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因果の顛末と薔薇の花束



通りを歩いてゆく彼女を、馬車の窓から見ていた。


凛と伸びた背筋に、きらきらとした多色性の瞳。

店や風景を見ては微かな微笑みを浮かべる薔薇色の唇に、いつものラムネルのコート。


「おや、どうされましたか?」

「いや、………ネアがいたのだ」

「あまりご執心ですと、契約の魔物を不愉快にしますよ」

「………わかっている」


先程、彼女と廊下ですれ違った。

何か狩りで珍しいものを捕らえたらしく、ご機嫌で横を歩いて行った。



ネアはいつも、夜の森の香りがする。

森の複雑な緑に、夜露と薔薇の瑞々しさに、果実の甘さとスパイスの香り。

甘く謎めいており、胸いっぱいに吸い込んで深く眠りたくなるような、豊かな祝祭の森の香りがする。


(イブメリアの朝の香りだ)


祝祭とは即ち恩寵であるので、彼女がそこに居ると、それだけでいつも心が揺れた。


青みがかった灰色の髪は、冴え冴えとした雨の日の雲の色。

その髪が風に靡き、雪混じりの風にネアは目を細めた。

とある貴族の屋敷に赴く用事があり、馬車で出たところで通りに出たネアを見かけたのだ。



(今日は、朝から風が強いからな)



だからふと、しょうもないことを考える。


例えばここで馬車を止め、彼女を呼び止めて乗っていったらどうかと声をかける。

きっと彼女は眉を顰め、こちらを見上げるのだろう。


言葉を交わすとき、ネアはいつも真っ直ぐにこちらの目を覗き込む。

その強さに目を瞠ると、あの日のように微笑んで言うのだ。


『ごめんなさい、とても綺麗な瞳なのでじっと見てしまいました』


もし、自分もその瞳を覗き込み、あの頬に触れてみたならば。

そうする権利を持っているのが、あの白持ちの魔物ではなく自分だったなら。



そんなことを考えていたら、向かいで小さく笑う気配があった。


「あなたは時々、しょうもないことで躓くのでしたね」

「……なぜ、今それを言うんだ」

「私としても、まさかあなたが今更、ネア様に恋をされるとは思いませんでしたので」

「………私が」


否定しようとして、すぐに諦めた。

付き合いは長いので、つまらない言葉を重ねても呆れられるだけだ。


「お前は、どうなんだ」

「おや、そう問われましても個人的なことですからね。ただ、あの狩りの腕は素晴らしい」

「……やれやれ、お前はいつも仕事の話だな」

「まぁ、それが私の嗜好でもありますからね」


はらりと溢れた長い髪を指先で耳にかけて、差し向かいに座った男は唇の端だけで微笑んだ。

何を考えているのか分かり難い男ではあるが、子供の頃から見ているのでその心の動きがわかることもある。

欲と言うよりは禁欲を想像させ、穏やかさというよりは不穏さを身に纏う。


(しかし、浮いた話はまるで聞かないな)



「お前も、そろそろ特定の相手を作ったらどうだ?」

「さて。………あなたは、薔薇の祝祭には彼女に花束を贈られるのですか?」

「伴侶となってからでは贈れなくなるからな。今年が最後だろうか」



あの指先に煌めく魔物の指輪を見る度、諦めて呑み込んだはずの心が軋む。

初めて出会ったその時には欠片も動かなかった心なのだから、今更愚かなことだと失笑するばかりだが、その苦さがまた心を揺らす。


後悔は恐らく、恋情というものの良い燃料になるのだろう。



今更か。


今更なぜ、彼女なのだろうか。



(ネアには、もう指輪を贈るような相手がいるのに)


魔物の指輪を得ただけでなく、あの魔物もネアが紡いだ彼女の髪色の石をつけた指輪をしているのに。



今更だ。


本当に、何とも馬鹿馬鹿しい。

これだけ長く生きて、こんな愚かな恋など。


そう考えて小さく苦笑すると、向かいの席でいつの間にか書類に興味を移していたアイザックに声をかける。


「灰白の薔薇を手配しておいてくれ」

「………おや、奮発しましたね」

「こんなことでもないと、灰白の薔薇など使う機会もないだろう」

「まぁ、あなたが育てたものですからそういうこともあるでしょうが」


灰白の薔薇は勿論、その色相であれば何種類かある。

だが、自分が育てた灰白の薔薇には、淡く水色の艶がかかる。


きっと、彼女の髪色によく映えるだろう。



「そう言えば、あなたの弟君がヴェルクレアへの周回に入るそうですよ」

「ガシュラがこちらに来るのは珍しいな」

「王位を継がれたのですから、一箇所にとどまってもいられますまい」

「良い弟だが、お互いに司る物が反発してしまうからな。ガシュラがウィームを通る間は仕事を休ませてくれ」

「ジーン、あなたは頑なに弟君に会おうとしませんね」

「…………正直、あいつは暑苦しいんだ」


ガシュラは、ジーンの下の弟だ。

王位を継がなかった彼の代わりに、ガシュラが因果の精霊の王となり、ジーンはただの王族としての自由さを享受し続けられることになった。


大抵の場合、ジーンはアクス商会でアイザックと共に仕事をしている。

仕事と言ってもなかなかに自由なもので、様々な国を巡り己の気質に見合った業務を望むままにする。


因果の中でも破壊や終焉に近いものを司るジーンは、戦乱の国土での回収業務や、依頼された王族の首、調和を乱し過ぎた人外者達の駆除などを請け負うことが多かった。

因みにその仕事の際には中階位の魔物の擬態を纏うので、アクスの中でもジーンは魔物だと思っている者がほとんどだ。


(仕事は好きだ。司るものを満たすし、己の選択ではない寄港地は、見知らぬものとの出会いを作る)


とは言え、ジーンへの依頼料は決して安くもないので、ジーンが出るのは特別に厄介な仕事ばかり。



『咎竜の領域で、竜の媚薬の育成と管理をしていただきたい』



ある日、アイザックにそんなことを言われた。


『………それは、私が転移門と因果付けた商品の中ではないのか?』

『これはまた別の商品の管理ですよ。我が社としては、先行投資でもあります。咎竜となると、さすがにあなたくらいしか派遣出来ません』


先行投資とはまた随分と豪気なことだと思ったが、因果を司る者にとってはさしたる危険でもない。

久し振りに妙な仕事だと思いながら了承し、あの赤い満月の下で、今はまだ何も知らないという顧客を待っていたあの夜。



『あなたは愚かな蛇ですね。それはもしかしたら、私の願いですらあるのかも知れないのに』



凄艶に微笑み、死にゆく咎竜の王の角を掴んでそう見下ろす少女を見ていた。

角を掴まれて頭を持ち上げられたまま、焦がれた人間の少女を見上げて死にゆく咎竜の王を。



あの夜からずっと、考えていた。

果たしてあの情熱は、竜の媚薬によるものだろうか。



己を殺すものを焦がれて見つめるだけの力が、竜の媚薬にあるだろうか。



竜の媚薬が成せることと言えば、酔わせることと、傷付けさせないこと。


それを踏まえれば確かに、あの咎竜はネアを傷付ける事は出来なかった。

攻撃のそれを阻んだのは、元より彼女に与えられた守護や道具であり、そして竜の媚薬でもあり。

咎竜は確かに酔わされていたし、彼女はその影響に気付いてもいなかった。



『……もし、この世界も私にはあまり優しくないのなら、あなたの呪いは、私を自由にしてくれる期限なのかもしれないですね』



歌うように囁く言葉は甘く、そしてどこまでも静謐な諦観に満ちている。


ああそうか、きっと彼女にとってのこれまでは、生きるということが恐ろしいことでもあったのだと、その言葉で理解した。



(それがお前の愛し方なのか)



だからあの咎竜は、無意識の確信に添う愛し方をした。


彼女の心は、決して手に入らない。

それは既に明け渡されたものであり、それが叶わないのならば彼女はもう何もいらないのだ。


あんな風に剥き出しの失望を目に浮かべて満月を仰いでも、彼女は心を閉めて、ただ死という安らかな解放までの日々を粛々と生きてゆくばかり。


決して自死する程に破滅的ではないが、穏やかだからこそ清々しく暗い。



『…………来なかったな』



誰を待ち、どんな希望が今、ここで死んだのだろうか。



凡庸さが剥がれ落ち、死にゆく希望が燃え尽きる様は息を呑むほどに美しい。



(美しいのは、これが滅びゆくものだからだ)



あの鳩羽色の瞳に浮かんだ無防備さが、淡い期待が死んでゆくのを見ながら、その奥にぞっとするほどに排他的な諦観が燃えるのを見ていたら、咎竜のようにその腕の中で死にたいと思うのだろうか。


彼女を道連れに、彼女を苦しめるこの世界から逃がしてやろうと思うのだろうか。



誰にも伝えさせず、命を失うその呪い。

それはこの世界を見捨ててしまいたいと願う彼女の、その最も破滅的な欲求を叶えようとして滅びた咎竜の、ある一つの愛の形であった。




「アイザックさん、今日はビーズを買いに来ました。腕輪の中に、こっそり特別なものを混ぜようと思いまして」

「そうなりますと、遺物としての魔術入りのものと、特殊な祝福を込められたものがありますよ」

「私の知識程度では判断出来なさそうなので、ディノに助言を貰います!」


彼女が傘祭り用のビーズを買いにアクスの店を訪れた時、ジーンはちょうど依頼されていた品物をアイザックに届け、書類にサインをして帰るところだった。



彼女は幸福そうだった。



一概に幸福だと言える無垢さとはまた違い、諦観の深淵を覗いた者が、転がり込んできた恩寵を腕の中で抱き締めるように微笑む。

また望むものが失われれば、一片の慈悲もなくこの世界に失望するのだろう。

その不安定さに目を惹かれる。


「ジーン様、宜しいですか?」


調整員の一人に呼び止められて戻ろうとしたとき、彼女がこちらを見るのがわかった。

視線の質が変わり、因果を司る者として彼女が自分が誰だか気付いたのだとわかる。


(………私のことは、覚えているんだな)


昨年の秋の終わりに、僅かに言葉を交わしただけの男を、彼女はまだ覚えていたらしい。

こんなところで出会ったのだから驚いているだろうかと思えば、ネアは露骨に渋面になりさっと目を逸らした。


ささやかな勧誘活動に励んだあの日のことは、彼女の中では蓋をしたい思い出なのだろうか。

そう理解して失望すれば、あの赤い満月の下で顔を歪めて少しだけ泣いたネアの姿を思い出した。



咎竜が滅びた今、あの夜のネアを知っているのは自分だけ。



背中を向けて歩き去ってゆくその気配を意識しながら、調整員の差し出した追加資料にサインをする。

とある代理妖精の依頼で、魔物と歌乞いの因果を結んできたばかりだ。

大きな仕事の後なので、暫くはのんびりしてもいい。


とは言えまずは、自分の領域のものでもある、傘祭りや薔薇の祝祭を終えてからの話だ。





「…………あなたは、魔物さんなのですか?」


秋の終わりのとある日、木の上にいた自分にそう声をかけてきた少女がいた。

たまたま軍事国家での仕事で退出に手間取り、ウィーム市街の街路樹の上に転移してしまった日のことだった。


(人間か、面倒だな……)


無欲そうな顔をしているが、目敏く木の上にいたジーンを見付けたのだから油断は出来ない。


「………ああ。そうかもな」

「魔物さんは、何やらいつもとんでもない所に発生するのですね」

「………発生?」

「先程、日干しされていたパン生地の隙間から出現した、酵母の魔物さんに出会いました。街角のゴミ箱の中にも包み紙の魔物さんがいましたし」

「………成る程」


ゴミ箱の中で派生した包み紙の魔物とやらが気になったが、こんなところで見知らぬ人間とお喋りをしている暇はない。


「あなたは、何の魔物さんなのですか?」


(子供のような女だな………)


微かな疑問を覚えて探ってみれば、魔術可動域のあまりの低さに愕然とする。

もしかしたら、魔術汚染の危険を避けるために社会から隔絶されて育ったのかも知れない。


「…………私は、」


適当なものの名前を上げて、さっさと立ち去ろう。

そう考えて言葉を選ぼうとしたが、思いの外に包み紙の魔物の話が衝撃的だったようで、咄嗟の言葉が見付けられない。


「………木通の魔物だ」

「あけび………」


そう反芻した少女が、ジーンの視線の先と同じところに持ち上げられ、木の枝に蔓を巻きつけた木通の実を確認した。

人間の脆弱な瞳が、容赦無く生温いものになる。


(……なぜ、こんなものしか思い付かなかった!)


自分の口走ったことに呆然としていた所為で、つい項垂れてしまう。

それを誤解したのか、少女はこちらを見て心配そうに表情を曇らせた。


「……それは、とても大変そうですね」

「…………ああ、……まぁ、木通だからな」

「だから木の上にいらっしゃったのですね。………転職先としては、あまり好ましくないと言わざるを得ません」

「転職先……?」


小さく呟いた言葉に眉を寄せると、少女は不意にこちらをじっと見つめた。


「……何か気になるのか?」

「ごめんなさい、とても綺麗な瞳なのでじっと見てしまいました。オリーブ色と瑠璃色、金色にも見える琥珀色でとても素敵です!」

「そうだろうか。……色が雑多なだけだろう」

「あら、そんな綺麗な瞳で文句をつけたら、勿体無いお化けが出ますよ」



少しだけたわいも無い話をした。

万が一競合他社の手の者であることも踏まえ、念の為に名前を聞いておく。


(………ネアか、)


因果の領域で眺めれば、これは迷い子であるようだ。

だから無防備なのだと理解して、ちぐはぐな言動に納得する。


そして彼女は、歌乞いとしての新たな転職先を探しているらしい。

現在契約している魔物は手に負えないらしく、貴重な素材の無駄遣いになるので身の振り方を考えているそうだ。

特に興味がある訳ではないが、悪目立ちしない為に興味深げに頷けば、木通の魔物には用がないのかそそくさと立ち去られた。


立ち去らせるのが目的であえて興味があるような受け答えをしたのだが、こうもあからさまに去られると不愉快な気分になる。


おまけに別れ際に、挫けず強く生きるようにと励まされてしまった。



「久し振りにおかしなことに巻き込まれた」


アクスに戻ってからその話をすれば、アイザックは小さく笑って、あれがヴェルクレアの新代の歌乞いなのだと言う。


「見栄えの悪い歌乞いだった」

「さてどうでしょう。まだ私の方でも未確認ですが、彼女はどうやら、とんでもない魔物を捕らえたようですから」

「魔術可動域が虫より低かったが……死なないのか?」

「抵抗値が高いのでしょう。魔物に擬態しているとは言え、精霊の王族と向かい合っても何ともなかったのでしょう?」

「……確かにそうだな」




咎竜の領域で再会するまで、ネアに会うことはなかった。

冬の始めまではとある国の解体に付き合っていたし、イブメリアの後はレーヌとかいう黄昏のシーによる大口注文があり、理を因果とする呪いをかなりの数用意しなければならず、忙しかったからだ。



そうしている内にアイザックの天秤がネアに傾き、少し前に自分で座標を結んだ魔術特異点を訪れ、あの夜となった。


幸福や奇跡との縁を司る弟ではなく、自分が結んだ因果だからこそ、こうなったのだろうか。



(馬鹿馬鹿しいばかりの、救いのない愚かな恋)



でもこれはジーンの資質なので、決して不愉快ということはない。

だからこそ、ほんの少しの悪戯心も込めて、この薔薇を彼女に贈ろう。



いつか、あの凄艶な眼差しがこの瞼の裏から消えた頃に、馬鹿な恋をしたと笑い話に出来るように。



(まぁ、彼女にとっては、擬態した私など所詮木通の魔物なのだろうが)



受け取った薔薇を眺めて、どんなに複雑そうな顔をすることか。


そう考えると、少し笑えた。




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