ミュレ
ミュレは貧乏が嫌いだ。
ミュレの実家は没落した男爵家で、ミュレは屋敷どころかドレスさえ売らなくてはいけない最低の時期に、三姉妹の末っ子として産まれた。
元々国がさして裕福ではなかったこともあり、贅沢をする為に血の滲む思いで歌乞いになると、ミュレは家族を捨ててさっさと国外の仕事を斡旋して貰った。
しかし、そうして国外に出ている数年の内に、ミュレの祖国はあっけなくなくなってしまった。
ロクマリアという愚かな国は、馬鹿と言っても足りないくらいの王と愚かな王女、その王女を溺愛していた残虐な妖精によって滅茶苦茶にされてしまったのだ。
ミュレは、ずっと自国の王女が嫌いだった。
さして美人ではないが、自分と同じ踠いてでも高みを目指す女だと思っていたのに、彼女は何にも努力をしなかったからだ。
(あんなに綺麗で強い妖精に愛されているのだから、どこでだって幸せになれたのに)
自分が得られなかった力を得て、それを使わないまま、不幸だと俯いているその姿が嫌いだった。
「お可哀想に。あの二人は、狭いところをぐるぐる回り続けていて、決して会えない恋人達みたいです」
「それって馬鹿だということじゃないの?フォーンは、ああいう女が好きなんだ?」
「ち、違いますよ!ただ、可哀想だと思ったんです」
「どうでもいいけど、あんた随分と上から言うのね……」
「あの王女様は、僕よりもずっと若い子供ですからね」
しゅんとしたフォーンが大きな目を潤ませるのが面白くなくて、その日の宿の部屋は別にしてやった。
フォーンは言うのだ。
あの王女は期待しながら諦めている。
愛する男が自分の愛に気付き、王位や権力なんかよりも自分を望んで連れ出してくれるのを。
あの妖精も望みながら捨てている。
彼女が自分を愛するなどと思いもせず、彼女の為に、権力こそが幸福の全てだと信じて。
(馬鹿みたい。………手元にあるものが欲しいなら、欲しいと言うべきだわ!)
そういう愛は、ミュレにはないのだ。
ミュレには、命をかけて愛してくれるような男などいない。
だから、あの王女が最後まで嫌いだった。
さっさと国なんか捨てて、さっさとあの妖精の手を取って、幸せになってしまえば良かったのだ。
そうすれば、ロクマリアは滅びずに済んだのだろう。
「どうしたの、ミュレ。ご機嫌斜めだね。怒ってるのかな?」
「さっきの女の子のこと?別に友達ならいいわよ。伴侶もいるみたいだったしね。ただ、説明もしないで黙れって言われるのが嫌なの。次からは気を付けて頂戴」
目の前のテーブルで微笑んだのは、目下の恋人だ。
背も高いし魔術も豊かそうなので、悪くはない。
悪くはないが、心が躍るかどうかはわからない。
一緒にいれば楽しい男だし、いい思いもさせてくれる。
けれども、本当のたった一つというものは、もっと違う形をしているのではないかと考えてしまうのだ。
(あの王女と妖精のように………)
「ごめん、ごめん。あの魔物はね、とても怖い魔物なんだ。あんな風に近付くととても危険だからね」
「でもネイは知り合いみたいだったじゃない」
「うん。………今は少し、ね。彼が優しくなったから、また仲良くなれるといいなと思ってるところ」
「昔は優しくなかったの?」
「そうだよ。秘密の話をしてあげようか?僕はね、彼を怒らせて心臓を取られてしまったことがあるんだ」
声を潜めて笑うように囁かれ、耳元に唇を寄せられる。
どこか掴み所のない男ではあるが、その手の経験は随分と積んでいるらしい。
「ふーん。あまり面白くない作り話ね。……あ、この葡萄酒も飲みたいわ」
「あれ、酷いなぁ。作り話なんかじゃないのに。いいよ、好きなだけ飲むといい」
「だって、心臓を取られるなんて塩の魔物の話の二番煎じでしょ。どうせ物語を作るなら、もっと面白い話にして」
「困ったひとだね。どんな話が聞きたいんだい?」
「そうねぇ、………この国の元王子、ウィームの領主を知っている?」
「さぁ、どうだろう」
「役立たずねぇ!」
「………ミュレ、やっぱり怒ってる?」
ウィームの領主に会ってみたかった。
相性は悪くないと思うし、実際に相対してみて、彼が自分をどう評価するのかを知りたかった。
向かい合ってその目を覗き込めば、大抵の男の心の動きはわかってしまう。
自分がある程度美しいことは知っている。
もし、あの王女を袖にした異国の王子が自分を見初めたら、あのロクマリアが落ちた夜から抱えた虚しさのようなものは埋まるだろうか。
或いは、焦がれて追いかけてきたような贅沢な暮らしが叶ったなら。
「僕は、ミュレが欲しいのはお金じゃないと思います」
「煩いわね、グラタンを食べさせて貰ってご機嫌なんでしょ?」
「だって、ミュレは絶対に食べさせてくれないから……」
また項垂れて涙ぐんだ魔物に、ミュレはばたんと扉を閉めて、この部屋から出ていってしまいたくなった。
(グラタンくらい、本当は好きなだけ食べられるものね!)
フォーンは魔物だ。
こんな小さくて、世間知らずの少年に見えるけれど、人間よりは遥かに恵まれたものを、生まれ落ちた時より手にしている。
力も、美貌も、お金や知識だって。
だからせめて、ミュレが生きている間くらいは、フォーンを好き勝手に幸せにしてやるつもりはなかった。
契約の魔物は従属なのだ。
主人の言うことを聞き、忠実に付き従うべきである。
決して、主人より幸せであってはならないのだ。
しかし、その日の内に同じような台詞をネイにも言われてしまった。
「ミュレが欲しいのは、家族なのかもしれないね」
「ネイ、まさかそれ求婚?それとも、フォーンに何が言われたの?」
「あはは、ただの推理ごっこだよ。僕が結婚向きじゃないことぐらい、ミュレも知ってるでしょう?」
「………何それ、遊び半分に私の恋人になっていたの?」
血の気が引くような思いで低い声を出せば、腹立たしいことに、ネイはミュレの頭を撫でた。
「君を好きなのは本当だよ。でも、君は頭のいいひとだから、僕がどんな駄目な男かなんて知っているだろう?いい加減な気持ちはこれっぽっちもないけれど、とにかく長続きしないんだ」
「………私が好きだといいながら、それは続かないと言うのね」
「だって君は可愛いもの。でも、自分を変えられる見込みがない以上、嘘を吐くのは嫌だからね。そんな目をしないで、可愛い人。ミュレは、まだ君のことを好きな男でも嫌いになってしまうのかい?」
「…………驚いたわ。あなたは、自分のものは何一つ差し出さないのね」
呆然としてそう言ってやれば、ネイは困ったように首を傾げて微笑む。
続けられないからやめようとも、続けられるように努力しようとも、ネイはそう期待させる言葉の一つも口にしなかった。
その不実さに愕然として、もう一眠りしてもいいかなと思っていた寝台から立ち上がる。
「ありゃ、嫌われてしまったかな」
悲しげに呟く声が後ろから聞こえてきたが、目元がぐっと熱くなって、振り向く余裕もなかった。
もしここで取り縋って欲しいと泣いて手に入るなら、その努力を惜しまないくらいには打算的だ。
でも、これはそんなことで手に入るものではなかった。
その目算を誤り、無駄な時間を割いたことが悔しかった。
身支度を整えて部屋を出て行こうとすると、ネイは困ったような微笑みを浮かべてドアを開けてくれる。
「僕じゃ駄目だったみたいだね。薔薇の祝祭が近いから、君に贈る花束を用意していたんだけど」
「…………それは、何個用意したのかしら?」
「うーん、何個だろう。でも、君の為にも一生懸命選んだんだよ?」
「………ネイ、それを私に言っても何も変わらないわよ?」
「そうなの?花束だけは、貰ってくれると良かったんだけど」
「それって、自分の労力を無駄にしたくないだけじゃない」
「うん。だって、薔薇も勿体無いしね」
その最後の言葉で、ドアを力一杯叩きつけるように閉めてやった。
『お金なんて、重要かしら?』
最後に会った時、そう問いかけたのは二番目の姉だった。
『それよりも、家族で一緒に居られれば幸せではないかしら?』
貧しいということがどれだけ不愉快なのかを知っているくせに、彼女はいつもそんなことを言うのだ。
『フォーンもいるのだから、ミュレはそこまで頑張らなくてもいいのよ?』
そう言って頭を撫でてくれた手を振り払い、あの国を出てからずっと。
いつか望むものを手に入れたら、その時には自分の判断で戻ってやるつもりだった。
まさか、あの国ごとなくなってしまうなんて。
もう二度と、会えないなんて。
「ミュレ、いい殿方は他にもたくさん居ますよ!魔術師の一人、どうっていうことはありませんから!」
「………じゃあ、何でフォーンは涙目なのよ」
「ネイ様は、グラタンを食べさせてくれる優しい方だったので、あんな方がミュレの旦那様になってくれたら良かったと……」
「フォーンは一年グラタン禁止ね」
「ミュレ?!」
乗り合い馬車に乗って、子供のような魔物を連れてウィームを出る。
もし、フォーンがウィームで出会ったあの同業者の魔物のような美しい男の姿をしていたら。
(そしたら、フォーンでも良かったかもね)
けれど現実にはフォーンは幼児と言ってもいい姿なので、そんな相手に出来るはずもない。
それが、本当は一番悔しかった。
フォーンで済むのなら、ミュレはロクマリアを離れる必要なんてなかったのだ。
フォーンでなくとも、望むものがあそこにあれば、家族が死んだ事を知らないまま二年も過ごすことなんてなかったのに。
(でも、もし、内戦が始まったときにそれを知らされたら、私は身の危険を冒してでも国に戻ったかしら?)
案外、震えながら背を向けてあっさり見捨てたかも知れない。
所詮、一番大事なのは自分自身なのだ。
そんなことを考えながら悶々としていると、馬車は国境を越えて北部の小さな国に差し掛かるところだった。
何となく気分が乗らなくなったので、馬車を降りてその小さな国で宿に泊まることにする。
「ミュレが滞在するには、珍しく小さな国ですね」
「いいのよ。このくらい小さい方が、一軒の宿に人が集まるしね」
「ミュレは頭がいいですねぇ!」
「それと、稼げそうな仕事を探してきてちょうだい。この程度の国なら、歌乞いも少ない筈よ」
「はい、ミュレ!」
嬉しそうに頷いて駆けて行ったフォーンを見送り、ミュレは宿の周りを少し歩いてみることにした。
小さな国なので、宿を出て少しも歩けば、深い森とその奥にある雪深い山々がよく見える。
(畑と、山と森ばかりって感じね。古い国で、内政や外交もきちんとしている割には、あまり生活水準は良くないように見えるけれど……)
国が荒れている様子もないのだから、ミュレにはあまりよろしくなく見えるこれが、どうやらこの国の基本水準であるらしい。
牧羊的な風景に早くもげんなりしてきたので、手持ち無沙汰に近くにある煉瓦の壁に寄りかかった時だった。
「………何かしら」
壁の下に、何か灰色のものが落ちている。
もぞもぞ動いているので、慌てて対魔術用の竜革の手袋を取り出してつけると、拾い上げてみる。
それは、ずんぐりとした毛皮の妖精で、喉に松ぼっくりを詰まらせているらしい。
祝福を得られる可能性もあるので、松ぼっくりを引っこ抜いてやると、毛皮の妖精は目を輝かせて羽を震わせた。
「ミュレ、やっと見つけました。………あ、ムグリスですね!」
「え?!これ、ムグリスなの?!」
駆け寄ってきたフォーンの言葉に、目を丸くして手の中で羽を光らせた生き物を見つめる。
「………ムグリスって、兎の妖精よね?」
「耳が短いんですね。おや、何か言ってますよ。僕、通訳しますね」
「通訳出来るんだ………」
そしてフォーンが通訳したのは、驚くべき内容だった。
ミュレが助けたムグリスは、何とも奇妙なことにムグリスの王子だったらしい。
彼はここ数日の記憶がなく、訳のわからない心の虚無感に襲われ、松ぼっくりを暴食しており、それで喉に詰まらせてしまったのだとか。
そんな時に助けてくれたミュレに、彼は一目惚れしてしまったのだそうだ。
「凄いですよ、ミュレ!!お屋敷を建ててくれるので、是非に結婚して欲しいそうです」
「え、馬鹿じゃないの。この妖精の屋敷に私が住める訳がないじゃない」
「ミュレ、ムグリスは物凄い資産家なんですよ?」
「はいはい、凄い凄い」
そこでムグリスがもそもそと動いて鬱陶しいので、羽を掴んで動きを止めてやった。
その途端に羽を光らせたのでぎくりとしたが、手袋に妖精の粉を落として喜んでいるので、ただ嬉しかっただけのようだ。
「もうっ!真面目に聞いて下さい!!人間の王族よりも裕福なので、ムグリスに見初められると一生贅沢が出来るんです!」
「…………嘘、」
「本当ですよ!」
「この毛皮のどこに、そんなに稼げる余地があるのよ?」
「僕にもよく分かりませんが、そういうものなんです。だから、ムグリスの求婚を受けるなんて、滅多にない幸運なんです!」
「………どうすればいいわけ?」
フォーンの興奮した声に、ムグリスの羽を摘んで壁の上に置いてから、思わず頭を抱えて蹲ってしまった。
その途端フォーンの歓声が響き、眉を顰める。
「フォーン、悩んでるんだから、ちょっと黙って」
「ミュレ!ムグリスの儀式を知っているんですね!これで求婚が成立したと、王子様がお喜びです!!」
「………はい?」
「ご婚約おめでとうございます、ミュレ!」
「は?!………え、ちょっと待って、どういうこと?!」
「やっと大金持ちですね!」
「待って、どういうことか説明して!!」
結局、ミュレはそのムグリスの伴侶となった。
未だにこうなってしまったことがよく分からないが、ムグリスの妻の仕事は夫の毛並みを整えるだけでいいらしい。
適当に買ってきたブラシで梳かしてやっていたが、生活が潤うとこの毛皮の妖精にも愛着が湧いてきて、高価なブラシを買ってきてやった。
種族間の負荷が大きすぎるとかで、後継ぎは第二夫人が産んでくれるらしい。
あくまでも後継ぎの為の側室であり、愛しているのはミュレだと、ハン王子は毎朝言ってくれる、……らしい。
相変わらず言葉もわからないが、ミュレの生活は毛皮の妖精を飼っているだけのような、気楽なものだった。
なので今朝も、麦酒を飲み麦と松ぼっくりを食べる夫を正面から眺めている。
丸々と太ったペットのようなものなので、可愛いような気もしてきた。
(同じ寝台だと寝返りで潰してしまうから寝るときも別々だし、ムグリスは入浴しないし、ほんとブラシで梳かしてるだけなんだけど……)
ムグリスとは言え王子は忙しいそうで、仕事に出る夫を見送ると、夜に夫が帰ってくるまでミュレは自由だ。
夫の仕事は麦倉庫の襲撃の指揮や、仲間への麦の分配に、祝福を与える人間を選ぶこと。
ムグリスには幾つもの群れがあり、ミュレの夫の群れは、次の年はウィームを避けるそうだ。
何やら、ウィームには恐ろしい狩人がおり、仲間たちが警戒しているのだとか。
その代わりにこの国の季節が変わる頃には、素晴らしい絹の産地でもある新しい国に渡るのだそうだ。
ミュレの移動が手間取らないように、ハン王子は既に長距離用の転移門を購入済みだ。
渡りの予定地となる新たな国にも、豪華な館が建設済みだと聞いた。
「………よく分からないけど、多分幸せだわ」
「僕も幸せです!ミュレはもう一生贅沢が出来るし、こうしてお側にいる僕も、毎日グラタンが食べられます!!」
「よく、毎日食べて飽きないわね」
ムグリスの王子の妻になる際に、ミュレは幾つかの注文をつけた。
まずは妻を尊重し、望む限りの贅沢な暮らしをさせること。
そして契約の魔物であるフォーンを連れてゆくことと、彼に好きなだけグラタンを食べさせてやること。
ハン王子はすんなりと了承し、フォーンのグラタン専任の料理人が雇われた。
ムグリスの王子的にはフォーンはミュレの弟のようなものだと考えているらしく、彼を邪険に扱うこともない。
時々第二夫人が子供を見せびらかしに来るが、赤ちゃんムグリスは可愛いだけなので特に支障もなく、毎日は怖いくらいに穏やかだった。
けれど、今でも時々同じ質問に囚われる。
(私は、これで幸せなのかしら?)
(もし、内戦が始まる時にそれを知ったら、私は、両親やお姉様達を助けにロクマリアに戻ったのかしら?)
多分、答えは一生出ないのだろう。
でも、こんなことで悩めるのだから、ミュレの人生はさして悪くないものなのかも知れない。
今日もミュレは夫をブラシで梳かして送り出し、フォーンは幸せそうにグラタンを食べている。