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悪夢の理由と精霊の浸食



血が吹き出していた喉を片手でするりと撫でると、そこは元通りの滑らかな皮膚に戻っていた。

衣服を重く濡らしていた血も回収し、念の為に床に流れた血を取り残していないかどうか入念に確かめる。


(喉を掻き切られたのは、初めてだな)


そう考えて、傷のあった場所に指先で触れてみたが、特に感慨はなかった。

面倒なく去る為に死んだということにする手法を過去に使ったことはあるが、あまり情緒がないので向いていないとアルテアに言われて以来やっていなかった。

謂く、死んだ感じがしないのだそうだ。


(…………ネアなら、何て言うのかな)


ふと、そう考えた。

ネアなら、死に様よりも、痛かったかどうか聞いてくれるのだろうか。

そう考えると、なぜか少しだけ幸せな気持ちになった。



「さてと、これでもう全部か」


血を奪われることによる支障はそうそう出ないが、念の為に理の魔術に使われないよう慎重にならざるを得ない。

斬りつけられる瞬間からどこに血を落としたのかは逐一捕捉していたが、目まぐるしく形を変える悪夢の中なのでそれなりに厄介であった。


くまなく見て回り、自分の断片を回収し終えると、最後にアルテアが捨てていった仕込み杖を手に取りくるりと回した。

珍しい武器なのでネアが面白がるかもしれないので、ひとまず取っておこう。



(……良かった、………残虐な悪夢ではないらしい)


ちょうどその頃、ネアは悪夢の中の世界でその住人と邂逅している頃だった。

そちらを覗き込み、危うさはないと判断して一息吐いた。

すぐにでも側に行ってやりたいが、ネアに持たせた魂の断片から守りを固め、まずは侵入者の排除から始めることにする。

その為に稼いだ時間なのだ。


(悪夢の中での停滞期間にある限り、暫くネアの身は安全だ)


幾つか不安要因があることはわかっていたので、ネアには最初から悪夢の中で待たせる可能性があると伝えておいた。

その時に詳細までを伝えられなかったのは、まだ先方も動いておらず、自分がどう解決をつけるべきか悩んでいたからである。

相手がどこまでのことをするかで判断をしようと考えていたが、あまりにも己の常識にないことをされると、少しどうしたらいいのか分からなくなる。

おまけに、この精霊と友人になったと言われた時に、決して傷付けてはならないとネアに言われてしまっているのが難題であった。



「…………やれやれ、やはりあの精霊か」



そう呟いて部屋を出ると、気配の濃密な場所を目指した。


(やはり、昨晩の内にネアをリーエンベルクから出しておけば良かっただろうか)


何度か提案したのだが、本人が嫌がったので他の策を講じなければならなかった。

どうやら初めての悪夢が珍しいだけでなく、この悪夢の遮蔽期間の過ごし方に興味があるらしいので、そうなると安易に連れ出すことも出来なくなってしまう。

ハイダットの悪夢はとても珍しいので、それを見たいのであれば他の機会があるかどうかわからないからだ。


(本当は、出られなくなる前に外に出したかった)


先程はウィリアムが上手く誤魔化したが、現在は悪夢の外殻がかなり硬化している。

こうなってしまうと悪夢が晴れるまで外に出るのは容易ではない。

高位の人外者であればともかく、人間は守護を得ていても精神汚染が深刻になってしまうのでまず無理だ。

なのでネアは、一時的とは言え既にここから出られなくなっていた。


「………この硬化も、精霊の仕業かな」


階位が近ければ同列の魔術保有となるだけあり、妖精や竜よりも遥かに厄介なのが精霊であった。

なので身を潜める気配を辿るのに苦労はしたが、重ねて操作を行っていたアルテアが身を隠さなくなったことで、やっともう一方の軌跡も辿りやすくなる。


外でこちらを窺っているのがわかったので、あえてアルテアの策に乗って隙を見せてみれば、彼はすぐさまこちら側に侵入してきた。

と言うことは、ただの善意の抑えではない。


干渉があるので何かをするつもりだとは思っていたが、ここまで入り込める力があるのであれば、ネアを悪夢に隔離しておいて良かったと安堵する。

アルテアも主犯の一人なので少し乱暴な策かと思ったが、少なくともネアの身に危害を及ぼしはしないだろうし、対処はウィリアムが上手くやるだろう。

どちらの策も潰しても良かったが、そうなるとアルテアはまた次の機会を試すに違いないので、ウィリアムの目が届く今回で満足させてしまおうと考えた。


(ウィリアムをこちらに回しても良かったけれど、精霊とは相性が悪いようだし……)


アルテアもよく口にしているが、あれで案外、ウィリアムは好き嫌いがはっきりしている。

今回の件を任せてしまったら、彼は全ての不安要因をまっさらに均してきてしまうだろう。




「ジーン、ここで何をしているんだい?」


悪夢の霧に沈むリーエンベルクの中庭に、見慣れた因果の精霊の姿ではなく、どうやら魔物に擬態しているらしいジーンが佇んでいた。


ネアは気付かれていないと思っているのだろうが、この擬態は、かつてネアが街で声をかけていた木通の魔物を名乗る時用の姿だ。

リーエンベルクをアルテアと訪れた際には気配だけ精霊のものに戻してきていたが、今は悪夢を刺激しないようか、あの時のように魔物の魂を擬態している。

実はこの操作はかなり高度なものなので、ジーンの精霊としての資質がかなり高度な展開を可能にしているのだと教えてくれる。

つまり、この精霊はかなりの厄介な相手なのだ。


多少の不利益を天秤にかけても、ネアを悪夢の中に預けなければいけないくらいには。



「……………万象の魔物」


そう呟いて微かに視線を彷徨わせたので、後ろめたさを感じるだけの自覚はあるのだろうか。

得てして、恋に溺れる精霊はその種の自覚もないことが多いので、ひとまずその理解から促す必要がないことに安堵した。


「ウィームを出たと聞いていたのだけれど、どうしてここにいるのかな?」

「…………あれは、嘘の報告だ。ウィームを出てはいない」

「リーエンベルクの深部に申請なく入り込むだけでも、君は随分と危うい賭けをしているね」

「ネアはどうしたんだ?まさか、悪夢の中で一人にしているのか?」


そう気色ばむ精霊は、アルテアがリーエンベルクに連れてきた時とは違う眼差しでネアの名前を呼んだ。

一般的にも、精霊の恋煩いは思いが募る程に重症化するので、間違いなく症状が進行してきたのだと考えた方が良さそうだ。


「魂の断片を預けてあるから心配しなくていい。それに、アルテアが側にいるし、ウィリアムも自分の核をこっそり持たせていたようだしね」

「しかし、怖がっているだろう?」

「そうだね。でも、折良くこちらの侵食を重ねさせてくれたから、悪夢の停滞期間に預ける可能性があると予めあの子には話してあるよ。勘のいい子だし、今回の私の意図にも気付いたようだ」


精霊の男は、愛する女にかける理の呪いを持つ生き物だ。

故に慎重に距離を置かせようとしていたのだが、さすがにここまで来ると表立って対処をせざるを得なくなる。

彼の手の中にあるものを見て、溜め息を噛み殺した。


「ここに来たのは、ネアが心配だからだ」

「しかし、君がこの場を荒らさなければ、アルテアの悪巧みも成立しなかっただろうに」


ネアですら予感を覚えていたくらい、アルテアが暗躍していることは明白であった。

本人も悟られていることを理解した上でゲームをしていたようだが、その盤面を大きくアルテアに傾けたのがこのジーンである。

なぜかこの精霊は、アルテアが動き易いようにと何度かアルテアの操作を増幅させたり、巧妙化させていたのだ。

あえてアルテアの策に乗ってみたのも、なぜそんなことをしたのだろうかと考えていたからであるが、返ってきたのはまさかの答えだった。


「…………アルテアは、あまり人間にはよくない魔物だ。ネアは仲良くしているようだが、危ない魔物だと知った方がいい」


微笑んだまま、首を傾げた。

それが理由なら、やはり精霊はよく分からない。


「もしかして、それを理解させる為に、アルテアがネアを悪夢に放り込めるように操作したのかい?」

「ネアは、自分にとって邪魔になるものをきちんと理解して排除出来る人間だから、嫌な思いをすればアルテアを嫌いになるだろう」

「…………君は随分と穏やかそうに見えたが、やはり精霊なのだね」



精霊はとても感情的な生き物だ。

その資質を魔物が倦厭することが多いのは、彼等の精神構造の特殊さにある。

どういう訳か精霊という生き物は、特定の執着を向けた相手を最終的には自分と同化して考える傾向があった。

魔物も決して褒められた資質ではないが、そこに相手と自分との境界線があるのだと考えられなくなる分、精霊は御し難い。


「あの子を巻き込むことについては、躊躇いもしないのだね」

「ネアならわかってくれるだろう。同じ判断をすると思う」

「ふうん。それは、君の懸念を?それとも、君こそが相応しい護り手だということをだろうか?」


そう問い返せば、ジーンは少しばかり困った顔をした。


「万象の魔物を排除したい訳ではない。ネアはあなたを気に入っているし、きちんと躾けている。ネアにも、シルハーンの世話を頼まれたので我慢しようと思う」

「……………我慢ね」

「だが、アルテアは余分だろう。ウィリアムも人間には相応しくないが、それは今度でもいいと思う」

「ウィリアムも排除したいのかい?」

「一気に友人がいなくなるのは可哀想だ。なので、ゆくゆくは」


さも当然のように答えたので、途方に暮れてしまう。

価値観が違うとなると、説得というものは若干難しくなってくる。

とは言え壊してしまうには、この因果の精霊の司るものは複雑なものなのだ。


(困ったな、危ないことはしてはいけないと言われているし、精霊を排除しなければいけないとしても、正面からはやめた方がいいだろう)


ネアに再三言い含められているので、とにかく呪いを貰うような危険な真似はするまい。

引き取り手が到着するまで、せめて少しは手を加えようかと思案をして、まずは彼が手にしているものを取り戻そうと考えた。


「ジーン、君が手に持っているのは、ネアの雪靴だろう?勝手に持ち去ってはいけないよ」

「外に出してあった。なので暫く預かっても、彼女は嫌がらないだろう」

「どうかな、とても嫌がりそうだけれど」

「…………お気に入りの靴のようだから、悪夢の風に飛ばされると可哀想だ」

「飛ばされないように、外の乾燥棚に入っていたのだけれどね」


そう言ってもジーンは雪靴を手放す様子がないので、最悪あの雪靴は諦めるしかないようだ。

ネアが悲しまないよう、新しく同じものを手に入れてこっそり入れ替えておくしかない。


(それにしても、鳥籠の内側に入り込めばこちらに気付かれると分かっていただろうに)


まさか、この靴を手に入れる為に危険を冒して侵入してきたのだろうか。

それ迄の悪夢への介入は、リーエンベルクから少し離れた場所で行われていた筈なので、あながちそんな理由なのかも知れない。

とにかく、精霊は不可解な生き物なのだ。



(…おや、………悪夢の質が変化した?)



そこで、ネアを取り込んだ悪夢の繭が変質したことに、微かに眉を持ち上げる。

どうやら、アルテアの仕掛けが混線したようで、厄介な偶然が重なってしまったらしい。

そう考えかけて、目の前の精霊が司るものが因果であることを思い出した。



「もしかして、アルテアが仕込んでいた獣に何かしたかい?」

「ああ、少し大きくした。あまり小さいと、ネアは強いから驚かないだろう」

「………導線も操作したね?」

「ウィリアムしか襲わないようにしてあった。あれでは、ウィリアムが片付けてしまって終わりで、ネアが危険な目に遭わないと、アルテアを遠ざける理由にはならない」

「君は…………」


何かを言いかけて、片手を口元に当てた。

これを壊さないようにするのは、やはりかなりの自制心を必要とされる。


「…………困ったね。あの家だけでも、かなり不愉快だったんだ」

「もしかして、ネアの新しい家のことか?」

「彼女の新しい家ではないし、家というものには鉄格子も外鍵も必要はない筈だよ。君は、あれを牢獄だと思わないのかい?」

「ネアなら、室内で過ごすのも好きだと言っていたから大丈夫だ」

「精霊らしい返答だね、………アイザック、任せていいかい?」


ぎょっとしたようにジーンが振り返り、中庭と別の区画を繋ぐ大きな壁門の横に立っていた漆黒のスーツ姿の魔物が微笑んだ。


「ご安心下さい、シルハーン様。当商会は、担当した顧客を傷付ることは魔術契約の上で禁じられております。それを適用する為に、ハン王子の一件ではジーンをネア様の担当にしたのですから」

「………アイザック」

「ジーン、あなたの為にこうして骨を折るのは何度目でしょうね。上司として言わせていただければ、恋愛は自由にしていただいて結構ですが、顧客を脅かすのはそろそろ遠慮していただきたい」

「あの家のことをシルハーンに伝えたのは、アイザックなのか?」

「正確には、アルテア様にお伝えしました」

「アルテアに……」


困惑したようにアイザックを見上げたジーンには、先程までの落ち着きは見当たらない。

先日よりジーンが暴走するようであれば連絡をくれと言われていたが、そう申し出るだけあり、きちんと管理は出来るようだ。

そして、どうやらこの種の騒動は初めてではないらしい。


「ジーン、上司としても、友人としても、私にはあなたの愚かさを窘めるべき理由があります」

「…………しかし、ネアは」

「ネア様は、持ち込み業者として当社と業務上の提携もしております。アクスの資産を傷付けることもまた、雇用時の契約で禁じられておりますよ」

「アイザックは応援してくれているのではなかったのか……」

「友人としての範疇であれば推奨しておりましたが、このような状態まで来てしまいますと、ネア様ご本人を損ないそうですからね」

「………私は傷付けているつもりはないが、………嫌がるのだろうか?」

「少なくとも、その種の愛情を喜ぶ御婦人ではなさそうですよ」

「そう、………なのか?薔薇を喜んでくれたので、交際しているのかと思ってた」


その言葉に、思わずアイザックと顔を見合わせてしまった。

とても精霊らしいが、ネア本人が聞いたらどうだろう。


「ジーン、あの薔薇はあくまで商品の補填だったと聞いているよ」

「でも、微笑んで受け取ってくれた。………人間は複数の伴侶契約が可能だから他の者とも会うのだろうし、彼女は内向的だから、あまり素直になれないのだろう」


微笑んで頷いてから、解体に向いた魔術を組み上げようとしたところでアイザックが片手を上げた。


「ディノ様、彼はこう見えても生粋の精霊ですので、どうぞご容赦下さい」


暗に常識が通じないのだと言われたようだが、その感覚がネアに害を為すものである場合は、単純に見逃す訳にもいかないのだ。


「精霊の気質は知っているよ。であるならば、彼は諦めないだろう?」

「職務規定により、アクスの第五術式を稼働いたしましょう」

「アイザック?!」


声を上げたジーンが再度振り返るより早く、アイザックが白い手袋に包まれた片手を翳した。

アルテアのそれは服飾の一部だが、アイザックの手袋は指先を隠す為だと言われている。


欲望の魔物である彼は、ある種の悪食の魔物であり、彼の悪食は術式への貪欲さだ。

あまりにも体内に術式を溜め込むので、魔術を動かす時には内部で無駄な展開がぶつかってしまい、指先が炭化するのだと言われていた。



ざっと、鈍い光が弾けて消える。



「ジーン、業務の契約の領域を逸脱しませんよう。これでもアクス商会は、顧客の皆様の評価あっての商売です」


アイザックの朗々とした声に瞬きをしてから、ジーンは困惑したように頷いた。

その瞳にはもう、先程の頑なさは見えない。

穏やかな瞳が困惑に揺れ、何かを悟ったのか疲れたように額に手を当てた。


「…………すまない、アイザック。また暴走してしまったか?」

「思い詰めると正気を失いかけるのはあなたの悪い癖ですね、ジーン。少し落ち着きましたか?であれば、ディノ様に謝罪をされて下さい」

「む。………すまない、万象の魔物。どうも、……こうなると周りが見えなくなる癖がある。アイザックが調整してくれたので、もう安心だ」

「それならば、手に持った靴を置いて、帰った方がいい。私は、先程からあまり愉快な思いはしていないからね」

「わかった。………この靴も、すまなかった」


アクス仕込みの慇懃な一礼を見せてネアの靴を雪の上に置くと、ジーンは人型の縛りを解いて高位の精霊らしい姿になる。

ふわりと靄のような姿になって、ジーンはその場から立ち消えた。


(やはり、気体化出来る階位か………)


気体化出来る精霊は、最高位の領域だ。

今回、これだけの魔物が守りを固めているリーエンベルクに侵入出来るのだから、その界隈なのだろうと思ってはいたが、実際に見るとひやりとする。


悪夢と、最高位の精霊の組み合わせは最悪だった。


気体化出来る精霊は悪夢に入り混じることが出来るので、今のリーエンベルクの敷地内には幾らでも侵入されてしまう。

通常時なら全般を弾くリーエンベルクだが、悪夢の時はその受け皿となるべく、この土地に悪夢を受け入れる結界に移行しているからだ。

つまり、気体化出来る最高位の精霊に限り、防御がかなり手薄になっていたに等しい。

とは言え、そんな精霊は人間の生活圏に滅多に出てこないので、普通はそんな警戒をする必要もないのだ。



散々悪夢を引っ掻き回した精霊が去れば、珍しくアイザックが小さな溜め息を吐く。


「あまり緩急をつけ過ぎるとそれも暴走しますので、好意そのものは消しておりませんが、緩やかに消えてゆくように調整しました」

「彼は、害のない精霊かと思っていたよ」

「あれほど高位の精霊を仕事で使えることはまずありませんので、重宝しているのですよ。ジーンは地道な仕事を好みますし、作業も丁寧です。しかし、数年に一度はこのような騒動を起こします」

「そうであるならば、どうしてネアに近付けたのだろう?君ならば、その手前から操作出来ただろうに」


先程のジーンを調整したのは、欲望を司るアイザックの魔術だ。

欲望そのものを調律出来る彼だからこそ、ジーンの持つ執着や恋情などの希釈が出来るのだろう。


「これでも、先程のものは上司として有事にのみ執行出来る術式なので、そうは使いませんよ。精霊を雇用する時にのみ、このように暴走し社の利益を損なうような場合には、感情の調整をかけられる契約を結ぶのですが……」

「アクスの損益にならない場合は、止めないのかな?」

「ええ。ごく稀にジーンが恋を実らせることもありますが、大抵は二年ほどでお相手の女性を潰してしまいますね。精霊は亡霊を作れませんので、今でも歴代の恋人達の骨を抱いて眠っておりますよ」

「…………死んだ恋人達の骨を保存しているのか。実に精霊らしいね」



精霊の愛し方の顛末として、逃げようとする相手を取り込んでしまう方法がある。

拘束されてもその精霊を愛せない者は、妄執にも似た愛に窒息して死んでしまうことが多い。

相手の死は、精霊にとってその恋を正しく終わらせたものとして納得出来る顛末の一つだ。

故に、あまりにも抵抗すると殺してしまうこともある。

なぜならば、死んだ恋人は決して自分から逃げ出さないからだと精霊は考えるらしい。


「同族を伴侶にすれば問題ないのですが、ジーンは、押し付けがましいと言ってあまり同族を好まないようでして。彼は高位であるが故に竜も倦厭してしまいがちで、あまり出会いがないですしね。身を固めてしまえばこのような事故も起きませんので、困ったものです」

「それこそ、君のところで手配すればいいのでは?」

「友人として試したこともありますが、あれでも勘がいいので逃げられてしまいましてね。アルテア様ですら飼い慣らしてしまったネア様であれば、上手く調教して下さるかと思いましたが、それ以前の問題でしたね」

「………さすがに、ああなった精霊は無理だと思うよ」


とは言え、ネアならば、友人としてのジーンは上手く捌けるのではと考えたこともあった。

ジーンも規格外に穏やかそうに見えたので、あまり口煩く言わないようにと我慢していたのだが、ゼノーシュとアルテアに警告され認識を改めた。


そうして調べてみれば、確かにジーンは珍しく良識的で穏やかな精霊のようだが、それは個人的な興味を示す相手が極端に少ないからだとわかった。

つまりのところ、興味を示したから関わってきた以上、感情を動かしてしまう彼は精霊らしい精霊なのだ。


「当社の者がお騒がせしました。お詫びとしまして、ネア様のお好きな商品を一品無償提供いたしますので、どうぞご依頼下さいとお伝え下さいませ」

「おや、随分と豪気だね」

「アクスに悪い印象を持たれては困りますからね。ネア様とは、長いお付き合いをさせていただきたいですので」


一礼した欲望の魔物が、ふと、思い出したように一本の指を立てた。


「それと、今回の悪夢の派生は、どうやら悪夢の精霊の負傷によるもののようです。アルテア様のところの星鳥が、悪夢の精霊の王を食べようとされたようですね」


思いがけない理由に目を瞠る。

この悪夢の出現も随分と妙だったので、アイザックに原因の解明を依頼していたのだった。


「…………ん?ほこりが?」

「ええ。私がお預かりしている時のことでしたので、アルテア様に放任を咎められそうですが、確かに貝のようなものの断片を食んでいたことがありました」

「悪夢の精霊は、深海に住んでいた筈だけれど、まさか海に潜らせたのかい?」

「いいえ。たまたま浅瀬まで、系譜の精霊達の様子を見に上がってきていたようです。何分、私が目を離したのは数分でしたので、まさか精霊の王を襲撃しているとは思ってもおりませんでした。お恥ずかしながら、調査して判明したくらいでしてね」


聞けば、アイザックが目を離したのは、ほこりが極楽鳥を食べてしまった事後処理をしていたからだと言う。

まさか精霊の王を味見しているとは思わなかったのだろうが、監督不行き届きなのは間違いない。

その責めを負うとわかってはいるだろうに、欲望の魔物は随分と楽しそうだ。


「実に愉快な鳥ですね。成鳥になった暁には、良いご縁が築けるといいのですが」

「確かに君が気に入りそうな生き物だね」


欲望の魔物は欲望に忠実な者が好きだ。

好んで精霊達を雇うのも、彼らの特殊な思考を好んでいるからだと聞いている。

しかし、あれだけの術式を割いて躾ける手間を考えれば、精霊よりも余程使い勝手のいい職員がいるだろうに。


(高位の精霊を調整したのだから、それなりに命を削っただろう)


最高位であるジーンを管理し続けるのは並大抵の努力ではないので、案外友情というものがしっかりと根底にあるのだろうか。

そこまでを理解するのは難しかったが、この頃、手間と執着は釣り合わないのだということぐらいは分かってきた。


「さてと、お戻りになられますか?」

「ジーンが育ててしまった獣が、あの子に危害を加える前にね」

「では、私はジーンが調和を崩したものがないかどうか、少し見回ってから戻りましょう」


抜け目のない申し出に、唇の端を持ち上げて一瞥した。

アイザックはすぐにこちらの温度感に気付き、無念そうに溜め息を吐いている。


「リーエンベルクの招きはここまでだよ。結界を閉じるからもう帰るといい」

「残念ですね。一度、自由にこの王宮の形成術式を見回ってみたかったのですが、あなた様がここまで目をかけられているのであれば、諦めましょう」

「この領域は、あの子のお気に入りだからね。さぁ、そろそろ門を閉じるよ」

「では、失礼させていただきます」



アイザックも去り、余分が抜けたリーエンベルクの結界を丁寧に閉じた。

エーダリアの展開した鳥籠を壊さないように侵入出来る階位の二人だったとは言え、結界内にあり得ない筈の存在が負荷をかけたのは確かなのだ。


ぐるりと見回して粗を整えると、足元に残しておいたネアの悪夢を踏んで、その中の繭に踏み込む為の階段を開く。


コツリと踏んだ床は白く罅割れていて、先程悲痛な目でこちらを見ていたネアを痛ましい気持ちで思い出した。

見守っているので危険は及んでいないと確認しているが、中々戻らないので今も不安がっていると知り慌てて悪夢へ潜る速度を上げる。



悪夢の地下では、アルテアが生み出した獣が咆哮を上げたところであった。




そして全てが落ち着いた後にネアにも事情を説明したのだが、彼女はこちらの意図を正確に汲んでいたが故にとある選択を許してはくれず、今迄にない制裁を加えられることとなってしまった。



そういう意味では、この災厄は耐え難い程の爪痕を残していったのである。


ネアに貰った薔薇を眺めながら、暗い部屋を見回す。

悪夢の前兆で触れた夢と同じ、誰もいない部屋で小さく溜息を吐いた。








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