99. 薔薇の祝祭の夜になりました(本編)
薔薇の祝祭も、いよいよ大詰めとなった。
日が陰り街に夜火薔薇の明かりが灯り始めると、道には各所を飾っていた薔薇の花びらが撒かれ、何ともロマンチックな夜の訪れとなる。
夕暮れの頃から、外を歩いているのは恋人達ばかりだ。
この日ばかりは、老夫婦も若々しい微笑みを交わして食事や花火見物に向かう。
逆に家に篭ったり、粛々と仕事をこなしている層は、所謂積み残しと呼ばれてしまう人達だ。
長らく積み残し側だったネアにとって、このようなイベントに参加するのは随分久し振りのことである。
(と言うか、この手のイベントにきちんと参加するのは初めてだわ)
ネアの育った世界にも、この種のイベントはあった。
しかし、そこにネアが参加していたのは、不本意ながらにも世の中に馴染もうとした義務感のようなもので、嫌になって放り出すまでのちくちくしたセーターだったのだ。
横を歩く魔物を見て、歩幅に合わせて揺れた長い髪に触れたくなった。
(なんて綺麗なのだろう)
擬態していても暗く眩く、色を隠していても特等の魔物なのは間違いない。
古くより聖書の教えの敵とされたその名を持つ生き物と、こんな風に寄り添うのはなんて不思議なことだろう。
「ネア、手袋はいいのかい?」
「今夜は荒ぶる方々からの貰い事故に遭わないように、ディノと手を繋ぐのでつけません」
「ご主人様……ずるい」
(そして、魔物のくせに謎に乙女になるのはなぜなのだ………)
巣から出て来た魔物を連れて外に出ると、リーエンベルクの周辺にもちらほらと恋人達の姿が見られた。
見事な雪景色に佇むリーエンベルクは、静かに語らいたい恋人達にとってもってこいの景観なのだろう。
歩道も広いので、歩きながらお喋りをするのに適している。
歩道には百合や水仙、白薔薇に鈴蘭などと雪を損なわない色の花々が咲き乱れ、甘い香りを放っている。
「今日は、リーエンベルクの門にも素敵な薔薇飾りがあったのですね」
「だからかな、妖精も随分と来ているね」
「あの、ぽわぽわの小さな光がそうですか?」
「どうやら、王宮の周りの薔薇飾りの上で伴侶と過ごすようだよ」
「ぽわぽわ達も、薔薇の祝祭を堪能しているのですね」
手を繋いだままゆっくりと街に向けて歩いて行く道中では、足元をちょろちょろと走って行く鼠妖精や、小鳥姿の魔物や妖精達の番いも多く見かける。
どこもかしこも浮き足立っており、これは部外者はきつそうだ。
(そして、初めて見るもふもふがいる!)
そこでネアは、見慣れない灰色の生き物に目を奪われた。
限りなくムグリスに似ているが、こちらには猫のような耳がある。
「ディノ、あやつは何者ですか?」
「コグリスだね。春が近くなると、渡ってくる妖精だ。ムグリスと同じような種だよ」
「餅猫のようで愛くるしいです!」
「ムグリスより獰猛だから捕まえないようにね」
「懐かないのですね……」
この世界にはいないらしい可愛らしい子猫欲を満たしたかったのだが、コグリスでも駄目だと知りネアはがっかりする。
そのまま手を繋いで街の入り口まで来ると、不意にディノはネアを持ち上げた。
「………ディノ?急な持ち上げはなりません」
「通り魔に捕まると危ないからね」
「……………む」
ディノの言葉に周囲を見回すと、街の外周にある並木のところに、黄色い薔薇の花束を持った青年が立っていた。
ぞくりとするぐらいに暗い表情をしており、何やらぶつぶつと呟いている。
確実に本日心を病んだばかりの患者だ。
「………すごく怖い」
「ああして物陰に潜んでいて、捕まえる相手を探しているんだろう」
「一気に凄惨な祝祭の様相を帯びてきました」
「服装的に魔術師だね。普通の人間なら気にしないでいいけれど、魔術は感情に添うこともあるから、暴発すると危ないんだ」
「………勿体無いですね。あんなに暗い目をしないで感じよく話しかければ、まだ成功率が上がりそうなのに……」
そうして街に入れば、歩道や家々の前には色とりどりの薔薇の花びらが撒かれていた。
芳しい薔薇の香りに心が弾む。
薔薇の花びらを踏むのは心が引けたが、こうして踏むことで多くの人々の気配を帯び、薔薇の祝祭の魔術が廻るのだそうだ。
「ほゎ、これが夜火薔薇なのですね!」
「触っても熱くはないけれど、ネアは氷の魔術の祝福を得たばかりだから気を付けようか」
「………辛い思い出が蘇りました」
夜火薔薇は赤い薔薇で統一されているようで、建物の扉のところと、街頭からブーケにして吊るされており、街中を明るく照らしていた。
行き交う馬車のカンテラにも、魔術の火の代わりに夜火薔薇を入れてあるようだ。
ウィーム中に薔薇の光が溢れ、見ているだけで贅沢な気分になる。
手を繋いでいる大事な魔物を見上げ、ネアは唇の端を緩めた。
こうして大事なものとこんな日に街歩きが出来るなんて、何という贅沢だろう。
「ほら、見てご覧。あれは氷の精霊だね」
「………わぁ、なんて美しいひとでしょう」
そうディノが教えてくれたのは、小さな劇場の屋根に腰掛けている水色の髪の麗人だった。
どこか山羊のものに似た角があり、隣に座る精悍な青年と話をしていた。
「……お隣の方は竜ですか?」
「そうだね。気質的にはあまり添わない種族だけれど、恋人同士になると相性がいいと言われている」
「そういうのが、不思議で面白いですね」
「相手に望むことが似ているからね。ただ、あくまでも上手くいくのは本人達だけだから、一族同士では揉めるそうだよ」
相手とどんな時も一緒にいたい。
そして全てを知り、全てを知ってもらいたいと思う精霊にとって、竜の宝とした伴侶が離れると病気になってしまうような気質の竜は、良いパートナーなのだそうだ。
人型の精霊はあまり見かけないので、ネアはその水色の髪の麗人を暫し見上げていた。
角があるせいで人外の美貌という感じが強まり、惚れ惚れと見てしまう。
(どうやら、見ている分には少し人間離れしているひとの方が好きみたい?)
勿論ディノとて、過ぎたる美貌は到底人間に見えないのだが、ネアの育った世界にはいなかった異形の人外者達の方が目を惹くのは確かだ。
特別なものを見ているという感じがして、贅沢な気持ちになる。
「ディノ、素敵な精霊さんがいることを教えてくれて有難うございます」
「ネアは新しいものを見ていると可愛いからね」
「む。震えない方向の生き物でお願いします」
(そう言えば、前にこんな話をしたのはディノが初めて泣いた日だったっけ)
まだ先月のことなのだが、咎竜の一件を挟んだせいか、随分と前のことのように感じた。
何となく胸の奥がざわりとしたので魔物の手をぎゅっと握ると、ディノは微かに慌てたようにこちらを見た。
「………ネア?」
「……ディノ、あの毛玉は何ですか?」
「ああ、木の芽の精だよ。少し毒があるから、君はあんまり近付かない方がいい」
「毒……。触るとどうなってしまうのでしょう?」
気恥ずかしくなって逸らした会話の先で、また妙なものに出会ってしまったようだ。
ネアが目を止めた木の芽の精は、淡い黄緑色をした毛玉のようなものだ。
鳥の羽が生えており、雀くらいのサイズでぱたぱたと飛んでいる。
「人間だと、場合によっては死んでしまうかな」
「結構に駄目なやつでした!近くに飛んできたらどうすればいいのですか?」
「塩を撒くと逃げるそうだよ。普段は森の奥にしかいない生き物だけれど、今夜は薔薇の香りに惹きつけられて出てきてしまったんだろう」
「そうなんですね。…………あ、」
ぱたぱたと飛んでいた木の芽の精は、十字路の真ん中にある噴水の彫像の上にいた小さな竜にぱくりと捕食されてしまった。
悲劇の瞬間を目撃してしまったネアは、悲しい気持ちでさっと目を逸らす。
「悲しい結末に出会いました」
「あの竜には近寄らないように。どうやら、伴侶選びに失敗したようだ」
「あんなちびすけも、伴侶選びをしていたのですね………」
「ネアの五倍くらいは生きてるけれどね」
小犬サイズであるので、まだ子供だと思っていたが、不憫なことに積み残し対象であるようだ。
よく見れば、荒んだ目で木の芽の精をむしゃむしゃしている。
止まり木代わりにしているのが、恋人達の彫像なのも何やら悲しい。
二人はゆっくりと夜火薔薇に照らされた街を歩き、夕暮れから澄んだ濃紺の夜の色で空が染まる頃、ザハの二階にあるラウンジに入った。
いつもの支配人も、今夜は胸ポケットに一輪の薔薇を飾っている。
「ようこそおいで下さりました」
二階と言えど、一階が見事な吹き抜けになっているので、実質三階にあたるフロアであり、この空間もまた天井の高い吹き抜けの空間だ。
中のラウンジには、既に紳士淑女が集まっていた。
眩いシャンデリアの下で楽団が優雅な音楽を奏で、フロアの中央には見事なクリスタルの花瓶に活けられた青い薔薇が飾られている。
ここは本日、時間制で開放されている。
一階は通常通りのレストランとしての営業だが、今夜の祝祭は二人の時間をゆっくりと過ごしたいお客も多く、薔薇の祝祭の風習である薔薇の発泡葡萄酒だけを飲みに来るお客がいるのだ。
今夜はネア達もその用途で訪れており、花火が楽しめるこの時間帯は一番人気の枠である。
ザハ側も心得ており、窓際が混み合い過ぎてしまう程の人数は決して受け入れていない。
あくまでも、優雅に贅沢な時間を楽しむための場所がザハなのだ。
ネア達が案内されたのは、花火は少し斜めになるが、静かに会話の出来る一番端の窓の席だ。
ラウンジ内を自由に動いていても構わないが、この席で寛いでいても良い仕組みらしい。
席は円柱で区切られており、わざとらしくない程度の目隠しの役割を果たしていた。
「ディノ、見てください。グラスの底に宝石のようなものがあります」
「幸運の祝福の結晶だね、結晶化する為には濃度を薄めないといけないけれど、代わりにそうやって固形に出来るんだよ」
「………初めて見ました。こんな素敵な技術もあるのですね」
グラスの底で泡に揺れているのは、小指の先程のダイヤモンドのような祝福の結晶だ。
しゅわしゅわと溶けてゆき、少しするとなくなってしまった。
得られるのは幸福感を少し上げる程度の祝福らしいが、見た目が綺麗なのでこのような特別な席ではグラスに入れることがあるのだそうだ。
「人為的に祝福を結晶化するから、樽一つ分の水で薄めなければいけないらしい。手間も資金もかかるから、あまり多くの流通はしないけれどね」
「きらきらして素敵でしたね。グラスの中で揺れるのを見ただけでも、ほわりと幸せな気持ちになりました!」
「可愛い………」
微量な祝福の効果か、つい声が弾んでしまったネアに、魔物は目元を染めて嬉しそうに微笑む。
甘やかな眼差しに頬が熱くなったが、久し振りに可愛いという言葉をまっとうに使えているようなので、ぐっと堪えて我慢する。
その時、夜空がぱっと明るくなった。
「わ!ディノ、合図の花火が上がりましたよ」
「あれは妖精の花火だね」
「妖精の花火があるんですか?」
「花火の妖精がいるんだよ。彼等の作る花火は、観衆を高揚させる効果があるんだ」
「初めて聞いた気がするのですが、他の祝祭でも上がるのでしょうか?」
「上げる場面を選ぶ筈だよ。祝祭によっては、民衆の狂乱に繋がってしまうから」
「なるほど、逆効果になってしまうこともあるのですね」
話している内に、花火が上がり始めた。
今までの外で見ていた花火とは違い、こうして窓越しに見ると絵画のような美しさがある。
(上がる花火の種類も、薔薇の祝祭は一色なんだわ)
淡い金色の花火に統一された今夜の花火は、恋人達の祝祭に相応しい上品なものだ。
その繊細な光に照らされて、薔薇のシュプリを飲んでいると気持ちがふわふわしてくる。
(あの花火のきらきらが落ちてくるところにも、沢山人がいるなぁ……)
今宵一番混み合うのはローゼンガルテンだが、花火に関しては打ち上げの地となるのであまり見やすくはないそうだ。
しかし、遠目で見ても多くの人々がいるのが分かる程の人出なので、一概に花火の見やすさという問題でもないのだろう。
ふと視線を感じて横を見れば、目の合ったディノがふわりと微笑んだ。
しかしネアは、艶麗な婚約者の美貌に心を弾ませるのではなく、花火に夢中ですっかり隣の魔物を忘れていたことにひやりとする。
(つい二時間くらい前に、もうちょっと構って欲しい的な発言をされたばかりだった……)
魔物は気付いていないようだが、またしても放置してしまった。
このような、ご褒美なら放置も大好き特殊嗜好の魔物でなければ、怒られていたかも知れない場面ではないか。
それなのに幸せそうにしている魔物を見ていたら、この後は優しくしてやろうと少し不憫になってしまう。
そっと手を伸ばして頭を撫でてやると、嬉しそうに頭を押し付けてくる。
大喜びの犬のようではあるが、今日くらいは犬扱いしないようにしよう。
その手を取られ、甘えるように手のひらに口付けられた。
(………えーと、手のひらは何だったかしら)
少し意味ありげにされたので意味のある部位への口付けなのかもしれないが、その種の知識は記憶から溢れてしまうネアは、残念なことに意味を図りかねてしまう。
仕方がないので、微笑んで誤魔化しておいた。
けれど、そうすると魔物は驚いたように眉を持ち上げた。
「…………今夜は大胆だね」
「…………己が対処法を間違えたということだけはわかりました」
やがて花火の時間が終わり、ネア達もラウンジを後にする。
魔術が使えるのだから魔法も何もないのだが、お支払いはいつの間にか済まされていたようだ。
背中に手をあてられてザハの真っ赤な絨毯が敷かれた階段を下りると、花火が終わって食事に訪れた人々と入れ違いに、通りに出た。
「さて、帰ろうか。お腹が空いただろう?」
「今夜は、薔薇の盛り付けに向いているということで、ローストビーフなのだそうですよ!」
「ネアの大好きなものだね」
「ええ。それにデザートは、薔薇のケーキなのだそうです。事前にゼノが聞き込みして教えてくれました」
「おいで、帰り道は少し短縮しよう」
「そうですね。ボラボラの時のような、ものすごい混み合いです」
ちょうど人々の移動のタイミングであるらしく、街の中はごったがえしていた。
こうなってしまうと、通り魔の選別も難しくなるので、ディノは少し警戒したようだ。
伸ばされたディノの手を取り、お馴染みの転移の暗闇を跨いでリーエンベルクに戻る。
「……………む」
しかし、ふわりと降り立ったのは、見慣れたリーエンベルクではなかった。
慌ててディノを見上げると、唇の端に淡い微笑みを浮かべる。
であれば、ここは彼が用意した場所のなのだろうか。
「………ここは、影絵ですか?」
「少し違うかな。リーエンベルクでもあるけれど、また違う場所でもある。幾つか風景を借りているからね」
「風景を、………借りられるのですか?」
「影絵はね、魔術の場でもあるから、切り貼りも出来るんだよ」
「素人にはさっぱりですが、…………とても綺麗です………」
そこは、夜空の下の不思議な空間だった。
深い森に囲まれた空間の中に一部だけリーエンベルクの部屋が存在しており、真っ白な夜火薔薇が水に浮かんでいる水晶の杯の置かれたテーブルに、晩餐の用意がされている。
テーブルの向こう側には薔薇の生垣を模した精緻なバルコニーがあり、その向こうは息を飲む程に美しい雪原なのだ。
月明かりに照らされた雪原は、どこまでも青く胸に染み入りそうな色をしている。
「…………こんなに素敵な場所を用意してくれたのですね」
「特別な日だからね」
「そして、私の大好きなリーエンベルクのお食事を用意してくれました」
「君は今夜のメニューを楽しみにしていただろう?厨房に魔術陣を敷いてきたから、ここに出して貰えるよ」
手を引かれて部屋に入ると、ネアはすぐにこの森が見たこともない色合いの森だと気付いた。
豊かに茂る枝葉は、白緑色の見たことのない不思議な木なのだ。
(オリーブの木とか、プラタナスの木に少し似ているわ……)
色合いが淡いせいで、眼前に広がる雪原の青さを映して不思議な色の混ざり方をする。
森の途中から始まる床石は、微かに水色の縞目のある真っ白な雪の結晶石だ。
ディノに椅子を引いて貰い、濃紺の天鵞絨が張られた椅子に座ると、目の前のお皿には楽しみにしていた料理が並んでいる。
生海老を乗せたジュレに、ケッパーと香草とサーモン。
ほくりと焼いたさつまいもに岩塩を散らし、フレッシュチーズを乗せたものに、お昼とは違う種類のハムに干し杏。
お皿の横には、柔らかなアプリコット色の薔薇が添えられていた。
(し、幸せだけど、ここで魔物を蔑ろにしてはならない……!)
どうしても食事の素晴らしさに流されがちな理性を押し留め、ネアはこんな素敵な晩餐を整えてくれたディノに微笑みかけた。
まずは、海老よりもこの魔物を労わねばならない。
「ディノ、……大好きです!」
(………しくじった!)
食事を始めながらであったので、伝えたのは完全にぷりぷりの甘海老への感想になったが、魔物がぱっと目元を染めたので良しとしよう。
幸い、いきなりご主人様に攻撃された魔物が機能不全になったので、ネアはその隙に美味しい食事を堪能し、素晴らしい時間を過ごした。
薔薇を散らしたサラダとビーフコンソメのスープに、お待ちかねのローストビーフとポテトのミルフィーユグラタン。
パンは、ブリオッシュのようなバターたっぷりのふかふかのパンだ。
美味しい食事と、抜かりなく足される薔薇のシュプリに、ネアは徐々に心が緩んできた。
薔薇のクリームと、ラズベリーたっぷりのケーキを食べ終える頃には、幸せ過ぎてこのまま寝台に倒れて寝たいくらい。
つまりのところ、満腹になったのである。
「学びました。薔薇の祝祭は、美味しいものをたくさん食べられる日です!」
「おや、もう少し他の要素を足してもいいんじゃないかな?」
「しかし、もう満腹です」
「そちらではないよ。困ったご主人様だね」
両手を引いて立たされ、ネアは困ったように優しく微笑んだ魔物に目を瞬く。
「お部屋に戻りますか?もう少し、この素敵な景色を見ていたいです」
「そうだね、今夜は少しゆっくりしようか。こちらにおいで」
「む。………まさか、ここで椅子になられてしまうとは」
いつの間にか、立ち上がった先にはオイスターホワイトの毛皮を敷いた優美な長椅子があった。
そこでのんびりお喋りでもするのかと思いきや、ネアが座面に座ることは叶わないらしい。
すかさず椅子になってきた魔物に、ネアは渋々ご褒美を切り出す。
本日は横に乗せる形態だが、しっかりと腕で支えてくれるので、この魔物の椅子で腹筋が痛めつけられたことはない。
「まだ、君に薔薇を渡していないからね」
「となると、この不安定な体勢で挑むつもりですね」
「今日は君にご褒美を貰ってないから」
そう言うと艶麗に微笑んで、額に口付けを落とす。
ご褒美を取り上げる訳にもいかず、そのまま楽しみにしていた薔薇を待っていると、今度は椅子にしっかりと抱き込まれた。
拘束椅子だろうかと好きにさせれば、頬に手を添えられて覗き込まれた。
「むぐ……」
「ネア、困った顔をしないで。ほら、……」
ふわりと落ちた影に、澄明な瞳の中に驚いた顔をした自分の姿が見えた気がした。
逃さないようにと頭の後ろに這わされた手の温度に、心が震える。
(あ、…………しまった)
迂闊にも、きちんと宣言されていたことを今更思い出して、ネアは目を瞠った。
すぐに我慢出来なくなって目をぎゅっと閉じたものの、そうすると今度は感覚が鋭敏になり過ぎて心臓が止まりそうになる。
とろりと溶ける温度に、この親密さは快楽なのだと思う。
行為そのものの悦楽よりも、親密さを分け合うということ自体が欲求なのかもしれない。
随分な言い方だが、深い口付けは、これは自分のものだという、とても切実で甘やかな気持ちになった。
「…………そ、そして、もう無理でふ!」
「言えてないよ。……可愛いけれど」
暫し大いに翻弄された後、ばすばすと胸を叩いて解放して貰うと、涙目で短く息を刻む。
まだ吐息が触れるくらいの距離で、凄艶な魔物が満腹の猫のように唇をカーブさせて微笑んだ。
けだもののように唇を舐める仕草に、壮絶な色気と、人間とは違う生き物の貪欲さを見る。
その美しさに訳もわからずはっとして、また息が止まりそうになる。
「デ、ディノ、……私も頑張りますが、初心者から、いきなりたくさん搾取してはいけません」
「大丈夫、慣れるよ。嫌じゃなかっただろう?」
「…………し、しかし、心臓が止まったら人間は死んでしまいます」
「じゃあ、止まらない程度にしよう」
そう言うくせに無理に距離を詰めはせず、ディノは嬉しそうにネアの髪を片手で梳いていた。
もう一度口付けされたら頭突きも止むなしと考えていたネアは、その甘やかさに逆に倒れそうになる。
こういう時、下手に大事にされる方が羞恥で死にそうになるようだ。
「…………ご主人様を解放して下さい。不整脈が尋常ではありません」
「それなら、離さないようにしないと。心配だからね」
「ディノからの薔薇を貰う前に死にたくないのです」
「ネア、そうやって甘えられるのは、逆効果かも知れないよ?」
「むぐ…………、であれば、せっかくディノの為に選んだ薔薇を渡す前に死んだら、私は怨霊になるかも知れません」
「……もう少しだけ。今日は、あのチーズも食べていないしね」
「…………よくも、トラウマの扉を開きましたね」
ネアの声がぐっと低くなり、魔物は小さく体を揺らした。
己の失言に気付いたのか、目を眇めるようにして艶やかに微笑むと魔物らしい老獪さで軽やかな口付けを一つ落とし、ネアの呪詛を封じる。
「君に死なれてしまったら困るから、薔薇を渡しておこう」
「まず一度膝から下ろして……………ふぁ……」
言葉にならない感嘆の呟きを漏らして、ネアはそっと手渡された薔薇を両手で受け取る。
丁寧に揃えられた茎は全ての棘を取り払い、淡い藍色がかった白いリボンで結ばれていた。
「………ディノの、髪の毛の色そのままです」
それは、見たこともないような素晴らしい薔薇だった。
柔らかな真珠色に、淡い水彩のような色彩で柔らかな虹色が溶け込んでいる。
形も、ネアの大好きなカップ咲きの花びらがみっしりと詰まったオールドローズで、触れるのが怖いくらいに繊細で美しい。
「どうしましょう。こんなに綺麗なもの、みんなに見せて、自慢したいです」
「良かった。気に入ってくれたみたいだね」
「…………これは、もしかしてディノの薔薇なのですか?」
「そう。私から紡いで育てたものだよ」
「…………こんなに美しい薔薇は、初めて見ました」
花を傷付けないように胸元に寄せれば、ディノは嬉しそうに微笑んでくれる。
「ずっと取っておきたいです」
「それなら、魔術を掛けてあげようか」
「出来るのですか?!」
ますます嬉しくなってもう一度薔薇に視線を落とし、ネアはその花の一つにそっと指先で触れる。
手の温度で花が弱らないように、すぐにでも首飾りの金庫に避難させたいが、もう少しこうして手に持っていたい。
そんな奇妙な執着は、今日貰ったどんな薔薇とも違う、確かに特別なものだという証でもあった。
(でも、私からの薔薇も渡さないと……)
そう自分を窘めつつ、何とか貰った薔薇の花束をしまうと、今度はネアの用意した薔薇を取り出す。
金庫から取り出した灰色がかったラベンダー色の薔薇をメインにした花束は、かつてディノに贈ったのと同じようなラベンダー色のリボンで纏められている。
淡い水灰色と紫みの強い灰色の薔薇でアクセントをつけてはいるが、全体的にネアの瞳の色合いに近い。
「私からの薔薇です。貰って下さいますか?」
「勿論だよ。…………不思議だ。こんな風に綺麗に感じるものなんだね。ネアの瞳の色みたいだ。………君のくれたこの薔薇も、失われないようにして残しておこう」
どこか無垢な目をして喜んでいる魔物に、ネアも嬉しくなってしまう。
またしても、こんな風にほろりと心を零してゆく姿を見れたのが、ほんとうに嬉しかった。
(そして、こんなに綺麗な生き物が薔薇の香りを嗅いでいるのは、なんて絵になる光景なんだろう……)
「………君からの薔薇の花束を貰ったのは、私だけだね」
「ふふ、他の誰にあげるのでしょう。花束は、ディノだけですよ」
僅かな優越感を滲ませた魔物が可愛くなりくすりと微笑めば、その目がまた、優雅な危うさに揺れた。
ぎくりとしたネアを抱き寄せ、耳元に唇を寄せる。
「今夜、少し試してみようか」
「な、何をでしょう?」
「学んでみたいのだろう?教えてあげるよ」
「…………急用を思い出しました。お部屋に帰ります」
ここでまさかのそちらの世界へのお誘いに、ネアは血の気が引くのがわかった。
何も、こんなに素敵な夜にそちらも合わせて盛り合わせてこなくても良いではないか。
さっと逃げようとしたネアに、魔物は小さく喉を鳴らして笑った。
「ネア、ほんとうに君は無防備に煽るね」
「し、鎮まり給え。私はまだ心の準備が出来ていません。ほ、他のことにして下さい!」
「そうやって手当たり次第にするのだから、悪いご主人様だね。………では、もう一度」
囁くように言われて再び寄せられた唇に、ネアは決死の覚悟を決めた。
(ここで変態のご指導が入るより、どれだけ健全なことか!)
謎に大きな気持ちになってしまったネアは、寧ろ安堵してもう一度心臓が止まりそうになる危険に身を任せた。
しかし、ある程度のところで羽目を外しそうになった魔物を頭突きで無力化したので、結局そちらのお作法にも手を出してしまったことになる。
苦笑した魔物に猛獣を宥めるように頭を撫でられながら、ネアは、この美しい婚約者が変態でさえなければと心から残念に思った。