鍛冶公爵と白薔薇の乙女
兄が結婚するらしい。
そう知らされたのは、あまりにも突然のことだった。
シャーロットは持っていた刺繍糸をころりと床に落として、来るべき悲劇に備えようとした。
「お兄様は、とうとうどこかに子供を作ったのね?」
そう尋ねたのは昔からシャーロットの世話をしてくれる、お付きの代理妖精のココだ。
人懐っこい澄んだ茶色の瞳とくしゃりとした茶色い髪を持つ、大地を司る妖精である。
「いえ、お子様はまだのようです。…………と申しますのも、お相手の方は高位の魔物のようで」
「……………お兄様はまだ生きていらっしゃる?」
「はい。たいそう塞いでいらっしゃいますが、ご壮健です」
「もしかして、無理矢理捕まってしまったの?」
「いえ、ジェイムズ様も好ましく思われているようなのですが、………その、いつもの通りのご様子でしたというか………」
困ったように微笑むココは、それでも温かい目をしている。
誰が見ても微笑みかけてしまいたくなるような、一片の悪意もない柔らかな善良さ。
「恋人になるところまではほいほいと受け入れて、将来の話をされた途端に逃げ出したのでしょう?」
「正確には、まだまだやるべきことがあるので、家族としての時間は取れないとお話しされたようですね」
「……………そして捕まったのね。いい薬だわ。そろそろ、力ずくで誰かが抑え込まないと、永遠に独身のままだったでしょう」
「しかし、お相手の方は魔物ですので……」
「後継者なんてどうにでもなるわよ。要は、あのお兄様の面倒を生涯見て下さる奥様が必要なの」
「…………そうでしたね」
シャーロットの兄は、とても厄介な人だった。
公爵なのだから公爵らしくあるべしということは本人も良く分かっているし、そのように振る舞える技量も持っている。
社交界での公爵ぶりはかなりのもので、ぴしりとした格好のジェイムズはたいそう見栄えが良く、人気がある。
背が高く鍛え上げられた肢体に、少し日に焼けた健康的な肌。
空色の青い瞳に気取らないお喋り。
耳下までの髪は丁寧に編み込まれ、魔術可動域が大きく見えることもその理由であった。
穏やかで争いを好まず、良く言えば誰にでも優しく陽気な男だ。
そして、更に良く言えば特定の技術で名を馳せており、その個人的な名声も人々を惹きつける。
しかし、ジェイムズは極端な趣味人なのだ。
妹であるシャーロットの目線から言わせてもらえば、ジェイムズが陽気なのは責任というものを自分ごととして考えられないからである。
そして、日に焼けて引き締まった体は鍛治仕事で手に入れたものであり、髪が長いのは切るのが面倒だからなのだ。
社交の場がない時はぼさぼさの髪で無精髭、そして市井の職人のような汚れた格好でうろうろするので、何度母が泣いたことか。
(でも、一番困ったところは他にあるのよ)
ジェイムズの最も厄介な部分。
それは、とにかくその場を収めることに長けているという事だった。
例を挙げてみよう。
ジェイムズが成人し、両親が縁談の話を持ってきたとき。
(お兄様は国を豊かにする為に素晴らしい鍛治技術を学びたい、まずは国の為に働きたいと宣言して、まんまと縁談から逃げ出したわ)
かなりいい加減な理想論なのだが、極端な趣味人にありがちな性格で、決して悪気はない。
それどころか、己の技術は世界を変えるとさえ若干本気で思っているのが厄介なのだ。
そしてその余波を受けてシャーロットが縁談を受ける羽目になり、兄に充てがわれる筈だった気立てのいい王女の、血が繋がっているとは思えない最低の弟と結婚させられた。
その件ではいつかジェイムズを殴ってやろうと思っていたが、ココが見事に夫を葬り去ってくれたので良しとしよう。
無事に出戻ったシャーロットの前で、兄は更に二桁以上の縁談をのらりくらりと躱してゆき、二人の弟が犠牲になった。
しかしながら、決して欲がないわけでもなく、寧ろジェイムズはよくもてた。
身を固めざるを得なくなる貴族の子女達の手を器用に避け、自分の好きなことだけをやりながら生きていくのに支障のない恋ばかり選んでいたのだ。
そしてそんな恋人が決断を迫ると、こんな自分で申し訳ないと、やはりこれも当人は大真面目で謝罪して綺麗に別れてくる。
ここでもまた、なぜか恨まれない言葉回しの天才とも言うべき才能を無駄に発揮して、ジェイムズはのうのうと自由を謳歌していた。
「だいたい、今までの言い訳を覚えていて?お相手の女性の婚期を過ぎるところまで付き合っておいて、もっと才能を伸ばしたいから自由でいたい。こんな身勝手な男は君には勿体無いと言うのよ。………我が兄ながら屑だわ」
「ええ、そのような評価は免れられない理由ではありますね」
ココは穏やかな妖精だが、大切なシャーロットをろくでもない男に押し付けたジェイムズのことは許していなかった。
柔和に微笑んではいるが、なぜか背筋がひやりとする。
「いつもなぜか、お相手の女性は許してしまうの。何か良くない魔術でも使っているのかと思うくらい」
「と言いますか、ジェイムズ様は産まれながらの魅縛の魔術をお持ちですから」
「…………はい?」
初めて聞くことであったので、シャーロットは、はしたなく聞き返してしまった。
ココはそんな女主人に困ったように微笑んで、淡い緑色の羽を揺らす。
「あまり人間社会では良いこととされませんからね。今までは言わずにおりましたが、お相手が魅縛の魔術の効かない魔物ですので、もう問題にならないでしょう」
「どういうこと?今までお兄様が好き勝手に生きてこれたのは、その魔術のお蔭なの?」
「はい。どうやら、産まれる前にそのような祝福を与えられてしまったようです。エリザ様は、紅薔薇のロクサーヌ様と交流がありますし、愛情を司る祝福ですからロクサーヌ様の物かも知れません」
「お母様がロクサーヌ様の祝福を得た結果、お兄様があのいい加減で浮き草のようなお兄様に………」
人ならざる者達の祝福は、単純な幸福ではない。
あらためてそう思うような事実を知り、シャーロットは首を傾げた。
「でも、私はいつも言うことを聞いてあげなかったわ。お兄様の笑顔や言葉にも騙されないし、大好きだけど割と最低の兄だと思っているの」
「シャーロット様には僕の祝福がありますので、ジェイムズ様の魔術が効かないのでしょう」
「ココの祝福って、真実を得ることが出来るというあれかしら?」
「ええ。……まだ覚えていて下さったのですね」
それは、ずっと昔、子供の頃にココから貰った祝福だった。
公爵家の令嬢という厄介な肩書きに息が止まりそうになったとある夜、泣きじゃくる小さなシャーロットを膝の上であやしながら、ココが与えてくれた祝福だ。
『怖いことはありませんよ、シャーロット様。あなたに、得られるべき愛情も心も、全て真実のものが実を結ぶ祝福を授けましょう。もし、そうでもないものがあなたを苦しめるのなら、僕が全部排除して差し上げます』
あの夜、あの時の言葉はずっと、シャーロットの制約の多い人生において奇跡だった。
辛い時や、ままならない時、自分にはココがいるのだと思えば、どんなことでも乗り越えられる気がしたのだ。
(とは言え、夫のことは流石に乗り越えられなくて、すぐにココに手紙で愚痴を言ってしまったわ)
シャーロットの夫は、妻は夫の良き道具、良き従者であるという考えの人だった。
古風なだけの価値観であれば、そのくらい我慢することは出来たのだ。
しかし彼は、激昂すると手を上げる人であり、シャーロットの闊達さはよくそれを助長してしまった。
酷く叩かれて心が折れそうになったある日、シャーロットは情けない現状を知られる覚悟も決めて、ココに長い長い手紙を書いた。
兄は優しいけれど頼りないし、弟達は真っ直ぐだけど事を大袈裟にしてしまいかねないからだ。
国と国との婚姻である以上、正しいばかりが正解とはならない。
だからココに手紙で愚痴だけ書いた。
勿論その手紙は誰かの手に渡っても支障のない範囲の言葉を選んだし、生々しい表現は控えたつもりだ。
(でも、翌日にはもう枕元にココがいた)
ココは大地の妖精なので、ほとんどどんな場所でも力を振るえる汎用性の高い妖精である。
穏やかでのんびりしているから誤解されがちだが、本来の大地は無慈悲に荒ぶる広大なもの。
ココはとても強い妖精なのだ。
『帰りましょうか、シャーロット様』
そう気弱そうな優しい微笑みを浮かべたココが、躊躇いもなく一人の厄介な夫を地割れで成敗してきたことは、その後に知らされた。
元々無理な開拓を推進していた現場の視察中だったので、その事件は特に大きな問題にはならなかった。
王太子を失った国はある程度混乱しており、シャーロットが国に帰ることにさしたる異論は出てこなかった。
他国との結びつきを繋ぐよりも、国内での後継者争いが激化していたからだ。
シャーロットを何某かの象徴として使う話も持ち上がったが、万が一彼女が旧王太子派と懇意にしていると厄介なことになる。
ある意味火種を国内に残さないという意味もあり、また、事故の原因となった無理な開拓でシャーロットの国からも資金援助を得ていたので、勿論誰もその責任を取りたい訳もなく、思いがけずすんなりと帰って来られた。
(ここが、私のお家)
ココの手を取って生まれた国の生まれた城に帰ってきてからずっと、シャーロットはあの頃のように泣くことはなくなった。
幸い両親は、もう嫁ぎたくないというシャーロットにそれ以上の無理をさせないでくれている。
戻ってきた一人娘が酷く痩せており、痛々しい痣を作っていたのだから当然だ。
(でも私の立場であれば、その当然の恩恵を受けられる可能性はとても低いのに)
それを許してくれた両親には、とても感謝している。
身体を壊したことにしてくれて、それ以上に望まない縁談が舞い込まないようにもしてくれた。
弟達が安定した結婚をしていたので、これ以上の婚姻が必要なくなったということもある。
或いは、まずは後継ぎとなるジェイムズが身を固めるべきだと考えていたのかも知れない。
(今まで、どうしてお兄様ではなく、もっと落ち着いた弟達に跡目を継がせないのかしらと思っていたけれど)
好かれるということは、一種の力である。
だからこそ結局、公爵となったジェイムズはその力で自由を得ても、本当の意味で自由にはなれなかった。
何だかよく分からないが特殊な技術を持ち、誰からも憎まれず、捉えどころはないがみんなの心を明るくする公爵。
鍛治公爵という愛称で呼ばれ、魔術道具である見事な剣を作るジェイムズ。
公爵としての仕事をおざなりにして技術学習の外遊に出ても、みんなが許してしまう愛すべき駄目公爵。
(そんなお兄様が、とうとう結婚する!)
お相手は高位の魔物であると言うし、世継ぎはなくとも、公爵家はほぼ安泰と言っても良いだろう。
高位の魔物の守護が得られることはまずないので、国内外への最大の牽制にもなるからだ。
(国が必要以上に安定すれば、私はずっとここに居ても許されるかしら)
ココと一緒に穏やかに過ごし、幸せなおばあちゃんになれるだろうか。
「どんな方かしら、ココはもう会ったの?」
「はい、お会いしましたよ。儚げで可愛らしい方で、白薔薇の魔物だそうです」
「白…………薔薇」
「ええ。白持ちですので、お相手の方も公爵になりますね。どうやら、ジェイムズ様は歌乞いとしての技量もあったようで、磨いた剣を鏡代わりに成された、契約の魔物としての契約もありますから、気儘に周囲を損なうことはなさそうです」
ココはいつもの笑顔でさらりと言っているが、シャーロットは椅子に座ったまま、後ろに倒れそうになった。
(し、白持ちの魔物は神様と同列なのではなくて?!)
「お兄様が、歌乞い?………確かに、歌はお上手だったけど。………でも、歌乞いとなると、命を削るのではなくて?」
「ご安心下さい。お相手の白薔薇の君は、それが嫌で伴侶にしてしまわれたのです。正式に魔物の伴侶になりますと、その魔物に損なわれなくなりますからね」
「………そうなのね!とても素敵な方だという気がしてきたわ。早くお会いしたい!!」
例えどんな兄でも、やはり兄は兄で家族だから。
だから、シャーロットはジェイムズがとても好きだ。
その大好きな兄を、己の階位に拘らずに愛してくれる魔物なのだから、きっと優しい女性なのだろう。
嫁いだ先で新しい家族を得る事は出来なかったが、そんな義理の姉が出来るのなら何だか楽しみだった。
「きっと、シャーロット様とは仲良く出来るでしょう」
そう微笑んだココの予想は、間違っていなかった。
「初めまして、シャーロット」
そう婉然と微笑んだのは、白薔薇の君。
華やかな庭園の白薔薇ではないらしいが、野に咲く白薔薇らしく清楚で凛とした可憐な美しさがある。
ジェイムズが贈ったという綺麗な水色のドレスを纏い、声を失うくらいに優雅な微笑みを浮かべた白持ちの魔物。
「初めまして、ブランシュ様。お兄様と結婚して下さって有難うございます。どうか、お兄様を見捨てないで下さいませ。協力は惜しみませんわ」
「そう言ってくれて有難う。ジェイムズは、やっと見付けた私の大切な恩寵なの。ジェイムズも、ジェイムズの大事な貴方達も、とても大切にするわ」
優しくて穏やかな言葉に嬉しくなって微笑むと、素晴らしく美しい白薔薇の魔物はにっこり微笑み返してくれた。
ジェイムズが、その後ろでどんどん包囲網が狭くなると呟いて項垂れている。
微笑んではいるが確実に怯えてもいるので、ココがそっと肩に手を置いていた。
慰めているように見えるが、あれは楽しんでいるのだ。
「ブランシュ、シャーロットと仲良くしてやってくれ。君は物知りだから、妹も喜ぶだろう」
「お義姉様、これがお兄様の手なのですわ。じゃあ俺は一人で仕事がと言い出したら、絶対に一人で外に出してはいけないのです」
「シャーロット…………」
「ふふふ、大丈夫よ。そんな風に何度も置き去りにされたから、逃げられないような仕掛けがあるの」
「ま、待ってくれ。聞いてないぞ………?!」
「あら、ジェイムズ。あなたは何度も約束を忘れて私を待ちぼうけさせたし、私が少しでもあなたを信頼して心を緩めると、これ幸いと責任を投げ出すの。あまつさえ、魔物は長生きだから、もう十五年くらいは好きなことをしたいと言うなんて。自分の寿命も考えずに困った人。私が得られるあなたの時間は、一秒だって大切なのに」
(あ、これが決定打だったのだわ………)
それまで何をどれだけ積み上げたのかわからないが、その一言でこの可憐な魔物を怒らせたのだろう。
「そんな酷い事を言ったのね、お兄様」
「ブランシュ………、もう突然怒るのだけは無しだぞ?」
「多分だけれど、突然怒ったと思っているのはお兄様だけだと思うわ。雪崩を起こすまで気付かないのでしょうけど、女性の怒りは積み上げ方式なのよ」
「…………いや、……俺はちゃんと話し合ってきたぞ?!」
「まぁ、ジェイムズ。あれで話し合ったつもりだなんて、あらあら……」
「っ?!……そ、そうだ、そろそろ昼食の時間だろ。移動しようか」
「お兄様、まだ一時間は早いわ」
「シャーロット………」
ジェイムズはそのまま白薔薇の魔物にどこかの部屋に連れて行かれてしまい、シャーロットはココと二人で取り残された。
「華奢で可憐な方なのに、あの空色の瞳を見ていると怖いくらい。やはり、高位の方なのね。でも、上手くやってゆけそうよ」
「僕もお二人は気が合うと思いますよ。ただ、魔物は親族にも嫉妬心を抱きますから、どうか注意して下さいね」
「大丈夫、お父様達と書物で予習しておいたの。何事も、お兄様のことはブランシュ様が一番になるように心がけるわ」
「それが宜しいでしょう」
「それにしても、お兄様はこちらに来るまでにも何かしでかしたのかしらね」
ココが教えてくれたことによると、質の良い鋼の仕入れ情報が手に入り、ちょっと煙草休憩と言って半日行方不明になったらしい。
「………それ、一緒に行けばいいのではなくて?」
「ジェイムズ様曰く、鍛冶場は男性の聖域なのだそうです」
「叱られてしまえばいいわ」
「少しお時間がかかりそうですね。お嬢様、お茶を淹れましょうか」
「ココにお嬢様と言われるの、大好きだわ」
シャーロットがそう笑うと、ココはくすぐったそうに微笑んで羽を光らせた。
昔から、ココが羽を光らせるのはシャーロットと話すときだけなので、家族はココをシャーロットのお付き妖精にしてくれたのだ。
ココ曰く、元々は琥珀色だった羽も、シャーロットが生まれてから今の色に変わったらしい。
「ココ、私がお婆ちゃんになってもお付き妖精でいてね」
「勿論僕は、ずっとシャーロット様の側に居ますよ。だからもう、無茶だけはしないで下さいね」
「………うん。もう二度とあんなことしない」
ジェイムズが縁談から逃げ出してみんなが困っていたあの日。
ジェイムズに拝み倒されたシャーロットが、向こうの国の王の提案に乗り代わりに自分が王太子に嫁ぐと言い出したとき、ココは猛反対した。
でも、シャーロットはその言葉を聞き入れず、愚かな理想を持ってあの国に行ってしまったのだ。
みんながジェイムズを好きで、ジェイムズを甘やかしている。
そう不貞腐れているシャーロットですら、ジェイムズのことは大好きだったから、自分も何か偉大な成果を上げて、ジェイムズのように何と凄い奴だと家族に褒めて欲しかったのだ。
『ほら、お城が見えてきましたよ。僕はもう、二度とシャーロット様を他所にやるつもりはないので、観念してあの中で暮らして下さいね』
妖精の御者が馬を操り、その馬車は飛ぶような早さでこの国に帰ってきた。
転移をすればいいのにと思いながら、でもその道中ずっとココが抱き締めていてくれたから、シャーロットはその腕の中で久し振りに安心して眠った。
『わかったわ、ココ。お嫁に行くのはもうたくさん』
シャーロットがそう呟けば、ココはくすりと笑って頭を撫でてくれた。
『では僕が、病める時も健やかなる時も、一生お世話しないといけませんね』
『ココ、まるでそれ結婚式の誓いの言葉みたいよ』
あの日からずっと、ココはシャーロットの隣に居る。