目隠しのバレンタイン
「…………忘れてた」
その日ネアは、とても大切なことを忘れていたことに気付いた。
(いや、当日に思い出しただけマシな筈!でも、今からどうやって時間を稼げばいいのだ?!)
現在の時刻は午後八時。
今夜はエーダリア達の明日の仕事に備えて、早めの晩餐であったので、ネアとディノはこれから部屋に帰るところであった。
「…………ディノは、これからお風呂ですか?」
「まだいいかな。何かしたいことがあるのかい?ご主人様」
そう微笑んだ魔物はたいそう蠱惑的だったが、ネアはこれ幸いとそんな魔物に待てを命じる。
「突然ですが、ものすごく厨房の方にお礼が言いたくなったので、ディノはここで待っていて下さいね」
「………え」
「すぐに戻りますので、動いたらお仕置きです!」
「お仕置き………」
満更でもなさそうな呟きに慄きつつ、ネアは厨房に駆け込み、事情を説明して頭を下げ、使えそうな食材を分けて貰った。
チョコレートとラズベリー、生クリームがあれば、何とか様にはなるだろう。
とは言えこれからこっそり作るのは無理なので、出来上がりを見てこのイベントを忘れていたと思わせない一品を考えなければいけない。
(本当は梅ジャムで作ってあげるつもりだったのに!)
トンメルの宴で見つけた美味しいお菓子を模倣するつもりだったが、今回はもう贅沢を言ってはいられない。
幸いラズベリーはかなり沢山貰えたので、ソースかジャムにしてケーキを作るのが良さそうだ。
チョコフォンデュにしてしまえば簡単なのだが、さすがに手抜きで可哀想だ。
普段であれば楽しいけれど、今回ばかりは忘れていたことを悟らせてはならない。
「食材を貰ってきたのかい?」
「ディノ、実はこれからやることがあります」
「わかった、何をすればいいかな」
廊下で待たされていた魔物は、ご主人様の荷物を受け取ろうとしてぺしりと手を払われ、不思議そうにネアを見ている。
(これは私のお仕事道具なので、触らせるわけにはゆかぬ!)
「お部屋でお留守番…」
「それはやめようか」
「おのれ、一人の時間を与えて下さい!私にも個人的な用事があるのです!」
「何だろう、絶対に一人にしちゃいけない気がする」
「二時間で帰って来ますから!」
「二時間も………」
「お風呂にでも入っていれば、あっという間ですよ」
「今晩は入らないことにしたんだ」
「なぜなのだ!」
決してご主人様は脱走も逢い引きもしようとしていないのだが、バレンタインを忘れていたという罪悪感が変に作用してしまい、今夜に限ってものすごく疑われてしまっている。
こういう時に上手く言いくるめられるのが大人の女であるが、ネアは何だか面倒くさくなってしまった。
「………わかりました。一緒に居てもいいですが、条件があります」
「条件があってもいいよ。側に居れば安心だからね」
「行くのはディノのくれた厨房ですので、向こうに到着してから条件を発表します」
「わかった」
そして厨房に到着すると、ネアはまず揺り椅子にクッションと火織の毛布をセッティングした。
「さ、ここに座って下さい」
「座ったよ」
「二時間待機になるので、毛布を持ってきました。寛いでいて下さいね」
「何で毛布を持ってるのかなって期待していたんだけれど、この為だったんだね」
「……期待?………それと、じっとしていて下さいね」
「…………え、」
ネアはそこでえいやっと魔物の膝に乗り上げると、持ってきた布をディノの顔にかけた。
「ネア………?」
真下でぷるぷるしている魔物は頬を染めているようだが、構わず布の位置を調整して目元を覆う。
「………よし!」
少し手間取ったが、完成したものを眺めて頷いていると、戸惑ったような声が聞こえた。
「ネア、………これは、どうしてだろう?」
「目隠しです!」
「うん………」
魔物はどうしていいか分からないらしく、もぞもぞとしている。
「これから、秘密のお料理をするので、見られては困るのです。このままで待っていて下さいね」
「…………わかった」
「良い子にしていて下さいね」
頭を撫でてやると魔物はくしゃりと椅子に沈んだので、ネアはいそいそと膝から降りて調理台に向かった。
(ふむ。ラズベリーはジャムと、生でも使おう)
卵とバターや牛乳に粉物はあるので、メレンゲを作ってまずはケーキの土台を焼こう。
そう考えてメレンゲ作業のことを思い、ちらりとディノの方を見る。
(いい労働力になりそうだけど、今夜は自力でやらなくては!)
魔物は完全に固まってしまっているようだ。
心配になって声をかけると、なぜかびくりと体を揺らした。
「ディノ、見るのは禁止ですが、揺り椅子で寛いでいて下さいね」
「わかった。会話はいいのかい?」
「私が何をしているのかを探ることは禁止します」
「…………わかった」
まずはチョコレートを刻んで湯煎で溶かしてゆく。
バターと粉砂糖に卵などを溶いたボウルにそのチョコレートを混ぜ、今度はメレンゲに移る。
これは重労働なのであくせく角立てに尽力していると、魔物が声をかけてきた。
「……甘い匂いがするね。大変そうだけど、手伝おうか?」
「むぐ、これは私の使命です!誰にも渡しません」
「無理をしていないかい?」
「女性の嗜みなので、このくらいの壁は乗り越えてみせます」
やがてメレンゲが満足ゆく仕上がりになったので、チョコレート生地と混ぜ合わせ始めた。
こちら風のレシピだと夜の雫を入れてもいいのだが、今回は普通の材料だけで作りたい。
振るった粉を混ぜた後、型に入れると型をごすりと叩いて表面を平す。
「………ネア?」
「調理過程のお作法なので、事件ではありませんよ」
「怪我もしていないかい?」
「ふふ、ディノは心配性ですねぇ」
「…………見えないと、不安になるんだ」
「やっぱりお部屋で待っていますか?」
「ここにいる」
良かれと思ってそう聞いてやったのだが、ディノは少し悲しげに椅子に沈んでしまった。
頭を撫でてやりたくなったが、もう一度手を洗うと思えば、その面倒さにあっさり負ける。
「さて、」
「………終わり?」
「まだまだですよ!」
焼きあがった生地にかけるチョコレートを溶かす前に、まずはラズベリージャムを作る。
作業を始める前に使用分のお砂糖と合わせてボウルに入れてあったので、水分が出て良い塩梅になっているようだ。
ネアはこの方式で、水を足さずにジャムを作る派である。
(しかし、苺程の水分は出ないので、少しだけリキュールを足して、)
風味付けをして、ことこととホーローのお鍋で煮詰めてゆくと、厨房は甘い香りに包まれた。
一度色がくすんでから、灰汁をとりつつまた煮詰められたジャムに透明な輝きが戻り鮮やかな色になる。
(……よし、これで出来上がり!)
その頃になると、ケーキが焼き上がった。
暫く大人しくしている魔物が少しだけ不憫になったので、焼き上がったケーキを出してから少し構ってやろう。
しかしながら、焼き縮みしないようにケーキを手荒に大理石のテーブルに落とすと、魔物は揺り椅子の上で縮み上がっていた。
「ディノ、今は荒ぶっているわけではなくて、調理のお作法です。叩き付けられることによって、こやつは型通りに育つのです」
「………うん」
型から出したケーキを冷ます段階に入り、ネアは揺り椅子の方へ歩いてゆくと、ぼすんと魔物の膝に座った。
「ご主人様……?」
「こらっ、ご主人様は任務中なので拘束禁止ですよ!しかしながら、任務中であっても、大事な魔物のことを気にかけている良い人間です」
「このまま暫くここにいるかい?」
「いえ、魔術仕掛けで冷ますのは早いので、すぐに旅立ちます。でも、そろそろ仕上げですからね」
「………すぐにいなくなってしまうんだね」
撫でても貰えず悲しげに言われたが、ネアは両手を上げた姿勢で手洗いの手間を省いた。
立ち上がるのには不安定なので、魔物に立ち上がりの補助をして貰い、次の作業に戻る。
(まずは、ジャムを塗ってしまおう)
こちらも魔術で程よく冷ましたジャムの実の形がなくなった液体寄りのところを、半分にナイフを入れたケーキにまんべんなく塗り、切り分けた上部分を戻してからぴったりと合わせた。
そこから仕上げのグラサージュ作りに移行して、網台に戻したケーキにていやっと流しかける。
「…………完成です!」
あとはもう冷やすだけだ。
生クリームも立ててあるし、残った実の部分のジャムは切り分けたケーキをお皿に乗せてから添えるのだ。
「ディノ、もう保冷庫に出来たものを入れてしまうので、洗い物をしたら自由にしてあげますからね」
「手伝おうか?」
魔物がそう言うのには理由があって、最近洗い物をするように躾けたからだ。
「いえ、今夜に限り私がやります。退屈だと思いますが、もう少し待っていて下さいね」
とは言え、お菓子作りの洗い物は少し手間取る。
作りながらほとんど片付けていたのだが、最後のグラサージュの段階が一番大きな洗い物が出るからだ。
バットに残ったチョコレートが勿体無いので、少し考えてから他のお菓子に転用しようと保冷庫に放り込んだ。
(あんまりチョコレートって使わないから)
ネアの専門分野は、ふかふかの焼き菓子だ。
割と素朴な粉と果物のお菓子を好むので、チョコレートを使うことはまず無い。
どう転用するかは少し考えよう。
「さてと、………ディノ、お待たせしました」
本当はお茶を淹れておこうとしたが、まずは魔物を解放することから始めよう。
よくも二時間近く我慢したものだ。
エプロンを外して歩み寄ると、またよいしょと膝に乗り上げて目隠しを外した。
ふわりと瞳を開いた、鮮やかな水紺の瞳の美しさに思いがけずどきりとする。
しかし、震える程に艶麗な美貌の魔物は、何やら拗ねた様子で眉を顰めた。
「………すごく期待したけど、何もして貰えなかった」
「む、……目隠しで何かして欲しいことがあります?」
「してくれるのかい?」
「………何でしょう、要求に応えてはいけないような気がしました」
「ご主人様……」
しょんぼりした魔物が小さく息を吐いたので、ネアは首を傾げた。
膝から下りて目隠しをしていた布を畳みながら、乱れてしまった真珠色の髪を撫で付けてやる。
「あら、しょんぼりですね」
「何だろう、………最近の君は何だか冷たい」
「………確かに、憂いがなくなったら、安心して自分のことだけを考えられるようになりました」
「…………罪悪感から無理をしていたのかい?」
「確かに無理はしていましたが、ディノのことを大好きなのは変わりませんし、婚約者でいることも嫌ではありません。ただ、浴室の外で待たれるととても怖いです」
「………転んだり、溺れたりするといけないから」
「ディノ、私は今までずっと一人で入浴しても生き延びてきました。過去の実績を見て下さいね」
ますますしょんぼりした魔物の頭を撫でてやり、ネアは苦笑して体を屈めると、滑らかな額に口付けを落としてやった。
目元を染めて恥じらっているが、最近の魔物はこの程度では誤魔化されないぞという密かな抵抗を見せることがある。
ふと、そんな頑固な眼差しに嗜虐心が生まれた。
「…………っ?!」
「ディノ?!」
次の瞬間、ディノは派手な音を立てて椅子から落ちた。
ついつい悪戯をしてしまったネアが慌てて助け起こそうとしたが、目を瞠って真っ赤になったまま呆然としている。
後ろに押し出された揺り椅子が大きく揺れており、事件の衝撃を物語っていた。
「だ、大丈夫ですか?もの凄い落ち方をしましたよ?!」
「…………大丈夫じゃない」
「え、」
床の上で頭を抱えて丸まってしまった魔物に、背中でも打ったのかと思ってそっと腰のあたりを撫でてやれば、わしっと手を掴まれて止められた。
「ごめんね、今はちょっと刺激しないで」
「この触り方でも響いてしまうくらい、どこか痛いのですか?」
「責任取ってくれるなら、もっと触ってもいいよ」
「落下までは自己責任なので、言葉の行き先が行方不明です」
「………ネアに攻撃された」
「…………む」
そこで漸く、どうして魔物が椅子から落ちたのかがわかり、ネアは目を丸くした。
決して色事と無縁ではなかった筈なのに、どうしてこの魔物は時々こんな風に純情になってしまうのだろう。
(……いつもディノが不意打ちでするみたいに、唇に口付けただけなのに)
それも、こちらの世界では挨拶代わりにもされてしまうくらいの、軽やかなものだ。
その程度でここまで重傷になってしまうのならば、一体今までのそちらのご経験はどれだけ専門的なものだったのだろう。
(何だろう、やっぱり手に負えない気がしてきた)
「………ディノ、ふと思ったのですが、本当に私で大丈夫ですか?あまり専門知識がないのですが……」
「………ごめん、不安にさせたね。きちんと慣らしてあげるから怖がらないでいいよ」
「しかし、今の様子を見ていると……」
「ネアが間違ったことをした訳じゃないよ。ただ、………初めてのことだったから、驚いたんだ」
「…………初めて」
普通の口付けすら初めて与えられたとは、今まではどんなことをしてきたのだ。
もはや専門的過ぎてネアには見当もつかない。
首を傾げたネアに、ディノは床に蹲ったまま、なぜか少し寂しげな微笑みを浮かべた。
「……でも君は、これで私が止めようと言えば手離してしまえるのかい?手離したくないと、考えてくれるようになったと思っていたのに」
「心の準備なく、理由も分からずにぽいっとされるのは悲しかったです。胸がキリキリしたので二度と御免ですが、予め懸念していたような事情故だとか、自分の問題で解消する分には明確な理由があるので……」
「君は残酷だね」
「むぅ、それは否めませんので、ディノが上手く私が逃げない程度で調整して下さい。そして指輪の回収は未来永劫禁止です!」
「おや、私を手離しても?」
「ええ。婚約は上手くいかなくても、ディノは私の契約の魔物ではいてくれるのでしょう?ずっと側にいてくれると、この前言質を取りました!」
「ご主人様は残酷だ………」
我が儘な人間の実態が余程堪えたのか、ふるふるしている魔物から離れると、何を勘違いしたのか、慌てて婚約は絶対に破棄しないとしつこく宣言された。
とても有利な状況なので、浴室の扉の外で待ち伏せしないように約束させ、そろそろ仕上がっただろうケーキを保冷庫から取り出してみる。
グラサージュのかけ方が上手くいったらしく、ケーキは艶々の見事な仕上がりだった。
「出来ました!ディノの為に作ったケーキですよ」
「………私の、為に?」
ディノはとても驚いたようだ。
ケーキを掲げてみせたネアに、魔物は困惑したような無防備な顔で、床の上に座ったままぽかんとする。
「はい。前にやってあげると話していたでしょう?私の生まれた世界の季節の風習なのです。バレンタインと言うのですよ」
「………恋人の」
「本来は家族にも適応するものですけれどね」
そこでネアは、紅茶係にディノを任命して、その隙にケーキを切り分ける準備を整えた。
「……すごく綺麗なのに、切るんだね」
「ええ。食べやすい大きさに切り分けますね。どれくらい食べますか?」
「たくさん」
「ふふ、一度に大きく切り過ぎると甘いケーキなので、適量にしましょうね。全部ディノのですから、ゆっくり食べて下さい」
「丸ごとくれるのかい?」
「はい。でも私も食べたいので、一緒に食べてもいいですか?」
目元を染めたまま、ディノはこくりと頷いた。
ゼノーシュのような甘党でないので、こういう形でホールケーキを貰ったことがないのだろう。
お気に入りのお皿に切り分けたケーキを乗せて、絞り器で甘さ控えめの生クリームを添える。
途中で甘さに飽きた時用にラズベリージャムも乗せれば、まさかすっかり忘れていたとは思えないくらいに見事な出来栄えだ。
「はい、どうぞ!」
「…………有難う、ネア」
「どういたしまして」
そこそこにいい時間なのだが、魔物は幸せそうにチョコレートケーキを食べた。
ネアと同じように特別チョコレート好きという程でもないのだが、妙にしみじみと幸せそうに食べている。
ディノの淹れた完璧な紅茶を飲みながら、ネアはその姿に微笑んだ。
色々と不得手なものも多い魔物だが、紅茶を淹れるのは最初から上手だった。
作業工程を見る機会が多いものなので、時間の測り方が上手いのだろう。
「これが、今年のバレンタインです」
「来年もしてくれるのかい?」
「はい。これで概要がわかりましたか?」
「こうして手作りのお菓子が貰える日なんだね」
「買ってきたものでもいいんですよ。ただ、ディノは手作りが好きですものね」
「ネアが嫌じゃなければ、手作りがいいな」
「ふふ、では来年もそうしましょうね」
そう微笑みかければ、魔物はまたしてもくしゃりとなってしまった。
しっかりケーキ皿は自分の方に寄せているので、そんなところで抜け目ない魔物らしさを発揮している。
「そして、来月の同じ日にお返しをして貰うのがお作法です。ディノは、私に何かお菓子を買って下さいね」
「わかった。お菓子でいいのかい?」
「色々なものがありますが、私はお菓子が嬉しいです!」
「では、そうしよう」
そう微笑んだディノが、なぜか普通の美しいだけの男性に見えた。
それがとても安らかなことな気がして、ネアは胸の奥がふつりと暖かくなる。
(全部、削ぎ落としてしまってもいいから)
特別なことなど全部失くして、ただのディノになってしまえばいいのに。
そうすればもっと、この魔物は安心して笑えるようになるのではないだろうか。
もっと心を豊かにして、もっと沢山の今迄は無用だと切り捨てていたものを知り、この世界はちっとも完結しないことを知ればいい。
(……………そして、変態ではない普通の趣味になっていただきたい!)
あらためて覚悟を強くして、ネアはテーブルの下で拳を握った。