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灰色妖精と悪夢の前触れ


夜明けに目が覚めると、とても大切なものを忘れている気がした。

薄暗い部屋で起き上がり、長い髪を引き摺るようにして床に足を下ろす。


部屋は、雪の香りがして静まり返っていた。

やはり、何かが異常だと感じてはいたが、その理由が何なのかはまだわからない。


部屋には一人で寝ていたようだ。

振り返っても誰もいないのに、それが堪らなく恐ろしいことに思えるのはなぜだろう。


ふらふらと歩いて鏡台の前に立てば、その上もがらんとしていた。

ここには、もっと色々なものが乗っていたのではなかっただろうか。


(ブラシとか、………スノードームとか)


何となく釈然としない気持ちでまた部屋を歩き、とある棚の前で足が止まった。


(ああ、この抽斗は覚えている)


この中には宝物が入っていたのだ。

革表紙の高価なスクラップブックに、螺鈿細工の飾り箱に入ったリボンの数々。

畳んだ包装紙や、何度も読み返しているカード。


「…………ない」


けれど、からりと引いた抽斗の中はがらんとしていた。

空っぽで何も入っておらず、記憶の中にあるものは何一つ残っていなかった。

ここにあったものはどうしたのだろう。

とうに、捨てられてしまったのだろうか。


そう考えると胸が潰れそうになったので、抽斗をそのままに、早足で部屋を横切り浴室に向かった。


「ここも、………何もないのか」


浴室もがらんとしていた。

完全に使われていない訳でもないが、もうこの部屋を慈しんだ誰かはいないのだ。

そしてそれが誰だったのか、もはや自分は覚えていないのだった。


震える指先で目元を覆うと、この部屋が様々なもので溢れていた頃の思い出が断片的に蘇る。



確か、この浴室には入浴剤の入った瓶が二つあった。

鏡の前にはブーケを模した陶器の置物があり、硝子の小瓶に入った化粧品が幾つか置かれていたような気がする。

でも、そのどれも残ってはいなかった。


よろよろと部屋に戻ってゆけば、開けっ放しの抽斗が寒々しい。

寝台の上にあるのはとりたてて特徴のない灰色の毛布で、部屋そのものもがらんとしていた。


空っぽの抽斗を眺めていると、胸が潰れそうになる。

恐ろしく悲しくて、胸元に手を押し当てて鋭く息を吸う。


もう何もないのだ。


大切なものは何もなくて、もうこの世界には何の意味もない。

彩りが剥がれ落ち、薄暗く息苦しい世界には、一欠片の幸福感も残っていなかった。

そう思った途端、涙が溢れた。



生きていることが恐ろしくて堪らないなんて、これからどうやって息をしてゆけばいいのだろう。

頭を抱えて蹲り、手負いの獣のように呻き声を上げる。



誰か、どうか…………、

願いかけて躊躇して、その叶える者もいない無駄な願いを呟いた。



「…………………誰か、どうか私を殺してくれ」



狂乱の果てに崩壊するまで、そんなことを出来る者がいる筈もない。

あとどれくらい、苦しめば終わりがくるのだろう。

そう考えて、ぞっとした。





「あら、怖い夢でも見ましたか?」


ふわりと、優しい手が頭を撫でる。

ぎくりとして身を竦めれば、優しい口付けが髪に落とされる。

これは夢だろうか。

それとも狂気と正気の間で、都合のいい慰めを見出したのかもしれない。


恐る恐る目を開けると、まだ部屋は暗かった。

そろりと振り返った先に、鳩羽色の瞳に微笑みを浮かべてこちらを見下ろしている少女がいた。


(この子は誰だろう………?)


一瞬そう考えてしまってから、ふつりと揺れた心が彼女の名前を吐き出してゆく。



「…………ネア?」

「む、私のことを忘れてしまいましたか?」

「………いや。でも、忘れてしまう夢をみたんだ」

「それは寂しいですね。忘れられてしまったら、私はどうすればいいのでしょう?」

「ネアはもういないんだよ。………この部屋に、君のものはもう何も残ってなかった」

「………では、ディノは一人ぼっちなのですか?」

「…………うん」


そこでようやく、自分がいるのが寝台の下で、ネアは寝台の上から覗き込んでいるのだと理解する。

いつの間にか下に落ちたようだ。


「ディノ、そこは寒いでしょう。こちらに戻ってきて下さい」

「…………うん」


ネアが持ち上げてくれた毛布の中に戻ると、じわりと染み込むような温もりに安堵のあまり深い息を吐いた。

両手を伸ばすとネアを抱き締めることが出来たので、今日は個別包装を解いて中に受け入れてくれたようだ。


「きっと、さっきの音でびっくりしてしまったのかも知れませんね」

「………音?」

「少し前に、窓にもふもふ妖精が激突したんです。ばすんと音がしたので、私も驚いたのですが、起きるかどうかを自分会議している間にまた少し眠ってしまいました」

「…………妖精が窓にぶつかったのかい?」


それは随分と奇妙な話だ。

この部屋の周りには排他結界が敷かれており、ほとんどの生き物は弾かれてしまう筈だった。

しかし、時折錯乱した個体や、捕食者に追われてその結界を超えてしまうものもいる。

害のない脆弱な妖精であれば入れないこともないので、その類の侵入なのだろう。


それよりも、先程の夢で見た感覚がまだ、生々しく心を蝕んでいた。


抱き寄せたネアの首筋に顔を埋めると、昨晩の甘やかな記憶が蘇る。

あれだけ幸福な夜もないのに、なぜこんな酷い夢を見たのだろう。


「むぐ。髪の毛で窒息します。私の気道を確保して下さい」

「ごめん、ほら、掘り出したよ」

「それと、こちらの手は、私の体の下に差し込んで痛くないですか?」

「君を上に乗せていたいんだ」

「であれば、今日は特別に拘束を許可します」


そう言って頬に手を当ててくれたので、その柔らかな温度に酔いしれた。

柔らかな首筋に唇を押し当て、脈打つ命の音に安堵の息を吐く。


(ああ、そうだ。………あの夢の中になかったのは彼女だ)


今迄もずっと自分にはないものだったけれど、今はもうこの腕の中にある。

それなのにあんな悪夢に、


(…………悪夢?)


ふと、その言葉に眉を顰めた。

それは、通常であれば魔術師達が接近警報を出すべき、気象性の災厄である。


「ネア、さっき窓に妖精がぶつかったって言っていたよね?」

「………ふぁい」


ほとんど眠りかけているネアには可哀想だったが、体を起こすと抱き上げて一緒に連れてゆくことにした。


「むぐ!……眠りを妨げるなど、許すまじ!私に寝台を返して下さい」

「ごめんね、ご主人様。もしかしたら厄介なことかもしれないから、離れないように」

「……………うぅ、……さっきの妖精さんなら、窓の外をもそもそ歩いてゆきましたよ?」

「………一人で見に行ったのかい?」

「いえ、カーテンに影が映っていましたから。………ディノ?」


ネアを抱いたまま窓の近くまで歩いてゆくと、微かに白み始めている空の一点に不穏な白濁が見える。

まだ誰かの目に止まるほどの大きさはないが、万象としての目でみれば、それはまごうことなき前兆であった。


(…………これは)


無言でカーテンを引けば、窓の外の庭には点々と灰色の妖精が落ちていた。

頭を抱えて震えていたり、うろうろと雪の上を歩き回っているものもいる。

哀れっぽく鳴いているのか、しきりに鼻を動かしているコグリスもいた。

それを見た途端目が覚めたのか、ネアが小さく息を飲むのがわかった。


「ディノ、………これは?」

「コグリスは、夢や希望を司る種だから、この災厄に最も敏感な種族なんだ。ネア、すぐに着替えるといい、外に出てもいいくらいにしっかりした格好がいいよ。それと、君を離すわけにはいかないから、隣で着替えること」

「…………なぬ」

「まだ大丈夫だとは思うけれど、君は初めて遭遇する災厄だから、危ないかもしれないんだ」

「背中を向けていてくれます?」

「手伝ってあげるから、早く済ませよう」

「ご主人様の羞恥心を尊重して下さい!」


結局、少しの間だけ目を瞑ってやり、残りは反撃されながらも手伝ってやると、きちんと着替え終わったネアの髪の毛を指で梳いた。

不安そうにこちらを見上げる目線に触発されて、小さな口付けを一つ落とし、短い唸り声を上げさせる。


「ヒルドを起こしておいたから、向こうも動き出しているだろう。リーエンベルクの守りは万全だが、色々と準備はしておいた方がいいね。……これだけの都市が、最前線になるのは珍しい」


その言葉に、ネアの瞳が丸く見開かれる。


「ディノ、………それが、先程話していた災厄ですか?」


畏れと不安の入り混じった瞳に微笑みかけ、自分自身の為に彼女を抱き上げた。



「気象性の悪夢だよ。それも、………近年では珍しいくらいの、ハイダットだ」

「ハイダット………?」

「最大級の災厄だということだよ」



絶句してしまったネアを抱いて、廊下に出た。

仕事が早いヒルドらしく、既に警報が出たのか、リーエンベルクの中は騒然としている。

まだこの棟は静かだったが、他の棟からは忙しなく動き回る気配を感じた。


(………ノアベルトはまだ帰っていないか、)


昨晩は薔薇の祝祭だったので、恋人のところにでも泊まってきているのだろう。

一瞬そのままでもいいかと思いかけ、考え直して呼び戻すことにする。

最大級の災厄の中でも通常通りに動けるのは、各種族の高位の者達くらいなのだ。

いつもの通りすがりの悪夢とは違い、今回はこのウィームという土地そのものへの責任が重石になる。


(アルテアと、………念の為にウィリアムにも声をかけておこう)


どんな生き物でも例外なく影響を受ける魔術的な災厄があるとすれば、それはこの気象性の悪夢である。

気象として派生し、嵐のように訪れて魔術の毒素を浸透させる。

分け隔てなく訪れる事象なので、あまり被害を受けない階位の者達でさえ、決して何の影響も受けない訳ではない。


気象性の悪夢と示される言葉通り、生きとし生ける全てのものに訪れる悪夢の嵐であるのだ。


「…………ディノ、お外は大丈夫なのでしょうか?街の人たちは……」



そして、最も影響を受けるのが人間であった。


しっかりと首裏に回された手が強張っていて、その頼りない仕草が可愛そうで、額を合わせて微笑みかけてやる。


「ごめん、少し余裕がなくて怖がらせてしまったね。ここが完全に私の領域なら問題ないのだけれど、リーエンベルクには、私にも手を出せない部分がある。歩きながら補填しているから、すぐにこの中は安全になるよ」

「……まぁ、そんなことをしてくれているのですね?」

「もう少し簡単に出来るかと思ったんだけど、恐らく彼らは領域外に居る者達を連れ戻すだろうし、普段機能しているリーエンベルクの魔術を壊してもいけないからね。……ここは、随分と魔術基盤の数を作っているようだ。………それに、動いているみたいだし」

「………そういえば、お魚や蝶、鳥の形にしていると伺いました」

「一括の侵食を避ける為の方策なのだろう。今はそれが厄介だけれど、時間までにはどうにかしよう」


幸い、ウィリアムから返答があったので、彼が逗留すれば鳥籠を防壁として使うことが出来るだろう。

彼としても、都市部でのハイダットは初めてのようで、かなり動揺していたようだ。

下手をすれば大規模な死者の行列が発生しかねない。


(しかし、これだけの規模か。………悪夢が狂乱してなければいいが……)


以前、在りし全ての魔物達の調整を握っていた頃は、探らずともわかることも多かった。

細い糸で繋げていたようなものなので、意識すればその向こう側の状態を知る事も可能だったが、今ではその機能は失われている。


これだけの特異的な悪夢ともなれば、どこかで悪夢を司る魔物が狂乱したという可能性も探っておいた方が良さそうだ。



ふっと、あの誰もいない部屋の光景が思い出された。



「…………ディノ?」

「………恐らく、さっき私が見た夢は、悪夢の余波なのだろう」


殺してくれと呟いた自分の声が、今でも耳の奥に残っている。

その絶望に目眩がするようで、例えようのない不快感がこびりついていた。


(あれは、………あれだけは、絶対に嫌だ)


ぐらりと視界が歪む。

押し潰されそうな不快感を何とか堪えつつ、ネアに悟られないように呼吸を整えた。

あんな思いだけは絶対にしたくない。

彼女をどれだけ長く自分の手元に留めるのだとしても、早過ぎるということはない。

今から、彼女が死ぬ時にはどうにかして自分も死ねるよう、手立てを考えておくべきだ。


例え正気を失うのだとしても、狂気の合間に正気が戻らないとは言い切れないではないか。




揺らいでいた視線を固定すると、こちらを心配そうに伺う気配があった。

唇の端で微笑み、何でもないふりをする。


「ディノ?体調は、………どこか具合が悪かったりはしませんか?」

「魔術階位が大きいと、稀に悪夢から溢れた悪夢の欠片がそちらに吸い寄せられてしまうことがあるんだ。あの悪夢を見た以上のことはないから、安心していい」

「でも、………辛かったのでしょう?」


そう言って丁寧に頭を撫でられて、胸の奥の強張りが解けるような気がした。

息を詰めて瞬きをしてからネアを見ると、胸が痛くなるような優しい目をして微笑みかけてくれる。


少しずつ、呼吸が楽になってゆく。

馬鹿馬鹿しいけれど、たったこれだけのことでいいらしい。


「ネア、この悪夢が通り過ぎるまでは、決して危ないことをしないと約束してくれるかい?」

「約束します。何かしたいことがあれば、よく分からないので全部ディノに相談しますね。その代わり、ディノも一人で危ないことをするのは禁止です!」

「………私もかい?」

「勿論ですよ!危ないのでしょう?」

「…………うん、……そうだね。気を付けるようにしよう」

「失格です。ディノは私の大事な魔物なのですから、危ないことは禁止なのですよ!」

「ネア…………」


精一杯厳しい顔をしてこちらを見ているネアに、唇の端が綻んだ。

ものすごく可愛いので少し構っていたいが、さすがに今はそれどころではない。

頭の上に口付けて、もう一度しっかりと抱き直した。



「わかった。約束するよ。………さて、みんなと合流しようか」



空がぼんやりと明るくなってくる。

空は暗く、嵐の前のように強い風が吹いていた。


あと三時間程で、ハイダットの悪夢がやって来る。



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