災厄ご飯と狐の尻尾
「ネア!これは何だろう。僕が手伝ってもいい?」
その日、銀狐ことノアは、初めてネアの厨房を訪れた。
目を輝かせて周囲を見ているが、外の菜園にアルテアが勝手に植えた珈琲の木を見付けてくると、途端に渋い顔になって戻ってきた。
「アルテアも良く来るの?」
「アルテアさんは、お料理が上手なんですよ」
「………僕も料理の勉強しようかな」
「ノア、お料理は必要に駆られない立場であるのならば、好きでやるものです。こういうの、苦手でしょう?」
「何で君にはわかっちゃうんだろうなぁ」
「そして、邪魔です!」
「ネア、寂しがりやのくせに僕が側にいなくていいのかい?」
うろちょろするノアがとても視界を遮るので、ネアは、無言でていっと端っこにどける。
渾身の甘い台詞を無視されて悲しそうにしていたが、あまり堪えていなさそうなのがノアらしい。
これがディノなら本気でしゅんとする面倒臭い場面だ。
「ネア、何を作るんだい?」
契約の魔物の余裕なのか、ディノはさも慣れていますといった感じで厨房のカウンターの横に用意された、揺り椅子に座ってのんびりしている。
「お夜食までは時間が空きますからね、つまめるものをと思ったのですが、こちらのお客様からミートボールの注文をいただきました」
「………注文」
鷹揚さから一転、自分がやったことのないシステムに魔物の目が冷ややかになる。
是非にここで争わないで欲しいので、ネアはとっておきの甘い微笑みを向けた。
「ディノだって、いつでも注文してくれれば良いのです。私の作れる範囲のものならば、大事な魔物の為に幾らでも作ってあげますよ」
「………でも、君はいつも食べたことのないものを作ってくれるし…」
「ディノは、グヤーシュが大好きですしね」
「ピザも美味しかったよ」
「ふふ、また作りましょうね」
ピザ作りのときは、上のトッピングを共同作業したので、ディノは楽しかったようだ。
最初は手間取っていたが、すぐに上手に食べれるようになりはふはふと幸せそうに食べていた。
「ピザ………」
少し悔しそうにノアが呟き、ディノは溜飲を下げたようだ。
とは言え今日は、ノアのご要望の少し大人向けのミートボールだ。
(お酒の風味のあるスパイスの効いたクリームソースと、野葡萄のジャムを添えたやつ!)
悪夢の気配はひやりと爪先から冷えてくるので、ウォッカの入ったソースで体を温めることも出来る素敵な料理だ。
使うスパイスはウィリアムがくれたもので、質の良いものを状態保存の魔術がかけてあるのでとても香りがいい。
やがて、くつくつとソースが煮えていい香りがしてくると、魔物達がもそもそと寄って来て目をキラキラさせている。
ディノはともかく、ノアであれば手料理くらい食べ慣れている筈なのでネアは首を傾げた。
「ノア、手料理は初めてではないですよね?」
「うん。一緒に暮らしていた子もいたから、よく食べてたよ」
「では、どうしてはしゃいでしまうのでしょう?」
「ネアが作るからだと思うな。だって、あんまり作ってくれる感じじゃないし」
「ネアはよく作ってくれるよ?」
「あら、お料理は嫌いじゃないので、ディノにはよく作ってますよ?ただ、リーエンベルクのお料理は美味しいので、こちらで作るのは趣味のお料理や、夜食が多いでしょうか」
「僕、…………惚気られてるのかな?」
白いお皿にミートボールのクリームソース煮込みを乗せ、野葡萄のジャムを添える。
一緒にいただくのは古典的な白い蒸しパンで、これをソースに浸しながらいただくのだ。
クネドリーキによく似ているが、こちらの蒸しパンは微かに檸檬の香りがする。
「…………美味しい」
初めて食べたのか、ディノはほろりと呟いて口角を上げている。
グヤーシュが好きなのだから、まず間違いなく好みだろうと考えていたが、また新たなお気に入りを見付けてしまったようだ。
「ネアは料理も上手なんだね。君と一緒に暮らしたら楽しいだろうな」
「と言うか既に、同じ屋根の下にはいるような気がします」
「………これ、同棲?」
「そこに、ディノと、エーダリア様と、ヒルドさんにグラストさん、そしてゼノーシュも入りますね。敷地内全てを含めると、かなりの大所帯になります」
「うーん、あんまり色っぽい感じじゃないね」
「そう言えば、薔薇の祝祭でご一緒された方は、悪夢の影響は大丈夫なのですか?」
「家に帰るように言ったし、大丈夫じゃないかなぁ」
「…………もしや、最後まで見届けていない?」
「一人で帰れると思うよ。最初に会ってた子は、姉妹に会って欲しいって言われて冷めちゃったし」
「冷めちゃったし、ではありません。お会いしていた翌朝のことなのですから、無事に帰宅しているかどうか確認してあげて下さい」
「ほら、別れるのにこんなことで連絡すると、彼女も期待しちゃうだろう?」
「安全確認はこんなことではありません!屑め!」
そこでネアは契約の魔物を振り返り、決してこんな風に無責任な関わり方をしてはならないと言い含めた。
しかし、そんな指導を受けてしまった魔物は悲しげな顔でぺそりと萎れてしまう。
「……………ネア以外のところへは行かないよ」
「将来的に覚えておくべきことです。良い魔物に育って下さいね、ノアは悪い見本です」
「…………………将来もネア以外はいらない」
「しかし、ディノは魔物さんなのですから、私なんかよりずっと長生きするでしょう?」
「…………………しない」
ネアは魔物が頑固になり過ぎないように優しい声で言ってやったのだが、すっかり怯えてしまった魔物は、ぴゃっとなってへばり付いてきた。
ぎゅうぎゅうと抱き締められ、こういう話題はもう少し差し迫ってから話すべきだったかと反省する。
それまでに、気付かれないように教育してゆけばいいのだ。
心外なのは、ノアからも何て残酷な人間なのだろうという怯えを含んだ目で見られていることだ。
まったくもって、意味が分からない。
もしやこの生き物達は、寿命がそもそも違うのだということを度々失念し、お相手がいなくなってしまってから、その理由を理解するのだろうか。
時折びっくりするくらい理解力が低くなってしまうのは、案外自分達を基準に考えることがやめられない所為かもしれない。
(でも、魔術可動域が低いのだから、エーダリア様達のように長生きは出来ないしなぁ……)
そんなことを考えながら水紺の瞳を覗き込めば、へばりついた魔物が傷付いたように瞳を揺らした。
ふるふるし始めてしまったので、困ったなぁと頭を撫でてやれば、ご主人様はどうでもいいと思っているのではないかと恨めし気に呟いている。
「しかし、せいぜい数十年…」
「………………ひどい」
「ネアがシルを虐待してる………」
「ノア、不当な評価付けをしないで下さい」
「ネアに虐待されてる…………」
「ほら、こうやってすぐに荒ぶってしまうんです。変な言葉を教えてはいけません!」
「いや、それが問題じゃないと思うけどなぁ。ここで、ずっと一緒だよとか言ってあげればいいんだよ」
「しかし、人間が幸福に生きられる時間には上限があります。大事な魔物を悲しませないように頑張って長生きはしますが、生物学上の上限はありますので、あまり無茶な約束は出来ないのでは……」
「でも、シルの伴侶になっちゃえば…」
何かを反論しかけたノアが、むぐっと黙り込んだ。
見える異変は何もなかったが、視線のやり取りを見るにディノに何かされたらしい。
こそこそと視線で会話しているが、当事者なので是非に仲間に入れて欲しいところだ。
(寿命の話からの、この不自然な黙り方!事後承諾とかはやめていただきたい……)
じっと見上げた先で、魔物達はどこか頑固な目でだんまりを決め込んだ。
これはもう、ボールを咥えてきて足元でじっとこちらを見上げたままてこでも動かない銀狐と共通するものがあるので、絶対に譲らない姿勢が窺える。
「ディノ、お約束をするときにはきちんと説明して下さいね。事後承諾にしたら、契約違反でぽいしてしまいますよ」
「……………ご主人様!」
「…………そこで、この世の終わりみたいな声を出されると、不安倍増です」
そのあたりで、会話慣れしているノアがするりと話題を変えた。
ネアは騙されるものかと踏ん張ってはいたのだが、無視しきれない話題が出てきたので、うっかり加わってしまう。
「この悪夢、やっぱり変だよね。ハイダットが都市部に派生するのも初めてぐらいだし、前例があるものは人為的な発生だった。今回は、自然派生なのは間違いないんだけれど、………なんていうか、切実?」
「そう、切実な感じがするんだ。単純な悪夢より歪だし、派生した理由があると思うのだけれどね」
「ウィリアム達は何も言ってない?」
「ウィリアムも少し気にしているようだね。最初に外に出た時に、悪夢に終焉の気配がしたと言っていたけれど、途中でそれは途絶えたようだ」
「一番奇妙なのは、悪夢の歪さに特異性があった筈なのに、それがすっかり消えてしまったことだ。まるで、誰かが抑えているようだと思わないかい?」
「…………悪夢にも、個性があるのですか?」
ここで我慢出来ずに参戦してしまったネアは、蒸しパンが足りなかったらしいノアに残りの蒸しパンが入った籠を取ってやりつつ、奇妙な説明を聞かされることになる。
「気象と同じだよ。例えば雷だって、暴風雨の中で落ちるものと、雨も風もほとんどないのに空の上で鳴っているものがあるでしょ?あんな感じ」
「この悪夢はね、当初はもう少し切実な歪さがあったんだ。何と言えばいいのかな、こちらに手を伸ばしてくるようなどこか哀れな切実さだった。でも、今はとても平坦で、ハイダットの割には随分と静かなんだよ。しかし濃度は相変わらず濃いままだし、誰かが手をかけているのかも知れない」
「そんな風に、悪夢を調整することが出来るのですか?」
「出来るよ。派生前の調整なら隠蔽の為だとか、位置を動かして武器の代わりにする者もいる。でも今回は、展開後に変化したんだ」
「って言うか、これをここの誰かがやってるなら分かるんだよね。リーエンベルクの被害を抑えて、少しでも悪夢を緩和しようって意図があるならね」
(手を伸ばしてくるようなものを、誰かが均している………)
ネアは少し考えて、暴れるものをぎゅうぎゅう重しで押さえているイメージを思い浮かべた。
そうするとあまりよろしくない感じがするが、逆に宥めているような感じなのだろうか。
そうでないと、どこかでばぁんと跳ね返りがあるような気がするのだが。
「君がやっているのかなと思ったけれど、狐になってたしね」
「シル、僕も結構器用なつもりだけれど、悪夢の表面を均すのは大技だよ。君は大きいも小さいも無尽蔵だけれど、僕の成りあいでハイダットの悪夢をここまで静かに抑えるのは無理だなぁ」
「やれやれ、そうなると不安要素があるということか………」
「僕、悪夢の間はヒルド達の棟で寝ようかな。ヒルドに何かあったら嫌だし、エーダリアも新しい玩具を買ってくれるって話してたし……」
「玩具はともかく、そうして貰おうかな。しかし、原因を掴まないことには……」
微かに酷薄な様子で目を眇めて、ディノはテーブルの上のネアの手を握った。
先程の会話の続きで、やはり脆弱な人間が心配になるのだろう。
「凄い魔物さんばかり揃っていますが、原因を調べるのは難しいのですか?」
「大河に例えてみようか。僕達はさ、泳ぎが苦手だったとしても死んだりはしないくらい丈夫だよ。でも、どこから小さな水面の流れが変わっているのかを知るには、水の系譜でもなければ難しい。単純に向いてないんだ」
「……確かに、魔物さんはちょっとしたことが意外に不得手だったりしますよね。ディノは泳げませんし……」
「ネアに虐待された………」
「その変な言い回しを覚えてしまいましたね……」
魔物がくしゃりとなったので、ネアは渋い顔になった。
泳げないことを指摘されただけでもダメージを受けているようでは、まだまだだ。
「ネア、やっぱり尻尾もいる………?」
「尻尾はいりません!と言うか、尻尾は切り落としてはまずい場所だったのでしょう?」
「………治らないわけじゃないからね」
「猟奇的な贈り物はご辞退します。ディノの髪の毛だけでも、私の心の許容量は限界値を超えているんですよ!」
目の前であんなに綺麗なものを無残に切り落とされたのだ。
傷心もいいところなので、更に心にダメージを与える尻尾は止めて欲しい。
「…………そう言えば、あの髪の毛はどこにいったのでしょう?私の背面にひそんでいるのはわかりますが、いざというときはどう使えばいいのですか?」
またしても不安が頭をもたげたネアは、この隙に取り外し方も入手できまいかと悪足掻きをして、もう一度話題に上げてみる。
(…………あれ?)
その視線が合うまでの短い一瞬で、ネアはふと引っかかりを覚える。
小さな違和感は、かつてどこかで見たことのある色をしていた。
「そのままで大丈夫だよ。ただ、今回もし何かが起きたとしたら、君の身に危険が及ばない時には、場を崩さないように介入の機を図ることもあるかもしれない。でも、君は私が見ていることをわかるようにしてあげるから、安心していい」
「………ガゼットの時のような感じでしょうか?」
「崩してはいけないものの形が違うけれど、概ねそんな感じかな。悪夢はね、悪夢になるまでの瞬間を停滞期と呼ぶのだけれど、その期間を不可侵としてしまうものなんだ。守護や結びの深い私であればその中にも入れるけれど、他の者の侵入を防ぐから寧ろ安全だという側面もある」
「いきなり、ばーんと悪夢の最悪のところから始まることもあるのですか?」
「そういう種類の悪夢を持つものはいるよ」
「………………むぅ」
その区別をつけられるだろうかと首を捻れば、ノアがぴしりと指を立てる。
「ほら、急に噛み付かれたとか、急にどこかに落ちて酷い目に遭ったとかだよ。突然起きる形のものを恐れるやつもいるからね」
「ノアはそちらですね」
「…………ん?僕そんな悪夢ってあったかな?」
「突然、別れた女性の方が目の前にいるということがあったような記憶ですが」
「……………あったね」
何やら危機感を強めたらしく、ノアは悪夢には触れないようにしようと背筋を伸ばしていた。
それなのに、暫くするとお腹がいっぱいで眠くなってきたのか、うつらうつらとし始める。
夜にはヒルドの部屋に置いて来ようと話していたネアとディノは、すっかり生活サイクルが狐寄りになってきてしまった塩の魔物の姿に、顔を見合わせた。
「満腹になると、眠くなってしまうのですね」
「もう、満腹にならなければいいんじゃないかな」
「腹八分目ですね!こんなに綺麗な魔物さんなのに、悲しい話です………」
「浮気…………」
その後、すっかり眠たくなってしまったノアを銀狐に戻してヒルドに届けると、シーは駄目な息子を見る母親のような目をしていた。
しかしながらこんな眠り狐でも、一応は安全対策であるので悪夢の滞在期間内はそちらの棟に寝かせることになっている。
問題は、いざという時にきちんと目を醒まして働けるかどうかだ。
ネアはかなり不安だったが、ノアのリーエンベルク愛が獣の本能に勝てると信じて、銀色の毛玉を預けて帰って来た。
自分達の部屋のある棟への帰り道、窓に小石のようなものがひっきりなしに打ち付けられているようなので、森の住人の誰かが雹が降る悪夢を見ているようだ。
「ネア、目眩がしたり、酔っているような感じはしないかい?」
「大丈夫ですよ。ただ、やはりこの暗闇は圧迫感がありますね。耳がきんとします」
「………やはり、一度ウィームを離れようか」
「むぐ!せっかくの災厄ご飯を楽しみにしているのです!お夜食は、初めてこの世界で食べる保存食なのに……」
「ご主人様………」
リーエンベルクの厨房では、今晩は保存食を使った夜食になるのだ。
それは、保存食を定期的に入れ替える為でもあり、このような災厄の中では皆平等に困難に立ち向かうという災厄の晩の風習でもある。
まだ髪の一房が不格好なままの魔物と手を繋ぎながら、ネアは途方に暮れた目をしたディノを引き連れて今夜の災厄ご飯に心を彷徨わせた。