薔薇の見本と指南について
部屋で読書をしようとしていた時にふと、新年のリースが忽然と姿を消していることに気付いた。
これはもしや、もうストーカー妖精が生まれてしまったのではと大慌てで魔物に助けを求めると、先日ネアがお風呂に入っている間に回収が来たそうだ。
とても心臓に悪いので、そういう場合は共有が必要だとしっかり言い含め、再び読書にとりかかろうとする。
「その時に、薔薇の祝祭にどんな色の花を頼むのか、注文書を書いて欲しいと言われたよ」
「なぜその情報を温存してしまったのだ!」
「まだ見本の花が届いていないからね。三日後と話していたから、当日また呼びに来てくれるんじゃないかな」
「でも、注文書とカタログは届いたのですよね。見たいです!見せ給え!!」
荒ぶるご主人様に慌てて魔物はその一式を提出し、ネアは飾り棚の上に置かれていた謎の冊子の正体を知ることとなった。
気になってはいたが、微妙に魔物の領域のところであったので、触れずにいたものだ。
薔薇の祝祭は、こちらの世界でのバレンタインにあたり、愛情を司る重要な祝祭である。
薔薇に纏わる祝祭は何個かあるが、二月の最後を飾るとても華やかなものであり、毎年この時期には婚約などのお祝いごとも相次ぐ。
自身で手配した薔薇のブーケを愛する人に贈り、お世話になった人達にはこれまた選び抜いた一本の薔薇を贈るのだ。
ウィームには薔薇のシーはいないが、その代わり高位の薔薇妖精はたくさんいる。
それはそれは華やかなお祭りになると聞いていた。
「………わ、素敵な図解がついていますよ。なんて可憐なんでしょう」
そうして広げた薔薇の注文カタログは、素晴らしい図鑑のようなものだった。
細い焦げ茶色の線で描かれた精緻な薔薇のイラストに、実物の薔薇を想像しやすい大まかさで色が塗られている。
色合いごとにページが分かれており、淡い薔薇色から深みのある深紅、薄紫から濃密な紫、こちらの世界では青の系統も豊富であるし、薔薇の色の貴賤では割と下になるらしい黄色薔薇はかなりの量がある。
「魔術階位で、下から順になっているんだね。ネアは何色が好き?」
「素敵な色が多過ぎて、思考が追い付きません!もしや、全種類の見本が届くのですか?」
「そうだと思う」
「どうしましょう。楽しみ過ぎて具合が悪くなってきました……」
「え、………ネア、落ち着いて」
ばすんばすんと長椅子のクッションの上で弾んだご主人様に、ディノは慌てて拘束を図る。
ぶ厚いカタログを手に興奮が冷めやらぬネアは、元々自分には似合わないと知っている黄色系統をばっさり諦め、まずは薔薇らしい色合いの赤系統からめくっていくことにした。
しかし、そのページに辿り着く前にもう、黄色からピンクへの並びのアプリコットカラーで撃沈してしまう。
「どうしましょう、胸が苦しくなってきました」
「ご主人様……」
「ま、まずは好きな色に絞ります。でも、私はこの世界に詳しくないので、その色が相応しいかどうかの助言を下さい」
「わかった。まずはどんな色を選ぶんだい?」
そう言われてしまうと、まだ混乱している脳ではすぐに答えが出せない。
「………青みのある淡いラベンダー色が好きです」
「その色ならネアの中にもある色だし、いいんじゃないかな」
「このベルベットのようなふくよかな赤紫色は駄目ですか?」
「駄目ではないけど、……見たことのある色合いだね」
「有名な薔薇色なのでしょうか?」
「…………いや、これも候補に入れようか」
「白藍のような色もあります!綺麗ですね」
「うん、これは使おう。灰青もあるよ」
「むぅ、薔薇となるとそこまで心が動かない気もしますが、あまり強い色ばかりでもくどいですしね……」
「白も取り寄せられるけれど、欲しいかい?」
そう言われて少しだけ考えた。
魔物の容姿がこれだけ白推しなので白は勿論候補に上がるだろうが、それでも淡い躊躇いが揺れる。
白い薔薇は一つだけ。
しかもよりにもよって、ネアのあまり好みではない高芯咲きの白薔薇ではなくて、大好きな、花びらのぎっしり詰まったカップ咲きの真っ白なオールドローズだった。
だから、ネアにとっての白薔薇はあの薔薇だけのままなのだ。
「………せっかくですから、色味のあるものを色々と見たいです」
そう微笑むと、水紺の瞳が微かに細められた。
思案の気配を滲ませて、澄明で鮮やかな瞳はとても鋭利で美しい。
時折ふと、魔物らしい老獪さの鋭さにひやりとするのは、人間だからなのか、後ろめたさがどこかにあるからか。
「白い薔薇は嫌い?」
「ディノの髪の毛のような素敵な色があればいいんですけれどね」
「おや、では作ってあげようか?」
「……………作ってしまえるものなのですか?」
「薔薇は魔術より育つものだから可能だよ」
「では、ディノからはそんな薔薇が貰えたら嬉しいです」
「私から?」
「………ディノは私に薔薇の花束をくれないのですか?」
ネアの問いかけに、ディノは虚をつかれたようだった。
完全に自分の側のものを忘れていたようなので、ネアは眉を顰める。
ご主人様の悲しげな眼差しに、魔物は先程の冴え冴えとした美しさはどこへやら、おろおろと視線を彷徨わせた。
「花束は特定の方からしか貰えないのです。ディノがくれなければ、私はどうすればいいのでしょう」
素敵な薔薇の花束欲しさにそう畳み掛ければ、ディノは慌てて頷いた。
「ちゃんと準備する。ごめんね、君の好きな花を選ぶばかりだと思ってしまっていたんだ」
「仕方ありません、貰い損ねずに済むようなので許します!」
「そうか、君に薔薇の花束をあげるのは私なんだね」
「………他の誰に貰えと」
「初めてのことだから、何だか不思議な気持ちになるんだ」
そう呟いて、魔物はどこか嬉しそうにまたほろりと微笑んだ。
「今までの方々にはあげなかったのですか?この祝祭は色々な国や種族で共通しているものだということですし、欲しがる方もいたでしょうに」
「心を伴うから贈るものだろう?」
「………もしかして、心を伴わないから贈れなかったのですか?」
「…………うん」
(………ああ、この魔物はそれが寂しかったのだわ)
瞳に揺らいだのは微かな羨望だった。
こんなに高位の魔物なのにそれが羨ましかったのかと思えば、胸の奥の柔らかい部分が小さく痛んだ。
それはきっと、ネアがちくちくのセーターを手放した日のように、さぞや悲しく惨めなことだっただろう。
選ばないことの高慢さではなく、望んだものが手に入らないということは、ただひたすらに惨めなのだ。
こんなにしたたかなのに、上辺だけの戯れとして薔薇を贈ることもなく、愛情を確かめ合う人々をただ見ていただけの哀れな魔物。
「私の花束はディノの為に作る予定ですが、貰ってくれますか?」
まだどこか不思議そうに目をきらきらさせている魔物の頬に手を添えて、ネアはそう微笑みかけてやった。
その途端、まるで泣きそうな顔をするのだ。
それはほんの一瞬の無垢さだったけれど、男性的な喜びのしたたかさの裏側に、そんな脆弱さを見るのは奇妙な喜びだった。
「他の誰にも作っては駄目だよ?」
「む、ディノの中で私はどれだけ奔放なのですか!」
「傘とも浮気をするくらいだからね」
「……………その称号を捨てたい」
ご主人様をひょいと膝の上に抱え上げて、ディノはご機嫌のようだ。
ぐりぐりと頭を擦り付けられて、ネアはよしよしと撫でてやった。
喜んだ時の表現力が犬寄りなところも、いつか改善させねばなるまい。
(でももし、この魔物がある日突然、“とても嬉しいよ有難う”と気障に微笑むだけの小綺麗な魔物になってしまったら、私は嬉しいのかしら?)
多分その整った言葉は耳を滑り、ネアもお行儀よく“こちらこそ嬉しいわ、有難う”と答えるのだろう。
それは多分、あまり心が弾むやり取りではない気がする。
ご機嫌なままの魔物に抱き締められ、何でもない取り留めのない話を聞いている。
昔、真夜中の白い砂漠を歩いたこと、大きな梟の魔物の話。
どれだけ昔から話したいことを溜め込んでいたのか、今日の魔物はやや饒舌だ。
暖炉の会のことを思い出して、ネアは寛いだ微笑みを深めた。
(自分の中に出来事を溜め込んでしまうのもわかる)
きっといつか話すのだろうと思いながら、誰にも話せないままのたくさんの思い出があった。
こんなことがあって、こんなものが好きで、そういつか大切な誰かに伝える筈の言葉がどんどん胸の奥に蓄積されてゆき、排出されないままずしりと体が重くなる。
自分の心はとても大切だからとまた切実さが一つランクを上げ、それに反して重たい体は動きを悪くする。
「ディノ、前の世界の私の家の近くに、とてもパイが美味しいパン屋さんがあったんです」
「ネアのお気に入りだったのかい?」
「はい。いつか誰かに、ほらここのパンはとびきり美味しいでしょう?と言いたかったのですが、そういう話をする人は現れませんでした」
「君はどんなパンが好きだったんだい?」
「私は、マロンクリームのパイが好きでした。でも家計を圧迫するので、あんまりたくさんは行けませんでしたが……」
そこは、海外の一流の職人が国際結婚で移り住んだ土地で立ち上げたパン屋さんだったので、こだわり食材が故に少々割高でもあった。
でも、その国の本格的なパンが食べられることもあり、お店はいつも家族連れなどで賑わっていたように思う。
「食べてゆくのは大変だった?」
「時々は。医療費が嵩んだときや、屋敷の修繕費がかかると半年くらいは簡単に生活が変わってしまいますし。でも、そんな中でも我慢が出来なくて幾つか贅沢もしましたよ。ご飯を一日一食で我慢してでも旅行に行ったり………、欲しかった上等な本を買ったり。それはとても愚かな事でしたが、息が止まって死んでしまいそうになるので、やむを得ない息継ぎのような感覚です」
「そうだね、……息が止まってしまいそうなことはあるからね。今は大丈夫?」
「概ね幸せでいっぱいです。幸せだということは、疲れないのだと知りました」
「概ね?」
「傘と浮気をしたという称号が辛いです」
「それは仕方ないかな。だって、二回しか会ったことのない者と、あんな風になってしまうのだから」
「……あやつは傘です」
不満そうに黙ったネアに、魔物は唇の端で微笑んで頭に口付けを落す。
自分がそうしたいと思うその瞬間まで、ネアはその行為の意味が分からなかった。
頬や手の甲ならまだしも、頭は髪の毛で覆われてざりざりしているし、口付ける意味がないと思っていたのだ。
「幸せだと疲れないんだね?」
「……ええ。悲しかったり寂しかったり、惨めさや不愉快さは、とても疲れるんですよ。ただ、どっと疲れるのです」
「………だから昔は、楽しいことがほとんどなかったのかな」
「ディノもなのですね。今は疲れませんか?」
「うん。楽しいし、いい気分だよ。ネアを見ているだけで、何だか幸せだし。寝てるときのネアも面白いし」
「…………寝てるとき?」
不審な発言を取り上げれば、魔物は如実にしまったという顔をした。
不審者情報が出たので厳しい眼差しで無言の追及をかけたところ、ディノは渋々、寝ているときにおでこに指でちょんと触れると暴れるのだと告白した。
レインカルのようでとても可愛いそうだ。
「私の体力を、こっそり深夜に損なうのはやめて下さい!」
「もっと損なうようなことも、これからあるのに……」
「睡眠第一です。謎の企画を立ててはなりません」
「ネア、一年後に向けて少し体力をつけようか」
「幸い、ディノに練り直してもらってから体は健やかです。単純に、寝台は眠りを死守する聖域だと訴えたいのですが……」
「死守………」
抵抗しながら、ネアはふと理解した。
一年後となると、それはやはりあれだろうか。
確かにあそこまで専門的な動作となると、謎に体力を消耗しそうではあるが、その前にまず鍛えるべきは心であるという思いが強い。
「………確かに一年後のこともあるので、私も少し有識者からお勉強しておきますね」
それは前向きな意思表示だった筈なのに、なぜかディノは愕然とした。
突然体を反転させられて向かい合わされ、ネアはやけに真剣な目をしたディノに詰め寄られる。
「…………やめようか」
「む。学ばずして放り込まれても、私はどうしたらいいのかわかりません」
しかもこの魔物が日常で求めるものからするに、主導するのはネアであるのではないだろうか。
変態の御業については詳しくないが、無知なまま主導権を取るのは無理そうだということぐらいわかる。
「確かに王族や貴族達の学びの一環で、そういう分野があることは知っているよ。でも、講師がつくようなものなのだから、君は駄目だ」
「…………王族や貴族の方は、そんなものまで学ばねばならないのですか。あらためて尊敬の念を深めました」
(ということは、エーダリア様やグラストさんもご存知なのだろうか)
それはあまり知りたくなかったなとしょんぼりしていれば、目の前の魔物はなぜか切迫した目をしてこちらを見ている。
指をかけて顎を持ち上げられ、とても深刻そうに目線を合わされた。
「いいかい、ネア。興味があるなら私が最初から教えるから、決して他の誰かに指導して貰おうとしないこと」
「しかし、ディノ。私とディノとでは役割が違いますが、そちらの指導も出来るのですか?」
「…………え」
真摯な質問をぶつけてみたところ、ディノは顔色を悪くして黙り込んでしまった。
少し思考の迷路に入っていたようだが、すぐに首を振るとまた部外者に頼らないように言い含める。
「絶対に、アルテアやヒルドには相談しないように。ノアベルトにもだ」
「なぜに要注意人物を指定したのでしょう」
「彼等は、ある程度長けている領域だからね。不用意に話を出すと、進んで手を出してくるだろう」
「…………そう言えば、アルテアさんはご経験ありだと話していましたし、ヒルドさんは言わずもがな、ノアもそういうのは楽しんで手を出しそうな気がします」
「だろう?危ないから、絶対に駄目だよ」
「一般人には荷が重すぎるので、危ない程のものには絶対に手を出しません!」
ネアが頷くと、魔物はようやく安堵の息を吐いた。
変態の世界のお作法は不明だが、お互いにテリトリーのようなものもあるのかもしれない。
うっかり気を抜いて、アルテアやノアを縛ってしまわないように注意しよう。
拘束や捕獲という手段はどこで使うか分らないものだが、栞の魔物の祝福があるので、緊急時に特定の分野が発動しかねないので要注意だ。
(ヒルドさんについては、縛らなければいけないような失態を冒さない気がする)
膝に抱えた薔薇のカタログを撫でて、ネアは妙にぐったりとしているディノが不憫になった。
ただでさえ色々と無防備なところがあるだけでなく、特殊な嗜好だからこその苦労もあるに違いない。
そう考えたら、先程のテリトリー云々は、間口が狭い世界の住人だからこその執着心に思えた。
ただでさえ絶対数が少ないので、やっと見付けたお相手を失う危険が許せないのだろう。
(………と言うか、私は現状一般人なのですが!)
そう思わないでもなかったが、歩み寄ると決めたのはネアなのだから、ここは優しくしてやらねばなるまい。
「じゃあ今度、私の精神的な余裕と、ディノの時間がある時に教えて下さいね」
「……………う、……ん」
「まずは概容だけでもいいです。あまり変わったものは、いきなり理解出来ないかもしれません」
「変わったもの…………?」
「難易度が高めのもの?」
「難易度………」
魔物は、くしゃくしゃになりつつ頬を染めてぎこちなく頷くと、すぐにさっと視線を彷徨わせてしまった。
日常的にご褒美を求めてくるので失念していたが、世間一般的には隠された嗜好なのであまり詳らかにするような内容でもないし、しっかり言葉にするのは苦痛なのだろう。
(よく考えたら、アルビクロムの妖精さんのように講義も得意そうな女王様側ならともかく、ディノは犬サイド。そんなディノに説明をさせようなんて可哀想なことをしてしまったかもしれない)
「………難易度が低いものの概容か。…………難易度」
それでもご主人様に変態とは何かを説明せんと一生懸命に試行錯誤しているとは、何とも初々しい生き物である。
何やら深刻な顔でぶつぶつ呟いているディノを眺め、ネアはほっこりして微笑んだ。
未知の扉が開いて多少心が死んでも、頑張って何でもないふりをしてやろう。