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100. 気象性の悪夢が来るようです(本編)


薔薇の祝祭の翌日、ウィーム中央には災厄非常警報が発表された。


早朝の発表であったので、各戸の扉を郵便妖精が叩いて回り、まだ寝惚けて応じた領民達に空間遮蔽を促す。

遮蔽期間によっては食糧備蓄等の問題も発生するので、すぐさま中央市場が開かれ、各商店も在庫をすべてはけさせる勢いで品々を売り始めた。


今回の悪夢は、ハイダットである。

それは、都市部に発生した各種災厄の中でも類を見ない猛烈な強さのものだ。

過去にもハイダットの悪夢が幾例か確認されていたが、ウィーム中央部のような王都クラスの土地での発生は記録にもない。


ヴェルクレアの各都市では避難民の受け入れを始め、王都やガレンでは調査員をウィームに派遣することになる。

しかしながら、王都やガレンから派遣されてきた魔術師達は、リーエンベルクに立ち入ることは出来なかった。



「一番大きな魔術の奔流があるのが、リーエンベルクですからね。言わば、このリーエンベルクこそが災厄の中心、最も被害の及ぶ土地となるんです」


ネアにそう教えてくれたのはヒルドだ。

今回はディノが早々に結界を補填してしまった為、いつもは一時間程かかるリーエンベルクを“閉める”作業が早々に終わり、今は落ち着いて外部との連携に手をかけている。

一番危険な土地を封鎖してしまうことで、周囲への被害を収める方策であるが、その分リーエンベルクでは災厄の影響を直撃的な形で受け止めることになる。

更に言えば、通信が断絶すると指揮系統が途絶えてしまうので、こういう場合はダリルの独壇場だ。

ダリル傘下の優秀な弟子達が散開し、師に良いところを見せて階級付を上げてもらうべく素晴らしい働きを見せるのだとか。


「今回は、ほぼ通信の断絶は間違いないでしょう。その二階級下の悪夢でも、前回は通信断絶の憂き目に遭いましたからね」

「そうなると完全に孤立してしまうんですね」

「とは言え、今回はディノ様方がおりますからね。いざというときに自由に外に出られる人材がいるのは有難いことです」


前回の悪夢の時に、ヒルドはわざわざ休暇を取ってまでしてリーエンベルクに詰めたのだそうだ。

どれだけエーダリアが愛されているのかわかるというもので、ネアはその話を聞いてほっこりしてしまった。


「街の方々は大丈夫なのでしょうか?」

「ウィームの街に張り巡らせた魔術の導線がありますので、住民の遮蔽はほぼ問題ありません。厄介なのは、なまじ魔術可動域の高い者が多い為に、少しくらいなら外に出てもいいだろうと考える者がいることですね」


気象性の悪夢というものは、よく嵐に例えられるが、その例えが好んで使われるのは階位や種族の分け隔てなく訪れるという一点に尽き、どちらかと言えば魔術的な伝染病のようなものだ。

精神を浸食し、実現する悪夢を立ち上げてしまうので精神圧の最も低い人間が一番危うい。

外に出ないことが最たる対抗策であり、逆に言えば遮蔽空間の外にさえ出なければさしたる被害はないのである。


(それなのに、嵐の日の若者ノリで外に出てしまう人がいるだなんて……)


人間は、なんと業深い生き物だろう。

中央市場でも、久し振りのお籠りに張り切ったウィームの民達が押し寄せ、災厄ご飯の買い込みで賑わったそうだ。

それについては、ネアも少し行きたかったくらいなので何も言えない。


「…………薔薇の祝祭で訪れていた外客の収容も終わったようです。残りは、失踪者の捜索と、外に住まう者達ですね………」

「失踪者………」

「薔薇の祝祭で心を痛めた者が、よく失踪しますからね。郵便妖精に応答のなかった家から住人を割り出させていますので、残りはそれくらいでしょうか」


魔術通信板や水鏡を丹念に調べてから、ヒルドは小さな溜息を吐いた。

よりにもよって、恋に破れた者がどんな行動を取るのか理解し難い薔薇の祝祭の翌日であるのが、今回の災厄の一番の頭痛の種なのだ。

それは残念ながら人型の者達に限らず、現在確認が取れているだけでも、竜が二匹、高位の妖精が六人、精霊が二十八人行方不明になっているそうだ。

しかしながらこの辺りの生き物達は、最悪死にはするまいということで、間に合わなければ放置されるようだ。


それ以外の脆弱な人外者達は、ウィームの中央と郊外にある、大きな隔離施設に収容された。

それぞれの系譜の王の元でも勿論庇護は受けられるが、系譜の端っこであったり、独立型の種族で庇護が可能なネットワークを持たない者達もいる。

リーエンベルクの騎士達がその管理と防衛にあたり、今回の収容施設には、歌劇場とダリルダレンが選ばれた。


(ゼベルさん張り切ってた……)


狼大好きの第二席の騎士であるゼベルは、この災厄時の遮蔽空間の警護が大好きなのだそうだ。

見たこともないような珍しい生き物達が集まるらしく、滅多に姿を現さない手のひらサイズの狼の精霊も現れる。

その精霊達が部屋の隅で震えているのを見ると、命に代えても守りたいと熱い気持ちに目覚めるらしい。


ウィームの災厄時には、公共の遮蔽空間はさながら生き物図鑑になることから、ゼベルだけでなく、ガレンの魔術師から他国のボランティアまで、その空間を守りたいと願う有志には事欠かないのだそうだ。



(………そして、私は座っているだけでいいのだろうか)


現在、ネアはヒルドの執務室に預けられる形になっていた。


ディノが、エーダリアと、ウィリアムにアルテアを巻き込んで何やら会議に入ってしまったので、膝の上で丸まって寝ている銀狐と一緒にこの部屋に避難している。

銀狐は悪夢発生の知らせを受けてすぐさま戻ってきたが、昨晩は忙しかったらしくすぐに居眠りを始めた。

今や幸せそうに熟睡しており、ヒルドは呆れた目で見ていた。

このまま災厄の滞在中ずっと寝ていても不思議はないくらい、むぐむぐと寝息を立てている。


(………そう言えば、ほこりはどうするのだろうか?)


アルテアのところにいる筈の星鳥の雛の行方も気になった。

薔薇の祝祭が終わるまではということで、祝祭の余韻が抜けるまでは南国に滞在している予定だった筈だ。

もし後見人がこちらに長く留まるようであれば、連れ帰って来てしまった方がいいような気もするのだが、災厄の特性上、特別変異であるほこりをリーエンベルクに置いておくのは難しいのだろうか。


また各方面からの連絡が入ってきたようで、ヒルドはそのやり取りに没頭しており、ネアは手持無沙汰なのが徐々に辛くなってきた。

みんなが忙しく働いている時に、何も出来ないのは何とも歯がゆい。



(グラストさんとゼノーシュも外だし………)


そちらの歌乞いのチームは、きちんと仕事をしている。

遮蔽空間の一つである歌劇場に詰め、人ならざる生き物達や、帰るに帰れなくなった上に宿も取りはぐれた観光客達の面倒を見るのだ。


このような災害時の遮蔽空間では、よく恋が生まれてしまうそうなので、ゼノーシュの目はたいへんに厳しいものであった。


(狐さんは、働かなくて良いのだろうか………)


何も出来ないネアもそうだが、ノアであれば役に立ちそうではないか。

しかしながら、現在微妙な関係のアルテアとウィリアムが訪れていることもあり、今は悠々とお昼寝中だ。

それに、ディノによると、そもそも働かせる為に帰宅させたわけでもないのだそうだ。


(まさかの、悪夢にひっかからないようにだった………)


ディノの見立てでは、薔薇の祝祭の後のノアは、昼過ぎまで寝ているだろうという予測だったのだ。

そうなると、うっかり悪夢の襲来に気付かずに精神汚染を受けてしまう恐れがある。

今のノアには悪夢というキーワードで、ウィーム陥落の記憶があるので、それが実現する悪夢として展開されたら厄介だろうということだった。


つまり、しっかり自衛しているか見張れる環境に呼び戻したのだ。


(最初は、まさかこれだけ警報が出てるのに寝てて気付かないことなんてあり得ないと思ったけど……)


こうして膝の上で横倒しで寝ている姿を見ると、呼び戻して本当に良かったと思う。

これは気付かないで寝ていたというパターンもあり得たと確信させる寝穢さではないか。



「ネア、終わったよ」

「ディノ!」


そこでようやく、魔物達が戻ってきた。


「これで落ち着くといいんだけれどね」

「エーダリア様とウィリアムさんはまだお話ししているのですか?」

「ああ。鳥籠を結界に転用すると、死者の行列がここで殲滅戦が行われていると勘違いする可能性があるんだ。なので今回は、ウィリアムの鳥籠ではなく、エーダリアがウィリアムの守護を一時的に借りる形で、彼が結界を固めることになったよ」

「凄いです!そんな連携技が出来るのですね!!」


感動してしまったネアに対し、ヒルドは少し心配そうな顔になった。


「エーダリア様の魔術可動域は相当のものですが、ウィリアム様の展開を模倣するとなると、足りるでしょうか?」

「それは心配ない。魔術に関しては私のものを使わせるつもりだ」


さらりとディノが言った言葉に、ヒルドは珍しく瞠目した。


「ディノ様の、………魔術を」

「余分なら幾らでもあるし、この子がいる場所にもしもがあっては堪らないからね。私も結界をかけるつもりだが、人間の作った魔術基盤の上に立つ王宮だ。やはり、リーエンベルクを造った者の血を引く人間が展開する魔術が、一番親和性が高い」

「ご配慮痛み入ります。そうなりますと、遮蔽や被害などの心配はなくなるでしょうが、………エーダリア様が、喜びのあまり無茶をしないといいのですが」

「確かに、新しい魔術式に少し興奮していたようだけど、ウィリアムが上手く指導するだろう。彼は人間との関わりが上手いからね」


ヒルドの懸念を、一瞬、リーエンベルクの長として頑張り過ぎてしまうことかと思ってしまったネアだったが、どうやら違う理由であったようだ。

失念していたが、元婚約者は術式オタクなのだ。


(………うん、エーダリア様大喜びだろうな)


万象の魔物の潤沢な魔術を燃料に、終焉の魔物の鳥籠を作ってみるお仕事だ。

それはそれは喜んだだろう。

魔術師的思考回路がないネアには推察することしか出来ないが、ほとんどの魔術師はそんな機会を与えられたら狂喜乱舞するに違いない。


「ディノは燃料係になってしまって、大丈夫ですか?じっとしていた方が良ければ、私に出来ることがあれば言って下さいね」

「あまり気にならない程度だよ。でも、お願いを叶えてくれるなら言ってみようかな」

「受け付け可能な案件には制限がありますが、何でしょう?」

「悪夢が落ちてきたら、個別包装はなしだよ」

「…………む」

「悪夢という名前の通り、心を調整出来ない就寝時がやはり一番無防備だからね」

「それは、遮蔽していても危ういのですか?」

「まず問題はないだろうけれど、君は迷い子だから絶対とは言えないんだ」

「やむを得ません。一時的に個別包装を解除します……。それと、悪夢は落ちてくるのですね」

「そう。嵐のように発生して、風のように吹き荒れる。そして、暗闇になって落ちてくるんだ」

「むぅ…………仕方がありません、手を繋いで差し上げます!」

「…………可愛い」


ホラー大嫌いのネアにとってかなり嫌な単語が並んだので、さっと片手を差し出した。

魔物は凛とした表情を容易く崩してへなりとなったが、きちんと手を繋いでくれる。


「怖いものは出てきますか?」

「その種の悪夢を実現してしまう者がいなければ大丈夫だよ」

「そうなると、一番耐性がないとされる人間よりも、色々なものを見聞きしている人外者の方々の方が宜しくないような気がするのですが?」

「精神圧が高いと、悪夢の侵食を受けないんだ。ただ、わざと己の悪夢を展開する者はいるからね。……かつて、ノアベルトがやっていた」

「ノアが…………?」


ネアは思わず膝の上の狐を見てしまいそうになり、同じ部屋にアイザックと通信中のアルテアがいることを思い出して、首を傾げるに留めた。


「悪夢が再現されるのは何もその瞬間だけではない。悪夢に至るまでの幸福な時間も反映することがあるから、それを見たかったのだろう」

「…………そうなんですね」

「会いたい者がいても、それは駄目だよご主人様。ノアベルトがやっていたのは、彼が最終的には悪夢から醒めることが出来る精神圧を持つ高位の魔物だからだ。人間は、悪夢の侵食の中で大抵が死んでしまう」

「もし、何かの事故で感染してしまったらどうすれば良いのでしょう?」


そう尋ねると目を細めたので、決して自分からそこに身を晒したりはしないと安心させた。

しかしながら、何かと事故が起きやすいのもネアの身の回りなのだし、またアルテアが雪食い鳥の巣に放り込んだ時のような悪戯心を起こさないとも限らないではないか。


「魔物は悪夢に耐性があるからね、私を呼ぶこと。君との繋がりは薄くなるけれど、アルテアやウィリアムでも何とか手を伸ばせるだろう」

「ディノの側にいた方が良さそうです」

「うん、そうして貰うつもりだよ」


そこで銀狐が寝返りを打ち、床に落ちるというハプニングがあった。

とても恨みがましい目をされたが、自分で落ちていったのだ。

よろよろと去っていった銀狐は、より安定性を求めてヒルドの足元で丸くなった。

そんな一幕を胡乱気に見やりつつ、通信を終えたアルテアが戻って来る。


「やれやれ、よりによってハイダットとはな。シルハーン、悪夢は狂乱してはいないが、アイザックの情報によれば、薔薇の祝祭でお気に入りとの約束を取り付けられなかったそうだぞ」

「それが理由なのかな。………もう少し、歪な感じの悪夢な気がするんだ」

「俺もウィリアムもわからんが、お前が言うならそうなんだろう。精霊の方はどうだ?向こうにも悪夢の精霊がいるだろう?」

「あちらは言葉を持たないからね。精霊の影響ならどうしようもない」

「………何であいつは貝なんだろうな」

「………貝?」

「悪夢の精霊の王は、大きな巻貝なんだよ。南方の海の底に住んでいて、何百年かに一度厄介な悪夢を見るんだ」

「…………貝なのですね」


またしても謎の生き物が出てきて、ネアは遠い目になる。

何とも迷惑な貝ではないか。


「悪夢の精霊の系譜の下の奴らは、死者の行列でも見られるぞ?」

「アルテアさん、私は人間ですので、悪夢の精霊さんに遭遇したいと思ったことはありません。……しかし、その方達も貝なのですか?」

「いんや、人型だな。死者の行列周りの奴らは、飛び抜けて美しいか、醜悪かのどちらかだが、悪夢は前者だ」

「綺麗な悪夢さんなのですね」


ネアが頷いている間に、今度はアルテアとヒルドが何かを話していた。


「ジーン様の影響はないのでしょうか?」

「終焉の因果だからな。完全にないとは言えないが、俺やシルハーンで無効化出来る程度だ。そもそもあいつは自分で制御出来る階位なんだから、自分を見失いでもしない限り……」

「………なぜこちらを見たのでしょう?」


そこで言葉を切ったアルテアがとても嫌そうに振り返ったので、ネアは眉を顰める。

アルテアがこちらを見ているので、ヒルドに邪険にされて戻ってきた銀狐の尻尾がけばけばしてきてしまっている。

ネアの膝によじ登ろうとしていたところだったので、そろりと足の後ろに隠れてしまった。



「…………アイザックから、あいつがお前の為に購入したものがあると聞いた」

「…………念の為に伺いますが、何をでしょう?」

「知らない方が身の為だな」

「…………ものすごく怖いです。ディノ、助けて下さい」

「今回のこともあって、弟の精霊がウィームへの周回を早めたから、ジーンはこのままこの土地を離れる。安心していいよ」

「ディノ、………もしや、ディノもジーンさんが何を買ったのか知っているのですか?」

「さっき、アルテアが話していたからね」


そう頭を撫でてくれたので、ネアは追求しないことにして頷いた。


しかし、数分後にこちらの部屋に戻ってきたエーダリアが青い顔で教えてくれたことによると、ジーンが購入したのは隠れ家であるらしい。

万が一、ネアがディノとの生活に飽きた時用に避難用のシェルターを用意してくれたのだそうだ。

その話を魔物会議の中で聞いてしまったエーダリアだが、なにも本人に言わなくてもいいではないか。

これこそ悪夢に見そうである。


「なぜ私に言うのでしょう!知りたくありませんでした」

「一人で抱え込める筈がないだろう!」

「稀に見る穏やかでまともそうな人だとおもったのに、とんだギャップ詐欺です!」

「まともな相手を珍しく感じるというのもどうなんだ……」

「ちなみに、稀度を上げる側の人員としてエーダリア様も入っています」

「自分でも一般的な気質だとは思わないが、一括りにされるのは彼等なのか……?」


エーダリアがそう視線で示したのは、この部屋にいる若干個性の強すぎる魔物や妖精達である。

さすがに一緒にしてしまうのは可哀想だと思わないでもないが、かといって中間層までは計測していないので、諦めてそちら側に区分されていただこう。


「…………そして、エーダリア様、かなりご機嫌ですね?」

「…………そ、それは仕方あるまい。鳥籠の魔術なぞ、人間では触れることもない領域なのだからな」

「いつもより、瞳がきらきらです。何というか、王子様みたいですよ」

「エーダリア様、くれぐれも調子に乗られて醜態を晒しませんよう」

「ヒルド………」


元家庭教師に叱られて少し大人しくなったエーダリアは、おやっと目を瞠って優しい顔をしたウィリアムに引き取られていった。

これから魔術展開にあたり軽い試作をするそうなのだが、何となくエーダリアが既にウィリアムに懐いている感じがして、ネアはそこはかとなく悔しくなる。

貴重な頼れるお兄さん枠なのだ。

ドリーと気まずくされてしまった以上、ウィリアムに相談に乗って貰うポジションは誰にも譲りたくない。

監視も兼ねてヒルドも席を外すので、ネア達はひとまず部屋を移ることになった。


廊下に出たところでさっそく、ネアは温めていたお願いを切り出すことにした。


「ディノ、お庭のコグリスはどうなるのでしょう?ちょっと可哀想なので助けてあげたいです」

「エーダリアの結界でリーエンベルクごと覆うから、庭のものは大丈夫だよ」

「禁足地の森の生き物達はどうなるのでしょう?」

「心配であれば、禁足地も結界で覆ってあげようか?」

「もし負担があまりないようであれば、お願いしても良いですか?狩りで獲物にしてしまうとは言え、災害で酷い目に遭うのは悲しいのです」

「そうだね。ネアの大事な狩り場だから、大切にしておこう」

「ディノ、有難うございます!」


災厄対策で手を繋いでいたので、腕を引っ張るようにして弾んだご主人様に、魔物は嬉しそうに微笑んだ。

いつも程に照れてしまわないのは、昨晩から少し接触過多であったからだろう。


(…………あ、)


歩きながら、薄暗い窓の外の風景に滲むように、ディノの真珠色の髪が淡い光を帯びる。

歩く歩幅に合わせてゆらりゆらりと揺れるその仄かな虹色の色彩に、思わず目を奪われそうになってしまう。

いつだったか、エーダリアから、魔物は己の質に見合った場に近い方が美しいのだと聞いたことを思い出した。


「ディノ、髪の毛がきらきらしています」

「おや、……悪夢が近いからかな」

「悪夢は、ディノの質に近いのですか?」

「私の質はあまり特定の系譜がないのだけれど、魔術の大きな奔流だからね。それに、ハイダットの規模になると、混沌の気配も帯びるからかな」

「ある意味、こいつは万象だからな。引き摺られやすいことも多いくらいだぞ」


万象というものは、ひどく厄介で込み入ったものだ。

なにものでもあり、なににもなれず、全てに在り、全てに無い。

完成しており、不完全なままで、更に言えば万象であるが故に拘りも節操もない。

恐ろしい程に残忍で、愚かしい程に優しく、とにかく厄介な生き物である。

そんな万象とは何ぞやという記載を記した本の一節を思い浮かべ、ネアは具体的な理解を何も得られないままぱたんと閉じたのを思い出した。

何やら当っている部分もあるにはあるが、要するによくわからないと書きたかったのだろう。

記録の魔物が書いた本にしては、随分と要領を得ない一節であった。


「と言うことは、また今朝のような夢を見てしまったりするのでしょうか?」

「あれはかけらだからね。遮蔽してしまえばもう大丈夫だよ。でも、何かあるといけないから、ご主人様に傍にいて貰わないと」

「またあんな風になると可哀想なので、一人にしないように注意しますね」

「………おいおい、既に悪夢に触れたのかよ」

「まだ悪夢が派生する前だけれどね。けれど、そのお陰で悪夢が生まれかけていることに気付けて良かったよ」

「……………そういや、お前は悪夢は見なかったのか?」

「私ですか?確か、その欠片とやらの影響を受けるのは、魔術階位が大きい方だけなんですよね?」

「近くにいると巻き込まれるぞ」

「……………そう言えば、あんまり芳しくない夢は見たような」


そう答えたネアに、ディノが繋いでいた手を持ち上げた。


「どうして私に言わなかったんだい?」

「む。言われてみれば、そういう類の夢だったかなというだけで、悪夢は多いですよ?」

「…………そうなのかい?」

「食べようとしたチキンを奪われたこともありますし、ホイップバターが石になってしまって、バターナイフで削れない悲しい夢もありました。ムグリスが素敵な魔術可動域増幅の祝福を誰かにしているのを、地団太を踏んで見ているだけの夢も見ます」

「…………お前、それは悪夢なのか?」

「失礼な!立派な悪夢ではありませんか!」


アルテアにどこか不憫そうな目で見られてネアは渋い顔になったが、ディノにも判断がつかないようで首を傾げられてしまう。

それに対して反論をしようとしたネアは、中庭に出る大きな硝子戸の隅に固まっている灰紫色の毛皮にぴたりと足を止めた。


「ディノ、あそこに私色のなにやつかが縮こまっています!」

「夜狼だね。夜を告げる妖精の一種だ。森から出てくるのはとても珍しいから、悪夢を恐れてきたのだろう」

「私色をしているので、他人とは思えません。撫でてあげたいですね……」

「浮気…………」

「私はとても慈悲深い人間ですので、ゼベルさんの為にもあやつを保護したい所存です」

「お前は一つ前の発言から、恥ずかしげもなくよくそう言えたな」



結局ネアは、灰紫色の毛皮の生き物を抱っこさせて貰い、ご機嫌で部屋に戻った。

途中で取り上げられてゼベルの管理している遮蔽施設にパスされてしまったが、愛くるしい毛皮の生き物に安堵の目で見上げられただけでも至福である。



「アルテアさんを野放しにしておいて大丈夫なのでしょうか?」


部屋のある棟で別れたアルテアに、ネアはついそう考えてしまう。

何となく仲間的に馴染んでも来たし、最近はつい頼りにしてしまうが、ここぞというところで悪さをするのも確かだ。


「彼は気紛れだけれど、この土地に害を及ぼす事は出来ないから安心していい。今回は統括の仕事の範疇だ。とは言え、アルテアが遊びたがるような環境ではあるから、ヒルドのところにノアベルトを残してきたんだよ」

「…………そうだったのですね!」


実は、部屋に戻る前にネアと一緒に来ようとした銀狐が、ディノにぽいっとされる場面があった。

爪を立てて抵抗している銀狐を、なぜかヒルドの腕に乗せていたので、うろちょろしないよう預けられてしまったのだとばかり思っていた。


(その際にヒルドさんと目線を交わしていたような気がしたけれど、そういうことだったなんて!)



確かに、アルテアとヒルドの関係性は少しばかり危ういところがある。

上手くやっているが本心はどうだろうと考えたことがあったので、ネアは思いがけない魔物の気遣いに感動した。


これで、エーダリアにはウィリアムが、ヒルドにはノアが付いている構図なのだ。

やはり、いざという時には心強い魔物である。



「ほこりは、南国旅行延長なのでしょうか?」

「アイザックもウィームに戻ってきてしまったから、アルテアが交代の人員を頼んでいたよ。悪夢が去るまでは、暫くあちらだね」

「………ほこりのお世話係がアイザックさんだったことに、驚きを禁じ得ません」

「そうかな?アイザックが好きそうな性格だと思うよ」

「アイザックさんが、もはや謎に包まれました」

「彼はある意味分かりやすいのだけれどね。…………さて、そろそろかな」


微かに緊張感を孕んだ目をして、ディノがネアを膝の上に抱え上げた。

普段なら勝手に椅子になるのは禁止なのだが、今ばかりはその腕にしっかりと掴まる。



ごうっと風が強まり、ばたばたと窓を鳴らした。


(まるで、皆既日食みたいだわ…………)



曇り空に隠されて元々脆弱であった陽光が、ぐっと翳った。

ぐんぐんと空が暗くなり、そのまま暗闇は下に降りてくる。

ディノの言うように、まさに暗闇が落ちてくるという表現が相応しい。


ぶわりと空気の質が変わり、キンと耳の奥が気圧の変化があるかのように重くなる。

窓の外の暗闇を見据えれば、かなり暗いその中にも、ここからが結界の中なのだと分かるような暗闇の境界が見えた。


まるで闇色の霧が立ち籠めるみたいではないか。

根源的な恐怖を煽るくらい、悪夢というものの暗闇はべったりと黒い。



「さあ、ここからは実現する悪夢の中だ」



そう囁いた魔物の声音に、ネアはぞくりと体を震わせた。





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