手のひらの温度と眠りの裏側
真夜中にふと、目が覚めた。
寝ている間に触ると嫌がるので暫くは躊躇っていたが、我慢出来ずに隣で静かに眠っているネアの頬を撫でた。
大切なものを慈しんでいる感覚に、安堵のような思いがある。
ああ今日も彼女が側にいるのだと、しょうもないことで嬉しくなってしまう。
半身を起こして頭を撫でていると、小さく何かを呟いたネアがこちらに転がってきた。
最近は時々、こうして近寄ってきてくれるのでそんな夜は心が弾む。
けれど、腕の中に迎え入れて抱き締めれば、それは気に食わないのか渋面になってしまう。
寝ているネアは、あくまでも自分の行動が制限されないのが望ましいようだ。
仕方なく抱き寄せることは諦めて、腕を浮かせて囲い込むようにすると額に口付けた。
これなら触れているのは一点だし、ネアも邪魔には感じないだろう。
それは問題なかったのか、再びすとんと深く眠りに落ちたようだ。
(まだ、安心しきれないのだろうか)
普段はとても静かに深く眠るのに、寝ている時に触れるとネアは途端に眠りが浅くなり、時折暴れる癖がある。
一度その話をしたときに、彼女は親の復讐の為に暮らしていた短い時期を原因に挙げていた。
露見すれば命を狙われる可能性もあったので、眠っているときが一番無防備なようで怖かったのだと。
それでも、眠りに落ちてしまえば、その無意識の闇の底が一番安らかなところだったのだと。
(それならば、もっと側にいればいいのに)
腕の中にいれば、眠りの淵にいてもここにいるからと伝えられるのに。
けれどもネアは、触れないくらいの隣り合わせが一番好ましいようだ。
「………でも、触れられることにも慣れて貰わないとね」
そう囁いて頬に片手をあてると、ネアは小さく唸り声を上げてごろりと転がってきた。
「……………え、」
いつもはぐいぐいと遠ざけられるのに、なぜか今夜は別の方法に出たらしい。
こちらの腕を封じるように、肩の窪みに頭を乗せられてしまい、すっかり油断していたので呆然とした。
うっかり体を揺らして逃げられてしまわないように息を潜めたが、段差がまずかったのか、ネアは元来た方へと転がって戻ろうとする。
慌てて腕を伸ばして、もう少し高低差がない位置に誘導すると、落ち着いたのかぴたりと止まった。
腕を枕にして、ネアが眠っている。
あまりのことに、息苦しくなって初めて、息を止めかけていたことに気付いた。
少しもぞもぞしてから深く息を吐いたので、とても安心しきって寝てくれているようだ。
以前、駒鳥がこちらに忍んで来ていた頃に、野生の小鳥が手の中で眠ったとネアが喜んでいたのを思い出す。
その喜びは、もしかしてこういうものだろうか。
普段寄り添ってくれるのとはまた違う、本能的に心を許されたような、不思議な喜びだ。
それから一時間ほど、ネアは腕を枕にしたまま眠ってくれた。
飽きずにそれを見つめたり、目を閉じて一緒に寝てみようとしたりしていると、あっという間に時間が経ってしまう。
彼女が寝返りを打ったのは、そろそろ寝ようかなと思い始めた頃だ。
ころりと顔をこちら向きにしたが、はらりと頬にかかってしまった髪の毛が気になるらしく眉を顰めた。
なので、手を伸ばして、その髪の毛を払ってやろうとした時だった。
ばしん、と鋭く振り下ろされたネアの手に、伸ばした手を叩かれた。
びっくりして目を瞠ると、手を引き戻すのが遅かったのか二打目を受けた。
「…………ごめんね、ネア」
眠りの邪魔になったのかと思って謝ってみたが、怒りは収まらないようだ。
唸り声を上げてばしばしと叩いてくるので、思わずその手を受け止めて拘束した。
一瞬止まったのでほっとして手を離してやると、今度はぱちんと自分の頬を自分で叩いてしまう。
それはまずいので驚いて半身を起こすと、慌ててネアを揺さぶった。
「ネア、ちょっと起きようか。ほら、自分の頬を叩いたら駄目だよ、ネア?」
「むぐ。………虫め!潰してやる!!」
「ネア、虫はいないよ?ほら、一度起きようか」
「虫…………。頬っぺたにとまるなど、許すまじ……虫」
「ネア!」
何度か呼びかけてようやく起きたネアは、不機嫌そうに小さく唸る。
「…………夜中に叩き起こされました。睡眠侵害です」
「寝惚けて暴れても可愛いけれど、自分を叩いたらいけないよ」
「頬っぺたに虫が………」
「髪の毛がかかってたのを取ってあげようとしたんだけど、気になってしまったんだね、ごめんね」
「………虫じゃない?」
「虫じゃないよ」
ようやく虫が出た訳ではないと納得したネアは、ふすんと鼻を鳴らして体から力を抜く。
そのままの位置で頭を下ろしたので、ネアは再び腕の上に頭を乗せてくれる。
「む。新しい枕になりました」
「これは嫌かい?」
「まずまずですね。ちょうどいい高さです」
「では、このままここで寝ておいで」
「なぜでしょう。叩かれてしまったのにご機嫌です……」
「ネアがここで寝てくれるからね」
「解せぬ………」
ネアは不審そうに目を細めていたが、そのまますぐに眠ってしまった。
すぅすぅと寝息を立てているネアを見ながら、そろりと体を横にする。
肌蹴てしまっている肩口の毛布を直してやり、背中を覆うようにして空いた方の片手を回す。
上手く落ち着いてくれたようでネアも起きなかったので、嬉しくなって微笑んだ。
次に起こされたのは、夜明け前のことだ。
いきなりの衝撃に驚いて目を覚ませば、いつかのようにネアが馬乗りになっている。
ぎょっとして声を上げれば、なぜか不審そうに見下ろされた。
「…………ネア?」
「何者かに絞め殺されそうになったので倒しました」
「……夢じゃないかな」
「…………むぅ」
不服そうに呟き、とろんと眠そうな目になるネアを見ながら、こんな体勢になるまで自分が目を覚まさなかったことに驚いた。
この部屋には何重にも結界をかけてあるが、いざという時に不手際にならないように、もう少し守りを強めておこう。
「ネア?!」
そんなことを考えていたら、どさりと胸の上にネアが落ちてきた。
ぐっすり眠っているが、こんなところで眠りに戻るのは珍しいので驚いてしまう。
「ネア、………この体勢は、………ええと」
少々扇情的な体勢でもあるので焦って話しかけたものの、ネアは既に熟睡しているようだ。
起きないらしいとわかって途方に暮れたが、そっと胸の上で眠っているネアの頭を撫でてみた。
(柔らかい………)
今まで何度も撫でてきた髪なのに、なぜか酷く繊細に感じる。
眠りを妨げないように苦心して毛布をかけ直してやっていることに、また不思議な喜びを感じて微笑みが深まる。
(…………大事にしよう)
大事に大事にして、ネアが不自由なく生きていけるようにしてやろう。
理不尽に損なわれることなく、もう二度とちくちくするセーターなど着なくてもいいように。
その為なら、彼女が密かに憧れている火竜に会わせるのも我慢するし、閉じ込めて誰にも触れさせたくないと感じてしまうこの欲求など殺してみせよう。
世界を広げて行く彼女の目に、自分が映る時間が減ったとしても。
それでも仕方ないのだと甘やかしてしまう、この愚かさは何だろう。
(私はもう、冬の王にはなれない)
あの歌劇の冬の王のように、彼女を諦めて立ち去ることは出来ない。
それでも、手放さないなりにその中で与えられる精一杯の自由を。
ネアの世界が広がる度に、自分には彼女しかいないのだと認識して恐ろしくなる。
誰かの為に削り取られてゆくその時間は、こちらの世界が暗闇になる時間なのだ。
他の誰かは他にも持っていて、自分にはネアしかいないのに不公平だと感じることもある。
しかし、その恐怖に晒されても尚、彼女は一定の自由さをこちらから勝ち取ってゆくのだ。
「お願いだ、ネア。どうか私を見捨てないでおくれ」
その柔らかな髪を撫でながら祈るように小さく呟いたところで、ふっと鳩羽色の瞳が開かれる。
「………ネア」
「私の魔物が、謎に寂しがり屋になっています」
「起きていたのかい?」
「頭を撫でてくれたときに。…………どこにも行きませんよ。ずっとディノのところに居ますからね。安心して眠って下さい」
「…………ネア」
「それと、マットレスも新しいものになりました。ごつごつしています」
「気に食わないかい?」
「………寝心地は良くないですが、あったかいので許します」
そこで力尽きたのか、首を持ち上げる力を使い果たしてネアはまた眠りに落ちてゆく。
また静かになった部屋の薄闇の中で、ゆっくりと瞬きした。
愚かなことに、もう先程感じた僅かばかりの憂鬱さは、どこにも残っていなかった。
安心して手を持ち上げると、しっかりとネアを抱き締める。
どこにも行かないのだし、嫌がって起きてしまっても、またいつかこうして抱き締めればいいのだろう。
焦ったり、不安になることなどないのだ。
隣で眠れる夜はあと六日もあるし、その先だって幾らでも機会があるだろうから。
ネアの背中を撫で下して、ぴったりと体を寄せる。
混ざり合う体温の心地よさに、うっとりと目を閉じた。
不埒な思いが頭をもたげないでもなかったが、心地よさに意識が曖昧になっていってしまう。
こんな幸福な眠りの温度は初めてだ。
掌の内側でネアの体温を感じ、胸の上で緩く上下する呼吸に確かな命を感じている。
ただ、ただ幸福なばかりだった。
次に目を覚ました時には、もう朝になっていた。
いつか好きなだけ眠れるように、自分の魔術領域の中で眠ってみようと考えながら嫌々目を開くと、胸の上で途方に暮れたように固まっているネアがいた。
頬を染めて、必死に状況を理解しようと頭を働かせているのがとても可愛い。
僅かに胸に置いた手に力を込めて、体を浮かせようと抵抗していたので、抱き締めた腕に力を込めてしっかり抱き寄せ直した。
「………っ?!………ディノ、寝惚けていないで起きて下さい。そしてこの状況の説明を……」
「おはよう、ネア。真夜中に君が乗ってきたんだよ。このマットレスはごつごつしてるけれど、暖かいので悪くないそうだ」
「な、……なんという失態!」
「困ったご主人様だね。私はとても嬉しかったのに、嫌がってしまうのかい?」
「………人間には羞恥心というものがあります!これではお泊まり会ではなく、狩りになってしまうではないですか!」
「………………狩りなんだね」
また少し期待したのに、まるで違う方向に解釈されてがっかりした。
そろそろ、寄り添って眠ったことを狩りに結び付けて考えないように、きちんと教えた方がいいのかもしれない。
「ネア、この前のこと、少し教えてあげようか?」
「………この前のこと?」
「時間がある時に教えて欲しかったんだろう?」
「この状況では学べません。ペンとノートが必要です」
「………ご主人様」
大真面目に言われたので途方に暮れていると、緩んだ腕の間から体を起こされてしまった。
「ネア行かないで、もっと…」
「本日の営業は終了しました。さ、もう起きますよ!」
「では、またやってくれるんだね」
「ぐっ!失言です、二度目はありません!」
「一度口にしてしまった言葉は取り消せないよ」
「おのれ、なぜに寝起きに攻めてきたのだ!!」
ネアは頭を抱えてしまい、体を起こして頭を撫でてやると、レインカルのような目をして暴れていた。
朝からとても可愛い姿を見れたので、今日も良い一日になりそうだ。