95. 魔物からの薔薇は特別です(本編)
部屋に戻ったネアが、ノアから貰った花束を透明な氷水晶の花瓶に生けると、ふんわりと部屋が明るくなった。
薔薇選びの日に貰ってきた薔薇達がちょうどなくなった頃だったので、また部屋が華やかになってつい微笑みが溢れてしまう。
午前中の陽光を透かすと、硝子細工のような透明度を高める花もあった。
(すごい!こんな薔薇があるなんて!)
「すごく気に入ったんだね」
よって、魔物は拗ねた。
「これがとても気に入ったということもありますが、単純に綺麗なお花が部屋にあると嬉しいものです。ほら、エーダリア様の薔薇は優雅ですし、グラストさんの薔薇もとっても可愛らしいですよね」
「……飾るところがなくなってしまわないかな」
そこでようやく、ネアは魔物が拗ねている理由を知って、唖然としてしまった。
「ディノ、薔薇を飾る場所は先着順ではありませんよ?」
「……そういうものなのかい?」
「ふふ、心配になってしまったんですね?ディノに貰う花束は、隠し持っている特別な花瓶に生けて、部屋の中で持って移動します」
「持って移動?」
「はい。起きているときはこちらの部屋に。夜は寝室に持ってゆく予定なので、いつでも目に入りますね」
「ご主人様!」
魔物が機嫌を直し、ネアは次の約束に向けて長椅子でへたりと横倒しになった。
さすがに早朝から起きているので、睡眠至上主義者としては一瞬のガタが出る頃合いだ。
満腹でこのまま寝れたら至福である。
一方で回復した魔物が横に座り、そっと頭を撫でてくれた。
「ネア、ノアベルトが悪さをしたのかな?」
「む。……ご挨拶な口付けを、不意打ちでされました。私とて文化とは戦いませんので、挨拶のように普通にしてくれればいいのに、困った人ですね」
(………でも、よく考えたら、普通にされるのもどうなのかなぁ)
ネアの生まれた国でも、親愛の情を示す意味での口付けはあった。
なので、人外者からの祝福などのありふれたこの世界では、もっとハードルが下がっているのもわかるのだが、相手がノアだとちょっと駄目な気がする。
これはもはや個体差の問題なので、ノアには今後もご遠慮いただこう。
この場合、魔術可動域的にまだ子供扱いされるので、気軽に口付けされてしまうという非情な可能性は考慮するまい。
「……わかった。石鹸を買ってきたら、丁寧に洗っておこう」
「安価な石鹸で丁寧に洗われてしまうと、こわこわどころか、カサカサになるのでは………」
「我慢して貰うしかないね」
「ディノは、狐さんを洗い終えたら、すぐに私のところに来て下さいね。保湿しないと、ディノの手までカサカサになりそうです」
大事な魔物の手がカサカサになったら嫌なのでそう言うと、ディノは滲ませた酷薄さを拭い去って、まるで乙女のように恥じらった。
相変わらず、何が心に響くのかわからない。
「………おや、誰か来たかな」
「ウィリアムさんとの約束の時間です!」
「ネア、嬉しそうだね」
「お客様用の部屋に行くので、不貞腐れていると置いていってしまいますよ!」
「ひどい……」
別に二人きりで会おうというような約束ではなかったので、ネアは魔物を連れて行ってしまった。
しかし、客間の一つでウィリアム大好きっ子のゼノーシュと話していた彼は、ディノを見ると少し困ったような顔をする。
いつもの白い軍服めいた装いのウィリアムだが、その服装でリーエンベルクの部屋にいると、まるでこの王宮の主のように見える。
明らかに人外の美貌であるのだが、一瞬普通の人間にも見えてしまう特性があるのだ。
(………そして、ゼノが愛くるしい!)
同じ長椅子に隣同士で座って、一生懸命に話していたゼノーシュに、ウィリアムが助言を与えていたようだが、二人の姿勢が何とも兄弟めいている。
ついついネアは頬が緩んでしまったのだが、ウィリアムの表情を見ておやっと思った。
「ネア、シルハーンも連れて来たんだな」
「む!ディノは同伴禁止でしたか?」
「シルハーンには何も持って来てないんだが、困ったな……」
「まぁ、ディノは立会人なので大丈夫ですよ」
どうやらディノの分の薔薇がないので、まずいと思ったようだ。
普通ならそんなことを考えなくてもいいので、生来の面倒見の良さのようなものなのだろう。
そう言われたディノも、困惑したように瞬きする。
「………ウィリアムからの薔薇はいらないよ?」
「シルハーン、俺もさすがに薔薇は贈りませんよ。ただ、今日はネアにお客が多いだろうから、あまり心穏やかじゃないかなと思って」
「成る程。だから近寄りたくなかったのか」
「気を散らせるようなものや報告を、何か持っていれば良かったんですけどね」
(……優しいのかと思ったら、案外酷いことを言われている……)
本人は何とも思っていなさそうだが、ネアは邪険にされた魔物が少し不憫になってきた。
腕を引っ張ってやり、近くの椅子に座らせると頭を丁寧に撫でて大人しく待っているように言い含めた。
ディノは突然どうしてそんな風にされたのかわからず、仲間外れにされて途方に暮れたように、けれどきちんと座った。
頭を撫でて貰えるのは嬉しかったようだ。
「ウィリアムさん。うちの魔物は、この通り、ちゃんとお利口に待っていられます!」
「ネア、……どうしていつも飼い主になってしまうんだろうな」
「………何か変でしたか?」
首を傾げたネアにウィリアムは苦笑し、大人しく椅子に座った万象の魔物を見ながら、ゼノーシュがぽそりと呟いた。
「………お労しい」
「なぬ?ゼノ、私は何か酷いことをしてますか?」
首を傾げっ放しのネアに小さく笑って、ウィリアムが立ち上がった。
柔和な微笑みで手招きされると、小さな子供になったような不思議な気分になる。
じゃあねと手を振って出て行くゼノーシュは、この後でグラストの仕事に同行するのでお休みは午前中までだったらしい。
「ネア、シルハーンが大人しくしている間に、薔薇を渡そうか」
「はい!」
腰を屈めて、ネアに視線の高さを合わせてくれたウィリアムが空中から取り出したのは、はっとする程に冴え冴えとした白さの薔薇だった。
何の色味もない生粋の白は、刃のような美しさだ。
ウィリアムの司る死や終焉の容赦のなさとは、きっとこういう清廉な美しさなのだろう。
「…………ほゎ」
つい気の抜けた声が出てしまい、ネアはその薔薇をそっと受け取る。
他の薔薇のように、気軽に香りを嗅いだり出来ないような気がした。
「気に入ってくれたかな?」
「……凛としていて、でも少し甘くて、何と言えばいいんでしょう。とびきりの薔薇です!」
「そう言って貰えると嬉しいな。こういう愛情を富ませる祝祭は好きだから、形が整ったのを選んできたんだ」
「愛情が豊かになると、穏やかな終焉の方が多くなるからでしょうか?」
「ああ。愛情の寄り添う静かな終焉はいいものだ。俺はいつも騒がしい方ばかりで、あまり丁寧に見られないのが残念だが」
時々、こんなウィリアムのことを、穏やかな振る舞いがあるからこそ、彼程に冷酷な魔物はいないと称する者もいる。
飲み会の時にアルテアや、近いところでは先日の会でジーンも言っていたような。
しかし、ネアは死とはかくありきと考えるのでさしたる感慨もない。
そういうものだけれど、優しい。
それがウィリアムなのである。
「ウィリアムさん、いつも有難うございます」
「ネアらしい薔薇だな。繊細で印象に残る綺麗な薔薇だ。有難う、大切にするよ」
こうして目の前で穏やかに微笑んだウィリアムは、ネアが渡した薔薇を嬉しそうに受け取ると、大仰な仕草ではなく自然に花びらに口付けた。
見惚れるような絵になる仕草にどきりとし、ネアはこんな風に喜んでくれることの優しさに少し感動してしまった。
(魔物は、本来はこんな風に一輪の薔薇をくれたりしないのに……)
それなのにこうして気遣ってくれるのは、彼の優しさだ。
彼はいつも、普通ではないものを普通のもののように与えてくれる。
花束でもなく、人間のように一輪の薔薇をくれることで、良い関係なのだと肯定してくれたことが何よりも嬉しい。
(咎竜のことでアクス商会に同行してくれた時も、白夜の魔物のときも、忙しい中でも嫌な顔一つしないで頭を撫でてくれるんだ)
それは、リーエンベルクの仲間達や、大切な魔物とは違う形の特別さであった。
「ウィリアムさん、お仕事の方はどうですか?繁忙期が過ぎて、少しでもゆっくり出来るといいのですが」
「小休止だな。これでまた本格的に春になると、夏の手前までは忙しい」
「戦争ごとに向いているからでしょうか?」
「内面的にもかな。戦争という意味なら、世界中同じ季節進行だと楽だったんだが」
「………確かに、色々な季節の国がありました」
「ネアはどうだ?最近変わったことは?」
「星鳥の雛がお部屋で生まれたので、アルテアさんのところの子供になって貰い、無責任に可愛がっております!」
「……アルテアの?」
「ふふ、ディノがそうしてくれたのですよ。うちのほこりは、放り投げて遊んでくれるアルテアさんが大好きなのです」
「………その名前をつけたのは、アルテアか?」
「私です。最初は炭灰色のほこり感満載だったのですが、煤けていたらしく、アルテアさんが洗ったら真っ白になってしまって」
「ネア、ごめんちょっといいか」
そこでウィリアムは一度体を捻り、ディノの方に顔を向けた。
「シルハーン、名付けは問題ないんですか?」
「魔術の繋がりは解いたよ。それと、白いのは特別変異種だ」
「それを聞いたら安心しました。………特別変異種なのか」
どこか唖然としたままこちらに視線を戻し、待っていたネアの頭をふわりと撫でる。
「危険はなさそうで良かった。それと、アルテアが親代わりなら、今度からかっておこう」
「ごめんなさい、きちんと説明すれば良かったですね。ご心配をかけてしまいました」
「いや、俺が先読みで不安になっただけだから。……それにしても、よくアルテアに任せられたな」
「少し前に、無償お助け券を貰っていたのです。ほこりもとても懐いていますし、最近はエーダリア様に恋をしているものの、アルテアさんのことも満更ではないようです」
「うーん、そういう嗜好なのか。まぁ、確かに遭遇率では男ばかりだからな」
「水盆に恋をしたこともあります」
「………物にもか」
ウィリアムは少し頭を抱えてしまったが、ネアが対象に入らないのならいいかと、すぐにあっさりと割り切った。
ただ、あまり会わないようにしようと呟いている。
「ふわふわの可愛いやつなので残念です。会う人の色の宝石を生んでくれるんですよ」
「ん?シルハーンにも?」
「虹色がかった白い宝石でした」
「………それは凄いな。でも、会うならその………ほこりが、伴侶を決めてからにしよう」
「私は、もうアルテアさんでいいのではと思うのです」
「………まだ貸しがだいぶあるんだが、それでも一瞬アルテアが不憫になった」
「今度、こっそり見てみて下さい。案外相性が良さそうだと感じますよ」
少しお喋りしていると、待てをさせた方向が可哀想な感じになってきたので、ネアはディノのお座りを解除して輪に入れてやった。
「そう言えば、前に話してた春告げの苺がそろそろ店に出るらしい」
「行きます!」
しかし、仲間に入った早々にわからない会話が出てきてしまった。
以前に定例会で食事したお店のことなので、ネアが食いつき、ディノはしょんぼりした。
理由はよく分からないが、定例会は仲間外れだと理解はしているのだ。
「それと、………ん?ネア、………もしかして、ジーンに会ったか?」
「すごい、そんなことまで分かってしまうのですね!最初はアクス商会でお会いして、その後アルテアさんが、お友達枠でリーエンベルクに連れてきていました」
「なら大丈夫そうだが、精霊にだけは好かれ過ぎないようにな」
「……………む」
「…………手遅れなんだな?」
「そういうことかどうかわかりませんが、最近、行く先々で遭遇するので、ディノと不思議だと話していたところです」
「シルハーン、もし厄介であれば彼の弟を招くといいですよ。遭遇すると殺し合いになるので、ジーンは避けていますから」
「殺し合い………」
ジーンの気質から想像しなかった過激な言葉が出てきたのでネアは驚いたが、精霊ともなると兄弟の不和が、容易くそのレベルに発展していまうのだとか。
「だから、好かれても厄介なんだ」
「その事実を心に刻み込んで用心しておきます………」
「行く先々で遭遇するのも、ある意味精霊らしいな」
そんなことを話していると、ややフライング気味でやってきた魔物が勝手に加わってきた。
昼間の陽光に似つかわしくない黒一色の装いが視界を遮り、ネアは半眼になる。
「なんだ、今度は精霊も誑かしたのか」
「アルテアさん、よくも一時間も前倒しましたね」
「別件が早く終わったんだ。どうせウィリアムならいいだろうが」
「俺が嫌だった場合は、帰ってくれるんですかね」
「融通の利かない奴だな。ほお、お前らしい薔薇だな」
「そういうアルテアは、花束にしたんですか?」
「どうせあの妖精も花束を贈るんだろ」
「彼は、庇護の種類で重用を受ける妖精ですからね」
そこで突然、アルテアはネアに質問を振った。
「花束は幾つ貰うんだ?」
「五つです」
「…………五つ?」
咄嗟の質問だったので素直に答えてしまい、アルテアの声がぐっと低くなった。
ウィリアムは無言で目を瞠っている。
「………ひ、一つは、ジーンさんが持ってきてくれるアクス商会からの補填品です」
「補填されるようなことがあったのか?」
「ハン王子をアルテアさんに差し上げた際に、薔薇も回収されてしまったのでそれです……」
「なんだ、欲しけりゃ言えばいいだろうが」
「良く考えたら、ムグリスからの求婚の花束よりも、アクス商会から貰う方が安全そうですし」
「っつーか、何でそれをジーンが持ってくるんだよ」
「ハン王子の案件を担当されていたからじゃないですか?」
「あいつは外向けの担当案件なんぞ持たないぞ?」
「………ネア、まさかそれもその一環なんじゃないか?」
「…………わぁ」
「まさか、さっきの話はジーンなのか?」
「ジーンさんです……………」
ネアが認めると、アルテアはものすごく嫌そうな顔をした。
「………何でお前は咎竜といい……」
「咎竜めと並べられてしまう規模なんですね……」
「来るのは何時だ?俺が受け取っておいてやる」
「アルテアが受け取ると混乱しそうな気がするな。シルハーンが受け取るのが一番では?」
「…………ネア?」
「ディノ、精霊さんについての予備知識がないので、まずいようであればお願いします。……ただ、私が完全に不在のままだと、それはそれで荒ぶったりしませんか?」
「…………ああ」
「…………内に溜め込みそうだな」
念の為の確認であったが、ウィリアムとアルテアが同時に頷いたので、ネアは慄いた。
行く先々に現れる問題を除けば、穏やかそうでとても良い御仁だと思っていたので、とても残念である。
(せっかくお友達になったのだから、同じ街に住む知り合いとして、いい関係が築けると思ってたのになぁ)
やはりこれは、過去に木通の魔物として勧誘してしまったことが良くなかったのだろうか。
曖昧にせずに、きちんと話し合っておけば良かったのかも知れない。
「っつーか、もうその薔薇は断れよ」
「貰うつもりで当日を迎えた以上、私の薔薇です!薔薇に罪はありません!!」
「俺は、断った方が荒れると思いますよ」
何やらそちらで議論してくれている内に、ネアは家事妖精に頼んでいた紅茶を受け取りに行った。
その際に御客人が一人早く来てしまった旨を伝え、渋々自分用をアルテアに渡して貰う。
けれども自分の前にも紅茶が置かれたので首を傾げると、そのように指示してくれたらしいディノが小さく微笑んでくれた。
有難くいただくことにすると、シュプリの風味の紅茶だったので幸せな気分になる。
イブメリアの頃によく出された発泡葡萄酒の香りのものなのだが、本日は祝祭なのでまた出てきたのだろう。
大好きな茶葉にほくほくしていると、隣の魔物もどこか嬉しそうにしている。
この空気は朝食の物々交換でご主人様が喜んだ時と同じなので、ネアが喜ぶのがコツであるらしい。
(綺麗な薔薇を貰って、美味しい紅茶を飲んで、既に幸せな一日だわ)
紅茶のお蔭で一瞬、ジーンの問題を忘れられたので、ネアはそうほんわりする。
ウィリアムの薔薇を見ながらいただく紅茶は素晴らしいなと思いながら、ふと思い出してアルテアの方を見れば、目が合ってしまい唇の端で微笑まれた。
考えていたことが読まれているので、何だかしてやられた気分になる。
「さてと、ちょっと借りるぞ」
そう言ったアルテアが、おもむろに立ち上がった。
横に置いていたステッキでコンと床を突けば、ぶわっと立ち上がった星空が部屋を覆ってしまう。
大きな布に包まれるように、ネアが瞬きをする間にそこは夜空の下になった。
確かに座っている長椅子はそこにあるけれど、隣に座っていた筈のディノの姿は見えない。
ネアが座った椅子は、星空の下の雪原の上にぽつんと置かれている。
(…………すごい)
淡く空が揺らぐのはオーロラだろうか。
遠くに地平線を切り取る森のシルエットが見え、これだけ広い空間に放り出されても無機質さはまるでない。
それどころか、夜空から零れんばかりの星達の煌めきのお蔭で、とても賑やかにさえ思えた。
恐る恐る立ち上がってみると、座っていた長椅子も消えてしまう。
星と雪の間に二人で残されて、ネアは少しだけブーツを履いておけば良かったと思わないでもない。
「空間の演出が凄いです……」
「相変わらず、驚き方に色艶がない奴だ」
「…………アルテアさん、少し先にリズモを発見したのですが、捕獲しても良いでしょうか?」
「…………よくこの流れで切り出したな」
そう言いながらも、アルテアはひょいとステッキを回してリズモを捕まえると、ネアに手渡してくれた。
ふんわり水色のリズモは初めて見るが、アルテアに捕まれて震え上がっていたので、ネアにパスされたところで安堵のあまりミーミー鳴き出した。
何だかわからない祝福を取り敢えず貰い、ネアは再びアルテアと向き合った。
服装的に被っている帽子あたりから取り出すのだろうかと、子供っぽい想像をしていると、滑らかに虚空から見事な薔薇の花束を取り出され、ネアはぽかんとしてしまった。
どこから取り出すのだろうかとじっと見ていたのに、いつの間にか手に持っていたのだ。
「……………何て色でしょう。こんな色の薔薇を初めて見ました」
「一つの庭園にしか咲かない薔薇だからな」
その薔薇は、一見白い薔薇だった。
白い白い薔薇は、満天の星の下でぼうっと光る。
けれど、花束を持っているアルテアの手の動きで、光と角度によってその薔薇は暗い赤紫色にも見えるのだ。
何とも不思議な二面性に、彼らしい妖艶な仕掛けを見る。
えてして薔薇は女性に例えられるが、聖女と魔女のような物語的な二面性は、ただの花とは思えないくらいの魅力があった。
「………物語のような薔薇ですね」
そう呟くと、アルテアは少し微笑みを深めたようだ。
「薔薇を作った奴も、同じことを言っていたな」
「この品種を作った方がいるのですね?」
「薔薇狂いでな。あちこちで、魔物や竜、精霊に妖精と、借りれる血は借り尽くして、新しい薔薇を育ててた」
「まぁ、血を使って品種改良が出来るんですね」
「魔物は特に、血から花を育てることが出来る。妖精は宝石を、竜は武器を、精霊は酒を作れる」
「………宝石」
「お前、宝石はもう充分だろ」
「いえ、以前にディノが綺麗な真珠を作ってくれたことを思い出したんです」
「あいつなら、何でも作れるだろうな。俺も大概はいけるが、酒は無理だ」
「そういう得手不得手があるんですね」
そこでネアは、アルテアの手の中にある薔薇に視線を戻した。
珍しく手袋をしていない綺麗な手が、人間に魔法を授ける不思議な生き物のように、その特別な薔薇をネアに渡してくれる。
「この薔薇は、アルテアさんなのですね」
アルテアの微笑みは、真夜中に人間を唆かす高貴な悪しき生き物のよう。
いかがわしく、美しく、そして甘いばかりでもいい場面ですら、例えようもなく危険にも思える。
「ああ。夜しか訪れない温室で、その薔薇狂いの庭師が、俺の血と夜闇を糧に作った薔薇だ。陽光の下でも育ててみたが、ただ枯れないばかりの赤い薔薇にしかならなかったそうだ」
「枯れないだけでも凄いのでは?不死の薔薇ですよね」
「………ん?言われてみれば確かにそうか」
「その薔薇もまだ咲いているんですか?」
「お前のところにあるだろ。イブメリアのオルゴールだ」
「………なんと、まさかの両方揃ってしまいました。アルテアさん、こんなに特別で素敵な薔薇を有難うございます!」
素晴らしく美しいものなのでぱっと微笑みを深めたネアに、アルテアは満足げに鮮やかな目を細めた。
「………む?」
「少し黙れ」
すいと指先でネアの顎を持ち上げ、アルテアが何とも邪悪な笑い方をした途端、
「アルテア、紅茶に砂糖を入れておきましたよ」
そこは先程の客間に戻っていた。
にっこりと微笑んだウィリアムが、いつの間にか取り上げていたらしいアルテアの白いステッキをくるりと回して、しれっと報告する。
一瞬、無理やり場の展開を解かれ呆然としていたアルテアが、片手を額に当てて低く呻いた。
「………ウィリアム」
「砂糖は八個でしたっけ?」
「ふざけるな。殆ど砂糖にしやがって!」
「紅茶風味の砂糖がアルテアの好みでしたよね。ネア、彼は類を見ない甘党になったんだ。覚えていてやってくれ」
「なんと!老後が心配ですが、個人の味好みには口出ししない主義です」
「おや、私も覚えておこう」
「………お前ら、俺がこれを飲むとでも思ってるのか?」
「アルテア以外の誰も飲みませんよ」
「………ウィリアム」
そちらがまた一悶着ありそうだったので、ネアは素早く離脱し、いそいそと貰った薔薇をディノに見せに行った。
「見てください、こうしてみると、ほら!光の角度で色がこんなに変わるのです。アルテアさんの薔薇なんですよ」
「ネアがご機嫌になってる…………」
「今朝から、こんなに素敵な薔薇がたくさんあるのだと驚くばかりです。あまり心肺機能に負担をかけないよう、少し心を整えないと……」
「…………ご主人様」
興奮覚めやらぬネアがそうはしゃいだせいか、魔物は少しだけくしゃりとなって目を伏せた。
まだ自分のものを渡していないのに、ネアの心のゲージが満たされてきたのが悲しいようだ。
「こんな素敵な薔薇まみれになれるなんて、とても素敵な祝祭ですね」
「何で最後にしたんだろう」
「あらあら、自分で選んだ順番にしょんぼりですね。でも、薔薇の祝祭は夕方からがとても綺麗なのでしょう?」
「……夜火薔薇が灯るし、花火も上がるからね」
「ふふ。それならば、私が一番楽しみにしているのは、その時間なのです」
「………そうなのかい?」
「ええ。あちらの話し合いが終わったらアルテアさんに私からの薔薇を差し上げて、次は、ええと…………お昼ご飯を挟んで、ジーンさんでした」
ネアの呟きがぴしりと張り詰めただけでなく、その一言で部屋は緊張感に包まれた。
しかしまず、素敵な祝祭の昼食の時間なのである。
緊張感はぽいと投げ捨てて魔物達に任せたネアは、頭の中から、先日伝えられた祝祭の昼食のメニューを引っ張り出す作業に専念することにした。