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98. どちらもとても大切なものです(本編)



「すみません、戻りが遅くなりました」


そう微笑んだヒルドに、ネアは思わずエーダリアを見てしまった。

最近襟足で結べるくらいに伸びた髪は、編み込みが緩むくらいに乱れている。

いかにも揉みくちゃにされましたとわかる姿なので、不憫さが増した。


「いえ、こちらこそ気を遣わせてしまってごめんなさい。ゆっくりしてきて下さっても良かったのにと言いたいところですが、ドリーさんから大変だったと伺いました」

「ドリーからそう聞いたのか。………今回は、私の失態からのことだ。ヒルドにも…」


そこでぞっとしたように言葉を切ったエーダリアの目が暗くなる。

ヒルドは微笑んでこちらを見ているだけだが、何も言えないくらいの威圧感だ。

なるべくそちらを見ないようにしているエーダリアに、二人きりの時にどれだけ叱られたのかは怖くて考えたくもない。


「おや、エーダリア様、この後は用事があったのではありませんか?」

「…………そ、そうだな。決済の書類を溜めていだのだった」


(……さては、お仕置きでお仕事を命じられてしまいましたね……)


薔薇の祝祭なのによろりと部屋から出て行く元王子を見送りつつ、ネアは切ない気持ちになった。

こんな麗しい王子様的容貌に生まれつつ、趣味は術式の本を一晩中読むことで、恋の祝祭にお仕置きで仕事をさせられている。


それも、ふわふわの鳥を部下達に自慢しただけで。


(もっと色々あっただろうに……)


ほろりとしていると、ヒルドが小さく微笑んだ。

こちらは、お仕置き用の微笑みとは違う、優しい微笑みだ。


「私とて、エーダリア様に約束があればこんな仕打ちはしませんよ」

「………と言うことは、このご挨拶が終ってしまったら、他に予定はなかったのですね?」

「残念ながら、好きなだけ本を読む予定だったようですよ」

「……ヒルドさん、となるとそうすることで心の平安を保っていたという可能性は…」

「あの方の残念なところは、それを残念だと思っていないところですね」

「………駄目でした」


以前の自分を思えば胸の痛い言葉を聞きつつ、ネアはヒルドに合わせて重々しく頷いておいた。

ネア的にはエーダリアの過ごし方は素敵な時間だと思うが、ここはヒルドと同調しておこう。


「さて、無事に間に合ったことですし、少しお時間をいただいても?」

「はい。お戻りになったばかりで疲れていませんか?」

「おや、今のところ疲れるようなことは予定していませんので、大丈夫ですよ」


そう微笑んだヒルドは、冴え冴えとした宝石質の美貌を艶めかせる、妖精らしい美しさだ。

先程まで居た、ウィリアムやアルテアとはまた違う種類の容貌である。


(そういう意味では、私はまだ精霊の美しさというものを知らないんだわ)


高位の精霊が最も美しいのは、力を使い輝くときだと言われている。

竜は空を駆けるとき、妖精は羽を広げるとき。

魔物に関してはかなり性質が変わってくるので、一概に何がとは言えないのだそうだ。


ディノやアルテアは魔物の中でもあまり本来の姿を見せない魔物だが、例えばウィリアムなどは、死の行列の先頭に立つ姿が最も美しいとされている。

それはネアも一度見ており、死者の王と言われるに相応しい美貌であった。


(………でも)


そこでふと、ネアは自分があまりウィリアムのことを知らないような気がした。

ネアが見ている彼は、穏やかに整った優しい親戚のお兄さんのような姿ばかりだ。

彼の剥き出しの魔物らしさは、あまり見たことがない。


ついそんなことを考えてしまっていると、すいと伸ばされた手に目を瞬いた。

顔を上げて深海のような瑠璃色の瞳を見上げ、ネアも微笑みを返す。


「ディノ様はお部屋に?」

「ええ。きちんとお留守番しています」

「では時間を大切に使わせていただきますね」


そうしてヒルドがネアを案内してくれたのは、転移の間の隣にあるリーエンベルクの影絵に下りる階段だった。


白い雪の結晶石と水色の氷の結晶石の象嵌細工の螺旋階段は、おとぎ話に出てくる秘密の階段めいていた。

そこをゆっくりと下りてゆくのは、不思議な高揚感がある。


(そして、エスコートされると意外に歩き辛い!)


しかし残念なことに、エスコートされ慣れていないネアには、螺旋階段のエスコートは少々難易度が高かったようだ。

全てを下りきる頃には、背中と脹脛の後ろががちがちになってしまう。


「ここは、……お魚が泳いでいます!」


階段を下りた先にあったのは、熱帯魚が泳ぎ回る床石だった。

南国の海の上に硝子を敷いて歩いているようだが、よく見れば魚達は全て結晶石で出来ている。


「この魚達はリーエンベルクの魔術基盤の一つなんですよ」

「このお魚達が……」

「地下層にはこのような基盤が多く活動しておりまして、地下の庭園には蝶、外壁を司る境界線には魔術基盤の鳥がいるんです」

「生き物の姿にしたのは、意味があるんですか?」

「意思を持たせておけば、自己修復をかけますからね。ただ、意思を持たせる為に生き物の形をとらせざるを得なかったので、この前のように狼の術式で鳥が怯えて怪我をしたりもします」


どうやらそれが、この前の魔術基盤損傷事件の原因だったようだ。


「この形にしたのは、作った方のご趣味で?」

「でしょうね。この時代の王族達が美としたものが多い」


コツコツと床を踏み、その振動でゆらゆらと泳ぐ熱帯魚に見入ってしまう。

ほこりを羨ましいと思っていたネアだが、ここでプチ南国気分を味わえてしまった。


「お気に召されたようですね」

「はい!私はウィームが大好きですが、ここにはないものを見るのも楽しいですね」

「では、今度南国の出張の際に一緒にお連れいたしますよ」

「そんな素敵な出張があるのですか?!」

「ええ。やはり、ウィームでは手に入らない魔術や素材があり、それは向こうも同じ事ですからね。時々、資材の交換を図るのです」

「とっても行ってみたいですが、出張ともなると出張費が嵩んでしまうのでは…」

「転移門がありますから、ご心配なさらず。ただ、先方の土地にも固有の魔物がおりますので、ディノ様にはお待ちいただく形になります。二時間ほど、私と二人で我慢していただくしかありませんが……」

「ヒルドさんが一緒なら安全そうですね、二時間くらいなら、なんとかディノにお願いします!」

「では、仕事を午前中で終えられるようにし、昼食に良い場所を探しておきましょう」


(魔物は駄目だってことだけど、リーエンベルクの結界を通れたくらいだし、狐さんなら連れていけるかしら……)


ヒルドと二人きりで出掛けたらとても拗ねそうなので、いざとなったら鞄に放り込んで連れてゆけばいい。


「さぁ、こちらの扉を」

「…………わ!」


ヒルドが開いてくれた扉の向こうには、素晴らしい原始の森があった。


鮮やかで澄んだ緑と、胸の奥にまで柔らかな霧雨を降らせてくれそうな森の香り。

咲き乱れる花々と、風に合わせてキラキラとこぼれ落ちる不思議な胞子。


真っ白な鹿が遠くをかけてゆき、ネアはどきりとした。


「ヒルドさん、白い鹿さんが!」

「こちらは影絵ですからね。正確には場を借りているだけで重なり合っていないので大丈夫ですよ」

「そうなんですね、何だか不思議です」

「ここはリーエンベルクが建てられる前の森です。先代の雪竜の王とウィーム国王が森と約束を交わし、森の一部を現在の禁足地の森に移動しました。当時の森には、白い雄鹿の姿をした森の精霊がいたそうです」

「まぁ!では、ここはあの森なのですね?」

「の一部ですね。今のリーエンベルクの地下にも、地下森林として残っておりますよ」


差し伸べられた手を取って、ふかふかの森の下草を踏むと、ぷんと緑の香りがした。

ディノに貰った厨房のある森とは違い、この森は力強さも感じる濃い緑だ。


淡い水色の花がたくさん咲いている中を歩いてゆくと、見事な藤の花が垂れ下がった大きな木の元に辿り着く。


そしてその藤のカーテンの下に、可愛らしい丸テーブルと椅子が置かれていた。

今回、ヒルドが押さえたのはお茶の時間なので、その上にティーセットとお茶菓子が用意されている。


(…………ゼリー!!)


エスコートされて椅子に腰掛けると、食べるのが勿体無いくらいの薔薇のゼリーにネアの目は釘付けになる。


正直、先程焼き菓子を自棄食いしてしまったばかりなので、ゼリーなのがまた胃にも嬉しい。


「ヒルドさんが用意して下さったのですか?」

「今日は訪問者が多かったですからね。ネア様は焼き菓子を好まれますが、ゼリーにさせていただきました」

「実は、ゼリーも大好物なのです!」

「それは嬉しい報告ですね」


テーブルの上には、小さな花が飾られていると思っていたが、近くで見てみれば繊細な陶器の花籠であった。


(………と言うか、このテーブルも陶器だわ。このお花はテーブルの一部なんだ!)


「何て素敵なテーブルなんでしょう!」

「これは、陶器の精に祝福を受けて、陶器にされてしまったものなんですよ」

「と言うことは、この花籠は元々は本物のお花だったのですか?」

「ええ。この花籠に、白い木蓮の花があるでしょう?この木蓮の花の妖精に、陶器の精が恋をし、恋する妖精の花を乗せたテーブルの時間を止めたのだと言われております」

「素敵なお話ですね。そんなテーブルを使わせていただけるなんて、とても光栄です」


指先で撫でれば、ひんやりとしており逸話を踏まえれば特別なものだという思いが強まった。

こんな風に新しく不思議なものを見る度、ネアの知るこの世界は色付いてゆく。


「本日は、どんな薔薇を貰ったのですか?」


紅茶は、いつの間にかネアの前でカップに入って湯気を立てていた。

赤みの強い紅茶なので、ローズヒップでも使っているのかもしれない。


「まずは、ノアに沢山の色の、欲しかった薔薇ばかりの花束を貰いました」


寛いだように広げられたヒルドの羽は、ステンドグラスのようにきらきらと光っている。


ネアは、この世界に来るまで、妖精の羽は絵物語の挿絵のように、常に広げられているものだとばかり思っていた。

しかし、当然のことながら、日常生活の中では背中に綺麗に畳まれていることの方が多い。

人型の妖精の羽は特に、大きいので室内では邪魔になるのだそうだ。

だから、こうして広げているところに遭遇すると、いつまでも見ていたいくらいだ。



「おや、今年もロクサーヌは、ドリー様に悪さをしましたか」

「……もしや、毎年のことなのですか?」

「流石に毎年ですと、ドリー様も学んでしまいますからね。何年かに一度やるのですよ。庇護を与える第五王子を得て以来、彼女は側にいる者達の伴侶選びにも積極的になりましたから」

「ヒルドさんにもですか?」

「さて、どうでしょう。ただ、私は今の生活が気に入っております。まだこの環境を得たばかりですので、長く続いて欲しいですね」

「エーダリア様も側にいらっしゃいますしね」


ネアの言葉にヒルドは不思議な微笑みを深め、はらりと零れた一筋の髪を耳にかけた。

さらりとした男性的な色気は、清廉な印象なので余計にどきりとする。


「ネア様にも、ずっとこちらに居ていただきたいですね」


その言葉は、思いがけないギフトのようなものだった。

ネアは目を瞠り、何かを言おうとして一瞬言葉を失ってから、深く頷いた。


(…………私も、ここにいたい)


やっと大切なものを、安らかな場所と仲間を見付けたのだ。

言葉の綾で何度も家族のようだと口にしてはいても、実際にここに居るひとからずっとという言葉をきちんと貰ったことはなかった。


なので、今のヒルドの言葉に不意を突かれたのだ。


「………ここに、ずっと皆さんといられたら幸せです」

「私も長く続いた王都仕えから解放され、このウィームに骨を埋める覚悟でおります。国が揺らがない限り、その我が儘も許されるでしょう。力の及ぶ限りエーダリア様をお支えし、こうして暮らしてゆければ幸せなことですね」

「……望んでも、叶わなくなることもあると、ヒルドさんは考えているのですね」

「決して己の願いだけで続く安寧ではありません。しかし、ネア様とディノ様がいらっしゃってから、リーエンベルクも随分と盤石になりました」

「私達がいることで、困ったことも増えていませんか?」


それは少し心配だったので、思わず尋ねてしまえば、ヒルドは唇の両端を持ち上げて柔らかく微笑んだ。


「得られる恩恵に比べれば、さしたるものではありませんよ」

「しかし、結構な大惨事のときもあります。ご無理をされていませんか?」

「ちっとも。例えば、咎竜の件ですが、あの一件により我々は、グラストとゼノーシュの働きで希少な薬を保有出来ました。水竜と定期的な交流を得た人間は初めてですし、ダリルも水竜の祝福の子を手に入れています」

「………どれも、意図して得られた恩恵というよりは、結果として拾ってきたものばかりですね」


そう苦笑したネアに、ヒルドは手を伸ばして指先で頬を撫でてくれた。

慈しみ深く、古き時代から人間の良き隣人であった妖精の微笑みに、微かな不安も剥がれ落ちてゆく気がした。


「それに、ネア様がここにいるからこそ、我々は初めて、最高位の魔物達の好意や知恵を得られるようになりました」

「ふふ、ノアのことならば、ヒルドさん自身のことが大好きなのですよ?」

「でも、彼がリーエンベルクに住むようになったのは、あなたの側に居たいからだ」


不意に甘くなった囁きに、ネアは瑠璃色の妖精の瞳を見返す。


「覚えておいて下さい、そういう者は多いのです。だから、ずっとここにいていただけると、私も嬉しいです」

「……ヒルドさんは、私を甘やかし過ぎでふ」


あまりにも優しく言われて、つい語尾で噛んでしまったが、少し目頭が熱くなったネアに、ヒルドは優しく微笑んでくれた。


「そうでしょうか?私はただ、己の願望を口にしただけですよ」

「ずっと思っていたんです。私は元の世界で長らく一人暮らしでしたから、……ここに、皆さんとずっと一緒にいられたら幸せだと。でも、ここにはお仕事で保護して貰っていたので、あんまり望み過ぎないようにしていたのですが…」


(だって、その願い事は“余分”だったから)


降って湧いた幸運でもある、ディノとの出会いとはまた違うもの。

そこまで自分の領域ではないからこそ、贅沢は言えないと諦めていたもの。


しかし、一度こんな穏やかさや幸福を知ってしまってから、それを失うのはきっと辛いだろうなと考えていたのだ。


つい、ふぐふぐと声を詰まらせれば、立ち上がったヒルドが、隣まで来てそっとネアを抱き締めてくれた。


「では言い換えましょうか。ずっと、リーエンベルクに居て下さい」

「むぐ、ヒルドさんのくれる安心感で泣きそうです」

「それは困りましたね、泣かれてしまうと、ディノ様に叱られてしまいそうだ。私個人としては、見てみたくもありますが」

「少し意地悪になりました」

「おや、男は女性の涙を見てみたくなることがあるんですよ」

「…………そうなんですか?」


それは、突然本能的に虐めてみたくなるのだろうかと首を捻れば、どこか満足げに目を細めたヒルドに頬に口付けられた。


唇に近い部分だったので少しどぎまぎするが、家族のような親密さに心がほわりと暖かくなる。


(ヒルドさんて、やっぱりお母さんみたいだ!)


「…………やはり、あなたは手強いですね」

「む。何がでしょう?」

「いえ。……今日は良いお返事が聞けましたから、これで満足です」

「私も、何だかとても安心しました。エーダリア様にも長く頑張って貰えるべく、お力になれるように頑張りますね!」

「ネア様がいなくなってしまいますと、エーダリア様はご友人がいなくなりますからね」

「悲しい気持ちになりました………」


それはとても離れてはいけない気がしてきたので、エーダリアにもずっとリーエンベルクに住まわせてやっても良いと思わせるべく、良い仕事をしよう。


そこで謎の感動タイムが終わり、ネアはあらためて美味しいゼリーを堪能する作業に戻り、少し酸味のある薔薇の紅茶を飲む。

この紅茶であれば、ゼリーの甘さの後でも渋味が際立たず美味しくいただける。

暫くとりとめのないお喋りをしてから、ヒルドは薔薇を取り出した。



「では、この薔薇を貰っていただけますか?」

「………何て素敵な薔薇でしょう!」



ヒルドが選んだものもまた、見事な真紅の薔薇であった。



「ドリーに先を越されてしまいましたが、これもロクサーヌの祝福のあるものなのですよ」

「そうなのですね。でも、ドリーさんの薔薇とはまた違う色合いの真紅で、がらりと雰囲気が変わって素敵です!」


ドリーの真紅の薔薇が太陽の下の薔薇ならば、ヒルドの真紅の薔薇は夜の薔薇だ。

深紅に黒みを足し、えもいわれぬ深みのある真夜中の赤である。


(香りも、ドリーさんのものとは少し違うみたい)


こちらは贅沢な薔薇の香りに加えて、心が少し波立つような甘さがある。

ずっと嗅いでいると酩酊してしまいそうな、微かに危うさがあると言えばいいだろうか。


(でも、ディノにはああ言ったけれど、そろそろ置き場がわからなくなってきたわ)


素晴らしいものを貰い過ぎて、ネアは贅沢な悩みに苛まれる。

もっと住み分けが出来ると思っていたが、どれも特別過ぎてどうすればいいのか困りそうだ。




そしてその真紅の薔薇の花束を持って帰ってくると、部屋で待っていた魔物は悲しげな目をしてネアをじっと見つめた。


「ほら、やっぱり君は手当たり次第だ」

「む!感動的な話の後で、荒ぶってはいけません!」

「感動的な話?」


首を傾げたディノに、ネアは満面の微笑みで報告する。


「ヒルドさんから、ずっとリーエンベルクに居て欲しいと言って貰えたんです!」

「え………」

「エーダリア様からの言葉ではありませんが、ヒルドさんを押さえたらもはやエーダリア様の意見など思うがまま!これで住むところの心配もありませんし、ずっとみんなと一緒にいられそうです!」

「………そうなんだね」


どこか弱々しい魔物の様子に、ネアは眉を顰めた。

もしや、本当はあまりここが好きではなかったのだろうか。


(もしそうなら、………)



「ディノ、………もしかして、ここにずっといるのは嫌ですか?」


その言葉に視線を持ち上げた魔物は、魔物らしい微笑みを浮かべた。

美しくて老獪な、底の見えない不可解な微笑み。

その微笑みを謎めいていて美しいと思えるのは、彼の真意が問題にならない時だけだったと、ネアは少しばかり後悔する。


「………もし、そうなら」

「君の好きなようにすればいい。言っただろう?私は、君に色々なものを見せてあげたいんだよ。君の見たいものは、多くがここにあるのだろう」

「…………ディノ」


頭を撫でる手に、どうしてこんな時ばかり大人しいのかと不満に思う。

いつものしょうもない魔物になって、駄々を捏ねれば真意がわかるのに。



(もし、ディノがここにいるのがあまり好きではなかったら、………そうしたら)


そうしたら、自分は彼と一緒にここから出るのだろうか。

そう考えて、ネアは胸の奥がざわりと波立つように感じた。


(それってまるで、………特別な好意のようだわ)



ディノは特別で、大切な魔物なのはわかっている。

だからレーヌの呪いの周りでは悶々としたし、落ち込みもした。

けれども、今回同時に天秤にかけられるのは、同じように特別に大切なものになったこのリーエンベルクなのだ。


まるでそれは、家族と恋人の間で揺れるようなものではないかと困惑しかけて、この魔物が婚約者でもあることをやっと思い出した。


(………そうだ、好きではあるのだ)


人間とは現金なもので、極限状態できちんと見つめ直せた心の矢印は、また平和ボケして曖昧になってしまった。

婚約者ではあるのだが一般的な恋人とは違うので、ついつい自覚が後退していた自分を、ネアは悲しく思う。


己の幸福と食事や睡眠といった第一欲求に甘やかな自覚が負けるなど、女性としては悲しい限りだ。

こんな有り様では、いつ愛想を尽かされてもおかしくはない。



(…………困る!)



自分でそう考えてしまったことにびっくりしたので、ネアは慌てて魔物にぼすんと体当たりした。

突然のご褒美にディノは驚いたようで、綺麗な目を瞠って、まだどこか魔物らしい酷薄さを滲ませた目を瞬く。


「ネア?………不安になってしまったのかい?ずっとリーエンベルクに居て構わないよ」

「………違います」

「違うことで不安になってしまったのかな。ほら、唸っていてもわからないよ」

「…………ディノがいなくなったら困ります」


不本意そうに低い声でそう呟かれ、ディノはぱっと目元を染めた。


「………どうして君は、いつも突然そういうことをするんだろう」


いつもと少し反応が違うので、ネアはもそりと体を離して一度ヒルドの薔薇を机に置きにゆくと、戻ってきてからまたディノの腕の中にぼすんと飛び込んだ。

その間、魔物は困惑したように目元を染めているが、少し警戒もしているようだ。


(どうしよう。いつもみたいに、くしゃくしゃにならない………)


恥じらってはいるが、何というか、まだ彼の元に主導権があるような、何とも落ち着かない反応にネアは内心動揺する。

じっと下から見上げてその瞳を覗き込み、じわじわと魔物が恥じらいを深めてゆくのを観察していたが、まだ時間がかかりそうだ。


よくわからないが、とにかく困るのだ。

不満を言って貰えないということも、それがいつかの破綻に繋がることも。

いなくなっては困るのだ。



「ディノ、不満や我慢を溜めないで下さいね。私はこのまま我が儘でいますが、ディノがいなくなるのは嫌なのです」


そう言ってぎゅうと抱きしめてみれば、魔物はわかりやすく頬を染めた。

ふとここで、接触を喜ぶ生き物なので、今度押しくらまんじゅうをしてみようかと考えていたことを思い出す。

となれば、作戦を実行し武器を使うのは今しかあるまい。


おもむろに、ぎゅうぎゅうと体を寄せられ、抱き締められた魔物は狼狽した。


「ネア?!」

「む、なぜ逃げるのでしょう?じっとしていて下さい」

「………ごめん、………あんまりされると、ちょっと」

「これは嫌いですか?」

「いや、大好きだよ。…………ただ、やっぱり君は無防備だね」


小さな溜め息に胸が苦しくなる。

押しくらまんじゅうでも籠絡出来ないとなると、どうすればいいのだろう。

ネアがそんな狡猾な戦略を練っていたときだった。



「…………っ、」


頬に手を添えられ、睫毛の影も見えそうな距離まで顔を寄せられる。

唇に感じる吐息の温度に、息が止まりそうになった。


「…………嫌かい?」


囁く程の声音の甘さに、奇妙な震えが走った。

こちらを覗き込む瞳には、扱い易さは微塵もない。

男性的な残酷さと凄艶さに圧倒されて、思わず首を振ってしまうと、美貌の魔物は満足げに深く微笑んだ。



「……じゃあ、後でね」

「…………後で?」

「そう。今もしてもいいけれど、君はすっかり身構えてしまっているし、今夜は薔薇の祝祭だからね。その時にしよう」


そう言って体を少し離すと、ディノは指先でネアの唇をなぞってゆく。

刹那的な緊張感は解けたが、また違う熱に途方に暮れた。


「………そう宣言をされてしまうと、緊張感でいっぱいになるのですが」

「君は少し、その種の緊張感を持ってもいいね」

「…………もしかして、押しくらまんじゅうが嫌で意地悪をしてます?」

「やれやれ、困ったご主人様だ。これは気に入ったから、毎日してもいいくらいだよ」



また宥めるように頭を撫でられて、背中に回された腕に少し力が込められる。

謎に呼吸困難にもなるが、総括すればこうしてくっつくのは案外癒されることがわかり、今後の運用もやぶさかではないと、ネアはこっそり考えた。


「ディノ、」

「何だい?他にもして欲しいことがあるのかな?」

「はい。………もし、私と趣味や価値観が合わなくて、私をぽいっとしたくなったら、実行に移す半月ほど前に教えて下さいね」

「…………物凄く嫌なおねだりだけど、どうしてそんな風にして欲しいのかな?」

「ディノがするより早く、私がぽいっとします!」


ものすごく嫌そうに聞いたディノに答えれば、呆然としたように凍りついてしまう。


「え…………。何でそんなことを考えたんだろう?」

「ディノがいなくなったら困ると考えたら、きっと自分からぽいする場合には悲しくないのではと…」

「…………ネア、そんなことは絶対にないから、その考えは捨てようか」

「ふ。みんな最初はそう言うものですよ」

「どうして突然達観してしまったのかな。……ではこうしようか、君が今、生涯私の側にいると誓ってくれれば、私も同じ誓いを返すよ。魔術による誓約だから、安心出来るだろう?」

「……………は!危うく乗ってしまうところでしたが、それは罠ですね!」

「ご主人様……………」

「悲しい目をしても応じられません!婚約期間は短縮しませんよ!!」


叱られた魔物がしゅんとし、ネアは悪巧みをした魔物を引っぺがすとヒルドの薔薇を花瓶に生け始めた。


「………ご主人様」

「こら!これから出かけるのに、毛布妖怪にならないで下さい!」


しかし、このやり取りで魔物がいつものしょんぼりした魔物に戻ってくれたので、ネアはほっとした。

今回は辛勝であったので、次戦に備えて魔物用の武器をたくさん用意せねばならない。

今度ダリルにでも相談してみよう。



負けてしまうと、胸が苦しくなるので困るのだ。

主導権は、ご主人様にあるべきだと思う。






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