燭台の塔と魔物の蝋燭
世界のあわいの一つに、燭台の塔がある。
壁に燭台を置く石台を隙間なく作り、何万もの燭台が並んで蝋燭の炎を揺らめかせている石造りの塔だ。
この塔の燭台は、誰かの寿命を司っているという説がある。
また、気紛れな魔物に炎を吹き消されると、命を奪われてしまうのだとも。
けれどもこの蝋燭の全ては、寧ろそんな魔物達の命なのだと知る者は少ない。
「増えてないか。アイザックが来たな」
「彼が来ると、一気に増えますからね」
「アルテアは、あれ以降勝てていないのかな?」
「ここではな」
「俺がシルハーンを唆してチーム戦にしなければ、今頃アルテアは蝋燭だったのかな」
「………やめろ」
千年程前に、アルテアとアイザックがここでカードで勝負をした事がある。
ここは特殊な魔術特異点で、勝負事で負けると蝋燭にされてしまうのだ。
燭台に刺されて火を灯されれば、もう成す術なく溶けるのを待つばかり。
壁一面に並んでいる蝋燭の白さを見てもわかるように、高位の魔物を殺すことの出来る特異点の一つである。
「この前は、白樺の魔物が人間の魔術師に蝋燭にされていましたよ」
「あれは自業自得だ。調子に乗って勝負を受け過ぎたからな」
「とは言え、白持ちを滅ぼした魔術師は白階位の魔術師になってしまうから大変だろうね」
「確かに、今度は狙われる側ですね」
ほとんど例のないことではあるが、このような特殊な方法で白持ちを殺すことの出来た人間は、白階位を得る事が出来る。
大変な名誉だとされているようだが、得てしまった王冠に見合わない能力は、すぐに人外者達の狩りの標的にされてしまう。
白階位の人間の魂は、貴重な美酒とされていた。
アルテアがよく嗜んでいる煙草も、その類の品である。
「さてと、これだったかな」
「うわ、よりにもよって先代の白夜ですか………」
「お前が嫌がる相手も珍しいな」
「白夜を使うくらいなら、絶望の方がマシですよ」
ウィリアムがそう首を振ったのも当然で、先代の白夜は白髪の老人であり、相手の苦痛をつまみに強い酒を飲むのが大好きという、それはそれは厄介な魔物だった。
「絶望は静謐だからね。苦痛に長けているのは白夜の方だった」
そう言いながら一つの蝋燭を手に取り、ディノはふっと炎を吹き消す。
火の消えた蝋燭を銀盆に乗せると、がらんとした塔の真ん中にある漆黒のテーブルに置いた。
その途端、テーブルの上には黒い靄のようなもので出来たチェス盤がぼうっと立ち上がる。
銀盆の上の短い蝋燭がカタカタと動き始めた。
「久し振りだね、クライメル」
片方の椅子に腰掛けてそう微笑んだディノに、音を立てて震えていた蝋燭がぴたりと止まる。
「お久し振りですな、万象の王」
いつの間にか、反対側の椅子にはざんばらの白髪の老人が、亡霊のような姿で座っていた。
椅子の背もたれが透けており、そこにだけ吹く風があるのか髪や着衣が揺れている。
「君が蝋燭になっていてくれて助かったよ。実は少し、取り戻したいものがあってね」
「ふむ、となると儂が奪ったものですかな。王からはまだ何も奪えておりませぬが」
「私のものではないよ。でもそうだね、賭けをするのだから、今回は私のものを賭けなければいけないね」
「はっはっは、それは愉快、愉快。であれば、王から奪うのもまた一興。苦痛と敗北の御覚悟はおありですかな?」
「それがなければ、君と勝負出来ないだろう?」
唇の端を持ち上げて薄く微笑んだディノに、クライメルは椅子を揺らして大笑いした。
この魔物はチェスで負けたことはなく、殺しても尚祓われなかったこの魔物の魂をこうして蝋燭に貶めたのは、彼を憎んだ複数の魔物達の結束によるものだった。
「そちらの若造は?」
「おや?君とも、数百年くらいは被っていたと思うけれど」
「終焉は久しいな。隣は何だ、欲望に似とるがな」
「残念ながら、俺の方が長生きしているな。って言うか、会ったこともあるぞ………」
「では選択か。選択とも勝負をしてみたいものだな」
「悪いが俺は、自己犠牲には興味がない」
アルテアが手を振ると、白い手袋が蝋燭の火にぼんやりと光る。
選択は悪戯に姿を変える魔物なので、クライメルは本来の姿を見るのは初めてのようだ。
「さて、君には視力を賭けて欲しい」
「とおっしゃいますと、儂が奪った目の中に王の欲しい目があるようですな」
「だと思うよ」
「ならば対価は目にしましょう。万象の瞳を得られるならば重畳」
「構わないよ。では始めようか」
頷いたディノにアルテアが眉を顰め、ウィリアムが小さく溜息を吐いた。
そんな二人をちらりと振り返り、ディノは微かに眉を持ち上げる。
「………で、君達は他に用事があるんじゃなかったのかな?」
「おっとそうでした。では、シルハーンまた後で」
「戻ってきて片目になってたら、手を引いて帰ってやるよ」
「それは楽しみだね」
魔術の特異点であるが故に、特定の条件下ではなくして、この燭台の塔を訪れるのは難しい。
ディノがその道を開くと知り、アルテアとウィリアムは私用でついて来たのだ。
ここには、遠い昔に失われた高位の魔物に纏わる品物が眠っていることが多い。
だからこそアイザックなどは定期的に訪れているようだが、それでもまだ、ここには様々なものが隠されていた。
「時間はどうなさるおつもりで?」
「好きにして構わない」
「十二時間としましょうか。昼と夜の入れ替わりが、頃合いとしては分かり易い」
「では十二時間にしよう」
四角く空いた無骨な石の窓からは、流星雨の夜空が見える。
反対側の窓からは雨音が響き、壁が崩れた塔の上には雷雲が見えた。
駒を育てながら数時間も経てば、螺旋階段を登って行ったウィリアムとアルテアの気配もなく、暫くは駒を動かす穏やかな音が続く。
「ふむ。良い手ですが、そちらの国の宰相は裏切りますぞ」
「そのようだね。けれども、君の国の国境域では疫病が動きそうだ」
「この砦は切り捨てましょう。ここで生まれた子供を使えば、王の持ち駒を殺してくれるようです」
「さて、その子供は己を呪いはしないだろうか。愛とはそのようなものらしいよ」
「ほお、万象の王が愛を語るとは、長生きをしとうございましたな」
「どうだろう、あまり評判のいいものではないようだ。けれど、私自身は満足している」
「賭け事には向きませんな。どちらの目をいただくのか、考えておきましょう」
二つの国を動かす駒だった。
駒だけではなく、気象や時間も動き、老衰で倒れた駒が勝手に灰になりもするのがこのチェスだ。
女王が自分の王に愛想を尽かし敵方に寝返ることもあるし、落雷や雪崩など盤上の戦とは関係のないところで命を落とす騎士もいる。
遠雷の音が聞こえる。
雨は通り過ぎ、風が強まったようだ。
どこかで重たいものが落ちる音がして、床の上に風で落ちてばらばらになった蝋燭が散らばった。
「へぇ、君の手は面白いね。そこはどうするつもりなんだい?」
「絞め殺すほどの幸福を与え、疑いを一雫。これでこの夫は妻を殺すばかり」
「息子も殺すつもりなんだね。丁寧に育てたものを、あっという間に廃墟にしてしまうのか」
「これが堪らんのですよ。この悲鳴、この慟哭。自分に連なる者達を自分の疑いで殺す程、愉快なものはありませんからな」
「成程、君は徹底しているね」
「それにしても、貴方様が万象の調整を手放されたとは」
「そうかい?元々あまり愉快なものではなかったからね」
「さてそうでしょうか。敗北と苦痛は愉快ではありませんよ」
クライメルは咳き込むように声を詰まらせて笑うと、欲望を隠しもしないぎらぎらと光る目でディノを眺める。
「王から目を抉り出すのは、さぞや楽しかろうと、駒を動かす手が震えます」
「ふうん、それは良かった」
「それにしても、あなたがそのような愚かさに甘んじるとは。歌乞いとは意外」
ひたりと視線を上げて、ディノは獣のようなクライメルの笑みを見返す。
「歌乞いだとわかるんだね」
「それはそうでしょうとも。魔物が愚かになるのは、大抵そうですからな。いやはや、全く嘆かわしい話です。異種族の交わりではいつも、最後に裏切るのは人間だというのに」
「かも知れないね。最後まで幸福だったという契約の魔物の話は、確かに聞かない」
「殺しておしまいなさい。王に鎖をかけるなど、傲慢にも程がある」
「私にも疑いの一雫かな?殺したりはしないよ、私は満足しているからね」
「………満足?」
片手で顔を覆ったクライメルが笑っている間に、壁際で燃え尽きた蝋燭が消えた。
遠い昔に白鷺だった魔物だ。
かたりと、駒が進み駒を取られる。
「満足を装うとは、どのような暇潰しでしょう?」
「みんなそう言うね」
「言うでしょうとも。万象が何かに心を動かすなど、笑止千万」
「おや、私にとて心があるとは思わないのかい?」
「あるでしょうが、矮小な他者の為に、ましてや慈しみや愛のために使うものではありますまい」
「それは、私が万象だからか」
「万象だからではなく、万象とはそのようなものですからな」
「………不思議だね。君達はみんな、私がそんなものに飽き飽きとしているとは思わないんだね」
「飽こうが飽くまいが、万象は万象なのです。それに、貴方様がどう望もうと、万象は愛さないし、万象を愛せる人間がおりましょうか。完全なものは不完全なものの心を損なうのが世の常」
「不思議なことにね、私の歌乞いは、ただの一度も私を完全だとは言わないんだ」
「ふむ。では世の理を知らないのでしょう。知れば、声を潜め、目を伏せて顔を背けるようになる。人間の無知さであれ、王と平民の違いはわかるもの。ましてや女というものは、そういうものに聡いですからな」
またがらりと風が鳴り、誰かがそうだろうかと呟いた。
誰が声を上げたのだろうと考えていると、壁際に、耳下で切り揃えた白灰の髪を持つ男がいつの間にか立っている。
淡い白灰色の瞳に淡い灰色の盛装姿で、クラヴァットだけが雪のように白い。
彼の姿を認めて、ディノはほんの僅かに視線を揺らした。
逆にクライメルは顔を大いに顰める。
「グレアムか、大人しく蝋燭になっておれ」
「聞き捨てならなくなったのだ。相変わらず、器量の狭い男だな」
「ふん、女の為に醜態を晒して死んだ軟弱者めが」
「俺は自分の愚かさを知ってはいるが、それを知らない愚かさより余程気に入っている。………我が君、ご無沙汰しております」
「………やぁ、グレアム。相変わらず君は力尽くだね」
「この身が蝋燭となろうとも、この程度の時間であれば稼げます故」
「蝋燭から無理やり身を戻した魔物は、私も初めて見たよ」
少しだけ、アルテアとグレアムの関係をクライメルが知らないことに安堵した。
ここにアルテアがいるとわかれば、チェスどころではなくなるからだ。
どうやって蝋燭から立ち戻ったのかは謎だが、知覚の全てが元よりあるわけではないらしい。
「やっと、見つかりましたか」
旧知の魔物であるので、彼は何をとは言わない。
ただそう呟いて微笑んだグレアムは、白も持たず最上位の魔物では決してなかったが、器用さからの力の有り様はウィリアムにも劣らない序列であった犠牲を司る灰被りの魔物だ。
「そうだね、やっと見付けたよ。色々と慣れなくて困ったものだ」
「俺もそうでした。ではあなたは、ノアベルトの呪いを破ったのですね」
「心臓を取ってしまったから、その呪い自体成立させていないけれどね」
「それでも、聞いてしまった言葉は呪いに成り得る」
遥か昔、絶世の美女と謳われた一人の妖精の女王が魔物の王を愛した。
その求愛を断った王に、塩の魔物が舞踏会の余興の一つとして呪いをかけた。
誰も愛せないあなたは憐れだ、きっと永劫に誰も愛せない哀れな魔物になるだろうと。
それは呪うまでもなく誰もがそう信じていたことだったし、その美しい妖精に恋をしていた男は多かったので、彼等を喜ばせる為の余興でもあった。
しかし、己が呪われることさえ面白がるであろうと思われた王は、塩の魔物の心臓を抉り出すと一羽の鳥に変えて空に放してしまう。
その日以降、塩の魔物の心臓は、一羽の月光鳥となって世界を彷徨っているそうだ。
「あなたはいつも、ノアベルトに甘い」
「君が死んでからだけれど、ノアベルトも随分と変わったよ」
「やれやれ、まだ彼は特別枠ですか。あなたがノアベルトを甘やかすのは、彼が誰とも違うからと期待したからでしょう?」
「どうかな。確かに、彼は面白かったけれどね」
「誰もが言うことを言わなかったからこそ、あなたは彼ならばと思った。しかしそれは、ただのノアベルトの気質です。決して、彼はあなたが見えていたわけではない」
“彼は王様だけれど、僕の親友なんだよ”
それが、当時のノアベルトの決まり文句だった。
そして多分、その言葉の本当の意味をディノはわかっていなかったのだろう。
そんな風に近寄って来たものは誰もいなかったので、彼が同じような言葉を誰にでも言っているとは知らなかったのだ。
よくわからないが、友人だと思われているらしいと話したところ、苦い顔をしたグレアムが首を振っていたような気がする。
グレアムと、絶望を司るギード、そしてウィリアムあたりで何かを相談していたようだが、その結論が出る前にあの日が訪れてしまった。
「というよりも、当時は興味もなかったのだろう」
「そうかもしれません。ですから、大切なものが出来たのならば、もう彼に期待するのはやめた方がいい」
厳しい顔でそう忠告したグレアムに、クライメルは肩を揺らして笑っている。
彼はずっと、王にも柔らかな心があると信じてやまない犠牲の魔物がおかしくて堪らなかったのだ。
「今ならわかるけれど、君は、…………随分と私を心配していたんだね」
駒を取り上げながらそう呟いたディノに、グレアムは小さく微笑んだ。
あの舞踏会の夜、その場で無責任に笑いさざめく魔物達の中で、唯一怒ったのがグレアムだった。
ギードは客達を追い出し、ウィリアムがノアベルトを連れて帰っていたような気がする。
「俺は苦しみを汲み上げる魔物ですから。ギードもまた、あなたを案じておりましたよ。でも、今はお幸せそうで何よりだ」
「幸せそうに見えるだろうか?」
「ええ。苦しみがあろうとも、大切なものがあるということは、虚無より遥かに幸福なことです。何しろ心が動くのですから」
「…………そうだね」
小さく微笑み頷いてから、ディノは取り上げた駒を灰にした。
「心を使うのは己の為が一番ですぞ。他者に因る不確かなものなど、どこがいいのやら」
「困ったね、クライメル。でも私はそれが欲しかったんだよ。…………ずっとそれを探していたんだ」
「不可侵の万象の権限を捨て、不完全なものに心を割く。儂とのこの勝負も、大方その所以に違いありますまい。不愉快でしょうぞ」
「守るべきものが損なわれるということは不愉快だけれどね、ただそれだけだよ」
「お労しい。損なわれることがなかったあなたが、ここまで愚かになるとは……」
「そうだろうか。何も愛さず、何にも心が動かないより、どれだけいいだろう」
「そのような感傷に囚われるからこそ、あなた様は己の目を失うのでしょう」
ゲームは終盤を迎えていた。
圧倒的に不利な盤面に、ぎりぎりと、ディノの目元に見えない爪跡が刻まれてゆく。
深紅の血が流れて頬を濡らしたが、それには頓着せずにディノは最後の駒を動かした。
カツンと硬質な音を立てて敵の王を蹴散らし、駒が置かれた途端、クライメルの側の盤上の駒が全て灰になる。
「…………なっ?!」
「ほら、人間は時々、こんな風に頑丈なものなんだよ。不思議なものだろう?」
「ば、馬鹿な!………戦には勝ったのに、どうして国を明け渡すのだ?!」
「人間は強欲なのだそうだ。悪しき統治から逃れる希望に賭けたのだろう」
「国を明け渡したところでどうなる。愚かな人間どもめ、所詮国を荒らすだけではないか!」
「それでもと思うのが多分、願いというものなのだろう。………さて、対価を貰おうかな。君が以前、一つの呪いとして目を奪う魔術を残したナイフがあっただろう?あの成果を返して貰うよ」
応える声はもうなかった。
テーブルの上には、銀盆に転がった短い蝋燭があるばかりで、チェス盤も既に消えている。
小さく息を吐いて、ディノは立ち上がった。
「我が君、傷は痛みませんか?」
心配そうに声をかけられて、壁際に立ったままのグレアムを見返す。
恐らく動かないのではなく、動けないのだろう。
彼はもうとうに死んでおり、一本の蝋燭なのだ。
「痛いことは痛いかな。昔から、気にするのは君くらいだよ」
「傷を負えば痛むのは当然です。そんな当然のこと一つ、なぜに誰も気付かないのか」
「君は私のネアに似ているね。彼女も、そんな風に言うんだよ」
そう答えたディノに、グレアムは微笑みを深めて頷いた。
「俺の妻も、よくそんな風に言ってくれました」
窓の外には再び雨が降り出したようだ。
雨待ち風に揺れていた蝋燭の炎が落ち着き、塔の中は奇妙な明るさに包まれる。
時折聞こえる水滴が落ちる音が、この不思議な場所が廃墟でもあるのだと知らしめていた。
「…………すまない、グレアム。あの時、私が気付いていれば幾らでも調整したのに」
「いいえ。俺も愚かだったんですよ、あなたを頼ろうと思わなかったんですから。……頼めばきっとあなたは俺に力を貸してくれた筈なのに、あの時はそうは考えなかった。そういう意味では、俺もノアベルトと同じですね」
戦火を司る魔物がいた。
美しい緋色の髪の乙女で、ほとんどの魔物が知る限りの古くより、犠牲の魔物の伴侶であった。
大きな戦乱の渦中でその伴侶が殺されたとき、グレアムは狂乱した。
三日間の間に公爵位の魔物が五人殺され、四人が負傷し、最終的には彼自身が滅びるまで。
「君もそれどころじゃなかったんだろう。今なら分かる気がする」
「だからこそ、あなたには感謝しているんです。あなたはまだ、失うということの恐ろしさを知らずにいた頃なのに、俺の好きにさせてくれましたから」
あの時、ディノはグレアムの好きにさせた。
人間の様に王が統治をする種族でもないのだが、見知った者として止めることも出来たのだろう。
でもそれはなぜか、とても理不尽なことのような気がしたのだ。
アルテアを追っていると聞いた時、死ぬのはグレアムの方だと思った。
それでも止めなかったのは、駆け付けたその先で狂乱する直前の彼の慟哭を聞いたからだろうか。
あの時にもう、彼は死んだのだ。
「……………そうだね。それが失われた先の正気程、恐ろしいものはない」
「あなたは大丈夫ですよ。俺が保障します。長く待った分、きっと幸福も長く続くでしょう」
「グレアム、………私の歌乞いは人間なんだよ。それも、あと一年でいなくなってしまうかもしれない」
「俺があなたに言って、間違っていたことがありましたか?その女性にだって、出会えたのでしょう?」
いつかきっと。
いつかきっと、あなたにも。
そう笑っていたグレアムは去り、古くからいた魔物達も去ってゆくものは多い。
流れてゆく川を見送るように、留まるばかりの不変の岸辺はとても静かだ。
ディノは灰被りを特に重用したこともなければ、親しく共に過ごそうと誘ったこともなかった。
ただ彼は時々やって来てはディノにあれこれ忠告していったし、時々謎の手料理も置いて行った。
とは言え、彼が死んでも世界は変わらないし、勿論、グレアムを殺したアルテアに何かを思うこともなかった。
あの時は。
けれど多分、今だからこそ理解出来るものもある。
「そうだね。君は一度も、私に嘘は言わなかった」
「でしょう?ですから、……」
「ノアベルトは心配ないよ。彼もね、多分自分なりに欲しいものが見付かったのだろう。……人型を辞めてしまいそうだけど、幸せそうだ」
「ノアベルトが?相手がいるのならば、そのようなこともあるでしょうが、………あれが落ち着くとなると、どうやらとんでもない美女がいたようですね」
「………美女ではないけれど、まぁ、綺麗な妖精だとは思う」
歯切れの悪い様子にグレアムは不思議そうにしたが、ここで相手はシーだが男性で、ノアベルトは狐として同じ屋根の下に暮らしているとまでは告げる必要はないだろう。
「この前、レイラに会ったよ」
「彼女を取り立てる必要はありませんよ。恐らくあなたとは相性が悪いですし、仮にも信仰の主なのですから自分で生きる術を学ばないと」
「君の妹なのに?」
「正式には妻が、身内という区分に入れて管理しないと暴走を止められないと判断したので、苦渋の決断でした」
「それは知らなかった………」
そこでふと、グレアムは己の手を見つめた。
白く変色しつつあり、ひび割れ始めている。
「…………王。嫌なことを頼みますが、俺の蝋燭に火を点けていって下さい。殺されても尚、鎮まらなかった俺を蝋燭にしてくれたのはギードですが、彼はなぜか火を点けていかなかったので」
「彼は、君に火を点けたくなかったんだろう」
「もう、この精神を長らえさせた憎しみも尽き果てました。こうやってお目にかかれるのはこれが最後です。後はもう、物言わぬ蝋燭になるのですから、早く妻の所へ行ってやりたい」
「………………いいよ。君は、私の友人だったからね」
顔を上げれば、グレアムが静かに目を瞠り、そして嬉しそうに微笑むのがわかった。
このように魂を捕えでもしない限り、魔物には亡霊という段階は存在しない。
人間達のようにその先の救済があるのかどうかはディノにもわからないが、もうここが分かれ道なのだ。
雨音が聞こえる。
ざあざあと外の存在しない地面を叩くその音の中で、塔はがらんとしていた。
もう誰もいない壁際を歩き、純銀の燭台に刺さっている白い蝋燭に火を点ける。
ぼうっと燃え上がった明るい炎は、風を遮った手のひらの中で踊るように揺れていた。
もしここにネアが居たのなら、彼は友人だったのだと紹介してやれたのに。
そんなことを少しだけ考えた。
「お、勝ったのか?」
静かにその炎を見ていると、アルテアが階段を下りてきた。
手には何やら大きな袋を抱えている。
「程々にしておかないと、アイザックに恨まれるよ」
「あいつは書き換える側だからな。新規を任せるさ」
ほどなくしてウィリアムも戻って来る。
少し疲れた様子で、手には小さな鍵束を持っていた。
「やれやれ、久し振りにこの道が開いて良かったですよ。この鍵がないと、開かない宝物庫があって、あの界隈では戦争ばかりですからね」
「で、その鍵束を戦禍に放り込むんだろうが」
「大きく燃えても、一度で収まりますからね。シルハーン、そのまま血を流して帰るとネアが驚きますよ?」
「ああ、戻るまでには何とかするよ」
「これで、レーヌの呪いは終わりなんだろうな?」
「二十九個目だ。これで終わりだろう」
最後の呪いは、とても複雑なものだった。
白夜の魔物が残した呪いを利用して、その呪いが込められたナイフを塵に変え、その塵を食べさせた金貨妖精に祝福を与えさせたのだ。
妖精の祝福は魔術の理でもあり、他の要素で相殺したり押さえることは出来ても、付与の事実までを完全に剥ぎ取ることは難しい。
収穫と豊穣の祝福に絡めた呪いであったので動きが読めず、万が一にでも発動して目を失わないよう、こうして根本から潰しておくことにした。
「にしても、どんだけ執念深いんだよ」
「彼女を、面白がって無理矢理押し付けたアルテアが言いますか」
「きっと殺すだろうと思ったんだ。俺への意趣返しで手を出したのはこいつだぞ」
「今回は、アイザックが優秀な商人であることも厄介でしたね」
「あいつは、どんな用途のどんなものでも顧客なら売るからな。よくもまぁ、これだけの数の理の呪いを手配したもんだ」
「……………何だろう、疲れた」
「俺もです。帰りましょうか」
雨の音の向こう側で、一本の白い蝋燭が燃えてゆく。
大丈夫だと言われた声の響きを記憶の中で反芻して、燭台の塔に背を向けて、音を立てて扉が閉まった。
あわいから戻りリーエンベルクの庭に出れば、こちら側で動いた時間はせいぜい十分くらいだろうか。
入浴が長引いているのだと思えば、ネアは気付かずにいてくれるだろう。
ウィリアムの言葉を思い出して額から目元にかけての傷を治すと、誰もいない夜の庭から続く禁足地の森を暫く眺めていた。
これでもう、レーヌが残していった呪いは残ってはいない。
残されたのは、結ばれてしまった咎竜の呪いだけ。
でも、グレアムが言うのだから、きっと大丈夫だろう。
そう考えると、何だか安心した。
「ディノ?」
蝋燭に揺れる火を見ると、少しだけあの夜のことを思い出した。
隣で不思議そうにこちらを見たネアに、唇の端で曖昧に微笑む。
「友人のことを思い出していたんだよ」
「お友達が………!」
「そう思って会っていたことはなかったけれどね。最近になって、そうだったのだと気が付いた。ネアに似ているよ」
「もしや、レインカルとやらではありませんよね?」
「同じ灰色だけど違うかな」
「……………ムグリス?」
「ご主人様………」
大丈夫だったよ。
そう呟くとしても、それはどこに向けるものだろう。
やはり、君の言う通り大丈夫だった。
あの蝋燭はもう、とうに燃え尽きているだろう。
彼はどこかで、愛する伴侶に再会出来たのだろうか。
新しい灰被りが生まれたことは、なぜだかあまり彼に言いたくなかった。
そんなことを考えながら、隣でノアベルト用のビーズを糸に通しているネアを眺める。
手を出して頭を撫でようとしたが、ムグリスに似ていると思っていると疑惑をかけられているので、すげなく威嚇されてしまった。
伸ばした手を叩き落されると悲しくなったが、それでも、ここはただ安らかに幸福なばかり。
彼が言うのだから、この幸福はきっと長く続くだろう。