ジーンヴァルト
ジーンの朝は早い。
なぜならば、早朝の内に書類仕事を仕上げた方が効率がいいからだ。
部屋の長椅子で自堕落に寝ている魔物を一瞥し、眉を寄せてから小さく溜息を吐く。
もう一人はどこに行ったのだろうと部屋を見回したが、アイザックは既に出かけたようだ。
応接室を使うことは諦めたので、仕方なく寝室の書き物机を使うことにした。
あまり住まいに興味がないので、ジーンの借りている部屋は浴室と厨房を合せればこの二部屋しかないのだ。
「む………」
ふと、補充しておこうと思ったインクを買い忘れていることを思い出し、憂鬱になる。
武具などの手入れは忘れないのだが、備品などの買い足しをするのは苦手なのだ。
アイザックが提案した定期補充も考えたが、あまり知らない間に他人を部屋に入れたくない。
仕方なく立ち上がると、長椅子で潰れているアルテアを起こしにかかる。
「アルテア、ペンを持ってるか?」
「……………お前に貸すのは御免だな。すぐにペン先を潰すだろうが」
「報告書を書くだけだ」
「ったく。安価なものを取り寄せてやるから待ってろ」
こういうとき、魔物の力の在り方を羨ましいと思う。
それは司る質にもよりけりだが、使い方の幅がとても広いのだ。
己の資質以外の面ではあまり役に立たない精霊と違って、魔物達は階位に見合った自由を謳歌しているように見えた。
一般的に、精霊と竜は緻密な魔術の扱いが不器用である。
誓約も多く、場合によっては高位の魔術師達の方が良い暮らしをしていることも多いくらいだ。
因果の中でも終わりの範疇を司る結果、ジーンがペンを取り寄せると大抵破損している。
花は枯れていることが多いし、食べ物も上手くいかない。
「ほら、これだけあればいいだろ」
「箱ではいらないが……」
「どうせ一週間内に書き潰すんだ。持っておけ」
「いや、普通に使えばそんなことはないものだろう。あまり無駄な品物を持っているのは…」
「お前には普通に使うのは無理だ。そこで悩むぐらいなら、自分の筆圧をどうにかしろ!」
そう言って箱ごとペンを投げられ、仕方なく受け取る。
紺色の上質紙の箱には、新品のペンが綺麗に並んでいた。
このような使い捨てのものよりも、ジーンとしては使い古したペンのインクを足すだけでいいのだが。
(そして、目を醒ましたなら出て行って貰えないだろうか……)
部屋に他人が寝ているのはあまりいい気分ではない。
それが付き合いの長い友人であってもそうなのだから、ジーンはあまり社交的ではないのだろう。
(…………弟とは大違いだな)
弟のガシュラは、因果の成就を司る精霊だ。
それが故に、ガシュラは陽気で前向きで、とにかく…………面倒臭い。
成就の精霊であるが故に、彼は決して仕損じないし、成果を上げないこともない。
恵まれないこともなく、苦しむこともない。
本来はガシュラにも、彼の成果を上回るだけの階位の相手が存在する。
しかしながらそれこそが成就の本骨頂とも言うべきか、彼は己を損なう望みは持たないのだ。
戦乱に手を貸す時にも負け戦にはなぜか遭遇しないし、恋をするのはいつも、彼のことを愛する女ばかり。
自分を打ち負かすような者達と敵対したり、遭遇したりすることもなく、世界は優しいものだと信じ切って生きている。
彼はきっと、取り寄せようとした花が枯れていることなどないのだろう。
だからこそ、花を丁寧に育てる喜びも知らないのかもしれない。
どちらが幸福でどちらが不幸だとは言わないが、似ていないのは確かだ。
だから、得るべくして得ているものや、
あるべくしてあるものにはあまり魅力を感じなかった。
更に言えば、終焉の子供に惹かれてしまうのも、やはり己の資質なのだろう。
昨晩、ネアが終焉の子供であることをアルテアから聞いた。
今迄はあまり会話に上がることもなかった名前だが、ジーンが彼女と実際に会ったことで、アルテアが会話に乗せるようになったのだ。
アルテアもまた、光輝く無垢なものよりは、終焉の気配を好む。
アイザックは欲深いものや、醜悪な者を好むし、そうやって皆、己の資質に近いものを嗜好としている。
例えば、レーヌの仕事も彼女自身もジーンは好まなかったが、アイザックは彼女を気に入っていたようだ。
寵愛を与えはしなかったが、恐らく彼女が望めば与えないこともなかっただろう。
同じような嗜好を持つ友人同士であっても、そんなところから己の資質の違いを思い知らされることがあった。
資質とするものによって、些細な常識すら変わってしまうこともある。
だからきっと、ジーンが望むものをガシュラが望むことはない。
とは言えそれで安心とならないのは、こちら側にも厄介な者が多いからだ。
そしてもっと厄介なことに、今回ジーンが欲しいと思うものは、既に誰かのものなのだった。
そんなことを考えながら報告書を書いていたら、廉価なペンはすぐに壊れてしまった。
インクを飛び散らせずには済んだが、何となく複雑な気分で背後の部屋を振り返る。
やはり、アルテアは戸口の壁に寄りかかって眠そうな顔でこちらを見ていた。
「ほら、壊しただろ」
「それを言う為だけに起きたのか」
「滅多にこんな時間には起きないのにな」
「自分で言うくらいなら、酒量を控えればいい」
「潰れてるわけじゃないんだ。好きにさせろ」
「そう言えば、アルテアは潰れないな」
「お前もアイザックも、酔い潰れたところは見たことがない」
「私はそもそも、無理な飲み方をしない」
「へぇ。………今度、そう言った奴が軒並み殺される飲み会に招待してやるよ」
「結構だ」
「遠慮するな。夜の盃もあるぞ」
その名称に眉を持ち上げた。
夜の盃となると話は別だ。
ジーンは酒豪ではないのだが、酒というものは好きなのだ。
「夜の盃とは珍しいな。アルテアですら手に入れられなかったものを、誰が手に入れたんだ?」
「ネアだ。いとも簡単に献上させたそうだ」
「…………彼女が?」
「探し物があるなら、案外あいつが持ってるかも知れないぞ」
しかしそれは、持っていてもどうなのだろう。
気安く会話をする程の関係ではないし、ここまで周囲を固められると万象も余分は増やさない筈だ。
と言うか、魔物と婚約しても尚、余分が残されているのが凄い。
普通であれば、魔物は自らの伴侶候補に近付く者を全て殺してしまう。
それは感情の問題でもあるが、指輪を与えた後となると、権利として許されているものでもある。
なので、魔物の伴侶と竜の宝物には決して触れてはいけないという戒めが、精霊の王族にも伝わっていた。
「なぜ、万象の魔物は、アルテアが自分の伴侶の側にいるのを許すんだろうな」
「………ん?ああ、……知ってるからじゃないか?」
「知ってる?」
「過去にも高位の魔物が人間の伴侶を得たことはあるが、どういう訳か必要以上に生きた奴がいないんだ」
「…………そうか。確かに魔物はいつもそうだな」
人間を伴侶とする人外者には独特の分岐があって、精霊は大抵相手を殺してしまう。
精霊の心の機微に人間が疲弊することが多く、そうすると精霊は絶望して伴侶を殺してしまうのだ。
竜の場合は人間が裏切ることが多く、これは伴侶として迎え入れながらも、他にも多くの人外者を伴侶として揃えた、ウィーム王朝最後の王子が有名だ。
竜は一度愛した人間を決して見捨てないので、愛さえ返されれば不遇を厭わない傾向がある。
妖精は最終的に伴侶を妖精に作り変えてしまうことが多く、羽があってもうまく飛べない伴侶を持つ妖精は大抵そうだ。
(そして、………)
そして魔物はなぜか、いつも伴侶に先立たれてしまうのだ。
不手際で殺してしまう、何者かに殺される、災害や事故で喪われる等々。
彼等はいつも愛する者を奪われ、多くの場合はその絶望で崩壊してゆく。
それは、相手が人間ではない場合にも稀に起こることで、こうも傾向が分かれるとなると、ある程度の運命の振り分けがあるのかもしれない。
(まるで、呪いのように)
歴史と寄り添う程に長命な魔物を伴侶に得ても、なぜか人間は本来の寿命よりも短く斃れることが多い。
生き残ったほとんどの者が知らない昔、先代の万象がそうだったのだとか。
ジーンも一族の長老から子供の頃に聞いたばかりだが、先代の万象の伴侶は人間の青年だったそうだ。
あまり知られていないが、万象は万象であるが故に、人間に惹かれるものらしい。
万象の女王より力を得て、傅く数多の公爵達からも庇護を受けていながら、その青年は何てことはない馬車の事故で命を落とした。
それを嘆いた万象の女王は崩壊し、世界は数千年相当もの文明を後退させたと言われている。
先代の白百合の伴侶は流行病で命を落としたし、先代の眠りの魔物の伴侶は増水した川で溺れ死んだ。
誰もが首を傾げるのは、その伴侶達が並々ならぬ守護を受けていたことだ。
到底、そんな簡単な要因で死ぬ筈もなかったのに。
「だが、それでもアルテアはないだろう。私でもやめた方がいいと思う」
「失礼な奴だな。俺は元々そこまで歓迎されてないし、俺が与えてる守護は俺自身の為だ」
「そもそも、望んで守護するなら元々自分の為なのではないか?」
そう言えば、アルテアは壁によりかかったまま唇の端で笑った。
「放っておくと、あいつはまず事件に巻き込まれるんだ。その上、俺もとばっちりを食う。予め守護しておいた方が被害が少ないからな」
「とは言え、気に入ってるんだろう?」
「気に入ってはいるがな。………寵愛の類とは別物だ。ウィリアムが竜を育てていた感覚に近いんじゃないか?」
「………だといいな」
少し呆れてそう答えれば、アルテアは随分と嫌な顔をした。
微塵も他の可能性は考えていないが、嫌な予感がしなくもないのだろう。
そこまで考えて、ジーンは頭を掻いた。
何も自ら余分を増強しなくても良かった気がする。
「………という訳だ。シルハーンが意図的に残してるのは、リーエンベルクのシーの庇護だな」
「そうか、妖精の庇護を受けた人間は長生きするからか」
「ま、妖精は魔物なんかよりしたたかだからな、あいつは苦労するぞ」
愉快そうに言いながら、先程の予感を引き摺っているのか、アルテアはどこか嫌そうに眉間に皺を寄せている。
その妖精が、自分の領域の邪魔にならないのか考えているのだろう。
(そうか、シーの庇護も得ているのか……)
「まぁ、指の数だけ守護は受けられるしな」
「そうか。妖精は耳飾りだから、七ヶ所残っているのだとすると……」
指輪を受けられる指は、親指以外となる。
なぜだか分からない魔術の理で、親指は契約に向かないと決まっていた。
「だろ。どうにかなる」
「いや、アルテアは同族だし難しくないか」
「………俺は?」
「………いや、言葉の綾だ」
「おい、何で目を逸らした?」
「………と言うより、アルテアは指輪を贈ることにしたのか?」
「………いや、まさか。……その手の執着は好まない」
何となく双方気まずくなり、アルテアは欠伸をしながら部屋を出て行った。
もう一度長椅子に横になられ、眉を顰める。
「アルテア、屋敷に帰ってくれ」
「………お前、相変わらずだな」
「私は出掛ける。自分のいないところで、他人が部屋に残るのは好まない」
「やれやれ、この殺風景な部屋に俺が何かをする余地があると思うか?」
「そう言う意味じゃない。寂しいなら、ウィリアムのところにでも行けばいいだろう」
その名前を出すと、アルテアは目を細めた。
自分より階位の高いウィリアムを、少し先に生まれたアルテアは気に入っているようで、派生したばかりの頃からよく困った遊びに引き入れていた。
この二人は悪友のようでもあり、奔放な兄としっかり者の弟のようでもある。
「あいつは、この前激怒させたばかりだ」
「………ウィリアムを怒らせられるのは、大したものだと思う」
ジーンと同じ階層を司るウィリアムは、終焉の魔物だ。
穏やかで柔軟で、残念ながらよく嗜好が重なる。
よって行き先が交差することも多く、必然的に会う事も多かったが、ジーンはウィリアムが苦手だった。
誰よりも人間贔屓で人間的なウィリアムだが、あの穏やかさや柔軟性は、ある意味執着がないからだとジーンは思っている。
そう言う意味で、彼は誰よりも人間の理解の及ばない魔物だろう。
親しくなった人間達に君達を滅ぼすのは残念だと言い、本気で嘆きながら、手帳に記した通りに粛々と国を滅ぼせる彼は誰よりも魔物らしい。
それならば、その苦痛が愉快だと嘲笑うアルテアの方が、ジーンは理解しやすかった。
因みに、アイザックは根っからの商売人なので理解云々というものもない。
「……リーエンベルクで寝直すか」
「仮にも領主の住まいだろう。宿屋代わりにするのはどうだろう」
「さて、ウィームは近年珍しい統括の魔物との蜜月らしいぞ」
「他の統括達から言われたのか」
「ヴェルクレアの第一王子からだな」
「アルテアが懇意にしてるのは、そちらの王子の方だと思ったが違うのか?」
「そうだな、あいつは面白いぞ」
「私にはどうだろう。あの王子を気に入るのは、弟の方だろうという気がする」
「それなら、エーダリアに会ってみたらどうだ?あいつはお前好みだろう」
「………そもそも、ヴェルクレアの王子で誰を気に入るのか決める必要があるだろうか?」
「………ないな」
気怠げに部屋を出て行くアルテアを見ながら、微かな羨望に目を細めた。
彼は、今度の春告げの舞踏会に彼女を連れて行くのだという。
なぜ誰も教えてやらないのか、或いは誰もが許したのか知らないが、春告げの舞踏会には良縁の祝福がある。
そんな場所に、アルテアが彼女をエスコートするのだと思えば、複雑な気持ちになった。
彼女は、ムグリスの王子をぽいと捨てたように、この選択の魔物の手を振り払えるだろうか。
それとも、満更でもなく、あのウィーム王朝最後の王子のように寵愛の積み木の一つに乗せるのだろうか。
そんなことを考えながら、アルテアに誘われた飲み会について考える。
もしそれが実現して、もし彼女と話す機会があれば話を聞いてみよう。
「アルテアさんですか?ディノのお友達です」
しかし、その会で、程よく酔いの回ったネアはさらりと一刀両断した。
「………君の、ではないのか?」
「私も知り合いですが、友達となると少し違う気がしますね。何しろ、アルテアさんは魔物!という感じがしますし、私とお友達になるような方でもないような」
「だが、君はアルテアの守護を使うだろう?」
「私は強欲な人間なので、いただけるもの、使えるものは何でも使います。勿論、その範疇なのでまた悪さをしたら、ウィリアムさんに言いつけて捨ててきて貰います」
「………さすがに、それではアルテアが気の毒ではないか?」
「あら、気の毒という表現を使うなら、双方に愛情があってこそだと思うのです。アルテアさんの私への構い方は、私が、騎士さん達の棟にいる冬籠りの妖精を面白いなとつついて遊ぶようなものだと思いますよ」
(つまり、そもそも対等に見られていないと考えているから、愛情どころか友情すら該当しないと考えているのか………?)
そろりと隣の席を見れば、アルテアは若干呆然としていた。
「…………もしかして、アルテアさんは私とお友達になりたいのでしょうか?」
「ネア様、アルテア様はあまりそのような気質の方ではないと思いますよ」
「そうですよね!幼気な表情を演出されたので、ちょっと血迷ってしまいました」
「ネア様も、時々捕まえたムグリスを可愛いと仰るでしょう?あの範疇ではないかと」
「気紛れに餌をあげてよしよしと頭を撫でても、用が済めばぺっとお外に捨てますしね!」
「ええ。そうでなければ、害を加える筈もありませんから」
どうやら、アルテアに対する評価の全ては斜め向かいに座った妖精が操作しているらしい。
シーはとても人心操作に長けた生き物だが、この男は特別に腹黒そうだ。
「お前、いくら何でもその程度の認識のものに、守護は与えないぞ?」
気を取り直したのか、アルテアは淫靡な微笑みを深めてそう囁いた。
身体を寄せて話しかけられたネアは、なぜか冷やかな目になる。
「アルテアさん、人間はお友達に、割と死ぬかなというような悪さはしません!」
ぴしゃりと切り捨てられてアルテアは不愉快そうにしていたが、アルテアや妖精が外したとき、ネアは小さく微笑んで教えてくれた。
「気が向けば優しくしてくれる、性格の捻じ曲がった友人のように感じることもあるのです。でも、本人に言うと、また安心して悪さをしますからね」
「では、君と友人になるには、最初からそう申請した方がいいのだろうか?」
「ふふ、そんな大仰なものではないです。隙を見せると雪食い鳥の巣に放り込むようなアルテアさんが、困った人なだけですよ?」
「……私と友人になってくれないか?」
そう言った途端、ネアは目を瞠って驚いたようにぽかんとした。
これは失敗しただろうかと思えば、ふわりと微笑む。
その微笑みに胸が潰れそうになった。
「お友達相当の方は何人もいますが、あらためてそんな風に素敵な提案をして下さった方は初めてです!はい、私で宜しければ、是非お友達になって下さい」
差し出された手をまじまじと見つめてから、そっと握って握手を返した。
華奢な指先に魔物の指輪があるのは残念だったが、こうして触れるのは初めてだ。
その瞬間、ゆらりとした影が落ち、ぞっとして顔をそちらに向ける。
「……………ネア」
シルハーン、万象と呼ばれる魔物が呆然とした表情で立っていた。
けれどその表情を見て、あまりの意外さに内心首を傾げる。
(激怒…………ではなく、悲しいのだろうか)
シルハーンはこちらを見ることもなく、ただ打ちひしがれたようにネアを見ていた。
「ディノ、これはお友達になった握手です。決して浮気ではないので、荒ぶらないようにしましょうね」
「浮気…………」
「私の大事な魔物は、友達作りすら許さない狭量な魔物ではありませんよね?」
驚くべきことに万象は、その質問に悲しげに視線を伏せた。
とても嫌だが従わざるを得ないというような煩悶が見て取れ、ジーンは愕然とする。
シルハーンはその名の通り万象である。
そんな魔物がなぜか、伴侶候補とは言え、脆弱な人間に不本意そうに従っているのだ。
「なぜだろう、ネアが最近酷いことばかりする」
「お友達を作っただけですし、巣をお洗濯に出しただけですし、プールで水をかけられたので頭に来て手を離しただけです。それが酷いことだとなると、あまりにも価値観が違うのでしょうか。ぽいっとして、…」
「ご主人様?!」
ネアはシルハーンを捨てるつもりはないようだが、不穏な言葉に慌てたのか、最高位の魔物は自分の歌乞いに取り縋るようにして背中に抱き着くと、必死に頭を押し当てている。
まるで親に見捨てられそうになった子供のようで、見ていて頭を撫でてやりたくなった。
(……………いや、これは万象なのだった)
まるで、犬の子を見ているようだ。
「いいですか、ジーンさんはお友達になりました。以前のように、勝手に壊したりしたらご主人様は激怒します。とても恐ろしいことになるので、悪さしてはいけません。わかりましたか?」
「………………わかった」
すっかりしょげてしまったシルハーンが頷き、ネアはその頭を丁寧に撫でてやっていた。
あまりの管理の徹底ぶりに困惑していると、何か用があったのかアルテアがやって来て、万象を容赦なくネアから引き剥がして持って行ってしまう。
どうやら、向こうで先程の妖精を交えて何か交渉しているらしい。
「ごめんなさい、困った魔物でしょう?」
「い、いや。…………ネアの方が、立場が上なのか?」
思わずそう尋ねてしまうと、彼女は小さく笑って首を振った。
「ええ。あの魔物が私を好きにさせてくれている範疇では。ああして小さな文句を言ったり、拗ねてみせるのは、どうやら甘えているようなのです。本当に我慢のならない部分では、私に気付かせない内に片付けてきてしまうので、今回のように表立って文句を言うときは、自分の心が動くことを楽しんでいるような、我儘の範疇ですね。叱って貰えるのも構われたようで嬉しいのでしょう。その分、しっかりと躾けています」
微笑んだネアは、遠くでアルテアの発言に首を振っている万象をちらりと見た。
確かにそちらにいるシルハーンは、高位の魔物らしく老獪で凄艶ですらある。
(そうか、万象は線引きをしているし、ネアもそれが線引きだと理解はしているのか)
「だから、ディノは、ジーンさんが大丈夫なようですね。どうか、あんな魔物ですが、仲良くしてやってください」
「…………ん、シルハーンも?」
「はい。ジーンさんは何となくですが、安心してお願い出来そうですので」
「………………わかった」
なぜか澄明な鳩羽根色の瞳に強い圧力を感じて頷いてしまってから、何とも言えない気分になった。
ネアと友人にはなれたが、その婚約者、しかも万象まで押し付けられた気がする。
なぜ頷いてしまったのだろうと帰り道で悩んでいると、その理由を聞き出したアルテアが遠い目をした。
「言い忘れていたが、ネアもかなり狡猾だぞ。日々、さっきのシーや、書架妖精から交渉技術を学んでいるし、時々ウィリアムも手ほどきしてるからな。お前、どうせ隙を見せたんだろう?」
高位の精霊が人間に対して隙を見せたかどうかというのも妙な話だが、まさにそのような理由に思えたので無言で頷けば、アルテアは呆れたようにひらりと手を振った。
「その場で対価を要求しない限り、もう搾取されるばかりだな。せいぜい使われるといい」
「まぁ、仕方ない。私とネアは友人になったのだから、アルテアのように対価を取るというのもおかしな話だな。友人として頼み事を聞いてやるのは当然のことだろう」
「ジーン、二度と俺からペンが借りられると思うなよ?」
「問題ない。新しいインクを買ったからな」
後日、司るものの相性が悪い弟がこちらに来るので、暫くウィームを離れると告げると、ネアは綺麗な目を瞠って悲しげな表情を見せてくれた。
寂しいと思ってくれたのだろうかと思えば、何となく心が浮き足立つ。
「残念です。周囲の魔物達が暴走した時に、手を借りれそうでしたのに……」
しかし、そう呟いた言葉を聞くと、なぜだか背筋が寒くなった。
果たして彼女は、心を許していい相手だったのだろうか。
目の前の小さな人間は、果たして好意だけで友人になってくれたのだろうかと。
おまけになぜか二度と戻らない風にされており、戻って来て欲しいと言う気配もない。
「ジーンさんは、大切な常識人枠のお友達です。どうか危ないことはしないで、元気でいて下さいね」
打算を隠す気もない清々しい別れの挨拶に送られ、南の大地に着くと久し振りに会う古い友人達と食事に行くことになった。
何だか切ない気分なので、人間はとても残酷で恐ろしい生き物だと、是非に教えてやらねばならない。
その夜は珍しく酔って本音を喋ってしまったせいか、後日、因果の王族が人間に袖にされたと噂になっていた。