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花瓶の角度と嵐の前触れ


「何をしてるんだい?」


そう尋ねられて、ネアはぎくりとした。

花瓶に生けたアルテアからの薔薇を、必死に角度調整していたのだ。

あまりにも必死なので、まるでものすごい気に入っているかのようではないか。

かなり気に入ってはいるのだが、これはまた別の問題なのである。


「白一色に見えない設置箇所を探っています。折角なので、赤い色が見えて欲しいのです」

「少し、斜めにしたらどうだろう」

「しかし、そうすると茎がお水から出てしまうのです………」

「斜めに生けられる花器を用意してあげるよ」


そう言ってディノが出してくれたのは、花を斜めに生けられる花瓶であった。

素晴らしいアイテムの登場に、ネアは心から安堵する。


(良かった、これで白い薔薇のブーケに見えない!)


実は、アルテアからこの薔薇を貰ったとき、少なからずどきりとする場面があった。

純白の薔薇のブーケとなると、記憶の中にある複雑な思い出を引き摺り出してしまうからだ。


なので、二面性のある薔薇だと知り安堵したのだが、困ったことに花瓶に生けると白一色にしか見えないという難関が待ち受けていたのである。

アルテアから貰った薔薇は高芯咲きだったので形は違うのだが、一度気になってしまうとどうにも無視しきれない。


(…………ディノの薔薇も白いんだけど、これだけ色味が入っているから、白い薔薇の花束という感じはしないし)


どちらかと言えば、ディノの薔薇は抽象画を彷彿とさせる。

淡い水彩画のような色彩を集めて、見事な庭の絵を描いた人の絵に、とても好きな作品があった。


「ディノのお陰で、無事に飾り終えました!」

「終わったならこっちにおいで。一緒に寝よう」

「……………個別包装です」

「それでもいいよ。おや、その薔薇は枕元かい?」

「お気に入りなので、側に置いておきたいのです」

「お揃いだね」


魔物がそう言うのは、ネアがみんなから貰った薔薇を部屋の各所に設置している間、ディノはネアから貰った薔薇を綺麗な白い花瓶に入れて、枕元に突然設置された華奢な作り付けの飾り棚に置いていたことに由縁する。


そして、その薔薇を眺めて眠りたいので、今夜はネアの隣で眠ると言うのだ。

勝手に壁面に飾り棚を作った位置といい、確信犯なのだが、そんな風にはしゃいでいる姿についつい許してしまった。


よって、今夜は寝台の左右にそれぞれの薔薇が飾られている図式だ。

ネアが第三者なら、ご馳走様でしたと呟いて塩でも飲みたい甘さである。

我ながら恥ずかしい行動だが、こんな薔薇を見たこと自体初めてなので許して欲しい。

薄らときらきら光ることもわかり、ダイヤモンドダストのようでちっとも見飽きないのだ。


(そして、実はこの位置からも、色んな薔薇が見えるように設置されているという、高度な楽しみ方!)


鏡台にはヒルドの薔薇が飾られているし、窓辺にはドリーからの薔薇がある。

寝室の書き物机にはアルテアからの薔薇があり、寝台からは見えない位置となるが、続き間では、ウィリアムの薔薇やノアの薔薇が飾られていた。


(浴室の洗面台のところには、グラストさんの薔薇で、エーダリア様からの薔薇は、続き間の窓辺に)


ジーンからの薔薇も無事に検閲を終え、衣装部屋の入り口にある棚の上に飾られた。

どの薔薇も、日常生活の中で必ず目に入る位置に飾り終えたので、とても贅沢な気持ちで過ごせること間違いなしである。

ネアはほくほくと戦利品を眺め、口角を上げたまま個別包装に入った。


「………愛情の祝福に酔いそうだな」


お隣の魔物は、早く寝ようと言っていたくせに何やらぶつぶつと呟いている。

少しもぞもぞしていたが、寝るときはしっかり灯りを消す主義のネアが容赦なく暗くすると、大人しく寝る体勢に入ったようだ。


目を閉じると、あのディノが連れて行ってくれた素晴らしい晩餐の空間が瞼の裏に蘇った。

どこまでも青い雪原に、きらきらとテーブルの上の白い夜火薔薇が燃える。


(…………っ、)


ふと、唇の温度が蘇って羞恥で仰け反りたくなる。

これ以上はじたばたしたくなるので、慌てて違う映像に切り替えた。

ノアの薔薇の庭園に、アルテアのこれもまた雪原に、ヒルドが見せてくれた太古の森。

それはどれも、お伽話みたいな一級の風景ばかり。


(………こんなものが見られるなんて思ってもみなかった)


隣から、眠りに落ちる前の深い溜め息が聞こえて心が温かくなる。

自分の隣で当たり前のように寛ぐ生き物がいるのは、なんと奇妙なことだろう。


(こんな風に、着心地のいいセーターがこの世にあるなんて)


正確にはネアの知るこの世ではないし、唯一、変態辛い問題もあるが、概ねこれは類を見ない誰にも渡したくない大切なセーターなのである。

そんな、欲しいと思えるものがこの世に存在していることが、この上なく幸せだと思った。

それですら時々おざなりにしてしまうのだから、自分に合うものなど、これくらいしかないのだろう。


(でも、美味しいものが多いし、見たことがないようなものばかりだから………)


ともすればすぐ気が散ってしまうことに、心の中で小さな言い訳を呟く。

ディノは勿論大切な魔物であるし、婚約者としても吝かではない、……自分でも驚くくらい吝かではなくなりつつあるのだが、そもそも生活の全てが目新しくて、この世界はこんなにも美しいのだ。

ネアはまだ、あちこちが気になってしまって視点が定まらない。


(………ただ安心して生きていられるという事自体が、どれだけぶりなのだろう)


両親が命を落とすその少し前の、弟が病気だとわかる前の頃ぶりだろうか。

全てが終わって、ちくちくするセーターを投げ捨ててからの静謐さは嫌いではなかったものの、達観と幸福では比べるべくもない。


(………手足も自由で、体も好きなように動く。常備薬も必要なくて、夜眠る時にこのまま目が覚めなくていいのにとか思わない)


明日の朝食を思って、ネアはほくそ笑んだ。

毎朝あの素敵なパンとバターがあるだけでも、日々の穏やかな心を手に入れられそうである。


大好きなリーエンベルクのみんながいて、ディノがいて。


(でも、そんなディノがやはり一番大切で)


今日、もしディノがここで暮らすことを望まないのであれば、一緒にどこか外で暮らすのだなと漠然と考えた自分に驚いた。

今迄の自分はどこか冷たい人間だと思っていたので、大切なものを一つ諦めてでも優先させるべき誰かが出来るかどうか、かなり怪しいと思ってきたのに。


(でも、私が欲しかったのはそういう誰かなのだ)


竜ではないが、この怪物にもたった一つの宝物が必要だった。

それをやっと手に入れられたのだ。

それはなんて安らかなことだろう。


(…………だから、もう二度とあんな風にすれ違いたくないな)


咎竜の一件は特例であったが、この世界での生活にあまりはしゃぎ過ぎて転ばないように自分を戒める。

でも多分また転ぶ気がしなくもないが、その時は転んでもディノの手を離さないようにしよう。

今夜の祝祭だって、気を抜けば通り魔に薔薇の花束を渡されてしまったかもしれないし、噴水にとまった竜に齧られてしまったかもしれない。

この世界には危険もたくさんあるのだ。


(……………む)


そこでまた、指先の温度から先程の記憶が蘇って、頬に血が昇った。


しかしこの魔物も、すぐに恋愛的な心の機微を食欲や諸々の生活欲求の後ろ側に追いやってしまう残念な婚約者で我慢するには、ある程度は得るものがないとやっていられないだろう。

変態性で希釈されてしまっているが、あれだけ美しく手練手管に長けた男性なのだ。

今迄の異性遍歴をちらりと知る限りでも、決して男性的欲求がないわけでもなく。

となると、健全な範囲であればあの程度の恋人らしい触れ合いくらい……、


(…………ん?恋人としての運用は、第二婚約期間に入ってからではなかったのかしら)


おや?と半分眠りながら眉を顰めたが、今更遅い気がしなくもない。

一度味をしめてしまったら、この魔物は手を引かないだろう。

諸々の変態用のご褒美がそうなのだ。


(そうだった。なし崩しでそうなると太刀打ち出来なさそうだから、白薔薇の魔物さんのようにならないように、もう少し厳しく躾けるのだった!)


とても大切なことを思い出して、ネアは意気込みも新たに眠りに落ちた。

白薔薇の魔物と違い、残念ながらディノの判断基準は森のどんぐりも視野に入れてしまう低さなので、その判断で荒ぶられるのだけはご容赦頂きたい。



(でもそれって、大切なことだろうか。そんな事を考えないで、えいやっと飛び込んでしまった方がいいんじゃないかしら?)



夢の淵で、誰かがそうやって首を傾げる。


きっと、その通りだ。

でも多分、ネアは自分自身の不器用さが恐ろしい。

上手く掴みきれないで大事なものを取り落とさないよう、適切な準備期間が欲しいのだ。


(何しろ、どんぐりや小鳥に嫉妬してしまうようなひとだから)


浮気の基準値の見直しを図らないことには、ネア自身も疲弊してしまう。

追いつめられると逃げるタイプの人間だと自覚しているので、そこはある程度のセーブをかけられるようにご主人様力を鍛えてから。


(……あれ、鍛えるのは……ご主人様力でいいのだろうか?)


ふと、徐々に魔物の趣味に侵食されているようで不安になってきた。

とは言え、いつかはその趣味にも本格的に応じてやらなければなるまい。

それが、この宝物を維持できるかどうかのネアの最後の戦いになるのだ。

事前準備を整えてからは猛火に飛び込む覚悟で頑張る所存であるので、どうかディノから不適格と見做されないと良いのだが。


(もし不合格だったら嫌だな。…………よりによって、どうしてこの種の変態だったのだろう)


得てして完璧過ぎない方がいいとは言うが、他の分野での許容範囲は広いつもりなので、どうしてここを選んでしまったのかとちょびっと切なくなった。

だが、こんな困った魔物だからこそ、するりと心の中に浸透してきたのだと思うこともある。


(幸い、他人様に危害を加えるような変態じゃないし……)


警戒しうるくらいの特等の異性のくせに、可愛らしい変態かつ大型犬的な稚さなど、なかなかに狡い緩さではないか。



そんなことを考えていたせいか、奇妙な夢を見た。



色褪せた草原を温度のない風が渡ってゆく。

その向こうには大きな木があり、その影の中に灰色の三つ揃いのスーツを着た背の高い男性が立っていた。

掻き上げたようなスタイルでセットした髪と、どこかうんざりしたような目のくせに穏やかな作り物の微笑みを浮かべている。

いつものように前髪がはらりと額に落ちてきて、彼は慣れた仕草でそれを掻き上げた。



あんなに肌が白く見えるのは、彼が死者だからかもしれないと考えていたら、その、いやに白い指先がすいと持ち上げられる。

彼が指差す方には、道路を外れて断崖に落ちた、へしゃげた車の残骸が見えた。

同じような車種の黒い車なので、それがどちらの車なのかは判別がつかない。

焦げた匂いが辺りにたちこめ、ネアは小さくくしゃみをする。


いつの間にか、彼の足元には真っ白な薔薇が咲いていて、じわりじわりと茨を伸ばしながらこちらに浸食してくる。

逃げようかどうしようか考えていると、体を震わせるくらいに大きな教会の鐘の音が聞こえてきて、棺を乗せた車のドアをバタンと閉める音が重なった。

小さな弟の亡骸が、墓地へと運ばれてゆく。

そうして次は、両親の二つの棺をたった一人で見送るのだ。



大き過ぎる鐘の音に耳を塞ぎながらも、ネアはすぐ側に頼もしい魔物の温度を感じていた。


だから大丈夫だ。

これはただの夢で、こんなにも曖昧な輪郭のものに損なわれなどしない。



しかし次の瞬間、ぼすん!と、もの凄い音がした。


「…………っ?!」


ぎょっとして目を醒ましたネアが音がした方を見れば、カーテンの影ごしに、窓に何かがぶつかったのがわかった。

毛皮のある丸いシルエットの物体で、カーテンの隙間から灰色の毛皮が見えた。


(…………コグリス?)


窓に激突したらしいコグリスは、そのまま窓硝子に張り付いてずりずりと地面まで落ちてゆくと、雪の冷たさで正気に返ったのか、起き上がってもそもそと歩き去ってゆく影が見えた。

どうしてここまで入り込んできたのか、どうして窓にぶつかってしまったのか、気になって起き上がろうとしている内に、もう一度眠ってしまったらしい。


また夜明けの暗闇の明度が変わった頃にぱちりと目を醒ましたネアは、隣りに寝ていた筈の魔物がいなくなっていることに気付いた。

慌てて半身を起こして寝台を触れば、暫く前からいないのかシーツが冷たくなっている。


「………………ディノ?」


低い声で呼びかけてみたが、目を凝らし見てみた巣の中にもいないようだ。

心配になって立ち上がろうとして、寝台の隅に毛布の端っこが引っかかっているのが見えた。

もしやと思って覗き込んでみると、案の定寝台から落ちてしまったのか、床の絨毯の上で丸まって眠っている。

胸を撫で下ろして深い息を吐き、ほんの少しだけ自分が蹴落としてはいまいか心配になった。



(ふふ、髪の毛がくしゃくしゃになってる……)


寝台から落ちた際に乱れてしまったらしい。

薄闇でも鈍く光るのは、窓の外の雪灯りがカーテン越しに部屋を青く照らしているからだろう。

体を痛めると可哀想なので、一度起こしてあげようかと思って顔を覗き込めば、思いがけず苦しげな表情をしているのが気になった。

まるで苦痛を堪えるような顔をしているので、落ちた時に痛かったりしたのだろうか。


(それとも、怖い夢でも見ているのかしら)


そっと手を伸ばして、真珠色の髪の毛を撫でてやれば、ぎゅっと瞑られた瞼が震え、長い睫を揺らす。

何かを恐れるかのように体を丸めたので、ますます心配になってしまう。

どうやら意識は覚醒しつつあるようだが、まだ夢と現の境目にいるのだろう。

これは起こしてしまおうと思い、手のひらの温度が伝わるように撫で方を変えた。


「………………て、くれ」


軋むような囁きに胸が潰れそうになる。

ああ、これは確実に怖い夢なのだろうなと思って声をかけた。


「あら、怖い夢でも見ましたか?」


あえて何事もないような穏やかな声で話しかけると、ふっと目が開く。

どこか不審そうにこちらを見上げる瞳は、この暗さの中で淡い色が際立って見える。

鮮やかなパライバグリーンに、白銀の色。

いつもは澄んで見える水紺の色は、悲しげに曇っていた。


「…………ネア?」


頼りない声に胸が痛くなった。


(まったくもう、この魔物は!)


何とも愛おしくなってしまって、仕方なく弱り切った魔物を毛布の中にいれてやった。


こういう無防備さがずるいと声高に言いたいのだが、この世界の魔物はなぜかそういう傾向にある。

あのアルテアでさえ、ボラボラの居住区から戻ってきたときには、ネアのマフラーから手が離せないくらいに憔悴してしまっていた。

ゼノーシュは元々可愛らしいのでギャップということもないが、グラストに素直に甘えられずに悄然としていた時期がある。



なんとも皆一様に美しく、酷薄でしたたかで、無防備な生き物ばかり。

これはもう、こんな愛おしい生き物達がいる世界に落とされたことを喜ぶしかない。



そんな幸せな気持ちで二度寝にはいったネアは、すぐに緊迫した様子の魔物に叩き起こされる羽目になった。



ウィームを文字通りの悪夢が襲うと知るのは、その後のことだ。









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