志願者と防壁
その日、リーエンベルクの一角は厳戒態勢になっていた。
ふらりと人型で入ってきたのはノアベルトだ。
先日の特殊な騒動の鎮圧において、彼は人型で自由に過ごせる範囲を広げているが、彼をここに迎え入れたネアはまだ知らない。
早朝の透明な光に、滅多にない白に多色性の髪がきらきらと光る。
ディノとは違い暖色系の色まで備えている訳ではないが、少なくとも三色以上は持っているようだ。
「わーお、ヒルド。これはどうしたの?」
「ネア様宛てのカードですよ」
「これ全部、ネア宛てなの?!」
ぎょっとしたように声を上げ、ノアベルトは積み上げられたカードを怖々と眺めた。
「正直、びっくりした。僕は大好きだけどさ、特別な要素がある子でもないよね?」
「新年の振る舞いの時に、特定層の支持を得てしまったようですね。普通であれば己の立場を弁えてカードを送るのは控えるところですが、……何というか、この方々は困難を尊ぶようです」
「………ありゃ。………それってまさか」
ヒルドが無言で差し出した一枚を広げ、少しだけ読んですぐにノアベルトはそれを床に投げ捨てた。
「自分が寝室でお願いするのはいいけどさ、他人の欲望の垂れ流しを読まされるのは最悪だね」
「おや、ではあなたのその嗜好を聞かされた私はどうすればいいのでしょうね?」
「友達なんだから、僕のは許してよ」
そう言いながらも、ノアベルトは次々とカードを開いては読み投げ捨ててゆく。
「ネイ、床に捨てるのはやめていただきたい」
「後で掃除してあげるよ。ねぇ、これ傑作なんだけど。あなたの為に秘密の部屋を用意しました、ご主人様。だって」
「面白がれるあなたが羨ましいですね」
「そう?絶対こいつの手には入らないんだから、面白いよね。…………ん、これ魔物だね」
「ええ。そのカードを寄越したのは、伯爵位の魔物なんです。ご存知の方ですか?」
「………みんな人間だと思ってた」
少し呆然とした様子のノアベルトを一瞥し、ヒルドは振り分けておいた一枚のカードを手に取った。
鮮やかな紺色の封筒に入っており、触れると雨音が聞こえてくる。
(ネア様が手に取ったら、さぞかし喜んだだろう)
しかし決して渡すつもりはないのだから、自分は酷い男だとも思う。
「新年の会には遠方からも様々な賓客が来ましたからね。見て下さい、こちらは隣国のシーからです」
「…………うわ、これ霧雨のシーだ」
「気象の者ですからね、シーの中では高位の一人ですよ」
「…………ねぇ、何でこんなことになったの?」
「ディノ様が高位の魔物であることは見る者によっては明らかでしたし、アルテア様もいましたからね……」
「あ……、それでいつもの感じなら、あちらさんは下克上とか好きだし、高位の奴らの方が、階位に物怖じしない理想のご主人様だと思っちゃうか……」
「そのようです。しかし、階位の低い者の多くも、認識は出来ないものの、本能的にあのお二人の力関係を正しく判断されている方も多いようです」
「………前にそういうのが好きな子と付き合ったことあるけどさ、あの界隈の住人って、閨事を離れても観察眼が鋭いよね」
呆れ顔でそんな感想を漏らし、ノアベルトは更に幾つものカードを読みながらああだこうだと感想を言い続けた。
あまりにも煩いので部屋から追い出そうと思って顔を上げれば、軽い口調ほど面白がっている訳ではないようで、青紫の瞳はいつの間にか冷ややかに細められていた。
だらしなく椅子に座ったまま、ネアと同じリボンを指で撫でている。
「最近ネア様が仰っていた、尾け回しもこの手の信奉者かもしれませんね」
「………それ、因果の精霊みたいだよ。本人が漏らしてたから間違いない」
「………ジーン様が?」
「よく分からないけど行く先々で会うってシルに話してたから、彼がどうにかすると思うけどね」
「………それは困りましたね」
思わずヒルドがそう呟けば、ノアベルトは首を傾げる。
狐になっている時には完全に消滅していると言ってもいい理知的な仕草に、寧ろなぜか悲しくなった。
「ジーン様は、高位の精霊です。高位精霊の加護や知恵を得るのはなかなかないことですので、ネア様のご友人になられたことは歓迎していたのですが」
「でも、下心ありならいらないでしょ」
「あなたが恨みを買った精霊からの手紙も、ジーン様がおられたからこそ解析出来たところもありましたしね」
「だからあの件は、ごめんって!でもあれ、力を貸したのもジーンだよ?!」
悲しげな顔でそう訴えられたが、ヒルドはカードを振り分ける手を止めて、小さく溜息を吐いた。
指先を動かし、普段は手ずから淹れることを好む紅茶を家事妖精に注文する。
窓から溢れる陽光は、少し前までの冬の最盛期の澄んだ灰色の輝きを失い、少しずつ春の色を帯びてゆく。
ふと、春や夏の方が力を得やすい森の系譜の身でありながら、過ぎ去ってゆく冬を惜しいと思った。
それだけウィームの冬は美しいのだ。
「慰み者にされ命を絶った妹の恨みを晴らしたいと、兄が己の命を捨ててかけた呪いです。同族が手を貸すのは不思議なことではないでしょう」
「………だって、恋は恋だよ。終わったら相手のことなんて考えていられないよ。僕は最初から長続きしないよって言ったし、彼女はそれでもいいって頷いた筈だったんだ。終わってから自分は他の女とは違う筈だったのにって、僕がどうしてそれに応えなければいけないんだろう?」
「………応える必要はありませんが、もう少し気を配るべきでしたね。あなたは多分、恋人になる女性達に近付き過ぎるんです」
そう指摘すれば、塩の魔物は困ったように頬杖をついた。
ゆらりと陽炎のように卓面が揺れ、湯気を立てたティーカップが現れる。
妖精が給仕に長けているのは、こういう繊細な仕事が好まれるからだ。
とは言え、分かりやすく傅かれるのを好む者には、もっと存在感のある使用人を欲しがる者も多い。
「………いくら僕だって、触れなきゃ恋人にはなれないよ?」
「そういう意味ではありませんよ。あなたは、恋人達と対等に、時には甘えて庇護を求める弱者のように振舞ったりさえする」
「だって跪かせたいわけじゃないし、恐縮する女の子と寝ても楽しくないからね。僕は、気がある時はいい恋人だと思うよ?」
「だからですよ。どれだけ頭の良い女性でも、思いが募る程に正常な判断が出来なくなるものです。そんな女性達に、あんなにも自分を必要としていた筈なのにとか、あんなにも自分をわかってくれていた筈なのにと思い詰めさせてしまうのが、あなたの恋人としての振る舞いなのでしょう」
そこまで聞いてから、腕を組んだまま少しだけ思案して、ノアベルトはしょうもない結論を出した。
「うーん、考えたけどさ、それどうしようもないや」
「でしょうね。せめてもう少し、恋人に依存しない慈しみ方が出来れば違うのでしょうが……」
「………ん?僕って依存してるの?」
「だから拗れるのでは?」
「………割とすぐに飽きちゃうけど、それでも?」
「飽きるか飽きないかは、夢中になっている間に依存しているかどうかとは関係ありませんからね」
「………ヒルド、どうしよう。僕、今までずっと逆だと思ってた」
テーブルに突っ伏して頭を抱えてしまった公爵位の魔物を見下ろしながら、ヒルドは優雅にカップを傾けた。
ノアベルトの前にも紅茶が出されているが、彼には今のところそれを飲む余裕はなさそうだ。
「手に入ったと思っていた獲物が思いがけず望まない行動をすると、ひとは癇癪を起こしたり、錯乱したりしますからね。聞く限り、あなたの不始末は、どうやらいつもその形のようです」
「え、…………僕、いつも手に入ったと思われちゃってる訳?あんなに続かないよって言ってるのに……」
「そう言いながらも依存するから、勘違いさせるんですよ」
「僕、どうすればいいんだろう?」
「あなたの性格ですから、諦めるしかないでしょう。ただ、自分の関わり方は誤解され易いのだと意識して、去り際は丁寧にされた方が良いかと」
ノアベルトがテーブルに突っ伏したので、ヒルドはカップを置いてカードの選り分けを再開した。
普段公務で捌いている郵便物や書類程の量ではないが、万が一にでも相手が逆上しないよう、第三者の目線からの丁寧な断りの返事を書く。
決して個人的な感情が入らないという訳ではないが、言葉がきつくなっても火に燃料を焼べるだけなので、細心の注意を払わねばならず、手間がかかるのだ。
ふと、少し前にネアが、変態の叱り方がわからないと嘆いていたのを思い出し、こういうことだったのだろうかと得心する。
一通りの決済をつけたのは、二時間後のことだった。
昨晩も遅くまで恋人に時間を割いていたようだったので、ノアベルトは悩みながら途中から寝ていたようだ。
片付けの音で目を覚まし、頬に枕にしてしまった一枚のカードの跡をつけながら、どのあたりで出したのかわからない感想を呟く。
「…………そっか。だからネアに、もう少し自分の時間を楽しめるようになってから、恋をしろって言われたのかな?」
「あなたにとっては二百年以上も前のことなのに、学習出来なかったんですね」
「………多分、自分がまさか依存してるとは思わなかったから、きちんと意味を飲み込めてなかったんだと思う」
「そもそも、そこまで多くの恋人が必要なのですか?」
「一人だと、すぐに飽きちゃうから変化をつけるんだよ。これでも、前よりは続きそうだから、僕も成長したのかもね」
「その割には、既に一人とは別れてしまわれたそうですが」
「ああ、ミュレね。僕じゃ駄目だったみたいでふられちゃったよ」
「………成る程、そうして正気に戻った者が去り、より危険な女性が残されてゆく方式でしたか」
「わぁ、物凄く怖いこと言わないでよ、ヒルド。…………あれ、まさか本当にそういうこと?!」
「あまり言いたくはありませんが、比較的他の女性よりも長く続いた恋人が、問題を起こしていませんか?」
その問いかけに、ノアベルトはさっと青くなった。
図星だったようだ。
「………うわ、どうしよう………」
そう呟いて縋るようにこちらを見たので、呆れて首を振ったところで扉が開いた。
ダリルとの業務を一つ終え、この王宮の主人が戻って来る。
「ヒルド、やっぱりそのカードはお前が仕分けるのか」
「ご本人に渡す訳にもいきませんしね」
「ネア宛てのカードなのだし、その手の分別は得意そうだろう。渡してやればいいと思うが……」
「おや、エーダリア様はもう少し慎重さを学ばれるべきかも知れませんね。私ですら、処理するのに手間取りましたよ?」
「………そんなに酷い内容なのか。それと、ネイはなぜ落ち込んでいるんだ?」
「ああ、女性との関わり方について悩まれているようですよ」
先日、リーエンベルクでは一つの魔術事故が発生した。
エーダリアが仕事で持ち込んだ魔術との親和性が悪く、リーエンベルクの最も古い魔術基盤が一つ割れてしまったのだ。
修復には影絵からその基盤の深層まで潜り、ヒビの入った部位を的確に修復する必要があった。
そこでヒルドは、魔術そのものに近しい塩の魔物の力を借りたのである。
外部協力者として参加したノアベルトを見て、エーダリアがどこか達観した目をしていたので、ヒルドは銀狐との関係性を悟ったのだとわかった。
エーダリアには自分と同じようにネイという通り名を呼ばせているが、同行したゼノーシュが遠慮なくノアベルトという塩の魔物の名前を連呼していたので、おおよそのことは理解しているだろう。
しかし、銀狐としてそれなりに縁を深めていたのは事実であるし、ノアベルト本人もその感覚でぐいぐいと距離を詰めたので、エーダリアはどこかで自分の心と折り合いをつけたようだ。
それ以降は普通に接している。
昨日、エーダリアが星鳥の雛に構っていたところ、銀狐が絨毯を引っ掻いて暴れたことに驚いていたが、狐の時は限りなくただの狐になってしまうのだと伝えておいた。
その後、犬用の玩具で遊んでやっていたので、そこもまた折り合いをつけてくれたようだ。
そんなことがあり、ある程度の信頼も勝ち得ることが出来たノアベルトは、リーエンベルクでの活動の範囲を広げることを許可された。
許されたことですっかり緊張を解いたのか、ノアベルトは早速エーダリアにも甘えにかかっている。
「いいなぁ、エーダリアは恋人とのことで悩んだりしたことないでしょ」
「…………それはどう言う意味だ?」
「ん?だって、暫く恋人いないんでしょ?何で出来ないんだろうね。あれ、怒った?」
「私が怒れる程、お前が幸せにも思えないがな」
「…………えー、幸せだよ。お喋りしてると飽きてうんざりすることもあるけど、女の子は柔らかいんだ」
「その理由が真っ先に出て来るのが、やはりしょうもないな」
「ありゃ、エーダリアにも叱られた」
「ほら、腕の下のカードを寄越して下さい」
「ヒルド、………僕達友達だよね?今はカードを揃えるよりも僕を慰めてくれるところ」
「やれやれ、あなたは他者への考察などで思慮深く鋭敏なところを見せるかと思えば、恋愛絡みでご自身の欲求が入ると途端に駄目な男になりますね」
「………絶望だ。余計に叱られた」
彼が片付けると言いながらもそのままになっていた床のカードも魔術で拾い、ヒルドは全てのカードを丁寧に揃えると、家事妖精に渡して廃棄処分の指示を出す。
「まさか、そのカードは全て燃やすのか?」
「エーダリア様?念の為に差出人はリスト化してありますから、問題ないと思いますが」
「いや、それはそれで問題だが。………いい。もう口出しするのはやめておこう」
席を立ち、業務に戻るついでにノアベルトにこの後の予定を伝えておいた。
「ネイ、この後はダリルも出てしまうので、あちらに遊びに出されていた星鳥が戻ってきますよ?」
「………じゃあ、僕は部屋に籠る。ほこりが来ると、伴侶候補として捕まえる気満々でにじり寄って来られるから、すごく怖いんだ」
「いっそ、あの星鳥の伴侶になれば飽きないかも知れませんよ?」
「ヒルドは意地悪だなぁ!………それにしても、あの鳥って狡いよね。ネアの部屋で生まれるだけで特別扱いして貰えるんだから。僕だってあの子に特別扱いされたいのに……」
よろよろと退出してゆくノアベルトを見送りながら、ヒルドとエーダリアは顔を見合わせた。
「特別扱いと言いますか、ネア様としては拾ってきた鳥の雛という程度の認識だと思いますが」
「だろうな。雪食い鳥の一件で、あれを鳥と識別するネアが、人外者に対しどう考えるのかは嫌という程わかった」
「本来の姿がどうなのかを最優先で判断しているようですから、ある意味、ご自身の中に揺るぎない定義をお持ちなのでしょう」
(そう考えれば、己が妖精で良かったと安堵するばかりだ)
人と同じようなものとして認識されるだけでなく、妖精の庇護が人間の命を延ばすということから、契約の魔物がこちらの庇護を不本意ながら許してしまうことも。
彼女が妖精の羽に触るという意味を知らないくらいに無知であり、稀に疲弊した素振りで手を伸ばせば、同僚としての同情から応えてしまうくらい無防備で良かった。
(ネイと出会ったのが二百年前で、本当に良かった)
そこに時間の隔絶を挟まなければ、彼は特別な執着を持って触れられなくなるようなこともなく、躊躇せずにネアを手に入れようとしただろう。
けれども素晴らしい偶然の采配により、ノアベルトは家族のようなものとして、このリーエンベルクに受け入れられた。
本人もそれをわかっており、ネアにその手の誘惑を仕掛けることはない。
そういう意味では失い得ない愛情を一つ手に入れているのだから、いい加減恋人作りなどやめておけばいいのに。
「薔薇の祝祭に、揉めないといいが」
ノアベルトの消えた方を見ていたので、エーダリアはそれを懸念しているのだと捉えたようだ。
薄く苦笑して頷き、一言だけ補足しておく。
一応は友人なので、己の年齢の十分の一にも満たない年齢の人間に憐憫の眼差しで見送られたノアベルトが不憫になったのだ。
「狐の時に、己が魔物だということまで忘れてしまうので、少しは魔物らしく生活するよう忠告した結果ですが、そろそろ控えた方がいいかも知れませんね」
「…………そんな理由で、爛れた生活をしているのか?」
「狐でいると、みんなに可愛がられてあまりにも幸せなので、魔物であることを捨てたくなるようですよ」
「そこまでなのか…………」
そのノアベルトの幸福の中には、執務中に膝の上で昼寝をさせてくれて、紐のついた玩具で遊んでくれるエーダリアの存在も入っているのだが、ヒルドは友人の名誉にかけて、そのことは黙っている事にした。
しかし、この時の会話が良かったのか、エーダリアはノアベルトが獣化し過ぎないように、定期的にリーエンベルクの仕事をさせるようになった。
とは言え、報酬として新しい犬用の玩具を買って貰って大喜びしている友人を見ると、あまり意味がないような気がしなくもない。