91. 傘祭りが締め括られます(本編)
昼食会場は、有名な議事堂であった。
ここに足繁く通い、見事な円形のホールを貸し切り、周辺を治める貴族達との議論を交わしているのは代理妖精のダリルだ。
とても素晴らしい建築なのだが、残念ながらネアは今まで入ったことがなかった。
飴色の重厚な扉を開けて貰い中に入れば、見事な吹き抜けの空間に思わず声を失ってしまう。
建物はぐるりと周囲を円柱で囲みドーム上の天井を乗せた、お椀をひっくり返したような構造になっている。
屋根の上にはウィームの権力の象徴でもあった雪竜の彫刻があり、円柱を大きな木に見立てているので、内外の屋根の部分には精緻な木の葉の彫刻がある。
それが屋内となると彩色もされているので、まるで森の中にいるような錯覚を起こす程だ。
「さりげなく、木々の枝葉の彫刻の中に、ステンドグラスの窓が隠れているんですね」
「ああ。こうすると、落ちる光が木漏れ日の様になるからな」
魔術可動域が大きい者達は、幼少期より魔術の備蓄が大きな太古の自然の元では感情を整える癖がついている。
その習慣を利用して、議論が白熱する場で暴発事故など起きないよう、自然を模した造りになっているのだとか。
着彩された彫刻の天井には、同じ枝葉の続き模様でステンドグラスの天窓が幾つもある。
そこからエーダリアの言うように木漏れ日めいた淡い緑の光が差し込み、中央にある見事なシャンデリアの白い光を柔らかくしていた。
床は見事な木工象嵌に見えたが、足元で踏みしめて初めて、琥珀色の結晶石だとわかる。
深みのある飴色に光の加減で淡い金色の煌めきが見え、何の石だろうかと興味が湧いた。
「ディノ、このキラキラする床石は何でしょう?」
「珍しい森の記憶の結晶石だ。樹の表皮や大地と、そこに落ちる陽光の記憶を集めたものだね。もしかしたら、上のステンドグラスは枝葉の記憶かな?」
「もしかして、波紋の見えるあの素敵な円卓もそのようなものでしょうか?」
「あれは、ネアも持っている天上湖の結晶だ。ほら、波紋の色が似ているだろう?」
「わぁ、こんな大きなものがあるんですね!」
ネアは銀狐も喜ぶだろうかと振り返ったが、いつの間にかヒルドの肩から姿を消している。
首を傾げれば、ヒルドは若干苦い表情でその顛末を教えてくれた。
「ここではすぐに体を洗えませんからね、食べやすい姿でご婦人方と昼食に行くようです」
「欲望に忠実な感じですね」
「……………食べやすい姿とは何なんだ……」
「ヒルド、リーエンベルクには持ち帰り禁止にしてくれた?」
「勿論ですよ、ゼノーシュ様。あの敷地内に、第三者を連れ込むことは許しません」
冷え冷えとした微笑みで会話をしている二人に、エーダリアとグラストが顔を見合わせている。
ネアは問いただされても嫌なので聞こえないふりをして、魔物を引っ張って素敵な壁画を見に歩いた。
しかしながら、ざっと見て帰って来ても尚、その会話は続いていたようだ。
「幸い、夜は一人で寝られるようになったようですので問題ないでしょう」
「それならいいけど、居場所を誰かに話さないように厳しくしておこうよ。ディノに頼む?」
「ゼノーシュ、あの狐は喋れるんですか…………おっと、喋れるのか…?」
「秘密にしているみたいだし、狐と話すのは狡いから、グラストは考えちゃ駄目だからね」
「はは、心配性だな」
(思考すら禁止にしている……)
ゼノーシュはとても可愛らしく宣言しているが、良く考えれば禁止されたのは物凄いことだ。
しかしグラストは、子供の我儘に付き合うように微笑んで頷いてやっているので問題はなさそうである。
「ディノ…………」
「不要なものを近づけさせる理由にならないよう、ノアベルトには言っておくよ」
「まぁ、頭のいい方なので大丈夫だとは思うんですけどね」
「ただ、気を付けるのが苦手な方向かもしれないんだ」
「確かに、そちらの分野では不手際が多かった記憶が蘇りました……」
「………そう言えば、ネアはどんな秘密を知られてしまったんだろう」
「都合よく忘れてくれているようなので、決して口にしてはなりません」
「…………うん」
ディノは少し悲し気であったが、昼食の準備が出来てネアの気が散ってしまったので、追及は諦めてくれたようだ。
この中央の部屋でリーエンベルクの面々が昼食となり、外扉から内扉までの控えの間でその他の賓客や騎士達が昼食となるのだそうだ。
内側が静謐な森のような空間なのに対し、外扉から内扉までの空間は深紅の絨毯に艶消しの金を使った大変に豪奢な空間であったので、そこでの昼食もさぞや楽しいだろう。
「ぐるりと円状になるので、すぐに死角が出来ますし、よい出会いの場にもなっているようです」
グラストがそう言うのは、円形の議会場を囲むドーナッツ状の空間にテーブルセッティングをし、三分の二を貴賓席、三分の一を騎士席としているものの、少し歩けば憧れの騎士達に出会えるという仕様だからだ。
このような交流の場は少ないので、やや意図的に仕切りなども作っておらず、中には家族ぐるみで娘婿を探しに来る一家もいるのだそうだ。
(………なるほど、ゼノが警戒モードな訳だわ)
ノアの話をしている時も妙にピリピリしていると思ったが、この会場の仕様が大きく影響していたようだ。
不用意に扉を開けないように注意して、クッキーモンスターの不興を買わないようにしよう。
(何しろ、グラストさんの人気が高過ぎるから……)
外周に居るお嬢さん達にとって、エーダリアやヒルドはいささか壁の高いお相手だ。
エーダリアに関しては、血筋の問題で跡継ぎを残せない可能性があると聞いているし、ヒルドには密かにファンクラブめいたものもあるようだが、なにぶん本人が貴族の子女に相当な嫌悪感を持っている……らしい。
どちらもダリルからの話であったが、それを考慮せずとも気質的な意味で好感度が抜群に高い為、初婚ではないという問題を差し引いても、一般的にはグラストが最有力候補として名前が挙がってしまっているようなのだ。
(街中に出ていると、時々そんな噂話を聞くし、騎士の中ではやはり一番の爵位だから)
ネアですらグラスト狙いのご婦人方の噂を聞くのだから、一緒に行動しているゼノーシュはさぞかしその襲来に晒されているのだろう。
「ゼノ、そんなに警戒しなくても、扉は閉じていますよ」
「うん。………誰かが開けたら、僕が閉じにいくから!」
「ゼノーシュ様、扉は施錠されていますよ」
「ヒルドは背中を向けてるから、何かあったらわからないんだ」
とても警戒してしまっているクッキーモンスターに、ネアとヒルドは顔を見合わせた。
エーダリアは僅かに頭を下げたグラストに苦笑しているものの、二人は二人でいささか顔色が悪い。
ネアの見立てでは、ゼノーシュがここまで頑なにならなくとも、その顔色を悪くしたグラストの様子からしても、暫く女性は恐怖の対象であるのだろう。
問題なさそうなのだが、防御担当官となるとそれで安心とはいかないらしい。
(何しろ、話を聞いただけのエーダリア様と違って、グラストさんは現場にいたみたいだしなぁ…)
白薔薇の魔物である女性が爆発した瞬間、そこには当の公爵本人を含む、捜索に加わった公爵のお付きの騎士の数人、ヴェルクレア側から捜索に加わったグラストと、二人が滞在していた町の町長が同席していたそうだ。
「ではゼノーシュ様、万が一誰かが封印を破って扉を開けたら、対処をお願いしますね」
「うん!!」
ヒルドが上手く受け流してくれたので、ネアはほっと肩の息を抜く。
ふと魔物が静かになっているので隣りを見たところ、壁の一角をじっと眺めていた。
森の中に美しい泉があり、そこで水を飲む美しい青年が描かれている。
「ディノ、あの絵がお気に入りですか?」
「シー相当の呪いがかけられているんだ。でも、ダリルのものだから大丈夫そうだね」
「………ダリルさんの呪い……」
何よりも恐ろしいのではと慄いたネアに、エーダリアがその風景画に視線を向けて、ああと頷いた。
「あの絵を描いた画家は、隣国の宮廷画家でな。絵画を司るシーであるらしいが、ダリルと過去に色々あったらしい。絵を通して呪いをかけてやると話していたから、それだろう」
エーダリアの説明に、ネアはほっとして魔物に微笑みかけた。
「………だそうですので、安心して下さいねディノ。とても恐ろしい話ですが、我々には関係ないようです」
「ふうん、だから相互間の呪いのような複雑な形なんだね。こういう不特定多数の者が行き交う場所に飾っているのは、呪いを希釈する為に敢えてかもしれない」
「おや、あちらからもというのは私も初耳でしたが、妖精は気軽に呪いますからね」
「ヒルド、お前が言うと笑い話にならないからな」
「エーダリア様、私は呪うよりも剣を振るう方が得意ですので」
「………ヒルド」
つまりのところ、ヒルドは呪うぐらいであれば殺してしまう派であるようだ。
エーダリアは何とも言えない顔をしていたが、ネアもその方がわかり易くていいと思う。
どこからどこまでという線引きがない呪いというものは、何やら飲み込み難い。
「………ところで、これって何の実でしょうか?」
ネアが気になったのは、ローストビーフの上にある黄色の小さな木の実だった。
初めて目にするもので、緑色のハーブのような小さな葉っぱがついておりとても可愛らしい。
ローストビーフの上に鎮座していなければ、食べてみようとは思わない形状だ。
「それ、幸福の実だよ。お祝いの時によく出てくるんだ」
「…………幸福の実。ゼノ、これは食べてもいいものなんでしょうか?」
とても怪しい名称にネアは困惑したが、ゼノーシュの説明によると、少しばかり幸福感を持ち上げてくれる辛い木の実なのだそうだ。
ホースラディッシュの代わりにもなるそうだが、幸福の実が辛いというのも何ともシュールである。
「………美味しいです!」
「新年の食事の時にもたくさん置いてあったけど、ネアは食べなかったの?」
「装飾の類いだと思っていたのかも知れません。勿体ないことをしてしまいました」
「………私の分も食べるかい?」
「とっても嬉しいですが、これは味付けの決め手にもなるものなので、ディノも美味しくいただいて下さいね」
昼食の内訳は、蕪と海老のサラダに冷製コンソメのジュレのイクラに似た謎の魚卵添え。
暖かい香草とジャガイモのスープに、ローストビーフと付け合わせの温野菜のスパイス焼き。
口直しの小さなシャーベットを挟んで、デザートのチーズスフレとなる。
パンはトマトの丸パンとクロワッサンのようなものがあり、ネアは勿論どちらも美味しくいただいた。
ディノがほんわり嬉しそうにしているので、どうやらトマトパンが気に入ったようだ。
(でも、ゆっくりさせたいと言いながら、なぜに時間勝負のスフレにしたのだ)
至れり尽くせりのリーエンベルクに慣れてしまったネアは、その運用に内心首を捻る。
スフレが出されるとなると、早々にデザートが片付いてしまってお茶だけとなる。
領民達がゆっくり出来るようにと、三時間近くも昼休憩で追い出されているので、時間配分があまりよろしくない。
「傘祭りなのに綿菓子じゃないんだね」
ゼノーシュも不満だったのか、悲しげにそう呟いていた。
「傘祭りは綿菓子なのですか?」
「綿菓子の屋台がいっぱい出るよ」
「狐さんに買ってきて貰えば良かったですね」
「………うん。言うつもりだったのに頼み忘れちゃった」
「あの狐は綿菓子を買えるのだな……」
ふきゅんと悲しい目をしたゼノーシュの頭を、グラストがふわりと撫でてやっていた。
公の場用の青年姿なので、何やら兄弟の図のように見えなくもない。
グラストは思考することを禁じられてしまったので、今後銀狐問題はエーダリアが一人で謎を抱え込む羽目になる。
ネアとしては、どこかで普通に仲良しになって欲しいが難しいのだろうか。
「綿菓子………。ネアが欲しいなら買ってきてあげようか?」
「お祭りが終わる頃もやってたら、お土産で買って帰りましょうか」
「うん、いいよ」
チーズスフレが結構もたれたので、ネアは珍しく消極的になる。
前菜やローストビーフは最高の出来上がりだったので、どうやらデザートがずしりと重ためという惜しいバランスの料理人であるらしい。
心配した魔物にさっとおでこに手を当てられ、ネアは渋面になった。
「………熱はありませんよ。単純に満腹なのです」
ネアもよくやるので、ただやりたいだけの可能性もあるが、追加のおやつを欲しないだけで病人扱いは辛い。
むぐぐと渋面を深めて体を前傾させておでこの手を押し返していると、魔物は謎に喜んでしまった。
(もはや、触れていればご機嫌なのでは……)
狂喜するかどうかを試す為に、今度おしくらまんじゅうをしてみよう。
ネアがそんな事を思案している内に全員が食べ終わったので、そこからは歓談となった。
外での食事も終わった頃合いなので、再びゼノーシュは警戒状態となる。
今朝までの天候調整に尽力していたというエーダリアは、地味に消耗していたのか、同席者達の心強さに安心したのか、少し居眠りをしていた。
「寝ちゃいましたね……」
そう微笑んだネアに、ヒルドも淡く微笑んだ。
こういうとき、この妖精は本当に愛情深い穏やかな目をする。
「今回は吹雪が来ておりましたので、天候調整が難航したようです」
「吹雪になるところをこんな青空にしてしまえるなんて、エーダリア様はすごいのですね!」
「元々、調整に長けた質の能力をお持ちですからね」
聞けば、エーダリアは中和や無効化、調整などの魔術に優れているそうだ。
そうでなければ王宮で生き残るのは難しかったと聞き、ネアは居眠りしている元婚約者の頭を撫でてやりたくなる。
統一戦争後は道具として残す施策となった北の王族の血筋だが、ヴェルクレアが思いの外早く国として安定してしまった今、エーダリアの血筋を懸念する者達もいたそうだ。
しかし王都の者達は今、なぜかエーダリアのことはさして気にならない、邪魔さえしなければ好きにして構わないという気持ちになっているらしく、それはエーダリアの禁術によるものなのだとか。
「ヒルドさん、エーダリア様にも言ってはいるのですが、もし困ったことになるようであれば、私達にも相談して下さいね」
「有難うございます。ご覧の通りこの方は頑固ではありますが、その頑なさ故に身を滅ぼす程に愚かではないでしょう。ただ、共有が遅れても厄介ですので、決裁の全てはお一人で処理出来ないような魔術を敷いておりますよ」
「さすがヒルドさんです!」
そこの部分は少し案じていたので、ヒルドの話を聞いてほっとした。
ダリルといい、かなり才長けた者が傍にいるので元々安心はしていたが、それでも国というものの大きさや力強さはわからない。
とは言え、次期国王で九割確定とされている第一王子がエーダリアを気に入っているようなので、それが最たる幸福と言えた。
まだドリーとは文通出来る状態なので、これからも密かに喧伝しておこう。
「さて、そろそろ騒ぎが大きくなっている頃だな」
暫くして、さも寝ていなかった体でエーダリアがそう立ち上がったのは、ちょうどネアが魔物に椅子になられかけた良いタイミングのことだ。
「エーダリア様、その表現は適切なのでしょうか?」
「そうか、お前は公式な導入書しか読んでないのだな。今頃外は惨憺たる有様だぞ」
「よくわかりませんが、不穏な表現に困惑しています。死人が出たりするのでしょうか」
表情を暗くしたネアに、グラストが補足してくれた。
なぜか、午前中は着けていなかった部分防具の鎧を装着しており物々しい。
「昼食で我々や騎士達が外している間に、傘も領民も少し羽目を外すんです」
「無礼講的なやつですね……」
「まぁ、密かに魔術師達が監視しているからな、本格的な暴動になることはない」
困惑したネアがさっとヒルドを見れば、青い瞳を細めたシーは額に手を当てた。
「どこの都市でも、このような形で民衆の不満を散らす祝祭があるものですよ」
「つまり、そこまでの荒ぶり方をするのですね」
外に食事に出たノアは大丈夫だろうか。
少し心配になった上に、ガス抜きであればイブメリアの飾り木を燃やす大騒ぎや、あのソリの恐怖の滑走は何なのだろう。
普段は穏やかに音楽や絵画を愛でているウィーム市民の、血の気の多さが恐ろしい。
そして、不安でいっぱいのままディノの腕にしがみついて外に出れば、街はさながら傘に襲来された地上と、抗戦する人間達との構図が繰り広げられていた。
「わふ………」
ネアはもはや何も言えないので、ディノの腕を掴み直してしっかり身の安全を確保した。
魔物も不安になったのか、すぐにネアをしっかりと抱き上げてくれた。
わぁぁぁと、遠い雄叫びが聞こえる。
「人間は不思議な生き物だね」
「私もこの惨状は未知数なので、この要素は含ませないで下さいね」
「あの人間達は、どうして傘と輪になって踊ってるのかな」
「もはや本人達にもわからないような気がします」
ぱぁんと花火が上がって、ウィームの民達が夢から醒めたような顔になる。
まずは騎士達が持ち場に戻り、狂喜乱舞していた傘と人間は、気恥ずかしそうにそれぞれの領域へ帰って行った。
建物の窓が割れていたり、花壇が踏み荒らされていることはなく、どうやらある程度の規則は守られての荒ぶりだったようだ。
少し落ち着きを取り戻したところで、エーダリア達も会場に戻る。
いつの間にか仲良しになっていたゼベルに連れられてぱたぱたと駆け寄ってきた銀狐が、ネアを抱き上げているディノの足にへばりついた。
「狐さんもびっくりしたようですね」
「ノアベルト、足にぶら下がるなら上に上がっておいで」
ディノにそう言われて、銀狐はするすると肩に這い上がって落ち着いたようだ。
少しけばけばになったまま、呆然と街を見回している。
「一緒だった方達はどうしたのですか?」
ネアの質問に銀狐が鼻先を向けた方では、可憐なご令嬢が男前に額の汗を拭いながら、倒した傘をぺいっと路上に捨てていた。
上質なドレスを見るに良い家柄のお嬢さんなのだろう。
お付きの女中らしき女性も、勇ましく片足を倒した傘の上に乗せていた。
命の根源的な強さを垣間見てしまう程に、何とも荒々しい。
「……成る程、ああなってしまうと、男性はきっと驚きますね」
ネアが同意してやれば、銀狐はこくこくと必死に頷いていた。
「お昼は食べられましたか?もしお腹が空いていたら…良かったです、せめてもの、お昼御飯の後の惨劇だったのですね」
「ネア、あの白い傘だよ」
「わ、…………あの子はまた、随分な傘達を倒しましたね。そして、ディノの黒い傘が隣でくしゃくしゃになっています」
少し先の十字路のところで、うず高く積み上げられた傘達の残骸の上で、純白の傘がくるりと回って楽しげに踊っていた。
それを囲んで人々が喝采を送っており、隣でくしゃりと折り曲がって項垂れているのはあの漆黒の傘だ。
きっとたくさん酷使されてしまったのだろう。
午後の儀式はあっさりしたものだった。
鬱憤を発散した傘達は続々と昇華してゆき、街中がきらきらとした光に包まれる。
良き戦友達を見送るウィームの民の目は暖かく、あちこちでひと暴れした男達が祭りの後の飲みの約束を取り付け、ご婦人方はお茶会の約束をしていた。
上昇気流に乗り昇華された煌めきが光の奔流になって、夕暮れの色になってゆく空に吸い込まれていくので、世界中が淡い光の粒子で輝いているようだ。
やがて街に残る傘達がまばらになってくると、ふわりと純白の傘がネアの側に舞い降りて来た。
その頃にはもう街も落ち着いていたので、ネアは魔物に解放して貰い、ゼノーシュと銀狐と、騎士の一人に買ってきてもらった綿菓子を食べていたところだった。
「まぁ、傘さん。今日は大活躍でしたね。あまりにも素敵でしたので、どこかの絵師さんが絵に描いて下さるそうですよ」
そう言ったネアに撫でて貰い、純白の傘はまたへなへなと曲がって照れている。
少しもじもじした後、ぴょんと弾んで空を指し示したのでそろそろ空に上がるようだ。
「少し寂しいですが、こんなに素敵な傘さんに会えて良かったです。どうかお元気で」
ネアに挨拶しながら黒い傘を踏み台にしていることには気付いたが、ここは感動の別れの場面なので気付かなかったことにしよう。
傘はまた一つ弾むと、ネアに撫でられてへなりと反対側に曲がった。
あまりにも可愛いので、ネアはふと出来心でこちらに曲がった側に軽く口付けしてやった。
「ふぁっ?!」
その瞬間、ばふんと大きな音を立てて白い傘が爆発した。
驚いたネアが後ろに倒れそうになったところを、慌てたディノが受け止めて引き離す。
「ネア!」
どこか叱りつけるような声に目を瞠ったが、それよりも早く、爆発してへなへなになった白い傘を、今度は黒い傘が不憫そうな様子で柄の部分にひっかけてやり、ふわりと空に飛び立った。
「…………どうかお元気で!」
すぐさま気を取り直して手を振ってやり、白と黒と二本の傘の旅立ちを見送る。
漆黒の傘の面倒見の良さを見ていると、酷使されていただけでなく、この二本の傘にはある程度の友情めいたものが生まれた模様だ。
黒い傘はぐんぐんと高度を上げてゆき、やがて空のとても高い位置でぱあっと光った。
「わ、昇華します!」
それはまるで、綺麗な打ち上げ花火のよう。
鮮やかに大きく広がった光の粒子に、人々からも大きな歓声が上がる。
その光の雨を浴びて、僅かに他の傘達も一斉に光り始めた。
(すごい、まるで浄化の雨みたい)
光る雨を浴びて、巧妙に物陰に隠れていた傘達も顔を出すと昇華してゆく。
「最後はこんな感じに連鎖的に昇華されるのですね」
「いや、今年は例外的に影響されたようだ。例年は、残りたいと駄々を捏ねる傘の説得が大変なのだがな……」
「そういうものなのですか!」
「昇華する傘の光の粒子は、満たされた喜びを示す魔術の軌跡だと聞いている。その大きなものに触れたので、他の傘も心が動いたのだろう」
そう教えてくれたエーダリアが、ちらりとネアを背後から拘束した魔物の方を見る。
「…………ディノ?」
押し黙った魔物にネアも恐る恐る振り返れば、ディノはじっとりとした目をこちらに向けていた。
「ええと、………ディノ?どうしました?」
ネアはてっきり、傘を爆発させてはいけないと叱られるのだと思っていた。
しかしすぐに、魔物の怒りは違う方向に向いていたことが判明する。
「ネア、さっき君が口付けたのは、傘の顔だからね」
「傘の…………顔?」
「だから、上は駄目だと言っただろう?」
「傘の顔?………ごめんなさい、傘は全体的に傘なだけだと思っていました」
「足先や他の部位も勿論だけど、唇は駄目だ」
「…………足先。……………唇??」
途方に暮れて周囲を見回したネアだが、ヒルドとその肩に乗った銀狐もじっとりとした目をしている。
これはどうやら味方がいない戦いになる気配がする。
慌ててエーダリアの方に視線を戻したが、さっと顔を背けられてしまった。
(くっ、逃げられた!)
その後ネアは、みっちりと気軽に浮気してはならないと叱られてしまった。
出会ったばかりの男性に軽々しく口付けするようでは、どんなトラブルに巻き込まれるかわからないからだとか。
相手は傘なので大変に不本意だったが、ヒルドにまで、ネア様はとてもご寵愛の幅が広いようでと背筋が寒くなるような微笑みで言われ、銀狐には何度も体当たりされた。
とても複雑な憤りを抱えたので、エーダリアに後日傘の部位説明を描いて貰ったところ、持ち手側の部分はまさかの尻尾にあたり、石突きが足という謎の構造だった。
やはり異世界の常識は奇妙なものばかりだと、ネアはその描画を引き出しにそっと仕舞っておいた。