝うよ。………ん?どうした?遠慮しなくても、前から幾らでも頼ってくれと話してただろう?」
言い淀んだネアに、ウィリアムはそう笑いかけてくれた。
面倒見のいい兄のように頭を撫でてくれるが、ネアの提案は、恐らく彼が考えているよりも遥かに面倒なことなのだ。
(こんなお願いをするのは怖いけれど、ディノ達が戻って来てしまう前に!)
渾身のお仕置きなので、魔物が次は絶対にするまいと思うくらいに嫌がることでないと意味がない。
えいっと覚悟を決めて、ネアはその言葉を切り出した。
「少しの間、ディノと交代して下さい!」
「…………ん?」
驚いたように目を瞠った終焉の魔物を見上げ、ネアはぺこりと頭を下げた。