92. 薔薇の祝祭の準備に入ります(本編)
こちらの世界では、二月の終わりに薔薇の祝祭がある。
やはり薔薇という花はこの世界でも人気が高いようで、魔術的な要素を司る薔薇の祝祭に、薔薇の収穫祭のようなものもあり、一概に薔薇の祝祭といっても実に多様だ。
その中でも愛情を司る祝祭となる二月の薔薇祭りは、奇祭めいた傘祭りとは打って変わって、とても華やかな祝祭になるのだとか。
イブメリアに続き婚約などの慶事も多く、年末にご褒美を取り損ねた者達が大いに張り切る季節でもある。
また、目で見て楽しい薔薇の選別など、心華やぐ美しい祝祭として人気も高い。
祝祭に向けて薔薇を選ぶ時期ともなれば、街中が薔薇の香りに溢れ、人々の足取りも何となく軽くなる。
とは言え、こちらも季節の運行や領内の時勢によって日程変更のある祝祭なので、イブメリアのようにこれぞという決め時を逃して荒ぶる者達もいるのだとか。
今年も水竜の問題などを考慮してやや後ろ倒しとなったので、薔薇の系譜の妖精達はてんやわんやだったようだ。
そんな中、朝から静かな雪の降る日に、リーエンベルクにも大量の薔薇の見本が届けられた。
用意されたバケツに入れられると、すぐに魔術仕掛けで水が張られ、澄明なリーエンベルクの魔術の水を得た薔薇たちは、ほろりと蕾を緩めて見事な花を咲かせる。
薔薇で溢れる大広間には濃密な芳香が立ち籠め、王宮内の亡霊や妖精達が喜び集まってくるので、さながら別の世界のような有様だ。
この部屋には数人しかいない筈なのに、まるで沢山の人に囲まれているような気配がある。
目には映らないところでも随分賑わっているのだろう。
「やれやれ、今年もカーテンが咲いてしまいましたね」
そうヒルドが嘆いているカーテンとは、リーエンベルク備え付けの見事なカーテンで、旧王朝時代から大切に使われているものの一つだ。
その分魔術の吸い込みが良く、部屋の薔薇に感化されてしまうくらいに自我を育てた結果、織模様だった蔓薔薇が咲き始めてしまった。
「………今年はさすがに多いですね。やはり魔術の層が厚くなりましたか」
額に手を当てたヒルドが、被害状況を確認している。
昨年その修繕にあたったのは王都から派遣されたヒルドなので、今年も早くから警戒はしていたらしい。
しかしながら、素晴らしい薔薇の香りにはしゃぐカーテンを止めるには至らなかったようだ。
「見ている分には、とてもロマンチックで素敵なのですが、カーテンの中に戻す作業があるとなると大惨事ですね……」
「夏至祭にも咲いてしまいますので、年に二回はこのようになるんですよ」
織物になっているとは言え、織り模様は草木なのでここは森を司るシーの力が大きく作用する。
仕立て妖精などの領域ではなくなるのが不思議だなと思っていれば、こちらにやって来たエーダリアも呆れ顔でカーテンを見ていた。
「秋の収穫祭には、彫刻や絵画も荒れるしな……」
「死者の日にもなるでしょう」
「…………ああ。死者の日はもっと酷いことになる」
「それは、大晦日の怪物より酷いのでしょうか?」
「死者だからな。趣きがだいぶ変わる」
その死者の日とやらを思うエーダリアの顔色がだいぶ不穏ではあったが、ネアは頭の痛い問題は先送り方式なので、バケツの間を弾んで駆け回っている銀狐を追いかけてその場を離れた。
先程からあまりにも弾んで移動しているので、バケツを何個かガタガタと揺らしており心配だったのだ。
「狐さん、バケツをひっくり返したらご飯抜きの刑ですよ!」
あまりにもはしゃいでいるのでそう声をかけると、銀狐はぴたりと立ち止まって恨めしそうな顔をして振り向いた。
「そして、ヒルドさんから聞いたのですが、花束が四つというのはどういうことでしょう?」
だが、続いたネアの質問に、銀狐は尻尾を束子のように膨らませた。
目を丸くして爪先立ちになり、まるで雷にでも打たれたようだ。
「薔薇の花束は、たった一人の伴侶や恋人に贈るものです。四つとなると、浮気者と言わざるを得ません」
慌てて走って来て足に体を擦り付けられたが、ネアが言いたいのはそういうことではないのだ。
「どなたに花束をあげても構いませんが、前のような修羅場になるのは避けて下さいね。くれぐれも、リーエンベルクに騒動を持ち込みませんよう」
「………おや、ネア様に叱られてしまいましたか?」
「ヒルドさん!浮気者なのは勝手ですが、リーエンベルクの皆様に迷惑をかけないようにと、注意していたところです」
少しだけ不憫そうに眉を顰め、ヒルドは足元で青紫の瞳を潤ませて自分を見上げている銀狐を見下ろす。
「仕方ありませんね。自身の行いの責任は、自身で取らなくては」
そう言われてしまった銀狐は、なぜ味方をしてくれないんだと言わんばかりに、全身けばけばになってヒルドの足に体当たりをしていた。
そちらはヒルドに任せることにして、ネアはさっそく薔薇選びに入ることにする。
因みに魔物は、時間差で会場に来て貰うようにしていた。
プレゼントの花束なので、選んだものを秘密にしておく作戦なのだ。
そして、意気揚々とお目当の色が集まるところへ向かい、すぐさま撃沈された。
「くっ、………薄紫色の種類が多過ぎて憎い!」
たくさんの中から選べることは素晴らしいのだが、ここまで見事な色合いを揃えられてしまうと、思考の迷宮に入らざるを得なくなる。
ネアが見渡す限り、薄紫の薔薇がぎっしり入ったバケツは五個もあった。
事前に届けられたカタログのイラストを見ていたが、やはり生の薔薇を見ると印象が随分違う。
「時間差、三十分で足りるでしょうか……」
一種類でまとめる者も多いが、ネアは、複数の種類の薔薇で花束にする予定だ。
これはもう花束全部の構成を決めるのは無理なので、せめて花束の顔になるメインの薔薇を選んでから魔物を迎え入れるしかあるまい。
時間に追われる職人のように厳しい表情で徘徊し始めると、銀狐は怯えて近寄ってこなくなった。
今ばかりは、バケツの怪人が現れても踏み潰して進む所存だ。
優先順位で心を振り切った人間はとても強い。
(まずは、一番の薔薇を決める!)
順位付けをし、一番好きな薔薇と二番目に好きな薔薇を決める。
一番は本命への花束だけのみ使うこととして、二番目の薔薇を全員へのものに使うことにしよう。
二本の薔薇を贈るヒルドやウィリアムは、また別に添える蕾を探さねばならない。
白藍や淡い瑠璃色のバケツのあたりは先行したゼノーシュが張り付いているので、まずは大本命の薄紫色のところで選別にかかろう。
しゃがみ込んで詳細まで見てゆくと、まずは色合いだけでも選択肢がかなり広いことがわかった。
(あれはとても綺麗だけど、ピンク寄りのラベンダーだから却下。あちらは青みが強過ぎて浮いてしまうし………)
選別には手持ち用の小さなバケツを与えられる。
薔薇は種類が被らないように一本ずつしかないので、選んだ薔薇をそこに放り込み、早い者順でキープしていいのだ。
うろうろしながら薔薇を比べ、焦りのあまり謎の汗をかき、ネアは散々苦労してからやっと一番の薔薇と二番目の薔薇を決めた。
まずは、ディノへの花束の顔として使う一番の薔薇だ。
これは灰色がかった上品な淡いラベンダー色で、花びらの根元がふわりと紺色になっている。
花びらの詰まったカップ咲きで、みっしり寄せられた花びらが陰影を纏い一本でも充分に美しい。
二番目の薔薇は、同じく灰色がかった淡いラベンダー色の薔薇で、花びらの根元がふわりと上品な薔薇色に染まっている。
一本でも見栄えがするし、やはり暖色が入ると心が色付くような気がして、この華やぐ祝祭に相応しいと思った。
(ディノへの花束は、これに上品な灰白とラベンダー色の系統でまとめよう。二本で渡す人のものは、渋めの色合いの薔薇色を添えて…)
おおまかに決まったので、ネアは安心して息を吐いた。
選んだ薔薇をあまり見られないうちにと、初回選別分をさっと家事妖精に託して注文を取りまとめてしまう。
真ん中に添える薔薇が持ち去られてしまう分、残りの薔薇を選ぶ際にセンスが問われてしまうが、サプライズ感ではこちらが勝る。
「…………な、何とか間に合った」
胸に手を当てて脱力していると、時間ぴったりで魔物が会場に入ってきた。
薔薇で満たされた部屋を歩いてくる魔物は、白い装いに映える薔薇の影とその美貌で、いかにも貴族的で、かつ人外者めいている。
(こうして見ると、やっぱり魔物なのだわ)
薔薇の中で眉を寄せて考え込んでいるエーダリアは特等の部類の人間だし、ヒルドは見事に妖精だ。
ゼノーシュだって魔物らしく見え、グラストも騎士らしく見えた。
それなのに、普段の種族を意識しない時の彼等は上司であり同僚で、大切な家族のようなただそれだけの存在なのだ。
(だから、時々にでも、彼等が特別な生き物だと意識することは大切だ)
例えばヒルドが妖精であることを忘れてしまって、うっかり部屋を自ら訪れたら事故になるし、ゼノーシュが契約の魔物であることを忘れてグラストに不用意に近付けば、魔物らしい本気の怒りを買うこともあり得る。
(…………ノアは…………、)
ヒルドの足に飛びつくのは終わったらしく、今は薔薇に誘われて姿を現した亡霊のドレスにじゃれついている。
亡霊の周りだけに吹く風でスカートがずっと揺れているので、銀狐のじゃれつきは永久運動になっていた。
もはや完全に野生化している。
(…………ええと、ノアは野生化したということで)
微かな寂しさを感じつつそう見送っていると、薔薇のバケツを縫ってこちらに辿り着いたディノに背後から抱き締められた。
色めいた男女の抱擁ではなく、飼い主に再会した大型犬的な必死の抱擁なので、首前に回された腕を撫でてやる。
「バケツが空だね。まだ選びきれてないのかな?」
「いいえ。中心にする薔薇は決めて注文を出してしまいました。当日までは秘密なので、楽しみにしていて下さいね」
「おや、そういう選び方もあるんだね。…………それにしても、たくさんあるものだ」
「ディノでも驚くくらいなのですか?」
「ヴェルリアも豊富だろうけれど、王都となると選べる薔薇の種類も少なくなる。こんなに多くから選べるのは珍しいと思うよ」
王都では、身分の高い人間と階位の高い人外者達から薔薇を選ぶ。
庶民ともなると、ありふれた統一規格の薔薇しか選べないことも多く、薔薇を選ぶということ自体、恵まれている者だけに許された喜びでもあるのだ。
「ディノはもう、私のものを選んでくれたのですよね」
「当日に渡すから、ネアと同じように秘密だね」
「ふふ、初めて参加する薔薇の祝祭ですし、花束を貰えるのをとても楽しみにしていますね!」
「うん。さて、他の者に渡すこともないし、ネアの残りの薔薇選びに付き合うよ」
ディノがそう言うのは、魔物が選ぶのは花束一つまでだからだ。
人間と同じ運用の妖精と違い、魔物は一人一つまでと決まっていた。
竜は好きなだけ配って良いし、精霊は己が育てた薔薇を渡してこそ意味がある。
同じ祝祭を楽しむ中でも、種族ごとに違いがあるのは面白い。
「薔薇選びのついでに私の好みも発表してゆくので、今後お花をいただける時の参考にして下さい」
「うん、そうしよう」
抜け目のない人間は、このような機会を決して逃さない。
好意で教授するかのように言われ、魔物は生真面目に頷いた。
まずは残りの薔薇の選別から入る為、ネアは少しくすんだ渋めの色合いの薔薇色の区画に向かう。
効率的に考えれば、決定に時間のかかりそうなディノの花束のものを最後にするべきだ。
(ウィリアムさんは、渋めの色味で明度の高い薔薇色。逆にヒルドさんは彩度の高い、艶やかな赤みの強い薔薇色かしら)
こちらは蕾で添えるものなので、花が閉じていても綺麗に見えるかどうかが重要になってくる。
リーエンベルクの水に喜んだ薔薇たちは皆咲いてしまっているので、想像力を働かせて、あまり色の印象が散らばらない揃えになるかを判断するのに苦労した。
やはり赤い薔薇は存在感があり、その区画を歩くだけでも気持ちが華やぐような気がしてしまう。
選びながら、そっと指先で触れた深紅の花びらはベルベットのようだ。
「ネアは、赤いものも好きそうだね」
「やはり薔薇という感じがしますし、華やかでわくわくします。黄色や橙寄りの赤い薔薇は好きではないのですが、このあたりのものなんか、色合いが深くてとても素敵ですね」
そのさり気ない主張に聞き耳を立てているのはディノだけではないのだが、背後に注意を払っていなかったネアは気付かなかった。
「後は、あちらのクリーム色から淡いピンクに変わる色合いも素敵です」
「そう言えば、ネアはあまりあの色合いのものは持たないね」
「可憐でとても好きなんですけれど、身に纏うものでは私の雰囲気には合わなくて」
「品物とかでもあまり使わないよね」
「春になると、こういう淡い色彩の花がたくさん咲きますよね、あの季節にたっぷり眺めて満喫するのです!」
「では、花であげるのが良さそうだ」
「随時受付けております!あと、こういう色合いのものは、美味しいものが多いんですよ」
「ご主人様………」
その次に訪れたのは、爽やかな黄色い薔薇の区画だ。
ぱっと部屋の印象や空気の質感までもが変わり、色というものの印象がここまで強いのだとあらためて知った。
そこではグラストが難しい顔で必死に薔薇を選んでおり、どうやら黄色い薔薇も一本は貰えそうだぞとネアはほくそ笑む。
出来ればもう少し左に寄って、アプリコットカラーに目を奪われて欲しい。
(あ、でも淡いレモンイエローもとっても素敵!自分では買わない色だから、貰えたら嬉しいな)
ゼノーシュの瞳の色になるので、あれに決めてはくれないだろうか。
そこを通り過ぎて入ったのは、ネアも何本か選ぶ予定の青系統の区画だ。
強い瑠璃色も夜空のようで堪らなく美しいが、今回使うもののイメージに合うかと言えば、残念ながら強過ぎる。
なので、淡い青みを帯びた薔薇のバケツを探し、微かな紺色を帯びた灰白を見つけ出す。
二本ほど色味を変えて選ぶと、次は再びのラベンダー色の区画だ。
ここでも今度は白寄りのラベンダー色を選び出し、花束の様にまとめてみる。
(うん、悪くなさそう……!)
好きなものはもう選んでしまったので、残りの薔薇は、色合わせを最優先にして同じ様なオールドローズで揃えた。
水色がかったもので小さな薔薇も入れ込み、少しだけ花束に変化をつけても良かったが、アレンジの上級者テクニックを使いこなせる自信がなかったので諦めたのだ。
「白いばかりの薔薇はやはりないのですね」
「そうだね、生粋の白はやはり難しい。特に白薔薇には魔物もいるから尚更だ」
「白薔薇さんは、この前の行方不明になった公爵様の…………?」
「いや、あれは一重咲きの野薔薇だね。ネアの好きそうな花弁の多い薔薇でも、白薔薇がいるんだよ」
「まぁ、きっと綺麗な魔物さんでしょうね」
「………どうだろう。変わっているかな」
「…………ディノに変わってると言われたら、まず間違いなく重度の変わり者です」
「ネア、酷い………」
少しだけへにゃりとなった魔物を引っ張って歩き、選び出した残りの薔薇の注文を済ませた。
やるべきことを終えて心が穏やかになったので、やっとただ楽しむ為だけに広間を見渡すと、揃えられた総数が多いからか、それぞれの薔薇を選んでも尚、部屋はまだ薔薇で溢れていた。
「グラストさんの薔薇も決まったようですね」
「彼は、ゼノーシュにあげるんだね」
「伴侶を持たない人が、子供や兄弟、祖父母などにあげることもあるそうですよ」
「ふうん、やはり人間は愛情の幅が広い」
「…………もしかして、だからディノは、心を動かしたいと考えた時に、人間を見てみようと考えたのですか?」
何となく、魔物の試行錯誤には人間が多く登場するような気がしていた。
その選択にも理由があったのだろうか。
「他でも見たけれどね。……でもやはり、愛情に多くの種類を持つのは人間だと思うよ。他のもの達も愛情は豊かだけれど、それを与える対象が限られるんだ」
「種族ではない個体差があるので、愛情の幅が広い方の側にいる方が手堅かったかもしれませんね」
とは言え、それは自分自身でも動かせるものでないのだ。
欲しくて堪らないと泣き喚いたところで、動かない心は動かない。
かつてネアは、いっそ催眠にでもかけて貰ったらどうにかなるだろうかと考えたことすらある。
「でも、ここで見付けたから、これで良かったんだろう」
(あ、………)
今度は犬ではなく、男性的な満足感を滲ませて幸せそうに微笑む。
美貌の魔物はそら恐ろしいくらいに艶麗でもあるが、そんなディノに心が動くのは、これがもう大切なものになったからだろう。
「花束のようですね。たった一つを決めると、周囲のものも選べるようになるのです。他にも大切なものを増やす強欲さも、最初の一つが決まったから得られる自由かもしれません」
ネアは、仕事の打ち合わせの時に、ディノがみんなと同じテーブルに着くのを見るのが好きだ。
こちらに来たばかりの頃は、他の者など知ったことではないと言わんばかりに部屋の向こう側の長椅子で寝そべっていた魔物が、今は彼一人でもエーダリア達の相談に応じたりしている。
小さな芽が葉を増やしてゆくように、色付く心を見ているのは楽しい。
勿論ネアは博愛主義者ではないので、それが自分にとって大切なもので、それが大切に思うのが自分だからこそではあるが。
自分にとってどうでもいい者がどうなろうと、有体に言えば知ったことではない。
(レーヌさんの呪いで、ディノがいなくなったと思ったとき、)
自分でも思っていた以上に動揺したが、ある程度の時間を重ねると心が薄まってきてはいた。
もう少しあの状態が続けば、ネアはせっかく生まれた愛情の芽を枯らして捨ててしまっていただろう。
取り上げられるということは、こちらの心の中にあるものも追って失われることなのだ。
自給自足で心を育ててゆけるだけの優しさは、多分生来の気質としてネアにはない。
「だから、こんな風に薔薇を選べるのは、幸せです」
そう微笑んだネアに、ディノは唇の端を持ち上げて艶やかに微笑みを返してくれた。
「そう言ってくれるなら尚更に、君を捕まえて良かった」
「そうですね。最初の頃にディノが頑張って側にいてくれたから、捨ててきてしまいたいという気持ちもなくなりましたし」
「……………なくなって良かったよ」
なぜか魔物はひどく傷付いた顔をして、ネアの手の中にそっと三つ編みを置いていった。
(過去の話をしたからといって、またこれを推してこなくても良いのでは……)
とは言え、自分が得ることの出来た恩寵を噛み締めているところだったので、何とも言えない表情になりつつも、三つ編みを引っ張ってやる。
大事なものなのだから、大事にしてやらねばなるまい。
打撃系のご褒美を欲しがらないだけ、マシだと思おう。
「ところで、狐さんは何をしてるのでしょう」
亡霊のスカートで遊ぶのは終わっただろうかと会場を見回してみれば、やっと本題を思い出したのか、床に置いたバケツと向き合っている銀狐がいた。
しかしなぜか、エーダリアとヒルドに囲まれており、狐は床に後ろ足を崩した情けない姿で、座ったまま項垂れている。
「………叱られているのかな?」
「と言うより、呆れられていますね」
そう二人でこそこそ話していると、薔薇選びを終えたゼノーシュ達がやって来た。
グラストの手を引っ張ったゼノーシュが、狐が項垂れている理由を教えてくれる。
「作る花束が四つもあるから、薔薇が決まらないみたいだよ」
「………やはり、四つという数は譲れないのですね」
「二個は決まったみたいだけど、残りの二つが難しいみたい」
「自業自得ですね」
「その内一つは、アルビクロムにいる女の子にあげるんだって」
「そのお嬢さんの印象で決めればいいのでは………」
「まだ知り合ったばかりだから、よく分らないみたいだよ」
(それは、どうなのだ………)
他の三つがあるのなら、知り合ったばかりで印象すら把握出来ない女性は外してもいいのではないだろうか。
ヒルドもそう思ったらしく、決められないならやめてしまいなさいと叱られているのが聞こえてきた。
エーダリアはエーダリアで、これは一夫多妻制の生き物なのだなと言いながら頷いているが、ノアは生涯一人の伴侶しか選ばない筈の魔物である。
「まったくもう、困った狐さんですね」
しゅんと項垂れている姿が可哀想になったので、作って貰える花束を二つに減らされないように、使う薔薇を決めるのを手伝ってやろうと近付きかけたネアは、突然振り返った銀狐に突撃されて接近禁止の体当たりを受けた。
選んだ薔薇を見られるのが嫌だったようで、けばけばになって首を必死に振り続けている。
「まぁ、手伝ってあげようと思ったのに、秘密主義なのですね!」
「ネア様、そのあたりは汲んで差し上げて下さい」
「ヒルドさん?」
「選んだ薔薇を、ネア様に見られてしまうのが恥ずかしいようですよ」
「私とてさすがに、他人様が恋人宛に選んだ薔薇を、貶したりはしませんよ?」
「ネア、そういうことじゃないと思うよ」
ディノにもそう言われたが、ネアは首を傾げた。
「む………。ノアの薔薇を奪い取ったりもしませんよ?」
「ネア……………」
薔薇に溢れた華やかな広間に、なぜかもの悲しい沈黙が落ちた。
そこまで信用されていないのかとネアは渋面になったが、部屋に集まってきた亡霊達ですら呆然と立ち尽くす銀狐を撫でてやっている。
「まぁ、結局のところは自業自得ですからね」
穏やかに微笑んだヒルドがそう締めくくり、ネアは魔物と一緒に厨房への伝言のお使いに出された。
せっかく薔薇がたくさん揃っているので、午後のお茶の時間は薔薇のジャムを使ったスコーンをいただきながら、残った薔薇の山分けをするらしい。
そもそも、祝祭用の薔薇の手配はリーエンベルク持ちだ。
ここに暮らす者達の為の福利厚生として、銀狐にすら花束四つ相当の高価な薔薇を買ってやるのだから、何とも寛大である。
この薔薇選びの会でも、午前中で騎士達や家事妖精の分の薔薇までを選ばせてやり、注文用に選ばれなかった残りの薔薇は、午後から一人一バケツまで自由に持って帰って構わないという大盤振る舞いなのだ。
各自山分けした後に残された薔薇はリーエンベルク内にも飾られるので、しばらくはたくさんの薔薇を堪能出来るシステムである。
「当日に渡して、驚いていただけばいいのでは?」
背後でそう話しかけるヒルドの声が聞こえたが、すっかり薔薇のジャムで心をいっぱいにしたネアは、特に気にすることもなく足取りも軽く広間を後にした。