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102. 悪夢の中で懐かしい人に会います(本編)


気象性の悪夢が訪れてから、一晩が明けた。


昨晩は、災厄ご飯と言われるリーエンベルクの保存食を消費する目的の特別な夜食が提供され、ネアはその多彩さを楽しんだ。


コンビーフのようなものに、燻製保存されていたベーコン、乾燥野菜を使った料理に、ドライフルーツを使ったタルト。

保存食が多彩な為、いっそ豪華なくらいのメニューであり、質素なものになるかと思って夕方前に一食入れてしまっていたネア達は驚いた。


今回はまだ利用されていないが、卵やバターにも非常用のルートがある。

質にこだわるアルバンの山から仕入れているものとは別に、リーエンベルクにも鶏が飼われているし、牛もいるのだと、ネアは今回初めて知った。

しかし彼等は、あくまでも保存食用の飼育なので、普段は影絵の向こう側で影絵に住む特殊な妖精と暮らしており、このような時にだけそちらから牛乳や卵を分けて貰うのだそうだ。



そして今朝の朝食は、いつものリーエンベルクの朝食と同じ時間に開始された。

朝に弱い銀狐は、エーダリアの足元のバスケットの中でぐっすり寝ている。

一緒にエーダリアの買ってくれた新しい玩具も入っているので、昨晩はそれに夢中だったのだろう。

ウィリアムは想定内だが、確実に夜型のアルテアも、隙のない装いで朝食を食べていた。


いつもの朝食と違うのは、災厄の中にあるのでその報告が会話の中心となることだ。


「先程、少しだけ悪夢が晴れましたので、ダリルと話をしました」

「カーは、将来有望の魔術師だと聞いていた。惜しいことをしたな………」

「とは言え、彼は魔術師ですからね。自分でもどうなるかわかっていて、それでも悪夢を遮蔽しなかったのでしょう」

「………恋とは、不思議なものだ」


エーダリアがそう憂鬱そうな顔をするのもよくわかる。

ウィリアムが確認した最初の犠牲者が、カーと呼ばれる青年だった。

ウィーム領内のザルツにある大学に通いながら、ウィーム中央にある保管庫に併設された魔術院で研修を受けており、将来有望な魔術師の卵だったのだそうだ。


しかしながら、薔薇の祝祭で半年程交際の返答を保留していた女性の婚約を知り、渡すはずだった花束を持ったまま、ふらりと姿を消してしまったらしい。

二人は幼馴染で、カーは正式に魔術師としての就職を決めてから、あらためて自分から彼女に求婚するつもりだったのだそうだ。

この春からは、リーエンベルクで見習い騎士になる予定の青年だった。


「まだ若い青年ではないか。何も、自ら命を絶つような真似をしなくても……」


そう重ねたエーダリアに、ネアは少しだけ視線を持ち上げた。


その青年を最後に見かけたのは、悪夢の出現を告げて回っていた有志の郵便妖精の一人だったそうだ。

避難を促す声に微笑んで頷いたので、安心していたのにと涙を落としていたらしい。


「その方にとってお相手の女性は、それではなくては駄目な唯一つのものだったのでしょう。ですから、それを己の失策で失ったのだと知ってしまうのは、とても辛いことですよ」

「………お前は、淡々としたものだな」


そう言われて薄く微笑んだネアは、かつて自分もそれに近い選択をしたのだとは言わなかった。

エーダリアはそれを言わなければわからない人ではないので、単に恋という価値観にその重きを見出さないのだろう。


「お気の毒に、とても怖かったのだろうなと思うのです。幼馴染の女性だったのですよね?一過性のものを失うのとは違い、それは、長らく当たり前のように側にあったものを失うということではないでしょうか」

「………しかし、己の命を絶つまでのものか?」

「その方が亡くなってしまった場面を見ていないので何とも言えませんが、恐ろしいものは人それぞれですからね。私は、死ぬまで激辛スープしか飲めないとなってしまったら、絶望のあまり命を絶つかも知れません。誰かがそんなことでと不思議がるとしても、私にとってそれは死ぬ程辛いことなのです」

「絶対にそんなことはさせないから、安心していいよ」

「ディノ、私は苦いだけのものも嫌いです!」

「わかったよ、ご主人様」


ネアの例えを呆れたように聞いていたくせに、エーダリアは大差ない感想を口にする。


「…………確かに、私も生涯術式に触れられないとされれば、深く絶望はするだろうな」

「エーダリア様………」


ヒルドががくりと肩を落とし、ウィリアムが小さく笑った。


「こういう時、人間の感性は独特だなと思うよ。戦場でも時々、もう無理だろうと思うような傷を負った兵士が、とんでもない理由の為に生き延びることがある」

「まぁ!どんな理由だったのですか?」

「俺が見たのは、食欲だな。劣悪な戦場で、その日は月に一度の肉が食べられる日だったんだ。彼は結果生き延びたし、その後も驚異的な回復力を見せて自分の村に戻ったよ」

「親近感が湧く方です。仲良くなれそうです」

「………それは力強く言うことか?」

「アルテアさん、食欲は三大欲求の一つですよ?」

「っつーか、それもよく考えたらろくでもない欲求ばかりだな……」


がこん、と窓が揺れて一同の視線がそちらに向いた。

ネアがさっと目を逸らしたのは、窓の外に厄介な生き物が見えたからだ。


「………おのれ、なぜに大晦日の悪夢を繰り返したのだ!」

「随分大きく見えていたようですね。きっと、悪夢の主は小さな生き物なのでしょう」

「ヒルドさん、この悪夢は、あくまでも持ち主の認識で再現されるのですか?」

「ええ。この悪夢の持ち主には、大晦日の怪物達がこれくらい大きく見えていたようです」


ネアのお願いに応え、ディノが禁足地の森にも結界を張ってくれたが、 その外で悪夢に溢れたものの夢がここまで広がっている。

森の生き物達の中には、結界がどういうものなのか理解出来ず、飛び出してしまうくらいの小さな生き物もいるそうだ。


「犠牲者は、わかっているだけでも五人か………。リーエンベルクを受け皿にしたとは言え、やはり完全に防ぐのは難しいな」

「ハイダットの悪夢が訪れ、第一報が夜明け前だった割には良い方かと思われますよ」

「薔薇の祝祭明けでなければ、もっと減らせただろうに」


そんなやり取りを眺めながら、ネアは窓の外の暗闇が揺れるのをちらりと見てみた。

もう大晦日の怪物はいなくなっており、濃密な闇色の霧のような、悪夢そのものが漂っている。


(この悪夢は、まだ誰かが抑えているのかしら………)


くあっと欠伸をしたアルテアが、食事を途中で切り上げて珈琲を頼んでいる。

やはりこの時間は眠くなってきたようだが、欠伸をしていても、魔物らしく優雅にさえ見えてしまうから不思議だ。


「ところで統括の魔物なアルテアさんは、何か働いたのでしょうか?」

「お前に言われたくないな」

「私はエーダリア様の言いつけ通り、大人しく謹慎中です。騒ぎも事故も起こしていませんよ!」

「………よくそれを得意げに言えたな」


わしわしと頭を撫でられて、ネアはふーっと唸り声を上げた。

梳かしたばかりの髪の毛をくしゃくしゃにされたのだ。


(…………ん?)


その時にふと、ネアはアルテアの手の温度が随分と低いような気がした。

しかし、手袋をしていないのでいつもと違うように思えるだけなのかも知れない。


「ほこりは元気にしてますか?」

「さてな。俺はウィームの外に出てないが、アイザック曰く、現地の世話役から海産物を食べ過ぎると連絡が入ったらしい」

「生ものですから、あんまり食べ過ぎるとお腹が心配ですね」

「……あいつは、傘立ても食べるんだぞ?」

「そう言えば、誰か魔物さんを食べてしまっていたこともありました」

「なぁ、ずっと気になってたんだが、一体誰を食べたんだ?」


ネアは遠い目をした。

あの日は、エーダリアがほこりを連れてガレンに出かけたのだ。

なので、戦犯たるエーダリアはさっきから俯いている。


「魔術宝玉目当てで、ガレンを襲撃しようとした愚かな魔物さんだそうですよ。エーダリア様が気付いた時にはもう、八割方ほこりのお腹の中に入ってしまっていたそうです」

「おい、ガレンの襲撃を企てたなら、それなりの階位だろうが………」

「ガレンに捕獲されていた悪いやつもぺろりだったそうですので、ほこりは優秀な掃除人になりそうです」

「やめろ、ろくでもない役職に就かせるな」

「そうですか?引く手数多になりそうで……………ウィリアムさん?」


かたりとカトラリーを置いて、ウィリアムが視線を上げた。

横からすいと手を伸ばされたネアは、視線をそちらに向けてディノの手を取る。


「ディノ?」

「悪夢が少し揺らいでいるんだ。終焉の気配もしたから、どこかで遮蔽が崩れたのかも知れない」

「リーエンベルクですか?」

「いや、………外だろう。規模は大きくないから、個人宅かもしれないね」


そこまでを無言で聞いてから、エーダリアが立ち上がった。

白いナプキンで口元を拭く仕草に、元王子らしい育ちの良さが見える。


余談だが、ナプキンやお皿、シーツなど三大欲求に基づく備品には白を使うことが許されている。

常に身につけるものではないのと、それらの品物は欲望の魔物の管轄として、自由に白を使うことを許されているのだそうだ。

つまり、アイザックが許可している彼の領域なのである。


「ネア、すまないが…」


ネアに仕事を頼もうとしたエーダリアを、ウィリアムが素早く片手を上げて制した。


「いや、俺が見てこよう。あまり彼女を外に出したくない。ダリルにも伝えておこうか?」

「しかし、これは人間の領域のことだ。手間をかける訳には…」

「エーダリア、気にしなくていい。逆に言えば、終焉の領域でもあるからな」

「……感謝する」

「はは、妙なところで律儀なんだな」


(…………む!やはり仲良くなっている!!)


きちんと頭を下げたエーダリアに、ウィリアムは朗らかに笑っていた。


こんなところで大好きなお兄さんを取られるような感覚を味わう羽目になってしまい、ネアは嫉妬に歯噛みする。

このままドリーに倦厭されてしまったら、ウィリアムしかいない大事な枠なのだ。

決して渡してなるものかと、ネアは死守するべく覚悟を新たにする。


「エーダリア様、私達にもこちらで出来ることはありますか?」

「いや、ウィリアムの言う通りだな。………迷い子はまだ悪夢に触れた事例がない。引き続き、遮蔽空間に留まってくれ」

「むぐぅ」

「ネア様、お辛いでしょうがここはご辛抱下さい。異変があるのであれば、尚更危険かもしれません」

「………はい。しかし、困ったことがあれば頼って下さいね」


手を取っていた魔物に腕を引かれ、ネアはひょいとディノの膝に乗せられてしまう。


「こら!勝手に椅子になってはいけません!」

「まずは部屋に戻ろうか。エーダリア、場合によってはここから出すかもしれないよ。その場合、あれを頼るように」

「ああ。悪夢に障らないことを最優先にしてくれて構わない」


(つまり、それだけ危ういかもしれない状況にあるということなのだろうか?)


であれば勿論大人しくはしているが、ただ避難するだけではなく、ここにいるみんなが安全な状態だと安心もしたい。

大切な人達なのだ。


「ディノ、お外にいるゼノ達は大丈夫でしょうか?」

「心配しなくていい。あくまでも、悪夢の範疇だからね。遮蔽が壊れた施設もあるようだけれど、それは彼等のところに影響はしていないようだ」

「………ほっとしました」


朝食の席がお開きとなり、ウィリアムは外に出て行った。

エーダリアとヒルドは執務室に戻るようで、遮蔽地の続くいつもとは違う側の扉から出て行く。


ネア達も部屋に戻るべく、ディノはようやく膝の上から下ろしてくれた。

椅子を引く音に、窓を揺らす風の音が重なる。

確かに、今までよりは悪夢が揺れている気がしなくもない。



「ところでネア、昨日、悪夢について話したことを覚えているかい?」

「……しっかりと覚えているので、事故らないようにします」


床に下ろす際に、なぜかディノは片手でそっとネアの頬を撫でた。

過保護感が爆発しているようだが、こうやって奇妙に切実な瞳で普通の接触をされると不安になるので控えて欲しい。


コツリと床が鳴り、ディノの手が一瞬離れる。

べたべたする魔物に毒されたのか、その短い別離にほんの少し心許ない気持ちになっていると、後ろから伸ばされた手の中に唐突に収められる。

ふわりと、アルテアの香りがした。

眉を寄せて、ネアはその手をべしりと叩く。


「あんまり、うろちょろするなよ」

「自立しただけでその評価とは、酷い言いがかりです」

「そうか?危機感のなさは、相変わらずだけどな」


振り返って見上げた赤紫の瞳を、ネアは冷ややかに一瞥した。

悪さばかりしているアルテアにも言われたくはない。


「さて、部屋に戻ろうか……おや、」

「竜か、またろくでもない悪夢だな……」

「ウィーム陥落の時かなと思ったが、あの竜はウィームの内戦の時だね」


ものすごい咆哮に、窓がビリビリと震えた。

ネアも驚いてそちらを見れば、窓から見える禁足地の森に真紅の竜の姿が見えた。

どこか影絵のように曖昧な色彩なのは、元になった記憶が随分遠いものだからかも知れない。



「ディノ、ウィームにも内戦が………」



視線を戻したネアは、ぎくりと体を強張らせる。


目を丸くしたまま視線を下げてゆけば、真っ白なリノリウムの床に広がった、鮮やかな真紅にこくりと喉が鳴った。



「…………ディノ?」


首元を抑えた指先が、どぷりと赤く濡れた。

ぐらりと体勢を崩しながらも、万象の魔物は淡く微笑んだ。


「…………成る程、やはり君か。ネアの悪夢を目眩しにするとは、とても君らしい」

「ま、この手の撹乱はあちこちで慣れているからな。まさかお前が引っかかるようになるとは、思ってもみなかったが」


背中の後ろ側で、そう嗤った仮面の魔物の声を聞いている。

一言、一言、その交わされた言葉を脳が理解してゆく。


「……………ディノ」


名前を呼ぼうとしたのに、声が震えてほどけそうになる。



(……………血が、……血がこんなにたくさん)



壊れてしまいそうなか細い呼びかけに、ネアの大切な魔物は微笑みを深める。



「…………大丈夫だよ、ネア。必ず迎えにいくから、安心していい」


「ディノ!」


伸ばした手は、いつの間にか届かない距離になっていた。

ひび割れたリノリウムの床に、広がった血が染みてどす黒くなってゆく。


(…………待って、この部屋の床は絨毯だったはず、………じゃあここはどこ?)


ぞっとしてその違和感に目を瞠れば、見回した部屋はぐにゃりと歪んで奇妙な有様に変化していた。

ああ、これは悪夢だと理解すればひたりと冷たい汗が流れる。


アルテアの手からからんと床に落ちたのは、血を滴らせた仕込み杖だ。

ぎらりと光る刃の部分が、わあっと叫びたいくらいに深く真紅に染まっている。



「ディノ!!」


床に膝をついた魔物は答えない。

血の吹き出す喉を手で押さえており、修復にかける魔術を編む為にそれどころではないのだろうか。

駆け寄りたくても、がっしり拘束されたアルテアの腕からは抜け出せなかった。


「離して下さい!………ディノ!!」


(血を止めないと、血を、……………ディノ?)


泣きそうになって踠きながら手を伸ばした先で、俯いたままの魔物がするりと血に濡れた指で自分の髪を撫でた。

鮮やかに真紅のラインが残り、ネアはその無言のメッセージに短く息を詰める。

その時なぜか、ネアはディノが嗤ったような気がした。


(…………まさか、)


切り落とした髪を通して、繋がっていると伝えたいのだろう。

自棄になったネアが足もバタつかせて暴れている内に、ふつりと部屋の歪みが途切れた。

視界から大事な魔物が消えてしまって、ネアは悲鳴を上げたくなる。


目の前に広がっているのは、深刻な血溜まりとそこに落ちた仕込み杖だけを残した、真っ白なリノリウムの床だけだ。



「毒の魔物の骨から削り出した剣を仕込んだ杖だ。あいつでも、そうそう簡単には治らないか。手放すのは惜しいが、万象の血を滴らせた杖なんぞ、呪いの侵食が洒落にならないからな」

「……………あなたが、」


振り返って睨みつけたネアに、アルテアはとても艶やかに微笑んだ。

無機質に白い部屋の中で、癖のある白い髪は魔物らしい生きた白さを感じさせる。


「だから言っただろう?無防備だと。まぁ、安心しろ。死にはしないさ」

「……アルテアさんが、悪夢を調整していたんですね?」

「ああ。…………一つ、興味があってな」

「………興味?」


ぞくりと、嫌な予感が背中を這い上がった。

視界の先で、艶やかに微笑んだアルテアは、決して特別な表情をしている訳でもなく、いつものままだ。


そして、ぞっとするくらいに優しげに微笑んだ。



「悪く思うなよ?」

「…………え、」



どん、と肩を押された。


その先には恐ろしいくらいの浮遊感があるということもなくて、ネアはふらりと足を縺れさせ、地味に柔らかな草地に尻餅をつく。


しっとりと濡れた下草の柔らかさに、怖々と周囲を見回せば、そこは夜明け前の穏やかな森であった。

先ほどの無機質なリノリウムの床に広がった血溜まりの悪夢のような光景とは違い、どこか牧歌的な光景にネアは瞬きをする。

アルテアも、どこにもいなかった。


背の高いポプラの並木道が遠くに見える。

尖塔のある古い大聖堂に、その奥に見える昔からある檸檬畑の鮮やかな緑色。


(……………私、ここを知っているわ)


ぐしぐしと涙の滲んだ目を手の甲で擦ってからよろりと立ち上がれば、朝靄を這わせたなだらかな丘には、真っ白な十字架の墓碑がどこまでも並んでいた。

ところどころに、オリーブの木や薔薇の木の植えられた立派な霊廟のある墓もあり、その中の一つに一際立派なものがあった。


確信を持ってそこまで歩けば、その前に立つ朧げだった人影がゆっくりと振り返る。



「…………やぁ、君はどこに帰るんだろう?」


穏やかで理知的な声。

完璧に抑制された甘い声なのに、どこか厭世に満ちていて、やれやれまったくどうしてこんなことになったのだろうという皮肉めいた歪んだ笑いも見える。



「…………家に帰ります。とても大切な魔物がいるので、すぐにでも」

「…………そうか」


風にはらりと額に落ちた銀髪を搔き上げ、丁寧に袖を折り上げた白いシャツがしゃなりと音を立てる。

暗灰色のスリーピースのジャケットは、無造作に霊廟の横のオリーブの木の枝にかけられていた。

その袖が、濃くなってきた霧にはたはたと悲しげに揺れる。



「あの家には、もう帰らないのだろうか?」


そう示された白い白い指先を目で追えば、懐かしい我が家が遠くに見えた。

丘の向こうにある我が家の辺りは、まだ夜のようだ。

窓に見える灯りの優しさに、あの中には家族がいるのだろうかと切なくなった。



「………ええ。あの家にはもう帰らないのです。あそこにはもう、私の家族はいません」

「崖から落ちた車が、燃えてしまったから?」

「……………っ、」


そこでネアは、先程のリノリウムの床がどこで見たものだったのかを思い出した。


(あれは、両親の遺体と対面した病院の床だ)


だから、今度は遠くで電話がけたたましく鳴っている。

事件性を調べているところだったので、ネアはその遺体をしっかりと確認せねばならなかった。

ところどころ焼け焦げて、元の面影を失いかけた大切な人達の残骸を見て、自分が手にしていた幸福の全てが死んだのだと、確かに理解したのだ。


リノリウムの床は古くひび割れていて、窓辺は雨の湿度からか結露しており、どこからかこぽこぽと、酸素吸入器の音が聞こえる。

倒れてしまって休まされていたのだろう。

目を覚まして暫くぼうっとしていたので、そんな病院の何でもない光景は、ずっと記憶の中から消せなかった。


悪夢だとわかっていても怖くなって指先を握り込もうとすれば、柔らかく光ったのは乳白色の魔物の指輪だ。

そしてその時、ふわりと心を落ち着かせるいつもの魔物の香りがした。


(…………ディノ)


「ジーク、あなたはそこに帰るのではないですか?」


小さく息を吐いて、ネアは真っ直ぐにジーク・バレットと向き合った。

ネアに指し示された方を向き、ジークは小さく苦笑して首を傾げる。


「死者は、墓穴に帰ったらということかな?」

「はい。あなたは死者です。私が殺してしまった、私の死者なのです」

「それなのに、君は随分と幸せそうだ」


真っ白な霊廟には、見事な白薔薇が花をつけていた。

素晴らしい薔薇の芳香に、朝靄と霧のしっとりとした大気中の水の香り。


「…………ええ。随分と遠くに来ましたから。ジーク、私は復讐の為にあなたを殺す程に強欲です。なのですから、懲りずに幸福になろうとする愚かな罪びとなのです」


ざっと、ポプラの木が風に揺れる。

悪夢とは不思議なもので、この悪夢はどうやら、ネアが自力で見る悪夢よりは品がいいようだ。


「私は、あなたを殺してしまってから、あなたを愛していたのだと自覚しました」


遠くから懐かしいワルツが聞こえる。

地元の名士を集めたパーティで、初めてジークを見かけた夜にかかっていた音楽だった。


「その後、あの世界で誰かを愛したことは一度もありませんでしたが、それでも、あなたを殺したことを後悔したことはありません。………でも、最近は少しだけ考えることもあるんです。………あなたも、この奇妙で優しい世界に来れたなら、自由になれたのかもしれないと」


そう言ったネアに、ジークは微かに首を傾げるような魅惑的な微笑みを向けた。

その微笑みはいつも完璧で、憐れなくらいに絶望が滲んでいたものだ。


「そんなことを考えていて、君は帰れるのかい?」

「ふふ、これはただの感情ですよ。だからこそ、私はあなたの悪夢を見るのかもしれませんが、きっとここは私の悪夢のピークではないのでしょう」

「一番の悪夢はどこだろうね」


ジークの声はどこか穏やかで、妙なことで真摯に悩んでしまう魔物の声音に似ていなくもない。

視線を外して遠くを見るのでネアもそちらを見れば、幸せそうにピクニックをしている家族がいた。


「私の大事な魔物が、どこかに行ってしまったと思ったときでしょうか」


律儀に答えてから視線を戻すと、そこにはもうジークの姿はない。

オリーブの木にかけられていたジャケットが、地面に落ちているだけだ。

静かに歩み寄りそれを拾って丁寧に畳むと、ネアは白い霊廟を装飾する彫刻のある窪みに置いておいた。

そして、一度深く頭を下げる。


「ジーク、あの薔薇を有難うございました。…………例えこれが悪夢に過ぎないのだとしても」


(…………あの夜、)


考えかけてその思考をぱたりと閉ざす。

ここは悪夢の中なので、変に足を取られるような回想は止めよう。

言葉を切って頭を上げると、少しの覚悟を決めて先程ジークが見ていた方を眺めた。

風に乗って聞こえてくる子供の笑う声に、胸が潰れそうになる。


(あれは、ユーリが入院する前に行ったピクニックだった)


ピクニックとは言え家の斜め前の公園に行っただけだが、久し振りに過ごす治療以外の時間に、小さな弟は大はしゃぎだった。


ネアは、疲労が抵抗力の低下に繋がると知っていたのでずっと冷や冷やしていたが、あの時にはもう、両親は小さな弟が二度と家には帰れないと知っていたのだ。

短い命をより短くしても、最後に幸せな思い出を作ってやろうとしたのだろう。


「………あの日は、よりにもよって揚羽蝶がいたのです。そのせいでユーリは大喜びで、私はあの子に無理をさせた蝶が大嫌いになりました」


約束通りの印をくれたのだから、多分ネアの魔物は側にいるので、そう声に出して呟く。

だからネアは、黒い蝶の精霊をいつも容赦なく狩りに行くのだ。

そう考えて小さく微笑んだところで、がしりと腕を掴まれた。


ほっとして胸を撫で下ろす。



「ディノ、…………じゃない?!」


やっと魔物が来てくれたのかとぱっと笑顔で振り返ったネアが見たのは、見慣れた方ではない魔物であった。


「ネア、墓地なんて、悪夢の定説としては最悪のところにいるな」

「…………ウィリアムさん」

「核を持たせていて良かった。シルハーンはどうしたんだ?………ん?ネア?」

「………大怪我をしたのだと思って、実は怪我をしたふりの作戦だったのかなと思って、…………でも、も、もしかしたら大怪我かも知れません!!どうしましょう、ディノが一大事です!!!」


わあっと涙目になったネアにしがみつかれて、ウィリアムは白金の瞳をぎょっとしたように瞠った。

灰白の艶のある純白の軍服が、霧の中でぼうっと光る。


「落ち着いて、ネア。何があったんだ?!」


宥めるような穏やかな声に、ネアは半泣きながらも恨み骨髄の獰猛な目をする。


「…………ディノを保護した後は、絶対にアルテアさんを殺します」

「…………うわ、何があったのか大体わかった」



こんな悪夢の中では決して会いたくない姿をした美貌の魔物は、そう呟いて頭を抱えた。





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