嵐の揺りかご
嵐の中で目を覚ました。
暗闇が本流となってのたうち、それを伸ばした手で押さえ込む。
滑らかな悪夢の肌触りに、唇の端を持ち上げた。
押さえ込んだ悪夢は純度を高める。
そんな悪夢を解き放てば、堤防が決壊するような奔流となって一点に流れ込むのだ。
木々が風に軋み、ものすごい速さで雲が流れてゆき、春の訪れを近くして緩み始めた雪は、再び硬く凍りついている。
そんなリーエンベルクの地で、悪夢は順調に密度を上げ続けた。
(ネアが死なない程度に整えないといけないがな………)
いつだったか、寝惚けたネアに間違えて呼ばれた名前があった。
その男がどんな人間だったのかを知る為に、いつか悪夢の中に投げ込んでみようとは思っていたのだ。
これ程の好機もあるまい。
よりによって、稀に見るハイダットの悪夢だとは。
精度の低い悪夢であれば、シルハーンあたりが造作もなく晴らしてしまう筈なので、この濃密さには感謝さえしていた。
しかし、人間は悪夢に脆弱な生き物なので、うっかり分量を間違えて死んでしまわないよう細心の注意を払って。
死なせるつもりはないのだと考えて、眉を顰めた。
いつもなら、それはそれでいいと考えるところだったからだ。
飽きれば取り戻すか殺せばいいだけなので、人間に守護を与えることも初めてではない。
「………ま、暇潰しにはなるからな」
それにアルテアは、悪夢を揺りかごに眠る夜がお気に入りだ。
そこには最悪の選択が詰まっており、最高の暇潰しの総集編を読み解くようではないか。
その類稀なる織り上げは、まるで馥郁たる音楽のようだ。
(しかし、ウィリアムの奴が目を光らせているのが厄介だな………)
薄ら寒い微笑みを浮かべて何度も外に連れ出されるので、それなりに警戒しているのかも知れない。
気付かれていると言えばシルハーンもそうだが、その上で仕掛ける楽しみもある。
その為にもまずはウィリアムを遠ざける必要があるので、仕方なくいつかこの土地で暇潰しをする必要が出て来た時の為にとってあった一族から仮面を剥ぎ、相続争いで遮蔽を壊す騒動を起こさせた。
悪夢の中での殺戮程に厄介なものはない。
実現する悪夢の中では多くの命が失われるが、それとは無関係に派生した死は、悪夢を育ててしまうのだ。
つまり、ウィリアムはそれを収めに行かねばならず、数分で済む範囲の作業なので監視の目を緩めると思った。
案の定、終焉の魔物は席を外した。
統括の魔物がその土地の為政者を自らの手で損なうことも許されていないので、エーダリア達が部屋を出るのも待ち、万象がネアから離れる可能性はないので、その手を引き剥がす為に仕込み杖を持っていた。
一瞬の隙で充分だし、万象ともなればせいぜい稼げるのは数秒程度だろうか。
カードのように薄く切り取って胸ポケットに潜ませていた悪夢を使い、立ち上げた悪夢で作ったネアの姿を盾にしてその一撃を隠す。
わかってはいても、ネアの姿をしたものを攻撃は出来ないだろうかと考えたのだが、情けなくも、万象はその一瞬の躊躇でこちらの攻撃を受ける。
寧ろ、あまりにも不手際だと感じるくらいの無防備さであった。
(まぁ、喉を切り裂いても喋るくらいだから、修復が遅かったのは同情心を誘う為だったんだろうが………)
使ったのは、以前一悶着あった毒の魔物を昏倒させた時に、背骨を奪って鍛えた剣である。
希少な武器だが、手元に残す危険は冒せない。
血を得ることは有利とされるのが魔術の理だが、それは相手が掌握出来るかどうかにかかっている。
手に負えない血を手元に置くことは、自ら致死性の呪いを飲み込むようなものだ。
なので、惜しくはあるが捨てざるを得なかった。
加えて、ネアの反応を見る限り、春告げの舞踏会までに機嫌を直させるのもかなり苦労しそうだ。
(…………半月はあるからな。どうにかなるだろう)
シルハーンに関しては、あの程度であれば洒落の範疇だ。
どうにか誤魔化せるだろう。
唯一厄介なのは堅物のウィリアムだが、これは今回厄介な悪夢を部分的に練り上げておいたので、そちらで奮闘して貰おう。
そろそろ、終焉の魔物の匂いを辿った悪夢産の猟犬達が追いつく頃である。
「せいぜい遊ぶといいさ」
そう呟いて微笑みを深めていると、眼下の悪夢の中でぼんやりとした人影が揺れた。
揺らいだ水面が再び絵を結ぶように、形を取り戻した悪夢の中の世界は、意外に思うくらいに穏やかな場所だった。
(墓地となると醜悪な悪夢に派生し易いが、現状としては静謐ですらあるな………)
そして、ネアが一人の男と向かい合った。
こんな風に手を尽くして初めて、自分はあの夜に他の男の名前を呼ばれたことを意外に根に持っていたのだと思い知らされる。
そして、やっと目にしたその男の姿を見て、アルテアは絶句した。
「……………は?」
寝惚けていたとは言え、自分が一度間違われたくらいなのだから、ある程度は似ている要素があるのだろうかと考えていたのだ。
槿とやらに間違えられた時にはしっかり覚醒していたので造作も相当似ていたようだが、しかしながらこちらの男は所詮は人間である。
人間としての完成度には上限があるものだ。
なので、見ておきたいと考えはしても、その容姿に特定の懸念を抱いたことはなかった。
しかし、今目の前にいる一人の男は、思いもよらない姿をしている。
確かに自分に似ているところとして、わかり易さはあった。
服装が似ているのだ。
恐らくネアはあの夜、その要素から似たものとして判断したのだろう。
(いや、………だが、………これか?!)
いつかの雪食い鳥の一件で、ラッカムという迷い子についても、眼差しや表情が似ていると話していたそうだが、毎度そんなことを気にかけるくらいであれば、もっと先に気にするべき相手がいるだろう。
(…………それなのに、何であいつは無反応なんだ?)
彼女からは一度も、かつて愛した男によく似ているのだという言葉を聞いたことはなかった。
であれば認識していないのだろうか?
(いや、造作の精度に違いこそあれ、ここまで似てるのにか?)
さすがにそれは無理があるくらいだと愕然としていると、不意に場の空気が変わった。
思っていたよりも遅かったが、シルハーンがネアを回収に来たのだろうと考えていたが、現れたウィリアムを見てぎくりとする。
(おいおいおい、何であいつがここの座標を特定したんだ?!)
派生した悪夢というものはとても特殊で、災厄らしい悪夢を展開するその最後の瞬間まで、場を閉ざしてしまう。
指輪を渡しているシルハーンのような存在でなければ、派生した時に外側にいた者が中に入り込むのは酷く難しい。
ましてや、この悪夢はアルテアが入り口を完全に塞いでいる筈なのだ。
「…………っつーか、あいつ、まさか猟犬ごと連れて来てないだろうな?」
嫌な予感に立ち上がったところで、避難路であった筈の悪夢のひび割れが塞がれていることに気付いた。
ぞっとして顔を引攣らせれば、塞いでいるのはウィリアムお手製の鳥籠だ。
そろりと振り返った先では、珍しく泣きそうになっているネアを抱き上げたウィリアムが、恐ろしい台詞を吐いていた。
「ネアにこんなことをしたくらいだから、アルテアは側にいるのは間違いないだろう。逃げないようにしておいたからな」
(いや、待て!………猟犬も込みで、この悪夢の中に閉じ込められたのか?!)
どう考えてもあの小綺麗な姿で、猟犬と交戦済みとは思えない。
であれば、本当の大騒ぎはこれからなのだ。
小さく呻いて、塞がれた悪夢のひび割れを蹴りつけた。
「くそっ、シルハーン!どこにいるんだ、さっさとあいつを回収しに来い!」
慌てて声を上げたが応えはない。
まさか本当に死んでやいないだろうなと不安になるくらい、万象の気配はどこにもなかった。
派生した悪夢から悪夢の主を救い出せば生まれた悪夢は終わるのだが、一向に姿を現わす気配はない。
悪夢の中に揺蕩う霧も静かなままで、新たな来訪者の気配はないままだ。
ここで、先程からの違和感の理由に気付いた。
とうに回復して飼い主の保護に来てもいい筈なのに、シルハーンの気配がまだ悪夢の中に感じられないのだ。
道中で張り巡らせてきた糸にも反応がなく、こちらに来ていないのは間違いない。
「…………いや、……おいおい、死んでないよな?」
(まさか、ネアに合わせて妙なところを作り変えてないだろうな?!)
重ねてひやりとして、空間探索をしようとしたところで、いやに低い怨嗟の囁きが聞こえてきた。
「………私も、絶対にアルテアさんがしでかすとは思っていたので、報復の手段は仕込んであります。しかし、ディノにあんなことをしたので、一桁足して百倍返しにしましょう………」
「報復の手段?」
「ダリルさんから、もしもの時用に色々預かっているのです。私の魔物に手を出したことを、地獄の底で後悔させてやります!」
ただでさえ頭を痛めている時に、その名前に膝から崩れ落ちそうになった。
(くそっ、あいつの用意した“もしもの時用”か!!)
確実にえげつない手段なので、両手で頭を抱えそうになった。
どうか、茸の呪いだけは勘弁してほしい。
(っつーか、どこで何を仕込んだんだ?!)
何を仕込まれたのか必死に探っていると、試合放棄したくなるタイミングで悪夢の足元が揺れた。
ようやく、猟犬のお出ましのようだ。
本来ならウィリアムだけを狙うものだが、この狭い悪夢の繭の中で暴れればアルテアも無事では済むまい。
「…………と言うか、ネアは死ぬだろうな。くそ、……いい加減、投げ出したくなってきたぞ……」
げんなりして片手で目元を覆えば、霧の中でおぞましい咆哮が響いた。
大晦日の怪物が駄目なのだから、これは確実にネアの嫌いな生き物だろう。
もはやどちらにせよ重労働は避けられないので、深い溜息を吐くとウィリアム達のところへ向かった。
さすがに死なせてしまう訳にはいかないのだ。
そう考えて、ネアを抱き上げたウィリアムを見た時、思わず顔を顰めてしまった。
「…………あいつ、確実に気付いてただろ」
こちらを見て、やっと出てきたのかと朗らかに微笑んだウィリアムを見て背筋が寒くなる。
案外、猟犬のことも折り込み済みかも知れない。
だからいつも、この終焉の魔物は食えないのだ。
「アルテア、少し悪さをしたみたいだな」
ウィリアムが敬語を外す時は、本気で怒っているときだ。
残念ながらこの悪夢の繭から脱出するには、外の覆いをかけたウィリアムを倒さねばならないし、そもそもこれから大惨事が予想される。
ここは大人しく、猟犬を駆除するまで協力体制を整えるしかない。
そう考えていて、特に反論せずにいると、こちらを見るネアの眼差しにぎくりとした。
ダリル特製の報復手段とやらが何なのか、まだ判明してはいないのだ。
あの妖精もそうだが、この人間も、時として魔物が考えつかないような最低の手段を編み出してくる。
「………ネア」
「ウィリアムさん、空耳が聞こえますが、悪夢が悪さをしているのでしょうか?」
「かもしれないな。念の為に、あちらは見ないようにしようか」
「…………お前ら」
「ああ、それと、……妙な遊びに精を出しているみたいだが、玩具を片付けるまでは鳥籠から出さないからな?」
「だとしても、あいつが狙うのはお前だからな!」
そう言い終えたその瞬間、地面を割って巨大な怪物が姿を現した。
悪夢を糧に随分と育ってしまっており、いささか苦労しそうな大きさになっている。
と言うか育ち過ぎてはないだろうか。
自分で手配したものは、ここまでのものではなかった筈だ。
「…………アルテア、まさかと思うが本気で殺す気で来たんだな」
「期待に添えなくて悪いが、俺が育てたのはせいぜいこの五分の一程度の代物だ。何でここまで育ったのかはわからん」
「言い訳をするにしてももう少しあるだろう。少し前から、精霊の気配があるが、誰かの手を借りたんじゃないのか?」
さも当然のように言われて、そこに他者の介入の痕を見付けてしまい、ぐったりとする。
どうやら、他にもこの悪夢で遊ぼうとしている奴がいるようだ。
「………不確定要素で事態が悪化したことは理解した」
「自分の育てた罠にいつの間にか不確定要素があるとなると、アルテアは無能なのかな」
「…………ウィリアム」
「もしかして、外にある悪夢が閉じてることも気付いてない?」
「………成る程な。だからシルハーンは、こっちにネアを預けることにしたのか」
「遊びに夢中なのはいいが、色々と不手際だらけだな。勿論、この獣の処分くらいは自分で出来るだろう?」
「………どうにかしてやるから、ネアを捕まえておけよ」
しかしながら、全てが終わった後でこの日の出来事を振り返ってみると、やはり一番手に負えないのはネアだという事が、身に染みてわかった。
最悪の一週間が、これから始まろうとしている。